明治商人浪漫譚   作:アルニコちゅうちゅう

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第0幕 武田観柳

「ハッ……ハッ……畜生、いつまでついてきやがる!」

「アンタが止まるまでよ! あなた、向こうから回り込んで!」

 

 根津の町に、女の声が響いた。明治の世、皇居にほど近いその界隈で、一人の男が路地を必死に駆けている。

 しかし行先を塞ぐように別の男が立ちふさがった。

 

「てこずらせやがってェ!」

「くっそ、捕まってたまるか!」

「な、まだ逃げる気か!」

「追いなさい、絶対逃すな!」

「待ちやがれ!」

 

 追い詰められた男はすぐ横にあった料亭の脇戸をこじ開け、薄暗い屋敷の奥へと滑り込んだ。

 屋敷の中では男たちの野次が上がっている。

 

「よっしゃぁ! ピンゾロの丁!」

 

 博打の興奮が渦巻く中心で、喧嘩屋の左之助は絶好調という様子で高笑いを上げていた。その様子をみて、隣に座る剣心は苦笑する。

 今朝突然、一大事だと左之助が言うのでついてきてみれば、日の高いうちから丁半博打。

 刃衛の件で悄然としていた剣心を、左之助なりに励まそうとしたのであろう。しかしそれが博打というのは、なんとも左之助らしい。

 

「またまたピンゾロの丁!」

「よっしゃよっしゃあ! 今日はフンドシ一丁にしてやるから覚悟しときな!」

(励まされてる……んでござるよなぁ?)

 

 そんな剣心の心中など知らんとばかりに調子に乗る左之助。

 さて、まだタマを持っているカモはどこだ? と賭場を見渡し、見知った顔がいないことに気づいた。

 

「そういやよ、飴売りの宵太は今日どうしてぇ? あの博打好きが顔も出さねーなんてよ」

 

 左之助が周囲の男たちに問う。

 

「知らなかったんスか左之さん」

「あん?」

「宵太は今月の頭から花柳病をひどくしちまって寝込んでまさぁ」

 

 左之助の顔が白けた顔を浮かべる。

 花柳病、要するに梅毒だ。飲む打つ買うは江戸の花とはいえ、今は明治で江戸は東京だ。まして花に病を移されては世話はない。

 博打好きにはついて回る話とはいえ、気軽に笑いの種にできる話でもなかった。

 

「あんのバカヤロウ……」

「まぁ女遊びにゃつきもんですからね。でも最近、花柳病にテキメンに効く薬が出回ってるとかで、大分良くなってきた様子だったんですがね」

「あぁ? なんだそりゃ、胡散臭せぇ」

 

 そんな話を片耳に入れつつ、剣心は屋敷の外が慌ただしいことを感じ取った。ほどなくして、ドタドタと足音が近づく。

 障子が乱暴に開け放たれ、息も絶え絶えに転がり込んできたのは、見慣れぬ白い服を着た男だった。

 その顔を見て、左之助はぽかんと口を開ける。

 

「なんだ、噂をすれば宵太じゃねえか。どうしたんだてめえ、そんなに慌てて」

「助けてくださえ左之さん! 鬼みたいな連中に追いかけられて……」

 

 直後、鋭い女性の声が響いた。

 

「見つけたわよバカ患者、取り押さえなさい!」

「ぎゃぁ! 畜生離しやがれ!」

 

 女に続いて、ワラワラと数人の男たちが賭場に入ってくるなり、宵太を取り押さえ、部屋の外に引きずっていく。

 別段乱暴を働いているわけではないが、手加減する様子もない。事情も分からず、しかし仲間(ダチ)が連れて行かれていくことを捨て置くわけにもいかず、彼らを率いる女性に左之助は問うた。

 

「おいおい、何だ何だ次から次へと、誰だいお前さん。そいつは俺らの知り合いなんでね、事情によっちゃ黙って見てられねえぜ?」

「ああ、ごめんなさいね。私は高荷恵、医者をやってるわ。あのバカは私の患者。病院から逃げ出したのを連れ戻しに来たのよ」

 

 女の涼やかな声が、博打場の喧騒を裂くように響いき、左之助は口をぽかんと開けて固まった。医者? 左之助も剣心も、あたりの博徒たちもうまく言葉を飲み込めていない。

 

「い、医者?」

「ええ、そうよ。なに? 女が医者をやってて悪い?」

「い、いや、別にそんなこたぁねえんだが……」

 

 そんなことはないが、ハイそうですかと流せるほどのことでもない。左之助は二の句を告げず、恵と名乗った女をまじまじと見た。

 女にしては高い背、切れ長の目、さらりと流れる長髪、道行(コート)を着た瀟洒な佇まい。木の強そうな妖しい色気があり、いいところの夫人か金持ちの妾といった風情だ。

 それが医者だという。

 そも女性の医者というものを見たことも聞いたこともない左之助にとって、容易に信じられることではなかった。

 とはいえここまで断言するからには、嘘を吐いているとも思えない。女が率いてきた男たちも、その女の言い分に特に反応していない。

 

「左之さぁん! 助けてくれぇ!」

 

 しかしこのまま放っておけば、宵太は連れて行かれてしまうだろう。

 

「……アンタを信じねえわけじゃねえがな、ダチが眼の前で連れてかれるのを黙ってみてられるほど、俺も聞き分けは良くねえんだ。ワリィが、そいつを置いていっちゃぁくれねえかい?」

「駄目ね、私も医者としての矜持があるわ。治療を途中で投げ出すことはできない。まして感染症患者を外に出せるわけ無いでしょう」

 

 左之助と恵の視線が静かにぶつかり合い、場の空気が緊張する。

 

「まぁまぁ二人とも。ここで睨み合ってもらちが明かないでござるよ」

 

 そこに、剣心が割って入った。

 

「恵殿と言ったかな? どうでござろう、このまま左之と拙者で病院まで見送るというのは。治療のためとあらば左之も何も言うまい」

「……俺は構わねえけどよ」

「あら、私は信じられてないってことかしら、お侍さん?」

「そうは言わんでござる。が、左之もこれで義理堅く頑固な男。これ以上押し問答で時間を潰すのは、恵殿も望むところではござるまい」

 

 恵はしばらく剣心を見つめて、ふっ、と笑う。髪を払い、つかつかと歩きだす。

 

「ま、いいでしょう。お侍さんに免じてあげるわ。ついてきて」

「……ちっ」

 

 左之助は舌打ちをして立ち上がる。

 その背中に、博徒たちがヤンヤと声をかけた。

 

「ってぇことは左之助さん、この場はお開きってことっすね!」

「バカヅキしてたのに、女に連れ出されるってぇなら止められねえな!」

「いやぁ、ここから巻き返すところだったのに残念だ!」

「……てめぇら次こそ身ぐるみ剥いでやるからな」

 

 ──────────────────

 

「するってーと、何だお前、暇だから抜け出したってのか?」

「だって味がねえ飯食わされるし寄席も見れねえし博打も打てねえし女も酒もねえんだぜ! あんなとこ居られっかよ!」

「あれは味がないんじゃなくて栄養を考えた病院食。病人が酒だの女だのは論外。ちゃんと貸本と新聞はあるでしょ」

「あんな難しい本読めるかよ!」

「だったら治療に専念してさっさと治しなさい」

「もうほとんど治ってんじゃねえか!」

「治ってるように見えて治ってないって何度言ったら分かるのかしらこのバカは……」

 

 左之助はすでに白けきった顔をしていた。賭場を出てから病院まで、手持ち無沙汰だったため宵太の言い分を聞けば、真っ当に治療されていて単に暇という話だ。

 気持ちは分からないではないが、病を得たのも自業自得。もうこのまま連れて行かせても良いのではないかと、左之助は思い始めていた。

 ああまで啖呵を切った手前、引くに引けずに着いてきているだけだ。

 しかしつまらなそうに目線をうろちょろさせていた左之助は、町外れまで来て病院の敷地が見えるにつれて目を見張った。

 

「ほら、もう見えたわ。あれが武田病院よ」

「病院って、これがか? なんだこりゃ……」

 

 レンガの壁に囲まれた広大な敷地に、豪奢な門が構えられ、その中に幾つもの建物が立ち並んでおり、そこをまばらに人が行き交っていた。省庁の庁舎でもこれほどのものはめったにない。それほど巨大な洋風建築である。

 剣心も思わず感嘆の声を上げた。

 

「ほぅ、これはまた見事でござるな」

「東京でも最新最高最大の設備を備えた病院の一つよ。元々は大名屋敷の敷地か何かを買い取ったらしいけれど」

「はぁ、そりゃお大尽なこって。あんた名家の出か?」

「違うわ、私は雇われの院長。用意してくれたのは武田観柳様よ」

 

 左之助の表情が険しくなる。

 

「武田観柳……って、あの観柳か」

「左之、知っているのか」

 

 剣心の問いに、左之助は答える。

 

「ああ、最近名を売ってる金持ち、青年実業家ってやつだな。とにかく凄え勢いで成長してる金持ちさ。最近は私兵を雇ってなにかやってるって話で、なんともうさんくせえと思ってたが……」

「ちょっと!! ありもしないことを言うのはやめて頂戴! 観柳様はそんなあくどい事はしてないし、むしろこの病院のために私財を投げ売ってくれた篤志家なんだから。貧しい人からは診療費だってとってないのよ、あのバカ患者からもね!」

「お、おぅ、どうしたんでぇ急に」

 

 恵は冷静に振る舞いを見出して、声を大きくした。その剣幕に、左之助もやや押され気味に後ずさる。

 

「あの方はねえ、ほんとにすごい方なんだから! あんたらみたいに昼間っから博打を打ってる輩が悪しざまに言うなんて、私が許さな……あっ!」

 

 その時、一台の馬車が病院の門前に停まり、中からすらりとした青年が降りてきた。恵は怒り顔を一転、喜色満面といった様子で駆け寄る。

 

「観柳様、どうしてこちらに! 事前に行ってくだされば迎えをやったのに」

「いやいや、お忙しい高荷さんにそんな些事をさせられませんよ。今日来たのも思いつきの野暮用ですし……あと、観柳様呼びはやめてくださいと言ったでしょう」

「私も、『高荷さん』を止めていただければと言っております。どうか恵とお呼びください」

 

 先程までの剣幕はどこへやら、頬を染めながら上目遣いでグイグイと詰め寄る恵に、青年は冷や汗を流しながら手で制す。

 

「ははは、これは一本取られましたね……ん?」

 

 青年の視線が困ったように泳ぐ。それが剣心に向いた途端、その顔つきが変わった。

 

「そこにいらっしゃるお侍さんは……ひょっとして緋村剣心さん?」

「おろ? いかにも、拙者が緋村でござるが……面識がござったか?」

 

 剣心ののほほんとした雰囲気に、一寸剣呑なものが差した。

 剣心に知人は多いが、相手に一方的に知られていることのほうが目立つ。それは幕末、抜刀斎時代のものが大半だ。すなわち、常に血の匂いがするような、恨み恨まれの関係である。

 ひょっとして、この青年も、自分がどこかで殺した誰かの関係者であったのか、そういった考えが、剣心の視線に鋭さを持たせたのだ。

 しかし、青年はそんな剣心からすぐに目をそらすと、地面を見ながらブツブツとつぶやき始めた。

 

「そうか……もう……時期……いや、原作の順序……」

「……おろ?」

 

 ある意味での肩透かしを食らった剣心が不思議に思っていると、左之助が肩を怒らせ青年に詰め寄る。

 

「おうおう、何をぶつぶつ言ってんだ。名を聞く前にまずてめえから名乗るべきじゃねえのか?」

「あんたね……!」

 

 恵が憤慨するが、青年はそれを制した。

 

「まぁまぁ高荷さん、確かにあなたのおっしゃるとおり不躾でした。

 私は武田観柳。あなたのことも当然存じてますよ、喧嘩屋・斬左、相楽左之助さん」

 

 その言葉に、左之助の表情から笑みが消える。

 喧嘩屋としての名はそれなりに通っているとはいえ、単なる実業家が耳にする名でもない。

 

「……なるほど、こりゃただの金持ちってわけじゃなさそうだ」

「お二人のお噂はかねがね。いかがです? もう日も落ちそうなことですし、お食事でも一緒に」

 

 にこりと笑いながら紳士的に笑む観柳の瞳は、夜の闇のように深く淀んでいるのだった。

 

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