処刑場に吹き抜ける湿った風が、シードの頬を冷たく撫でていく。
その風には鉄錆の匂いが混じり、彼の記憶に幾度となく焼き付いた「死」の感覚を呼び起こしていた。
目の前には絞首台があり、その上に立つ一人の男――アダン・ウィットロック。
枢機卿団の僧兵であり、シードの忠実な部下であった男だ。
叛逆罪――死刑。
あの日、ハイレンス総大司教に拳を振るい、重傷を負わせたアダンには、それ以外の未来はなかった。
教皇直属の司法機関である大司教団に刃を向けるということは、即ち教皇そのものへの謀反と同義だった。
シードはアダンを見上げる。
絞首台の上に立つ彼の顔は、いつものように堂々としていた――ように見える。
だが、よく見れば、その橙色の瞳にはほんの僅かな震えが宿っていた。
「猊下……すまねぇな」
アダンが口を開く。その声は掠れて弱々しかったが、それでもなお、彼特有の軽さを保っていた。
「アンタのこと……もう守れなくなっちまった……」
シードは静かに目を閉じた。
胸の奥で何かが疼くような感覚を覚える。だが、それを押し殺し、彼は言葉を飲み込んだ。
「……あとは、イリューフェのババアがなんとかしてくれるさ。あいつは俺よりバカじゃねぇからな……」
アダンは薄ら笑うように言った。
その笑顔は死を目前にしてもなお、どこか達観しているように見えた。
「猊下、最後に……」
言葉を切り、彼はシードを見据えた。
その瞳には、今まで見せたことのない深い感情が宿っていた。
「アンタとサシで勝負したかった……続きはあの世で、か……でもよ、あんまり早くこっちに来たら……ぶっとばすぜ……へへ……」
――それが彼の最後の言葉だった。
絞首台から響く、命を刈り取る冷たい音。
それは、すべてが終わったことを告げる音だった。
シードはただその音を聞きながら、胸の中で何かが締め付けられるのを感じていた。
だが、彼はそれを顔に出すことなく、ただ立ち尽くのみ。
(感情が彼を殺した。感情に飲まれては、僕も同じ道を辿る――)
心の奥で、教皇の教えが淡々と囁く。
感情を捨て、理性を優先しろ――それが彼に叩き込まれた絶対的な信条。
* * *
処刑場を後にし自室へ向かう途中、シードの耳に不快な笑い声が届いた。
「ククク……。猊下……あのような愚かな部下を持って、さぞお嘆きでしょう……」
――ハイレンス総大司教。
包帯に巻かれた顔の傷が痛々しいはずだが、その緑の瞳は狂気と満足感で輝いている。
シードは一瞥もせず、ただ歩を進める。
「いずれ、あなたも同じ結末を迎えることになるでしょうな……ふふふ……」
ハイレンスの声が後ろから降り注ぐが、シードは振り返らなかった。
* * *
自室に戻った彼は、引き出しを開け、あの不気味な魔術書を取り出した。
血で固められた革で装飾されたその本には、禁呪である「死霊術」の秘密が記されている。
彼は、まるで幼子が初めて与えられた玩具に触れるように、その本を読み耽った。
文字を追うたび、血のように濃い闇が彼の内側を染めていく。
無心でページを捲る。彼の中の何かが徐々に冷たくなっていくのを感じる。
だが、彼はそれを止めようとは思わなかった。
「これでいい。僕は間違っていない」
何度もそう自分に言い聞かせる。
アダンの死も、ハイレンスの狂気も、自分に押し寄せるこの昏い闇も――全て、彼にとっては通過点に過ぎない。
――自分は教皇の剣だ。感情に惑わされることなく、ただ振るわれる剣であればいい。
そう繰り返し考えながら、彼は魔術書に没頭していく。
知識を貪り尽くし、やがてその銀の瞳に宿ったのは、冷たい輝き――否、狂気にも似た光だった。
その光は、彼の心がもはや「帰る場所」を失ったことを物語っていた。