教国の剣 〜孤独と虚無の鞘〜   作:えびふぉねら

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10話 妖艶

 翌日。午後の日差しが差し込む静かな書斎で、シードは一冊の書物を手に取りながら物思いにふけっていた。

 内容を目で追いながらも、彼の意識は別の場所にあった。

 

 アダンの語った「父の涙」。

 なぜ、彼の父親は息子を殴りながら泣いていたのか。その理由は未だにわからない。

 だが、その答えを知ることが、何かを変える手がかりになるような気がしてならなかった。

 

 そしてイリューフェが問いかけた「自分がどう生きたいのか」という言葉。

 考えたこともなかった問いだった。自分は教皇の右腕として存在している。それ以外の生き方などあり得るのだろうか。

 

 彼が胸の奥に浮かぶ疑問と向き合おうとしたその時、宮殿内に響き渡る警鐘の音が静寂を破った。

 

 シードは顔を上げる。すぐに耳元に言霊――魔法による伝令の声が響き渡った。

 

「猊下。街中に異教徒が一匹紛れ込んだようです。長い薄桃色の髪の、魔術師の女です」

 

 冷たい声で告げられる報告。

 ハイレンス総大司教からの命令だと察した瞬間、次の声が耳に届いた。

 

「枢機卿団は別の任務で出払っているようですな。猊下お一人でよろしいのですか? 私の軍をご用立てしても……」

 

「僕だけで構いません」

 

 即座に返答するシードの声は冷静そのものだった。

 その答えに、総大司教の不気味な笑い声が付け加えられる。

 

「左様ですか。くくく……ご武運をお祈りしますよ」

 

 こびりつくような笑いが耳に残る中、シードは書物を閉じ、部屋を後にした。

 

 

   * * *

 

 

 現場に到着した時、街の民はすでに家の中に避難し、通りは閑散としていた。

 

 しかし、その場の空気には不穏な気配が漂っている。まるで凍りつくような闇の気配が周囲を包み込んでいた。何かが潜んでいる、と彼は直感する。

 

 ――その時、突如空間が歪む。

 転移魔術の類だろう。

 

 その中心から、禍々しい魔力を纏った人影が現れた。

 

「こんにちは、猊下。わたしの名前はファレムよ、よろしくね……ふふふっ」

 

 現れたのは、一人の女だった。

 

 艶やかな仕草で踵を鳴らしながら、視線を絡めるように歩み寄ってくる。

 露出の多い妖艶な装い、長く薄桃色の髪が風に揺れる。

 

 化粧が濃いが、その顔立ちは整い、紫色の瞳が何かを見透かすように輝いていた。

 

「……ただの魔術師ではないようですね」

 

 シードの銀色の瞳が警戒の色を帯びる。

 だが、その瞬間、頭の中に鋭い痛みが走った。

 

(……精神干渉か?)

 

 彼の周囲を覆う結界をものともせず、精神を掻き乱す魔術が襲いかかる。

 ファレムが口元を歪め、不敵に笑った。

 

「わたしがあなたの心を溶かしてあげる……」

 

 そう囁くと、彼女は細く美しい指をシードの頬へ滑らせ、そのまま迷うことなく唇を重ねた。

 その瞬間、彼の頭の中に大量の思念が流れ込む。

 

 怒り、喜び、悲しみ――雑然と混ざり合った無数の感情が渦となり、暴風のように彼の心をかき乱していく。

 その心の奥深く、冷静さを装う殻の中に隠していた何かを抉り出そうとするかのように、感情が暴れ回る。

 

(……っ……これは……)

 

 あまりの混乱に、シードは意識が朧げになっていく。

 だが、その感情の中には、彼自身のものとは思えない不協和音が混ざっていた。

 

「どう? わたしの思念で飲み込んで、あなたの殻を壊してあげる……」

 

 ファレムの声が遠のいていく。

 シードの視界がぼやけ、足元が崩れ落ちるような感覚に包まれる。

 

「……僕は……何を……」

 

 最後に呟いた言葉は、闇の中に吸い込まれた。

 そして彼は、意識を完全に手放した。

 

 ファレムはシードの身体をそっと支え、不敵な笑みを浮かべる。

 

「あなたがどれほど冷たい人間でも、心の奥底には感情が眠っている……それを暴き出すのが楽しみだわ」

 

 その声は彼の耳には届かず、街を吹き抜ける冷たい風に乗って消えた。

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