教国の剣 〜孤独と虚無の鞘〜   作:えびふぉねら

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32話 ヒューメリア

 ヒューメリア――

 

 幾度となくハイレンスの口から溢れたその名――シードの母の名だ。

 

 彼女はシードが生まれてすぐに病死したと教えられてきた。だが、真実は違った。母の命はハイレンスの狂気によって奪われたのだ。

 

 だが、その事実を知ったところで、彼の心には一切の感情が湧き上がらなかった。

 彼には母の記憶が何ひとつとしてなかったのだから。

 

 肖像画すら存在せず、誰も彼女のことを語らない。

 彼が知るのは、ハイレンスが執拗に繰り返した言葉――「銀髪で銀眼の女性」ということだけ。

 

 その希薄な情報すらも、歪められた執着の中で語られたものにすぎなかった。 

 

(彼女は『殺された』……そして、現世に未練が残っているのなら――試してみる価値はある)

 

 シードは目を伏せ、静かに呪文を紡ぎ始めた。

 

「霊び遍く宿怨の魂魄よ。死霊の慟哭を以て此に跪け――」

 

 その言葉は死霊術の力を解き放ち、この地に眠るすべての魂へと響き渡る。

 呪文の声は深淵にまで届き、一つの魂を手繰り寄せる鎖となった。

 

 部屋の中に白い霧が満ち、ゆっくりと人の形を取っていく。

 

「っ……あ……ヒュー……メリア……?」

 

 霧の中に浮かび上がる女性の輪郭――それが「彼女」であることを確信するや否や、ハイレンスは恍惚に満ちた表情で霧に向かって飛びついた。

 

「おお……ヒューメリア! ああっ!!」

 

 その動きは狂気そのものであり、長年渇望していた欲望が爆発したかのようだった。

 

「はっ……はぁっ……!」

 

 耳を覆いたくなるような――不快な男の荒い息と、衣擦れの音が部屋の静寂に響く。

 

 シードは冷ややかな目でその様子を見ていた。亡霊の女性はシードに背を向けており、その顔は見えない。

 しかし、背中には微かに母親らしい気配を感じるようでもあった。

 

 ――だが、すぐに違和感が生まれる。

 

 ハイレンスの顔に喜悦の色が消え、次第に恐怖と混乱が滲み始めた。

 

「!? ち、違う……お前は……!」

 

 声が震え、飛びついていた身体が後退する。

 そして、亡霊がいびつに歪み、その中で何かが蠢いた――

 

「たっ……助けてくれぇ!! うわぁぁぁ!!!」

 

 ハイレンスの絶叫が部屋中に響き渡る。

 

 それはもはや女性の姿を保っていなかった。

 

 白い霧で形成された身体は、突如として無数の触手を持つ巨大な異形へと変貌した。

 顔も見えない程に、腕か脚かもわからぬ紐状の突起に覆われた禍々しい姿は、目を背けたくなるほどにおぞましかった。

 

 触手がハイレンスを捕え、彼が掲げていた「神の心臓」ごと貪り食う。

 シードは悟った。これがただの亡霊ではないことを。

 

(彼女に何があった?)

 

 彼はすぐに精神干渉の魔術を使い、亡霊の生前の記憶を垣間見ようと試みた。

 荒れ狂う霊気に呑み込まれぬよう、細心の注意を払いながら、彼女の内へと意識を潜らせていく。

 

 そして魂の深層へ辿り着いた時、昏く渦巻く「それ」が視えた。

 

 積年の憎悪――それがこの亡霊の本質だった。

 

 ハイレンスとその部下たちによる、飽くことなく繰り返される暴行。

 筆舌に尽くしがたい苦痛と屈辱で、彼女の魂は黒く塗りつぶされていた。

 その魂は浄化されることなく、怨嗟に染まって死後さえも苦しみ続けていたのだ。

 

 シードは静かに目を閉じた。

 

 耳に届くのは、総大司教の悲鳴と、肉を咀嚼する音、そして骨の砕ける音――それだけだった。

 

(この国は腐っている。何もかも)

 

 母の苦痛、彼女のすべてを奪ったハイレンスの狂気。

 それを見て見ぬ振りをしてきた教皇レグナ――この国を支配してきた根幹が、どれほど醜悪なものだったのかを彼は改めて知った。

 

 玉座の間には、ただ一人の断末魔が響き渡る。

 

「ぎゃぁぁぁぁぁ……!」

 

 ハイレンスの悲鳴が途切れると同時に、静寂が訪れる。

 だが、その静けさは安らぎではなく、どこまでも冷たく、誰も救うことのない無音の世界だった。

 

 その中で、シードの心には深い闇が広がっていく。

 

 本来ならば、悲しみ、怒り、憎むべきことなのだろう。

 しかし、彼の心はそれを拒絶した。

 

 感じることはもはや無意味だと悟った。

 

 ただ無感情にすべてを受け入れ、飲み込んでいく。

 彼の銀灰の瞳は虚ろなまま、破滅の余韻が残るその場に立ち尽くしていた。

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