――だが。何も起こらなかったわけではなかった。最初に異変が現れたのは、音だった。
いや。音すら、なかった。
童磨の右腕が。
まるで最初からそこには存在していなかったかのように、音もなく肩から落ちた。
「――え?」
童磨自身が、理解できないものを見るように自分の腕を見た。床へ落ちた腕が、ぼとりと水面を叩く。
「……あれ?」
次の瞬間。
「――ごほっ!」
童磨の身体が大きく揺れた。大量の血を吐き出す。
一度。
二度。
三度。
先ほどまでとは明らかに違う。再生しない。否。再生しようとしている。
それでも、追いつかない。
「……なんだ、これ」
童磨の顔から、初めて笑みが消えた。頬の肉が崩れ始めている。
皮膚がただれ、その下から覗く肉までもが、腐ったように変色していく。
指先が崩れた。頬が溶けた。眼球の一部が濁り、顔面そのものがぼろぼろと崩落していく。
それでも童磨は、まだ状況を理解できていなかった。
「おかしいなぁ……」
その姿を見つめていたカナヲの脳裏に、ひとつの記憶が蘇る。
――姉が語っていた計画。
上弦の弐。童磨。もしも、しのぶがこの鬼と巡り合ったなら。そして自分たち二人で戦うことができたなら。
しのぶ自身を――毒の塊にする。
女を好んで喰らう童磨ならば、必ず喰う。
だから、自分の命そのものを毒へ変えて。わざと喰わせる。それは、文字通り命を捨てる覚悟を必要とする作戦だった。
けれど、それだけではなかった。
もう一つの策。
――もし、彼が来てくれたのなら。
千夜。
その血には、燃え上がりもし、凍てつく氷ともなる様々な特殊な反応を引き起こす性質がある。
珠世との共同研究。そして、千夜自身が検体となって協力した長い研究。
何度も。
何度も。
微量の毒を調整し、童磨へ打ち込む。
一度で殺すためではない。少しずつ。ごく僅かずつ。童磨自身に違和感を抱かせないほどの量を。
種類を変え。濃度を変え。反応を変え。それでも、最終的に一つの毒へ辿り着くように。
童磨が「毒に耐性をつけた」と思い込んでいる、その裏側で。
毒は蓄積していた。
身体の奥深くへ。
再生能力のさらに奥へ。
そして、今。
限界を超えた。
童磨の顔が、僅かに千夜へ向いた。
「君……」
笑おうとした。だが口元の肉が崩れ、笑みを作ることすらできない。
「……俺に、何をしたの?」
千夜は答えない。
ただ。再び拳を握り締めた。ぎり、と拳が鳴る。そして構えを直す。
「これで――」
一歩。
「終わりだ」
童磨の身体が崩れた。
腕が。脚が。胴体が。再生するより早く腐り、溶け、砕けていく。
「いやぁ……」
それでも童磨は、まだ笑おうとしていた。
「これは……ちょっと困ったなぁ……」
身体が崩れていく。それでも童磨は最後の力を振り絞った。
「なら――これでどうかな?」
鉄扇が開く。最後の血鬼術。それは、これまでのどの術よりも巨大だった。
「血鬼術――」
大地が凍る。
「霧氷・睡蓮菩薩」
部屋内を埋め尽くすほどの冷気が噴き出した。
白い霧。凍てつく空気。そしてその中心から姿を現したのは――巨大な氷の仏像だった。
睡蓮を模した台座。
何本もの腕。
巨大な身体。
慈悲深い仏を思わせる姿。
それが、ゆっくりと立ち上がる。
「……はは」
童磨が笑う。神などいない。信じるに値するものなどない。そう嘲笑ってきた鬼が。
死を前にして最後に頼ったものは。
神を模した姿だった。
巨大な氷の菩薩。その吐息だけで周囲の空気が凍りつく。
冷気が霧となって充満し、呼吸することすら許さない。
巨大な腕が振り下ろされる。
轟音。
氷像そのものの重量を乗せた一撃。床が砕ける。氷の菩薩が吐き出した冷気が、一直線に千夜へ迫った。
触れれば凍結。吸い込めば肺を破壊する。それは、童磨が最後に放った最大の殺戮術。
だが。
「――遅い」
千夜の拳が燃えた。
一撃。
巨大な氷の腕が吹き飛ぶ。
二撃。
胴体が大きく陥没する。
三撃。
四撃。
五撃。
連続する爆炎の拳が、氷の菩薩を内側から破壊していく。
氷が爆ぜる。白い破片が宙を舞う。巨大な仏像が、音を立てて崩れ始める。
「そんな……」
童磨の声が初めて揺れた。この術は自分が最後に残した切り札だった。
それすらも。届かない。千夜が歩く。炎の中を。
氷を踏み砕きながら。童磨へ向かって。その右腕が。ゆっくりと赤く染まっていく。
ただ赤いのではない。血液そのものが、灼熱の輝きを放っている。
太陽。
それを思わせるほどの光。
「――――」
童磨が目を見開いた。千夜の拳が、構えられる。その拳の周囲で、空気が歪んだ。
「荒魂血闘術――」
一瞬。無限城が昼になったかのような光が走る。
「――星砕き」
一撃。
ただ、それだけだった。だがその一撃は、童磨という鬼の全てを呑み込んだ。
炎が爆発する。
氷が蒸発する。
肉体が焼ける。
骨が砕ける。
血が燃える。
そして最後に残ったのは――床を転がる、童磨の首だけだった。
「…………」
童磨は、まだ生きていた。首だけになっても。その瞳には、まだ僅かな意識が残っている。
千夜を見上げる。
「……君さぁ」
声は掠れていた。
「最後まで……随分、乱暴だよねぇ」
それでも童磨の瞳にあるのは、敗北を認めた者の色ではなかった。
己の首を落とした千夜を、どこか見下すような視線。
自分の方が価値のある存在だとでも言いたげな顔。
「俺は……」
童磨は呟く。
「人のために、ずっと頑張ってきたんだけどなぁ」
人を救った。
苦しんでいる人間を救済した。
教えを説いた。
信者たちに安らぎを与えた。
多くの人間を自分の中へ迎え入れた。
――そう信じていた。
だから。
死ぬことなど、受け入れたくない。
「俺が死ぬなんて……」
童磨の中で、最後の手段が浮かぶ。
猗窩座。
あの鬼は、死の間際に鬼という存在そのものを超えようとした。
ならば自分も。鬼を超えればいい。
肉体を 魂を 存在そのものを。
さらに上へ。童磨の肉体が蠢く。再生しようとする。
いや再生ではない。進化しようとしている。
だが――。
「……」
何も起こらない。
「…………あれ?」
身体は動かない。崩壊は止まらない。
「なんで……?」
童磨は、初めて理解した。
――自分は死ぬ。
「……死ぬんだ」
声が、妙に静かだった。
「俺」
そこで童磨の中に、奇妙な感覚が生まれた。
怖くない。
悔しくない。
悲しくない。
「……あ~~」
童磨は、宙を見上げる。
「やっぱり駄目だ」
自嘲するように。
「何も感じない」
死ぬことが怖くない。負けたことが悔しくない。猗窩座が死んだことも。
自分が殺されることも。何も。
「ずうっと、こうだったなぁ……俺は」
童磨の意識は、遠い昔へと沈んでいった。
まだ、人間だった頃。童磨は、両親の凄惨な姿を見ていた。
父。信者の女性たちに見境なく手を出していた男。
母。その夫をめった刺しにして殺した女。
そして半狂乱になった母親は、そのまま毒を飲んで死んだ。
一つの部屋に両親の死体。大量の血。鼻を刺す鉄の臭い。
幼い童磨は、その光景を見つめていた。
父が死んだ。
母が死んだ。
自分の目の前で。
それなのに。
悲しくなかった。
怖くもなかった。
ただ。
「……部屋が汚れちゃったなぁ」
血で汚れた床。壁。家具。そのことだけが、不快だった。
両親を失ったことより、部屋が血で汚れたことの方が、気になった。
その時から。何もなかった。
二十歳で鬼となった。それから百年以上。人を喰らい、人を救うふりをして、人間の感情を真似続けた。
笑った。
泣いた。
悲しんだ。
怒った。
喜んだ。
愛しているふりをした。
慈悲を説いた。
救済を語った。
けれどその全てが 夢幻だった。
人間が感じるものを自分は、最後まで理解できなかった。
――千夜の言った通りだった。
(お前の中身は伽藍洞で何もない)
「……そうか」
童磨は呟いた。
(生まれてくるべきではなかった)
その言葉について、初めて考える。
もし。自分が生まれていなければ。
父も。母も。あんな死に方をしなかったのだろうか。
自分がいなければ。もっと違う人生があったのだろうか。
けれど、それすらも。悲しいとは思えなかった。
ただ、そうだったのかもしれない。そんなことを考えただけ。
「……」
童磨の首に亀裂が走る。さらさらと崩れていく。
灰になる。
最後まで。
涙は流れなかった。
最後まで。
悔しさもなかった。
最後まで。
恐怖もなかった。
ただ。
何もないまま。
空っぽのまま。
童磨という鬼は――
完全に灰となって消えた。