闇の時代と一杯の紅茶 作:The-Artless-Dodger
テムズ川を挟んで繰り広げられた一件について、日刊予言者新聞はあからさまな沈黙を保っていた。その日の夕刊は当然として、翌朝刊の一面大見出しは「欧州大陸の南北対立深刻化──我が省もイタリア魔法省に正式な抗議」であった。この欧州魔法界外交の新様相は数ヶ月前より何度か話題として浮上しており、なるほど確かに重要なのではあろう。しかしM.o.Mお膝元の首都ロンドンで、あのような騒乱の危機勃発を見た翌日にこの記事では、今まさに自宅が火に包まれているというのに、コッツウォルズの別荘を戸締りしたかしら、と心配するようなものである。日頃は迅速を是とするこの新聞も、こうなっては形無しであった。しかし、M.o.Mがいかなる方策を練ったとしても、ロンドンっ子の口を塞ぐのはドラゴンに口輪するより難しい。場所が場所なだけに、あの日あの事件を目撃した人々は、エドアルドたちだけであるはずもなかった。路傍から、窓から、船上から、空中から──サザーク橋を乗り越える群衆は、至る所の衆目を集めるには十分過ぎるほど大勢で、かつ騒がしかったのだから。結果として、大きな大砲を放てば水面に波がさざめくように、シティ・オブ・ロンドンの一角で発生した事件は、市民の口から口へと伝わり、あちこちに大波を立てていたのだった。
M.o.Mとて、箝口令の出来損ないのようなものは当然実行したのである。新聞の宣伝欄には、「軽口は災いの元。貴方の分別は明日の魔法界の光となります」という文句が、
何が言いたいかと言えば、途中で馬車が引き返してしまったとて、その後で起こったあれこれをエドアルドが知るのに何ら障害は無かった、ということである。
「
ノクスポルと言えば、エドアルドもよく知る名前である。M.o.Mの中で唯一魔法法執行部から独立した警察機関であり、エドアルドがまだ幼かった頃には、それこそ新聞や雑誌に幾度となく現れ、魔法界を揺るがす危険を未然に防ぐ獅子奮迅の大立ち回りを見せていたのだから。ここ数年は、とんとその名も聞かなくなったが、懐かしい響きに対する幼いエドアルドの憧れは、なおも減じてはいなかった。
「ああ、それじゃあ暴動も収まっただろうね」エドアルドの素朴な返事に、ピップはやけに長い人差し指を振って見せる。
「いやいや、ロムルス、我が友よ。事情は複雑怪奇だぜ。暴動は収まったかもしれない、確かに。でもな、せっかく閉じ込めておいた猟犬が堂々と野に放たれ、兎を追いかけ回したら? 答えは最悪だ! 全く最悪、これ以上なくね!」
首を傾げるエドアルドに、ピップは脚を組んでしゃべり始める。
「おれの聞くところによれば──これはつまり、“実用上は事実と見做して差し支えない”という意味だけれど──、ノクスポルの連中は物凄い勢いで魔法を使ったらしい。爆発、炎、なんでもござれってね。そんなことをしたら、そりゃ暴動自体はどうにでもなるけれど、悪評は避けられないだろう?」
エドアルドは、昨日見た群衆の姿を思い出した。いや、実際には瞼の裏に深く染み付いており、思い出そうとするまでもなく、目を閉じるたびにありありと浮かんでくるのであった。特に、あの手首を切り落とされた人々の悲痛な表情を思えば、彼らがこれ以上の災難に遭うのを見過ごすことなど、ほんのひと匙程度でも人間性を備えた者には、凡そできない相談であろう。
「でもさ、ピップ」エドアルドは友人の顔を見つめた。「そんなに知っているなら、どうして記事にしないの? 日刊予言者新聞が書かないならチャンスじゃないか」
ピップが答えるより先に、タバード氏が歩行杖で床を突いた。この初老の男は、最近、エドアルドに話がある時もそうとは言わず、こうして合図する横着の癖がついていた。
「そりゃ無理な話だ、ロムルス。こいつらの新聞に、M.o.Mへ真っ向から歯向かおうなんて気概も器もないからな」
「ああ、ラム! おれはあんたの不見識が気の毒でならないよ! “新聞にとって最大の危険とは政府による弾圧ではなく、判断能力を洗練しすぎたあまりに、猪突猛進の蛮勇以外全てを偽善と切り捨てるようになった大衆そのものである”──次号の記事はこれで決まりだな、橋の上でちょっとドンパチやったなんてことより、余程重大だぜ」
タバード氏の放った光線をひょいと身を屈め躱したピップは、エドアルドの背後に隠れた。背中にぴったり張り付いた友人の頬は、服越しにもやけに熱く、エドアルドは自分が汗臭くはないかと少し気になり身を捩ったが、ピップの意志は頑として強固だった。
「ねぇ、離れてよ」
「いや、ロムルス、君はそんな薄情じゃないだろう? 今君の背中から顔を出したら、あそこにいる偏屈者に眉間を撃ってくださいというようなもんさ」
「でも、腕は全然隠れていないよ」エドアルドは笑った。「魔法が当たれば、眉間だろうが腕だろうが関係ないよ」
すると途端に、ピップはエドアルドからパッと離れて両手を挙げひらひら振った。エドアルドは、何が友人の癪に触ったのか知れなかった。しかしピップは大袈裟にため息を吐き、小さな鞄を引っ掴んだ。
「はぁ、ロムルス、君は勉強不足だな。当てる場所によって効果や効き目の変わる呪文なんて、いくらでもあるぜ。イヤリングの穴だって耳に開けたらお洒落と褒められ、目に開けたらただの馬鹿だ。それと同じこと、分かる?」
「それはそうだけどさ」とエドアルドは食い下がる。「失神呪文とか金縛りとかは、どこに当てたって同じじゃないか」
「ああ、嫌だ嫌だ!」ピップはまるで悲劇俳優のように首を横を振り肩をすくめて見せた。「これだから温室育ちは。他人ってものを全然知らないんだな」
こうなるとエドアルドも、相手が半ば冗談であるとはいえ、いやむしろそれがために、ムッとした。思えばピップは口が軽く、他人を茶化して回るくせに肝心のことは煙にまく所があったのだ。
「温室って、孤児学校のこと?」
「それ以外にないだろう」
「じゃあ、君も僕のことを全然知らないよ。あそこが温かいだなんて、誰も思わない」
「マシだってことさ!」ピップはこれ以上話す気もなかったのだろう、帽子を被り階段に向かって歩き始めた。「なんにせよ、政府の重大事件に関する速報はうちの管轄じゃない。“デイリー・プロベイトは、百年経っても変わらぬ価値をお届けします”」
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日刊予言者新聞の記者らがその重い腰をようやっと持ち上げたのは、それから三日ほど経った日のことであった。それまでの不自然な沈黙を誤魔化そうとでもいうのだろうか、一面に「ロンドン中枢の大事件──市民百万に迫る暴徒の恐怖」という大見出しが踊ったのである。こうした一大事に関する記事の典型として、写真や挿絵が極端に減るというのは前々より市井で噂されるところであったが、今回の記事はその強力な証拠となった。字は僅かに細くなり、写真の類は右隅に小さなものがぽつんと一つだけ。それも、肝心の暴動を写したものではなく、「お手柄警官
ともかく、日刊予言者新聞が沈黙に耐えかねたのは事実であった。M.o.Mのお役人連中は無邪気にも、写真を減らし文字を増やせば読者も嫌気がさすに違いないと決め込んでいるらしいが、しかし、彼らのように庁舎に缶詰になって書類と睨めっこをしている訳ではないロンドン市民に、近視や老眼は少ないのである。かくして政府肝入りの官報は、以下のような内容になったが、相当に例外的な論調であった。
先日ロンドンで発生した未曾有の暴動は、魔法法執行部直轄魔法警察部隊の活躍により鎮圧されたが、なお百万の市民に動揺を与え続けている。シックネス魔法大臣は今回の件について、「現在のイギリス魔法界新体制始まって以来の不祥事であり、全魔法使いに我が省の不手際を謝罪するとともに、公正かつ厳密な調査の後、責任者に対する処遇を決定する」と述べた。
魔法法執行部の発表によれば、暴動は正午ごろにサザークを中心として発生。ブラックフライアーズ通りを北上したが、解放記念公園付近で監視局員らと衝突。その後右折し、サザーク橋通りに至ると再び北上、シティ・オブ・ロンドンに侵入した。魔法法執行部が監視局より通報を受けたのは、午後十三時半頃であった。暴徒はセント・ポールにまで至ったが、ノクスポルの実力行使により鎮圧された。テムズ川以北にまでこのような騒乱が及んだのは、我が社の記録では1999年以来初のことである。今回の事件で、三十八名が負傷した。暴動の首謀者五人はいずれもその場で逮捕された。
前代未聞の大事件の発生に対し、報道各社の目は厳しい(そんなことがかつてあったろうか! ピップならこう叫んだだろう)。原因究明を求める記者団に対し、魔法大臣は以下のように語った。
「尋問は目下行われている最中であり、首謀者らがなぜこのように無謀かつ危険な暴動を扇動したのかについては、お答えしかねる。しかし、早期解決に至らずテムズ北岸にまで至った点については、間違いなく政府側にも責任追及の及ぶべきものである」
事件当日に展開していた監視局員の数は、法律で定められた最低数より間違いなく十人は少なかった。このような無申請の人員削減は現場で慢性的に横行しており、これが魔法法執行部への通報の遅れに繋がった可能性は否定できまい。また、サザーク橋にかけられた防御魔法の点検は早くとも三年前から行われていない。「魔法法執行部としてはノクスポルに対し、これら種々の疑惑について、速やかな説明を提出するよう一貫して求めている」と執行部広報官は語る。ノクスポルの事務所及び監視局に我々は取材を求めたが、現時点で回答は得られていない。
ノクスポルについては、その後の対応でも問題を指摘されている。
「彼らの行動は明らかに過剰でした」
いまだに震えが止まらないという両手を揉みながら語るのは、事件当日の聖堂付近に居合わせたアン・ベネット夫人である。
「暴徒は大勢いましたし、ほとんど全員がナタやオノを振り回していましたから、危険であったのは確かです。しかし、ノクスポルは魔法使いなのですから。目隠しをされた猪のように、大騒ぎをする必要がどこにあるでしょうか?」
実際、鎮圧の過程で用いられた手段が過剰であったという意見は魔法法執行部も共有する所である。怪我人のうち二十一名は、ノクスポルの
また、ノクスポルの出動経緯についても疑問が残る。魔法法執行部からの正式な出動要請は発出されておらず、独断での緊急出動要件もこれらを満たし得たとは言い難い。魔法大臣は会見を以下のように締め括った。
「この暴動は現体制にとって、色々の問題を浮き彫りにするものとなった。ブリテン島が体ならば、政府は血管であり、老廃物が詰まることはその任務にとって許されない。魔法省としては、我が省のノクスポルのみならず、ロンドン教区を管轄する
エドアルドは、日刊予言者新聞がこれほど慎重かつ堂々と書いたのは初めて見た。箸にも棒にもかからぬ三文雑誌に多少色をつけた程度が、この新聞の常である。記者が突然社会正義に目覚めた訳でもあるまいに、然るにこの論調の変化は、執筆者がその実、会社ではなくM.o.Mであることの証左だとエドアルドにすら感じられた。同じ紙面をエドアルドよりも先に読み通していたタバード氏は、椅子の上で脚を組み煙管を弄びながら、上機嫌であった。
「魔法法執行部と連中とは、昔から仲が悪いからなあ」養父の口から青い煙が漏れ出した。「これまでもずっとそうだったし、連中は少しずつ中枢から追いやられていたからなあ。今回の暴動でようやく面目躍如の機会は至れりと思ったんだろうが……ご愁傷様だ! シックネスは良くやったよ、魔法法執行部部長のあの坊主もな」
エドアルドは読み終えた新聞をピップに投げ渡し、ベーコンエッグをよそっているところであった(「おれのは二つにしてくれよ!」とピップ)。すっかり錆びついたフライパンから剥がすのには一苦労であったが、エドアルドの気持ちはキッチンなどにはなく、卵の黄身が崩れているのにも気づかなかった。
「僕はてっきり、ノクスポルは精鋭だと思っていました」
エドアルドの言葉に、養父は鼻で笑った。
「確かに精鋭かもな! その道では並ぶもの無しさ、そもそも常人は並びたいとも思わん。だが今や魔法界は平和を求めている。貴族どもに大臣へと担ぎ上げられた時、シックネスが自らの目標として連中にも協力を求めたのは、“秩序の正常化”だったと聞くしな。随分と時間がかかったが、あいつなりに色々とやっているんだろう」
「ま、おれからすりゃ、あの糞真面目がこんなこと思いつく訳無いよ!」
「そりゃそうだ」割り込んできたピップに、タバード氏は頷いた。「大方、部長が仕切ったんだろう。何はともあれ、あの気狂い連中が落ちぶれていくのについては、最も強硬な反M.o.M派だって喝采するしかないぞ。後は食いっぱぐれた連中が、路上強盗に手を染めないことを祈るばかりだな。霧の中でラッパ銃を持ち歩かなきゃならんロンドンなぞ、御免だね」
二人の談笑をキッチンから聞いていたエドアルドは、形容し難い嫌な気分であった。またこれだ! 孤児学校では毒にも薬にもならないことばかり、ぬいぐるみの綿のように詰め込まれたと思っていた。しかし実際には、それが綿ではなく抜け毛の寄せ集めである、というような欺瞞。タバード氏に引き取られて以来、このような経験は尽きなかった。
ならば身構えていれば良いと仰る方もあるだろう。不幸にもそう沢山の裏切りに見舞われたのならば、今後も同様の不幸に幾度となく見舞われるだろうことをあらかじめ勘定にいれておく。さすれば毎回気落ちなどせずに、やれやれと肩をすくめるだけで済むと。しかしエドアルドにとって、問題は不意打ちであった。現に彼はノクスポルのことも覚えてなどいなかった。遠い幼少期の儚く曖昧だが、それゆえにどこかミルク色を帯び柔らかく香りたつ、あの記憶たち──本来ならば脳味噌の奥底で悠々隠居生活を決め込んでいるはずのそれら記憶が、ある日突然後頭部をハンマーで強かに打たれたことで転がり落ち、さらに皮を剥かれ、内側の腐り切った茶褐色の組織を露呈する。これにどうやって備えろというのか。
何より腹立たしいのは、不公平であった。タバード氏やピップの言うように、「秩序の正常化」が進んでいるのだとすれば──つまり、少しずつ社会が前進し、教育現場から嘘が、脚色が、捏造が、不誠実が減っていくのならば。エドアルドは損である。孤児学校の後輩諸君はきちんと入用の知識を身につけ巣立っていき、大人になってからも、暗闇の中で烏のように虎視眈々と此方を見つめる「真実」の奇襲攻撃を心配することなどないというのに、エドアルドは生まれた時期を呪うしかない。ああ、進歩とやらのかくも無慈悲に依怙贔屓をして憚らないことと言ったら! だからこそ、養父と友人との会話の続きは、エドアルドに少しだけ元気を与えた。
「でも、逮捕者がこれっぽっちねぇ」ピップは、猛烈な勢いで紙面に目を滑らせながら口を開いた。「第一、あの大軍の中から首謀者なんて見つかるもんか? 無理だろ、絶対、確実に」
「だろうなあ」タバード氏は頷くが、その声の調子は先ほどまでと変わり、憎々しげで怏々としていた。「新聞は書きゃしないが、横丁の奴らの噂じゃ、群衆の先頭百人くらいは、連中に吹き飛ばされちまって骨も残らんというから。残った中から適当にそれらしいのを見繕って主犯の看板を取っ付けたんだろう」
「にしても人数は少ないぜ?」
「そう大勢逮捕なんてできんさ」タバード氏はふんと鼻を鳴らした。「執行部だって今はしてやったりだが、あいつらの相手は省内だからな。普段サザークに住んでいる連中のことなんて、丁重にお帰りいただければそれで十分。下手に暴れられたら今度こそ面倒だと──」
「はっ!」ピップは大声で笑った。「でもやっぱりおれは、シックネスの肩を持つぜ。少なくともあいつには、部屋の隅で何かが動いたらとりあえず緑の光線をぶっ放すんでなくて、紅茶を淹れて砂糖を掻き混ぜほっとひと息ついてから、あれは蜘蛛か何かかもしれないと検討するだけの分別と鈍臭さがあるからね。逮捕者が少ないならばそれで結構! おれの所の売り上げは、ちょっと下がるかも知れないけれど!」
ロンドン教区とサザーク教区とは、魔法界のマグル界進出の後に行政上の効率化のため統合されました。