教国の剣 〜孤独と虚無の鞘〜   作:えびふぉねら

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29話 生と死の狭間

「……シード殿」

 

 その声は柔らかく、魂に直接響くような深みを持って響く。

 

 目の前の亡霊――イリューフェは自我を持ち、まるで生者のようにしっかりと言葉を紡いでいた。

 

「その傷では、もう助からんじゃろう。おぬしはもう十分戦った。さあ、わしらと一緒にこっちへ来るんじゃ」

 

 しわがれた声だが、そこには確かな慈愛があった。

 イリューフェは優しく穏やかな眼差しを湛えながら、ゆっくりと手を差し伸べる。

 

 その姿は、限界を迎えたシードにとって、純白の天使そのもののように見えた。

 

(やはり……懐柔できなかったか)

 

 最も強き亡霊は死霊術の呪縛から自立し、彼の命には応じない。

 

 彼女の背後には、アダンや若き僧兵たちの亡霊が並び立ち、微笑みながら彼を待っていた。

 その光景は幻覚なのか、それとも死の世界のいざないなのか――シードにはもう分からなかった。

 

「はははは! 愚か者よ!」

 

 突然、狂気に満ちた笑い声が響き渡る。

 教皇レグナの顔は勝利に酔いしれたような冷たい嘲笑に歪んでいた。

 

「自らが呼び出した亡霊に魂を奪われる……禁忌に手を染めた者に相応しい、実に滑稽で哀れな最期だな!」

 

 その言葉は正しいのかもしれない。

 

 だが、シードにとってはもはやどうでもいいことだった。

 目の前に立つイリューフェの手は揺るぎなく、自らの終焉を受け入れる時が来たことを告げていた。

 

 シードは苦痛に歪む顔を上げ、震える手をゆっくりと伸ばす。

 イリューフェの皺だらけの手が、彼の冷えきった指先をそっと包み込んだ。

 

 ――その瞬間、目を見開く。

 

 亡霊であるはずの彼女の手が、思いがけず温かかった。

 否、それはただの温かさではない。炎に触れたような、魂を焼き尽くさんばかりの熱を持っていた。

 

「あなたは……まさか……」

 

 シードがその言葉を紡ぎかけたとき、イリューフェは微笑み、人差し指を口元に当てて静かに制した。

 

「……シード殿。わしの話を聞きなされ」

 

 彼女の声が、深い湖の底から響くように彼の魂へと流れ込む。

 その瞬間、時間が凍りついたかのように静寂が訪れた。

 

「わしは『奇跡』の使い手。そして、転生を幾度も繰り返した太古の魂。わしの中には、これまでに死と再生を積み重ねてきた、すべての魂が宿っておる」

 

 彼女の背後に佇む枢機卿団の亡霊たちは、まるで家族のようにシードを見守っている。

 しかし、イリューフェの青い瞳はシードを見つめ、彼だけを捉えて離さない。

 その中に浮かぶのは――深い愛情と、生前彼を救えなかった悔恨の色。

 

「シード殿。おぬしがこのまま死を選べば、わしはおぬしの肉体に宿り、再生することができる。だが、それはおぬし自身の意思で決めることじゃ」

 

 その告白は、彼女の覚悟を伴っていた。

 シードは一瞬目を閉じ、そして冷静に答えた。

 

「そう……ですか。それも……悪くないでしょう」

 

 淡々とした声には、すべてを受け入れるような諦念が感じられた。

 

「……まったく、おぬしというやつは」

 

 イリューフェは深く息を吐き、どこか呆れたような微笑みを浮かべる。

 一方で、アダンは険しい顔で腕を組み、声を低くした。

 

「猊下、アンタには……本当の意味で守るべきもんを見つけてほしいんだ。たとえそれが……最期の瞬間に気づくものであったとしても……な」

 

 アダンの橙色の瞳には、苦しみと期待が交錯している。

 その言葉に応じるように、亡霊たちが生者のような温かい光を放ち始めた。

 

 シードの胸が締め付けられる。

 その光景はあまりにも眩しく、どこか懐かしい。だが――それはあまりにも遠いものだった。

 

「僕に……そんな資格はない」

 

 押し殺したような声で彼は呟く。

 

 彼らの温もりに触れるたび、シードの冷えきった胸の奥に、かつて忘れたはずの感情が微かに疼き始めていた。

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