pixivより転載
インドラは、ある夕暮れ時。息子にそっと語り掛けた。
「アルジュナ。オレはな、昔……人を殺したことがあるんだ」
インドラの幼い頃の記憶は、なぜかいつも黄昏時だった。記憶に残っているのがその時間帯だったというべきか。オレンジ色の夕焼けが、神社の階段で膝を抱えるインドラを照らしていた。暑い。彼が大人になった頃ほどではないが、この頃から夏の暑さは異常さを示しはじめていた。
異常なのは夏だけではない。インドラの父もだった。
酒浸りの父。ろくに稼ぎを入れない父。暴力をふるい、時に包丁まで持ち出す父。母は気付いたらいなかった。恐らく夫の暴力に耐えられなかったのだろう。そして代わりに息子を置いていった。おかげで、インドラはろくに食事も服も与えられず、痩せた子どもだった。
──それでも、インドラはこの時点で誇り高い男だった。
その日も、学校から帰ってきたら昼間から酒を浴びるように飲んでいた父親に殴られ、「馬鹿野郎」と罵ってから家を飛び出した。
これが幼いインドラの日常だった。ランドセルは家に放り出して、父親が飲み過ぎて眠るのを待って家に帰った。この日もそれまでじっと待つのだろうと思っていた。
「どうしたのじゃ?」
──若い女の声が、頭上から降って来る。
驚いて顔を上げると、美しい女がいた。
金髪に褐色の肌の、黒い服の女。恐らくインドラと同じ、インド系日本人だろうか。あまりに好みの異性で一瞬息を吞むインドラに、女は笑った。
「なんじゃなんじゃ、美女に見惚れたか? マセガキめ」
「──不審者を凝視して何が悪い」
事実を指摘され、咄嗟に口悪く言い返す。しかし女は気にした様子もなくニヤニヤと笑う。
「おぉ、その意気じゃ。お前はそうでなくてはいかん」
「オレの何を知っているって言うんだ」
吐き捨てると、意想外な答えが返って来る。
「知っておる。お前の名は『インドラ』。そうじゃろ?」
「……父親から聴いたのか」
インドラの女性の好みは、恐らく父親譲りだ。それはなんとなくわかっていたし、それ自体には特に言うことはない。だが、異性を意識しそうになった女から、唯一の情報源であろう父親のことを連想させる発言をされてむっとする。
しかし、女は言った。
「いや? しかし近所の主婦たちが囁いておったよ。『あの家のインドラくんは暴力を受けてるみたい』とな」
「──」
「人間は浅ましいのう。同情を寄せておきながら助けを出さん。鬱陶しいことに巻き込まれたくないんじゃのう。お前は哀れじゃのう」
その途端、インドラはカッと頭に血がのぼる。立ち上がった。
「うるせぇ、オレは見も知らずの相手に同情される謂れはねぇ」
それに、女は嗤った。
「ほう、ぬかしよる。ま、精々その気概でこの先進むと良いぞ」
そう言って、女は去った。
フーフーと肩で息をしていたインドラは、「もう帰るか」と家に戻った。
その日以降、その女はインドラが神社に来る度にそこにいた。
インドラを揶揄い、その度にインドラをいきり立たせた。
インドラが成長してくると、その女はあまり姿を現さなくなった。
それでも、暑い日の黄昏時には必ずニヤニヤ笑って立っているのだ。
このときのインドラは幼く、彼女の異常性に気付くことはなかった。
小学校の卒業式の日、インドラは神社に顔を出した。
彼女はどこにもいなかった。
それで、インドラは彼女を忘れることにした。
中学に上がると、成長期に入ったインドラは見る間に成長し、父親を殴り返せるほどにまでなった。そうすると父親は容易く息子に屈し、「稼いで来い」というインドラの言葉に唯々諾々と従うようになった。
インドラは、「こんな男に支配されていたのか」と自嘲した。
それから、こんな男の扶養に入り続けるのはお断りになったインドラは、勉強をはじめた。その勉強の憂さ晴らしにファッションを彼なりに整え暴れていたら、気が付いたら「勉強のできるヤンキー」などと言われるようになった。
気が付いたら学年主席にまで上り詰め、教師には「どの学校にも入れるよ」と言われた。だから、無返済の奨学金を取り、1番難しい高校に入った。
高校では反りの合わない生徒や教師ばかりだったが、インドラはここでも主席を取り続けた。生活態度は改めなかった。大学も選び放題だと言われ、それならばと奨学金で海外留学をした。
帰国してからとある会社で博打同然の荒稼ぎをしたのち、辞職して起業した。
あっと言う間に大企業に成長し、CEOのインドラはあっという間に名を馳せた。父親が金を集りに来た、と言う話もあったが、警備員により強盗として警察に突き出された。その程度のことは既にインドラにとって「些事」だった。
その数年後のことだ。あの「近所のお姉さん」のことを思い出したのは。
インドラは仕事の合間に、故郷を訪ねることにした。
故郷は、彼がいた頃より閑散としていた。
少子高齢が進んだのだろう。老人ばかり見かけ、子どもの姿は見えない。身長が2mを超えたインドラを、嘗て父親から暴力を受けていた子どもと同一視する者は誰一人としていない。それはそうだろう、とインドラは特に感慨もなく思う。
(あの女も、見る影もなくなったのだろうな)
そんなことを思いながら、おぼろげな記憶を頼りに道を歩く。
やがて誰もいなくなった頃。家々も途切れて、斜陽がインドラを照らす。
そこに、女がいた。
「待っておったぞ、インドラ♡」
──あの夏の日と、全く違わない……衣服ですら記憶の中そっくりそのままの彼女がいた。
聞こえていなかった蝉の声が急にうるさく喚き出す。インドラは息を吞む。
あの頃のインドラは気付いていなかった。彼女が夏でも冬でも、黒い服1枚で過ごしていたことを。彼自身も衣服の乏しい子どもだったから、そのことに気付けなかった。
彼女は、変わらない。夕暮れの中、昼と夜の間、オレンジ色の空や地面。その中で自身の影がくっきりと道路に落ちていた。
そして、彼女を見た。
影がない。
その瞬間、インドラはヒュッと息を吞んだ。恐怖に陥りそうになる。
それでも、インドラは耐えた。耐えて、言った。
「……老けないな、お前は」
「ふむふむ、胆力もついたようじゃな。良いぞ、よくぞわえ好みに育った」
そう言って、あの頃と違わぬ笑い方をする。その口調も、人間離れしていた。
──怪異だ。化生の類……この女は、魔だ。
インドラは不意に強い衝動に駆られる。それを自制している中で、女はどこからか「それ」を取り出した。インドラに投げてきて、彼はそれを受けとめる。
それは、包丁だった。父が、よく幼いインドラに向けていたものとそっくりそのままの。
女は、笑った。
「あとはわえを殺すだけじゃな」
「は……?」
何を言っているのだ、この女は。気狂いか。しかしインドラ自身の中の衝動もあまり正気とは言えなかった。
女は悠々と語る。
「わえは貴様の幼少期の象徴、即ち忌まわしい思い出じゃろう?」
不意に、その言葉と共にインドラの中に蘇る記憶──否、過剰に掻きたてられた妄想。動揺して頭を抱えるインドラに、女は甘く囁きかける。
「わえを殺してこそ、貴様は真に自立できる……」
女は言った。自分の胸を示して。
「さぁ、刺せ。心臓はここじゃ」
インドラはしばらく震えた。夏の夕日が彼を焼く。永遠の夕暮れ時。蝉が煩い。本当に煩い。否、これは──地獄の亡者の苦悶の声。
めまいがする。動悸が激しい。呼吸が荒い。それでも、目の前の女を殺さなければならない。そうしないと、あの矮小な自分から脱却できない。真っ赤な太陽が鬱陶しい。殺さなければ──
インドラは、衝動のままに、女の胸に刃を突きたてた。
女は、笑っていた。
「よくぞ、乗り越えた」
女は血を吐くこともなく──その体自体が掻き消えた。
彼が取り落とした包丁も、塵となって消える。
世界が彼を取り戻した。インドラは、ただ呆然と立ち尽くしていた。昼と夜の間、黄昏時。空は、天秤が夜へと傾いていた。
ただ、目の前にはあの神社があるだけ。
──幼いインドラと、女が楽しげに会話する幻視をした。
「あの女が、何かオレと因縁があったのか、あの神社に祀られてた神が語り掛けていたのか、いまだに判然としない。ただ、あのとき……確かに、生の肉を刺した感触がしたんだ」
End.