シードが目を覚ました時、そこは見知らぬ部屋だった。
硬いベッドに横たわる自分を認識するまで、思考はぼんやりと霞んでいた。
頭の奥にこびりついた鈍い痛み、倦怠感、そして不快な眩暈が、まだ身体を支配していた。
精神を掻き乱された余韻が残っているのか。目を閉じたまま深く息をつくが、重い頭痛がそれを許さない。
意識がない間、どれだけ時間が経過したのか――。
彼はゆっくりと身体を起こした。不自然に衣服が乱れているが、何かを奪われたような形跡はない。
周囲を見回してみると、窓はなく、薄暗い部屋の中にある唯一の光源は、出口と思しき扉の隙間から差し込むわずかな灯りだけだ。
――その時だった。
シードは、ベッドの上に自分以外の「気配」があることに気づいた。
反射的に飛び退く彼の耳に、低く囁くような声が響いた。
「目が覚めたの?」
――ファレムだ。
暗闇の中から女の声が届き、薄明かりの中でシルエットがゆっくりと動く。
徐々に目が慣れてくるにつれ、彼女の妖艶な姿が浮かび上がっていく。
長い薄桃色の髪が肩から背へと流れ、その身体は一糸纏わぬ裸身。
シードは瞬間的に後ずさった。だが、ファレムはその反応すら楽しむかのように、笑みを浮かべながら身体を起こした。
「もう一度、抱いてくれる?」
甘美な響きを持つその言葉には魔力が込められていた。
シードの心に静かに侵入し、精神を再び支配しようとする。
一瞬、鼓動が乱れる。だが、彼の銀の瞳が冷たい光を宿した。
「……来たりて彼の者を割き穿て。雷獣の咬傷――」
低く呪文を紡ぐ声が部屋に響いた瞬間、空間に蒼い閃光が奔る。
雷鳴が鼓膜を振るわせ、部屋を青白い光が満たす中、稲妻は二本の鋭い刃となり、ファレムの身体に十字を刻んだ。
「っ……!」
彼女の胸に焼けたような痕が浮かび、焦げた肉の匂いが充満する。
ファレムは傷口を押さえながらベッドに沈み込んだが、紫色の目はなおも狂気に似た光を宿していた。
「……現代語魔術の最上位……雷獣の咬傷……ふふっ、あなたほどの若さで……素晴らしいわ……」
息絶える直前まで、彼女は何かに感嘆するような声を漏らした。
その言葉を最後に、ファレムは動かなくなった。
「はぁ……はぁ……」
強大な魔術の余韻が頭に響き、思わず床に手をつく。
シードは胸を押さえ、荒い呼吸を整えながらゆっくりと立ち上がった。
頭痛と眩暈は未だ収まらないが、ファレムの身元を確かめるため、彼は魔法で小さな光を灯し、薄暗い部屋を調べ始めた。
* * *
「アヴェルスの紋章は見つからない。ただの不信心者か……?」
床に散らばるファレムの持ち物を漁る中で、彼の指先が何か固いものに触れた。
取り上げてみると、それは血の滲む革で装飾された一冊の魔術書だった。
「これは……」
興味を引かれるままページをめくる彼の手が、一瞬止まる。
その書には禁呪――死霊術についての詳細が記されていた。
ロスリエス教国において、死霊術は異教徒の象徴であり、厳しく禁じられた魔術である。
本来ならば、即座に焼き払うべきものだ。
だが、シードはその判断に迷いを覚えた。
魔術書に記された知識の片鱗が、彼の探究心を刺激してやまなかった。
「……これが力の一端だというのか」
彼の銀の瞳が昏く輝く。
今回の戦いで彼が迷ったのは、感情の揺らぎが原因だった。
だが、そんな迷いを捨て、ただ力を求めることこそが正しいのではないか――そう思わずにはいられなかった。
彼は魔術書を懐に収め、ベッドに横たわる女の死体を冷たい目で見下ろす。
「そうだ……何を迷う必要がある。僕が手にすべきは力。これが僕の生き方だ」
呟く声はまるで虚無に吸い込まれていくようだった。
女の死体に背を向け、シードは部屋の扉に向かって歩き出した。
足元に広がる影が、彼の後ろ姿をより一層暗く塗りつぶす。
魔術書を抱えた手には、薄い震えが伝わっている。
それが不安か、興奮か、自分でもわからない。
ただ一つ確かなのは、力を追い求める道に足を踏み入れた瞬間――その一歩が後戻りのできない選択だったということだった。