異邦の眷属   作:テクニクティクス

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第27話

 

――だが。何も起こらなかったわけではなかった。最初に異変が現れたのは、音だった。

 

いや。音すら、なかった。

童磨の右腕が。

まるで最初からそこには存在していなかったかのように、音もなく肩から落ちた。

 

「――え?」

 

童磨自身が、理解できないものを見るように自分の腕を見た。床へ落ちた腕が、ぼとりと水面を叩く。

 

「……あれ?」

 

次の瞬間。

 

「――ごほっ!」

 

童磨の身体が大きく揺れた。大量の血を吐き出す。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

先ほどまでとは明らかに違う。再生しない。否。再生しようとしている。

それでも、追いつかない。

 

「……なんだ、これ」

 

童磨の顔から、初めて笑みが消えた。頬の肉が崩れ始めている。

皮膚がただれ、その下から覗く肉までもが、腐ったように変色していく。

 

指先が崩れた。頬が溶けた。眼球の一部が濁り、顔面そのものがぼろぼろと崩落していく。

 

それでも童磨は、まだ状況を理解できていなかった。

 

「おかしいなぁ……」

 

その姿を見つめていたカナヲの脳裏に、ひとつの記憶が蘇る。

 

――姉が語っていた計画。

 

上弦の弐。童磨。もしも、しのぶがこの鬼と巡り合ったなら。そして自分たち二人で戦うことができたなら。

 

しのぶ自身を――毒の塊にする。

 

女を好んで喰らう童磨ならば、必ず喰う。

 

だから、自分の命そのものを毒へ変えて。わざと喰わせる。それは、文字通り命を捨てる覚悟を必要とする作戦だった。

 

けれど、それだけではなかった。

 

もう一つの策。

 

――もし、彼が来てくれたのなら。

 

千夜。

 

その血には、燃え上がりもし、凍てつく氷ともなる様々な特殊な反応を引き起こす性質がある。

珠世との共同研究。そして、千夜自身が検体となって協力した長い研究。

 

何度も。

 

何度も。

 

微量の毒を調整し、童磨へ打ち込む。

 

一度で殺すためではない。少しずつ。ごく僅かずつ。童磨自身に違和感を抱かせないほどの量を。

 

種類を変え。濃度を変え。反応を変え。それでも、最終的に一つの毒へ辿り着くように。

 

童磨が「毒に耐性をつけた」と思い込んでいる、その裏側で。

 

毒は蓄積していた。

 

身体の奥深くへ。

 

再生能力のさらに奥へ。

 

そして、今。

 

限界を超えた。

 

童磨の顔が、僅かに千夜へ向いた。

 

「君……」

 

笑おうとした。だが口元の肉が崩れ、笑みを作ることすらできない。

 

「……俺に、何をしたの?」

 

千夜は答えない。

 

ただ。再び拳を握り締めた。ぎり、と拳が鳴る。そして構えを直す。

 

「これで――」

 

一歩。

 

「終わりだ」

 

童磨の身体が崩れた。

 

腕が。脚が。胴体が。再生するより早く腐り、溶け、砕けていく。

 

「いやぁ……」

 

それでも童磨は、まだ笑おうとしていた。

 

「これは……ちょっと困ったなぁ……」

 

身体が崩れていく。それでも童磨は最後の力を振り絞った。

 

「なら――これでどうかな?」

 

鉄扇が開く。最後の血鬼術。それは、これまでのどの術よりも巨大だった。

 

「血鬼術――」

 

大地が凍る。

 

「霧氷・睡蓮菩薩」

 

部屋内を埋め尽くすほどの冷気が噴き出した。

 

白い霧。凍てつく空気。そしてその中心から姿を現したのは――巨大な氷の仏像だった。

 

睡蓮を模した台座。

 

何本もの腕。

 

巨大な身体。

 

慈悲深い仏を思わせる姿。

 

それが、ゆっくりと立ち上がる。

 

「……はは」

 

童磨が笑う。神などいない。信じるに値するものなどない。そう嘲笑ってきた鬼が。

死を前にして最後に頼ったものは。

 

神を模した姿だった。

 

巨大な氷の菩薩。その吐息だけで周囲の空気が凍りつく。

冷気が霧となって充満し、呼吸することすら許さない。

 

巨大な腕が振り下ろされる。

 

轟音。

 

氷像そのものの重量を乗せた一撃。床が砕ける。氷の菩薩が吐き出した冷気が、一直線に千夜へ迫った。

触れれば凍結。吸い込めば肺を破壊する。それは、童磨が最後に放った最大の殺戮術。

 

だが。

 

「――遅い」

 

千夜の拳が燃えた。

 

一撃。

 

巨大な氷の腕が吹き飛ぶ。

 

二撃。

 

胴体が大きく陥没する。

 

三撃。

 

四撃。

 

五撃。

 

連続する爆炎の拳が、氷の菩薩を内側から破壊していく。

 

氷が爆ぜる。白い破片が宙を舞う。巨大な仏像が、音を立てて崩れ始める。

 

「そんな……」

 

童磨の声が初めて揺れた。この術は自分が最後に残した切り札だった。

それすらも。届かない。千夜が歩く。炎の中を。

 

氷を踏み砕きながら。童磨へ向かって。その右腕が。ゆっくりと赤く染まっていく。

 

ただ赤いのではない。血液そのものが、灼熱の輝きを放っている。

 

太陽。

 

それを思わせるほどの光。

 

「――――」

 

童磨が目を見開いた。千夜の拳が、構えられる。その拳の周囲で、空気が歪んだ。

 

「荒魂血闘術――」

 

一瞬。無限城が昼になったかのような光が走る。

 

「――星砕き」

 

一撃。

 

ただ、それだけだった。だがその一撃は、童磨という鬼の全てを呑み込んだ。

 

炎が爆発する。

 

氷が蒸発する。

 

肉体が焼ける。

 

骨が砕ける。

 

血が燃える。

 

そして最後に残ったのは――床を転がる、童磨の首だけだった。

 

「…………」

 

童磨は、まだ生きていた。首だけになっても。その瞳には、まだ僅かな意識が残っている。

千夜を見上げる。

 

「……君さぁ」

 

声は掠れていた。

 

「最後まで……随分、乱暴だよねぇ」

 

それでも童磨の瞳にあるのは、敗北を認めた者の色ではなかった。

己の首を落とした千夜を、どこか見下すような視線。

自分の方が価値のある存在だとでも言いたげな顔。

 

「俺は……」

 

童磨は呟く。

 

「人のために、ずっと頑張ってきたんだけどなぁ」

 

人を救った。

 

苦しんでいる人間を救済した。

 

教えを説いた。

 

信者たちに安らぎを与えた。

 

多くの人間を自分の中へ迎え入れた。

 

――そう信じていた。

 

だから。

 

死ぬことなど、受け入れたくない。

 

「俺が死ぬなんて……」

 

童磨の中で、最後の手段が浮かぶ。

 

猗窩座。

 

あの鬼は、死の間際に鬼という存在そのものを超えようとした。

 

ならば自分も。鬼を超えればいい。

 

肉体を 魂を 存在そのものを。

 

さらに上へ。童磨の肉体が蠢く。再生しようとする。

いや再生ではない。進化しようとしている。

 

だが――。

 

「……」

 

何も起こらない。

 

「…………あれ?」

 

身体は動かない。崩壊は止まらない。

 

「なんで……?」

 

童磨は、初めて理解した。

 

――自分は死ぬ。

 

「……死ぬんだ」

 

声が、妙に静かだった。

 

「俺」

 

そこで童磨の中に、奇妙な感覚が生まれた。

 

怖くない。

 

悔しくない。

 

悲しくない。

 

「……あ~~」

 

童磨は、宙を見上げる。

 

「やっぱり駄目だ」

 

自嘲するように。

 

「何も感じない」

 

死ぬことが怖くない。負けたことが悔しくない。猗窩座が死んだことも。

自分が殺されることも。何も。

 

「ずうっと、こうだったなぁ……俺は」

 

童磨の意識は、遠い昔へと沈んでいった。

まだ、人間だった頃。童磨は、両親の凄惨な姿を見ていた。

 

父。信者の女性たちに見境なく手を出していた男。

 

母。その夫をめった刺しにして殺した女。

 

そして半狂乱になった母親は、そのまま毒を飲んで死んだ。

 

一つの部屋に両親の死体。大量の血。鼻を刺す鉄の臭い。

幼い童磨は、その光景を見つめていた。

 

父が死んだ。

 

母が死んだ。

 

自分の目の前で。

 

それなのに。

 

悲しくなかった。

 

怖くもなかった。

 

ただ。

 

「……部屋が汚れちゃったなぁ」

 

血で汚れた床。壁。家具。そのことだけが、不快だった。

 

両親を失ったことより、部屋が血で汚れたことの方が、気になった。

 

その時から。何もなかった。

 

二十歳で鬼となった。それから百年以上。人を喰らい、人を救うふりをして、人間の感情を真似続けた。

 

笑った。

 

泣いた。

 

悲しんだ。

 

怒った。

 

喜んだ。

 

愛しているふりをした。

 

慈悲を説いた。

 

救済を語った。

 

けれどその全てが 夢幻だった。

 

人間が感じるものを自分は、最後まで理解できなかった。

 

――千夜の言った通りだった。

 

(お前の中身は伽藍洞で何もない)

 

「……そうか」

 

童磨は呟いた。

 

(生まれてくるべきではなかった)

 

その言葉について、初めて考える。

 

もし。自分が生まれていなければ。

父も。母も。あんな死に方をしなかったのだろうか。

 

自分がいなければ。もっと違う人生があったのだろうか。

 

けれど、それすらも。悲しいとは思えなかった。

 

ただ、そうだったのかもしれない。そんなことを考えただけ。

 

「……」

 

童磨の首に亀裂が走る。さらさらと崩れていく。

 

灰になる。

 

最後まで。

 

涙は流れなかった。

 

最後まで。

 

悔しさもなかった。

 

最後まで。

 

恐怖もなかった。

 

ただ。

 

何もないまま。

 

空っぽのまま。

 

童磨という鬼は――

 

完全に灰となって消えた。

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