どこか微睡むような意識の中、シードはゆっくりと目を開けた。
窓の外から差し込む夕刻の光が、彼の銀髪を柔らかく照らしている。
穏やかな空間に、微かな埃の舞う気配だけが漂っていた。
テーブルの上には開かれたままの魔術書。
その脇に無造作に置かれた羽ペンと紙――どうやら、魔術書を読み耽るうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
彼は軽く肩を回しながら、立ち上がろうとした。
だがその時、隣から小さな気配が伝わってきた。
「……イリューフェ?」
彼女が、彼の隣でテーブルに突っ伏して静かな寝息を立てていた。
柔らかく波打つ金髪がオレンジの陽の光を浴びて揺らめき、まるで陽炎のように美しく輝いている。
シードは魔術書をそっと引き出しに戻すと、彼女を起こさないように注意深く部屋を出ようと足を運ぶ。
しかし――
「うーん、むにゃむにゃ……ほえ、猊下?」
不意に、彼女が身じろぎし、顔を上げた。
寝ぼけ眼のイリューフェが、涙の痕がうっすらと残る顔で彼を見つめる。
「イリューフェ。なぜここにいるのですか」
シードが問うと、彼女の表情はたちまち沈み、眉尻を下げた悲哀に満ちた瞳が彼を捉えた。
「……あのバカがいなくなって……寂しかろうと思って来たんじゃ」
「あのバカ」――アダンのことだ。
彼女の言葉を受け、シードは一瞬言葉を探し、冷静な声で答えた。
「彼は枢機卿団の優秀な戦闘員でした。戦力を失ったのは痛手ですが、すぐに代わりの者が――」
パンッ――!
その言葉を言い終わる前に、乾いた音が部屋に響いた。
イリューフェの小さな手が、彼の頬を打ちつけていた。
「……本気でそう思っておるのか?」
彼女の目には涙と怒りが滲み、声は震えている。
しかし、シードは冷淡な表情を崩さず、打たれた頬に手を添えながら彼女を見返す。
「おぬしが枢機卿になってから数年間、隣でおぬしを守り続けた男がいなくなって……心の底から出てきた言葉が、それなのか!?」
その叫びに、シードは僅かに目を伏せた。
一瞬、胸に何かが刺さる感覚があったが、それすらも意識の奥底へと押し込める。
「枢機卿団は教皇の『剣』です。部下の損失など、日々のありふれたことに過ぎない。あなたはその度に涙するとでも言うのですか?」
冷酷な言葉が、イリューフェに鋭く突き刺さる。
彼女は何かを言い返そうとするが、喉が詰まり声が出ない。
「感情が、涙が……彼という『剣』を錆びつかせた。だが、彼の死は確かに僕の礎となった。それだけです」
シードの瞳には一切の揺らぎがない。
その言葉を聞いたイリューフェは、拳を握りしめながら唇を噛み、声を震わせた。
「シード殿……おぬしはそうやって、理性を選び続けることを正当化してるだけじゃ……本当のおぬしは……」
彼女はそっと手を伸ばし、シードの冷たい手を握った。
その瞬間――
イリューフェの青い瞳が見開かれ、息を呑む音が聞こえた。
彼女の神聖魔術の使い手としての鋭敏な感覚が、シードの内に潜む昏い闇に触れてしまったのだ。
「……シード殿……おぬし……」
彼の虚ろな銀の瞳が彼女の視線を受け止める。
そこには、彼女がかつて知っていた青年の面影はもはや存在しなかった。
イリューフェの強張った身体が震える。
その震えが恐怖からくるものなのか、それとも彼を救えない自分への無力感なのか――彼女自身にもわからなかった。
部屋の静寂が、二人の間に深い溝を作る。
それはかつては存在しなかった、あまりにも冷たく、深い溝だった。