ヒューメリア――
幾度となくハイレンスの口から溢れたその名――シードの母の名だ。
彼女はシードが生まれてすぐに病死したと教えられてきた。だが、真実は違った。母の命はハイレンスの狂気によって奪われたのだ。
だが、その事実を知ったところで、彼の心には一切の感情が湧き上がらなかった。
彼には母の記憶が何ひとつとしてなかったのだから。
肖像画すら存在せず、誰も彼女のことを語らない。
彼が知るのは、ハイレンスが執拗に繰り返した言葉――「銀髪で銀眼の女性」ということだけ。
その希薄な情報すらも、歪められた執着の中で語られたものにすぎなかった。
(彼女は『殺された』……そして、現世に未練が残っているのなら――試してみる価値はある)
シードは目を伏せ、静かに呪文を紡ぎ始めた。
「霊び遍く宿怨の魂魄よ。死霊の慟哭を以て此に跪け――」
その言葉は死霊術の力を解き放ち、この地に眠るすべての魂へと響き渡る。
呪文の声は深淵にまで届き、一つの魂を手繰り寄せる鎖となった。
部屋の中に白い霧が満ち、ゆっくりと人の形を取っていく。
「っ……あ……ヒュー……メリア……?」
霧の中に浮かび上がる女性の輪郭――それが「彼女」であることを確信するや否や、ハイレンスは恍惚に満ちた表情で霧に向かって飛びついた。
「おお……ヒューメリア! ああっ!!」
その動きは狂気そのものであり、長年渇望していた欲望が爆発したかのようだった。
「はっ……はぁっ……!」
耳を覆いたくなるような――不快な男の荒い息と、衣擦れの音が部屋の静寂に響く。
シードは冷ややかな目でその様子を見ていた。亡霊の女性はシードに背を向けており、その顔は見えない。
しかし、背中には微かに母親らしい気配を感じるようでもあった。
――だが、すぐに違和感が生まれる。
ハイレンスの顔に喜悦の色が消え、次第に恐怖と混乱が滲み始めた。
「!? ち、違う……お前は……!」
声が震え、飛びついていた身体が後退する。
そして、亡霊がいびつに歪み、その中で何かが蠢いた――
「たっ……助けてくれぇ!! うわぁぁぁ!!!」
ハイレンスの絶叫が部屋中に響き渡る。
それはもはや女性の姿を保っていなかった。
白い霧で形成された身体は、突如として無数の触手を持つ巨大な異形へと変貌した。
顔も見えない程に、腕か脚かもわからぬ紐状の突起に覆われた禍々しい姿は、目を背けたくなるほどにおぞましかった。
触手がハイレンスを捕え、彼が掲げていた「神の心臓」ごと貪り食う。
シードは悟った。これがただの亡霊ではないことを。
(彼女に何があった?)
彼はすぐに精神干渉の魔術を使い、亡霊の生前の記憶を垣間見ようと試みた。
荒れ狂う霊気に呑み込まれぬよう、細心の注意を払いながら、彼女の内へと意識を潜らせていく。
そして魂の深層へ辿り着いた時、昏く渦巻く「それ」が視えた。
積年の憎悪――それがこの亡霊の本質だった。
ハイレンスとその部下たちによる、飽くことなく繰り返される暴行。
筆舌に尽くしがたい苦痛と屈辱で、彼女の魂は黒く塗りつぶされていた。
その魂は浄化されることなく、怨嗟に染まって死後さえも苦しみ続けていたのだ。
シードは静かに目を閉じた。
耳に届くのは、総大司教の悲鳴と、肉を咀嚼する音、そして骨の砕ける音――それだけだった。
(この国は腐っている。何もかも)
母の苦痛、彼女のすべてを奪ったハイレンスの狂気。
それを見て見ぬ振りをしてきた教皇レグナ――この国を支配してきた根幹が、どれほど醜悪なものだったのかを彼は改めて知った。
玉座の間には、ただ一人の断末魔が響き渡る。
「ぎゃぁぁぁぁぁ……!」
ハイレンスの悲鳴が途切れると同時に、静寂が訪れる。
だが、その静けさは安らぎではなく、どこまでも冷たく、誰も救うことのない無音の世界だった。
その中で、シードの心には深い闇が広がっていく。
本来ならば、悲しみ、怒り、憎むべきことなのだろう。
しかし、彼の心はそれを拒絶した。
感じることはもはや無意味だと悟った。
ただ無感情にすべてを受け入れ、飲み込んでいく。
彼の銀灰の瞳は虚ろなまま、破滅の余韻が残るその場に立ち尽くしていた。