視えざる船たちの記憶――特設監視艇第7光明丸航海記   作:缶頭

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第8話

 船団が出港して3日目の午後。ようやく太平洋側に出た特一号船団は高知沖を航行していた。

端から見れば3日も航海してたったのそれだけしか進んでいないのか、と思われるだろう。船団

の航行速度は7ノット。これはつまり、1日につき300キロしか進めないことを意味している。遅

すぎだと思うかも知れないがそんなものだ。輸送船の巡航速度は精々12,3ノットで、戦時標準船

ともなると「最高」速度が10ノットなどという事もある。そして都合の悪いことに特一号船団の

半数はその戦時標準船だった。加えて関門海峡を通る際には当然船団の陣形を変えなければなら

ないし、それがまた航行の遅れを招くことになる。

 ともあれ大海原に乗り出した船団は再び陣形を組み南東に進路を取る。途中でマリアナ諸島の

サイパンに寄って給油と整備をする予定だ。その後はラバウル目指して一直線に進めばいい。サ

イパン出航後に深海棲艦の大艦隊と遭遇したら、マリアナとラバウルの中間にあるトラック諸島

へ逃げ込む手はずになっていた。

 舞鶴港を襲撃し第11戦隊を叩きのめした敵潜は行方知れずだった。特一号船団が襲われる事は

なかったが、撃沈したとの報告も入っていない。自分たちのすぐ近くにいると考えるべきです―

―と朝潮が全船に向けて警告した。もっともなことだと誰もが思ったが、自分の足下に深海棲艦

がいるのではないかと思うと気味が悪くて仕方なかった。午前中にパラパラと降っている程度だ

った雨は午後に入りその勢いを増した。夜になると本格的な風雨となり、海も荒れ始める。

「どこかの港に入ってやり過ごしてはどうでしょうか……?」

 万寿丸が眼鏡の奥に伏し目がちな瞳を浮かべ、おずおずと朝潮に問うてみた。

「提督からは必ず予定通り到着するように厳命されています。外洋を航行できる皆さんならこの

くらいの波は大丈夫の筈です」

 ばっさりと断られた万寿丸はますます伏し目がちになり、次いで顔を背けてしまった。彼女の

本心で言っているのではない。彼女の艇長が命令して万寿丸に言わせたのだ。光明丸の直感がそ

う告げていた。船娘と相性の悪い船長がいれば、船長に恵まれない船娘もいる。万寿丸は後者で

はないかとの、初対面の時からの思いはほとんど確信に変わっていた。

 午後10時。視界が悪い中雨と風はさらに勢いを増した。波を越える度に光明丸は激しくピッチ

ングし、あるいはローリングする。転覆しないように懸命にバランスを取りながら、しかも陣形

を乱さないように航行するのは難しい。敵の心配など到底していられなかったが、この状況で仕

掛けてくる敵がいるはずもない事をエビに言われると少し気が楽になった。いっそ、ラバウルに

着くまでずっと嵐だったらいいのに、などとおかしな事まで考えてしまう。

 一人くすくす笑う光明丸の顔を雨が洗った。もはや頭の先から足のつま先まで雨水か海水かの

どちらかで水浸しだった。それは他の艦娘・船娘も変わらない。朝潮は船団に遅れたり陣形を崩

している船がないか常に見渡し、皆に声援を送っていた。声援で船が浮かぶ訳ではないが、彼女

のその生真面目な態度は皆の尊敬を集めこそすれ、無下にするものはいなかった。彼女が望むな

ら船団の先頭を行くことも、皆に気を配ることもしないでよいのだ。東丸と光丸は、この雨の中

だというのにむしろ楽しんでいる様子で、踊るようにして波を乗り越えている。時々こちらが驚

くくらいにピッチングしているのだが、本人達はサーフィンでもしているつもりのようだ。万寿

丸は朝潮に提案を断られてから黙っているが、その他は別段変わらない様子だ。望月は船団を左

右に行き来しながら警戒するのを一時停止し、吉祥丸と同じく船団の最後尾に付いて航走してい

る。

「はぁ~、まじで最悪」と言いながら眼鏡を外し、雨水を袖で拭った。しかし既にベタベタだっ

た袖は眼鏡に付いた水を押し広げるだけで、まったく拭き取ることが出来ない。彼女は諦めて眼

鏡を掛け直した。何時転覆するかと船団中の視線を集める吉祥丸だが、意外なことに波風に耐え

て走り続けていた。それどころか艇長一同艦娘までが嵐の中歌い出す始末だった。

「タフな連中だよ、まったく!」

 ツチガミが言葉とは裏腹に嬉しそうな顔をして叫んだ。

「とても表には出ていられんな。今旗艦の朝潮から点呼があったが、脱落したり故障した船は今

のところ居ないようだ」

「このまま抜けられればいいが」

 エビが窓に顔を押しつける。が、雨が吹き付けるばかりで外の様子はよく分からない。風は弱

まったと思えば強くなり、雨は勢いを弱めたふりをしては激しくなる。全体としては徐々に強ま

りつつある。

「光明丸、辛くないか」

「心配しないで船長。このくらい大丈夫です」

 エビが光明丸の様子を尋ねるのはこの1時間のうち既に3度目である。親バカぶりがさらに進行

しつつあるな、とツチガミは思う。

「うわっ! 艇長、光丸が!」

 前方を見ていたワタノキが突然叫んだ。驚いて目をやると、目の前を航行しているはずの光丸

が消えていた。その代わりに見えるたのは、光明丸の背丈を軽々超える高さの波。光丸はあの波

の向こうにいるのか? と疑問に思う間もなく光明丸に波が襲いかかる。

 右舷にバランスを崩しつつも波に乗った彼女はスキージャンプのように波を駆け上がり、頂点

から勢いよく放り出された。一瞬宙を浮いた彼女は、次の瞬間には海面に足から叩き付けられる。

勢いの付いた体は水の抵抗をものともせずズブズブと沈んでいく。膝まで暗い海に浸かった所で

ようやく体が浮き上がった。思わず冷や汗をかいた光明丸が前方を見ると、そこには光丸がこち

らを見ながら笑顔で手を振っているのだった。光明丸が周囲を見渡すと、左舷に居たはずの輸送

船が見えない。先ほどの光丸と同じく波によって遮られているのだ。

 しばらくすると輸送船が姿を現した。彼女は必死に波を堪えもがきながら進んでいる。その顔

には見るからに苦痛が浮かんでいた。輸送船が大波を越えようとした瞬間、右側から一際強烈な

風が叩き付け、バランスを崩した彼女はほとんど転がるようにして波のこちら側へと落ちて来た。

沈没する! と光明丸は目をつぶりそうになったが、光明丸と同じようにしばらくの沈下の後な

んとか浮かび上がってくるのを見て胸をなで下ろした。あの輸送船の苦しそうな姿と光丸の楽し

そうな姿と、どちらが正常な反応なのか、もはや光明丸には分からなかった。頭の回転が鈍くな

っているのを自分でも感じる。そこへ朝潮から呼びかけがあった。

「正面、凄く大きい波です! 全船注意してください!」

 31隻分の目が暗い海をにらみ付けた。今し方超えたばかりの波よりもさらに巨大な、何千トン

か、何万トンかの水の塊が押し寄せてきた。それは文字通り壁だった。全長何メートルある波か、

それすら定かではない。背丈の4倍を軽く超える高さがある巨大な波にさしもの光丸も表情を曇

らせた。が、波とぶつかるまでに出来たのはそれだけだった。祈ることも後悔することも遅すぎ

た。光丸は懸命に波を登り、その頂上では足の艤装に付いているスクリューと舵が水面に露出す

るほど跳ね上がり、波の向こうに消えた。彼女がどうなったのかと心配する間もなく光明丸もそ

の波に襲われる。

 波に突っ込むと同時に大量の海水を浴びる。同時に体が波で出来た坂の上へと押し上げられる。

波の頂上から見る景色――辺りが暗くてほとんど見えないが――はビルの2階から見るそれより

もなお高く感じられた。光明丸の体もまた宙へと投げ出され、ぶち当たるようにして海面に着水

した。着水した際のしぶきが顔に掛かり、ほとんど腰まで海水に潜り込む。彼女は一瞬、ほんの

一瞬だけ沈没を覚悟した。しかし彼女の体は、偉大なアルキメデスが示したとおりに、彼女の体

自身が生み出す力によって浮かび上がった。少しずつ、しかし確実に、艤装から海水を滴らせつ

つ光明丸は浮かび上がった。

 分解しても、木っ端微塵になっても、張り裂けてもバラバラになってもおかしくなかった。幸

いにして光明丸はどれにもならずに済んだ。船橋では船員妖精達が目を丸くしながら、着水の衝

撃で吹き飛ばされた自分の体をさすっていた。もう一度同じ波が来たとしたら、光明丸は乗り越

える自身がなかった。だがもうそれ以上の波は来なかった。雨も風も、あの最後の大波を境に収

まり始め、朝日が昇る頃にはただの小雨とそよ風になっていた。

 ずぶ濡れになった服を絞りながら朝潮が点呼を取る。奇跡的に全ての艦娘・船娘が無事だった。

あの吉祥丸ですら、一体どんな魔法を使ったのか無事に嵐を耐えきっていた。誰もが周囲を見渡

し、自分と味方の無事を何度も何度も確認した。確かに俺達は生きている。まるでこの輸送任務

がもう終わってしまったかのような、奇妙な達成感がわき上がってきたが、実際の所中継地点の

サイパンまで2000キロはある。

 それでも強いて言うなら、特一号船団全体の士気を高める効果はあったと言ってよい。1日、2

日と平穏な航海が続いた。本土から300海里も離れると、いよいよ味方機の支援が受けられなく

なる。船団の番犬となってくれる航空機はありがたいが、電波を飛ばしたやりとりは深海棲艦に

感づかれる危険もあった。船団がどのルートを通るかはあらかじめ通達してあったが、それでも

目印のない洋上では合流のため電波を放ち交信する必要が生じる。リスクとベネフィットを勘案

して、最終的には朝潮の判断で上空支援の打ち切りを決めた。燃料の限界まで船団の上空に張り

付いていた流星は朝潮からの電文を受け取ると、「汝ラノ平穏ナ航海ヲ祈ル」と挨拶を告げ、翼

を翻して進路を北へと取った。

 ここから先は無線封止を徹底し身を隠して走る。船同士のやりとりは信号灯か旗流信号、それ

も危険な場合は互いに声を出して意思疎通する。去って行く飛行機の姿が徐々に小さくなり、最

後には空の向こうに見えなくなる。それは自分たちだけの力で行う航海の始まりを知らせるサイ

ンでもあった。

 


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