「イリューフェ……何か用ですか?」
窓辺で外を見ていたシードが振り返り、僅かに眉を寄せる。
いつもの冷たい彼の視線に、イリューフェは全く臆する様子もなく、小さな胸を張って言い放った。
「今回の任務、何か思うことがあるんじゃろ? わしには全部お見通しじゃ」
腰に手を当てる仕草と無邪気な笑顔。しかし、その瞳の奥には明らかな心配の色が浮かんでいる。
シードは短く息を吐き、目を伏せたまま静かに答える。
「教皇の命令は絶対です。この国の未来が、僕の肩にかかっているのですから」
冷静を装う言葉。しかし、その声音には自らに課した重圧が滲む。
「水臭いのう……わしとおぬしの仲じゃろ?」
イリューフェは苦笑いを浮かべ、無邪気に彼に駆け寄る。小さな手がシードの指先を軽く掴むと、そのまま彼の肩にそっと寄り添った。
だがシードはそれに反応を示すことなく、再び視線を窓の外に戻した。
眼下には整然とした教国の街並みが広がり、遠くには夕刻の陽が照らす山々が見える。
その景色とは対照的に、彼の胸中には自らの在り方への疑問が色を濃くしていた。
「これ、年配者の話はきちんと聞くもんじゃぞ」
イリューフェが拗ねたように口を尖らせる。その幼い外見が、少しコミカルな愛嬌を見せる。
しかし彼女――イリューフェ・ナイト・クラニア――はただの少女ではない。
その身に「奇跡」を宿し、転生を繰り返してきた数百年の記憶を持つ者。
高度な神聖魔術を操る彼女は、枢機卿団の癒し手であり守り手。
そしてその真実を知るのは、シードと僧兵アダンのみだった。
「……あの水竜は何者かに召喚されたものです」
シードがようやく口を開いた。
その言葉にイリューフェの顔から微笑みが消える。
「そうじゃ……あの子は怯えておった。無理矢理呼び出され、狭くて小さな川に身を隠すしかなかった……」
青い瞳に浮かぶのは、純粋な悲しみの光。
その一言が、彼女の修道女としての感覚が見抜いた水竜の真実を物語っていた。
「……ハイレンス総大司教か」
シードが冷静な声で名を口にした。
――ニヴァル・ハイレンス。大司教団の指導者であり、教国においてシードの最大の敵対者とも言える存在。
ハイレンスは教皇の後継者たるシードを疎ましく思い、その地位を奪うべく策略を巡らせている。
今回の水竜討伐も、その嫌がらせの延長線上にある――そう彼は確信していた。
「彼は僕を殺し、次期教皇の座を狙っているのでしょう」
シードは低く呟いた。
力でねじ伏せるべきか。だが、直接的な手段に出れば、教皇の名の下に叛逆者として粛清されるのは目に見えている。
「猊下。心配するでない。わしらがついておる」
イリューフェの声は優しく、それでいて力強かった。
彼女の青い瞳が、夕陽の光を浴びながら輝く。
シードの冷たい銀の瞳をじっと見つめ、彼にその決意を伝えているようだった。
「やれやれ、今日は残業じゃ」
彼女は懐から取り出した小瓶をちらりと見せる。
あの水竜から掬い取った光の粒子が、瓶の中で微かに揺らめいていた。
一瞬の沈黙の後、シードは彼女の瞳を見返し短く頷いた。
それは言葉にはならない、彼なりの信頼の証だった。
イリューフェの小さな手の中で脈打つ光の粒。
任務はまだ終わっていない。
彼女の身は「それ」の正体を明かすべく、神聖なる力をまとい始めた。