ロストメモリィ   作:Y.West

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告別

 土砂災害の影響で、学校は休みになり。なし崩し的に、そのまま夏休みとなった。

 公共交通機関は麻痺しており、出掛けようにも、何処へも向かえず。災害の片付けに関しては、おれに手伝えるようなこともなく。諏訪湖の周りは、間違っても観光などと言っていられる状況ではなかった。鳴らない携帯電話で手遊んでは、それをポケットに入れ直す。

 復興にある程度の目途が付いたらしい頃になっても、早苗からの連絡はなかった。守矢神社に行こうと思ったが、早苗には早苗のやるべきことがあり、邪魔してはならないと我慢した。彼女のことを、信じているから。『風祝』がその役目を果たすことの方が、おれのエゴよりも、きっとこの世界にとって重要だから。

 

 無為な時間。無駄に消費されていく、夏季休暇。

 愛する人の傍に居たかった。

 ただ、それだけだった。

 

 早苗から電話があったのは、土砂災害から2週間ほどが経った日のこと。星の綺麗な夜だった。

 

『光くん。……お久しぶりです』

 

 久しぶりに聞けた彼女の声は、とても弱々しくて。酷く、疲れているように聞こえて。でも、ずっと聞きたいと思っていた声だった。胸を締め付けられるような切なさと共に、湧き上がる愛おしさ。それは以前よりも強くなっているような気がした。どんなに辛くても、早苗が元気でいてくれるなら、それだけで良かった。

 早苗は掠れた声でおれの名を呼ぶと、その続きをなかなか言い出せないでいた。言葉を選んでいるような、言い淀むような間が続く。やがて彼女は覚悟を決めたように息を吸い込み、こう言った。

 

『直接、会ってお話したいことがあります。大切な話なんです。……明日、神社に来てくれませんか』

 

 声色には、憂いのようなものが混じっていて。その声の調子に、おれは嫌な予感を覚えずにはいられなかった。

 

「分かった。家を出る時、電話するね」

『……ありがとうございます。待っています』

 

 電話を切ると、部屋に静寂が戻る。

 ――大切な話。この2週間余りの間、早苗は何を考えていたのだろう。不安が胸中を過るが、それを振り払う。早苗が直接会って話したいと云うのなら、おれは彼女の言葉に向き合うだけだ。

 

 窓から漏れる光で目を覚ます。開いた携帯電話の画面には、AM8:30の文字。ベッドから身体を起こし、顔を洗って簡単な朝食を摂る。普段よりも少し丁寧に歯を磨き、鏡に映る自分を見つめた。落ち着いた表情を作ろうとしても、どうしても顔から力は抜けず。期待なのか、不安なのか、自分でも判然としない。今日、早苗に会える。それなのに、胸の奥には、鉛のような重たさだけがあった。それを振り払うようにして着替えを済ませる。

 携帯電話を手に取り、早苗に電話をかける。幾度かのコール音が続くも、彼女がそれに出る気配はない。やがて、留守電に切り替わってしまう。

 

「……」

 

 迷った末に、通話を切る。たった一言、「今から行く」とでも残せばよかったのに。それだけの勇気も出せず、携帯電話をポケットにしまう。

 玄関で靴を履き、外へ出る。空は高く晴れ渡っていた。守矢神社へ向かう道すがら、視界に入る街の風景。建物の外壁に残る、水害の爪痕。剥き出しの配管、傾いた家屋の看板。道路にはところどころ亀裂が走り、舗装工事が行われている箇所もある。日常が、僅かに歪んだ世界。あれからたった2週間。まだまだ復旧の途上にある町。そんな街並みの中を、ひとり自転車を漕ぐ。耳元を通り過ぎる風の音だけが、妙に耳についた。

 20分とかからずに、神社に着く。着いてしまう。いつもは裏手から直接入っていたが、今日は正規の参道を通りたい気分だった。道に面した鳥居の前に自転車を駐め、石畳が敷かれた道を歩く。参拝客はおらず、閑散とした境内。おれは、この静けさが好きだった。声に出せば不敬だと言われるだろうが、早苗とふたりだけの、特別な空間のように思えたから。

 長くない参道を一歩ずつ進むにつれ、静寂は、心臓の拍動に塗り潰されていく。拝殿へと続く階段を上ると、ひとりの少女がベンチに腰掛けていた。離れていても判る、宝石のような美しい緑の髪。駆け出したくなる気持ちを抑え、おれはゆっくりと歩み寄る。少女はこちらに気付き、小さく微笑んでおれを見た。

 

「早苗」

 

 呼び慣れた名前を呼ぶと、彼女は儚げな微笑みを湛えてこちらを向いた。久しぶりに見た早苗の顔は、あまりに弱々しく見えた。目の下には隈が浮かび、頬は少しこけているようにも感じる。無理して表情を作ろうとしているのが伝わってきて、胸が締め付けられるような思いだった。

 

「電話、出られなくてごめんなさい」

 

 早苗の声は少々掠れていて、その笑顔もどこかぎこちない。そしておれもまた、何を言ったらいいのか分からずに佇んでいた。結局、適当な挨拶を交わし、彼女の隣に腰を下ろす。しばらくの間、沈黙が続いた。

 

「どうしたんだよ、大切な話って」

 

 沈黙に耐えきれず、おれから切り出す。

 

「……」

「……早苗?」

 

 早苗は膝の上で組んだ手をギュッと握りしめ、俯いたまま小さく息を吸い込んだ。その横顔は、酷く不安げで。何かを堪えているような、そんな表情。

 

「……中で、話しましょう」

 

 そう言って立ち上がった早苗は、社務所の方へ歩き出す。後を追って、おれもベンチを立った。

 

 社務所の居間は、いつものように整然としていた。早苗が淹れてくれていた麦茶が、テーブルの上に置かれている。氷がカランと音を立てて崩れる。その音さえも、やけに大きく響く。おれと早苗は、向かい合うように座っていた。早苗は俯き加減で、おれの方を見ようとしない。

 麦茶を一口飲む。冷たい液体が喉を滑り落ちていくが、その渇きは癒えない。早苗は相変わらず黙ったままで、部屋の空気は重く沈んでいた。おれはただ、彼女の次の言葉を待つことしかできなかった。沈黙が続くほどに、心臓の音が大きくなっていくのを感じる。

 

「今日、あなたを呼んだのは……お別れを、伝えるためです」

 

 早苗の声がようやく沈黙を破る。それはとても小さく、掠れていた。

 思考が停止する。早苗の口から紡がれた言葉の意味が、すぐには理解できなかった。まるで異国の言語を聞かされているかのように。頭の中で何度も反芻し、やっとその残酷な響きを把握する。指先が痺れる。血の気が引いていくのが分かった。

 

「え……別れ……?」

 

 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどにか細く、震えていた。信じたくなかった。理解したくないと、心が拒否している。冗談だよと言ってほしくて、早苗の顔を見つめる。けれど彼女の表情は真剣で、痛みに耐えているようで。嘘でないことくらい、すぐに分かってしまった。

 

「最初に、言わせてください。あなたのことが、嫌いになったわけではありません。……大好きです。愛しています! ……それだけは、変わりません」

 

 早苗は顔を上げ、真っ直ぐにおれの目を見た。その瞳は潤んでいて、今にも泣き出しそうだった。

 

「だったら、なんで――っ」

 

 言葉が続かない。叫びたいのに、おれの想いを吐露したいのに、声が詰まる。

 早苗も口を噤んでいたが、やがてゆっくりと話し始めた。

 

「守矢神社は、“引越し”をすることになりました。……すごく、遠い所に。聞いたことないですよね、神社が引越すなんて。わたしも、神様から告げられたときは、失礼ながら、信じられないというか……そんなことできるんだ、って思いましたけど」

「……」

「あなたと、離れたくないです。でも、わたしは巫女で、風祝で。神様のお傍に居ることが、わたしの役目……だから。だから、神様と共に行くことを決めました」

 

 急に突きつけられた事実に、言葉を失う。神社の引越し。そんなものは、これまで聞いたことがなかった。社殿の場所が変わるといえば、例えば伊勢神宮の式年遷宮。しかしそれも、元々そのために設けられた敷地があり、そこに新たな神殿を造る。「引越し」とは、明らかに異なるものだ。

 そもそも、そんな簡単に、神社という存在が引越しなどできるものなのだろうか。守矢神社は、長い間、この地で信仰され続けている。それは、ここに転居して2年と経っていないおれでさえ、理解できることだった。その土地に根差した神社が、容易く別の土地へ移れるとは、到底思えない。

 

「……引越しってさ。何処に行くんだ?」

 

 そして、最も大きな疑問が口を衝いた。

 

「すごく遠い所、って言ってたけど。おれは、これまで色んな場所に行ってきた。早苗にも話をしたよな。独り旅のこと。……どんなに遠くに引越したとしても、おれは会いに行けるよ。だから別れる必要なんて――」

「光くん」

 

 早苗がおれの名を呼ぶ。その声は優しかったけれど、どこか悲しげで。胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚に襲われる。

 

「今から言うことは、決して嘘ではありません。どうか、ちゃんと聞いてください」

 

 早苗はそこで一度言葉を区切り、深呼吸をした。これから何を言われるのか分からなくて、恐ろしい。だけど、彼女の真剣な眼差しに促されるように、おれは静かに頷いた。

 

守矢神社(わたしたち)が向かう場所のことを、神様は、『この世で忘れ去られたものが集う地』と呼んでいました。そこは結界によって閉ざされていて、普通の人は立ち入るどころか、認識すらできないそうです」

「忘れ去られた、もの?」

「はい。……神様の力は、とても弱くなっています。先日の豪雨で、山が崩れてしまうのを抑えられなかった程に。神社を通して向けられる信仰は、もう、ほとんどなくなってしまいました。昔はもっと多くの人が、神社を訪れていたそうです。でも、時代が変わるにつれて、神様を頼る人は減っていきました。……このままでは、神様の存在が消えてしまう。だから、力が完全に失われる前に、その地へ赴き、新たな信仰を得ようと。……そう、考えられたのでしょう。決心されたのは、きっと、あの嵐の夜だったと思います」

「……」

「連絡が取れなかったのは、“引越し”の準備をしていたからです。残された力を以て、守矢神社を、人々の記憶から――歴史そのものから消し去り、幻想へと転換させる奇跡。……大掛かりなものは、どうしても時間が必要で。1週間ほど、眠れませんでした。今も少し、頭が痛いです」

 

 早苗の言葉は、あまりに現実離れしていて。けれど、本質は理解できた。早苗がおれの前から消えてしまう。それだけが、きっと確かなことだった。

 様々な感情が綯い交ぜになる。喉は渇きを覚え、目の前に座る早苗の姿が遠くなっていくような錯覚に陥る。おれは握った拳で、自らの腿を強く叩いた。早苗は嘘を吐くような人間ではない。だからこそ、納得などできるはずがなかった。守矢神社を人々の記憶から消すということはつまり、おれが、早苗と出逢って、早苗と歩んだ総てを、忘れて――。そんな事実を、受け入れられるはずがなかった。

 

「なんだよ、それ」

 

 やっと口に出来たのは、そんな陳腐な言葉の切れ端だけだった。

 

「結界? 神社を歴史から消す? ……意味分かんねえよ! 早苗のことを忘れるなんて。忘れさせられるなんて!」

「……」

「ずっと一緒だって、言っただろ……!」

 

 早苗は何も返してくれない。おれは視線を落とし、唇を噛みしめた。込み上げてくる感情を抑え込もうとして、上手くいかなかった。震える声で、言葉を絞り出す。

 

「そうだ。あのお婆さんは、どうするんだよ。早苗にとっても、大切な――」

「亡くなりました。この前の、土砂崩れで。わたしが様子を見に行った時は、行方不明……だったんですけどね。その翌日に、見つかったそうで」

「――っ」

「……あの人から話を聞いたってことは、両親のことも、知っているんですよね」

 

 早苗の瞳には、涙が滲んでいた。彼女はそれを隠そうともせず、ただ静かに震えている。やがて立ち上がった早苗は、おれの隣に腰を下ろして、膝の上に置かれたままのおれの手を握った。

 

「ありがとうございます。今まで、秘密を守ってくれて。……わたしを、普通の女の子で居させてくれて」

 

 それと同時に、早苗の涙腺が決壊したようだった。大粒の涙が次々と流れ、重なった手を濡らす。嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる彼女の背中に、そっと腕を回した。おれの胸の中で泣き続ける早苗の頭を撫で、涙を受け止める。早苗が此処にいる間は、寄り添えるように。ただ、その温もりに縋るように。

 別れを受け入れるしかないなんて、納得したくはないが、理解はしていた。早苗が神様と共に、決しておれの手が届くことのない何処かへ向かうという超現実。「生きる世界が違う」。いつか感じたその言葉が、今、想像を超えて、おれの心に重く伸し掛かる。おれと早苗の世界は、違いすぎたから。旅立った彼女に、おれは何も出来ない。何もしてあげられない。ここで早苗を抱きしめて、この腕の中に閉じ込めて。そうしたところで、彼女を引き留めることなど叶わないだろう。交わる筈のなかったふたつの線が、小さな奇跡に導かれて、少しだけ絡み合い、別れようとしている。ただ、それだけの話。そんなことを、どこか他人事のように考えた。早苗の体温だけが、辛うじておれをこの場に繋ぎ止めていた。

 

「なあ、どうして引越しのこと……忘れ去られた場所、だっけか。そこに行くのを、おれに教えてくれたんだ?」

 

 おれの腕の中で、早苗の震えが治まっていく。

 数瞬の静寂。その後、早苗は口を開いた。

 

「わたしの、我儘です。あなたのことが、本当に大好きだから。……だから……ちゃんと、お別れをしないと、って」

「……そっか」

「……怒ってますよね。いきなり、こんなこと言われて」

 

 早苗は申し訳なさそうに顔を上げ、目元の涙を拭う。

 

「怒ってるっていうか、信じられない、の方が合ってるかな。早苗が居なくなっちゃうなんて。……でも、こうして時間を取ってくれたから、おれも早苗にお別れが言える」

「ありがとうございます」

「お礼を言われるのは、何か変な気分だけど。もしおれが早苗のことを忘れても、早苗は、おれを忘れないでいてくれるだろ」

「……はい。絶対、絶対忘れません」

 

 言葉が詰まる。溢れそうになるものを堪えて、一度深呼吸をする。

 

「引越しは、いつなんだ?」

「15日の夜を予定しています。神様が仰るには、その日に『結界』が弱まるそうで」

「それなら、諏訪湖の花火大会は観に行けるね」

「……はい」

 

 おれは、早苗を抱きしめる力を強める。

 

「早苗。おれもひとつ、我儘を言っていいかな」

「……なんですか?」

 

 早苗は顔を上げる。頬を伝った涙の跡が、陽の光を反射して煌めく。

 

「早苗が居なくなる、その時まで。……世界でひとりだけの、おれの恋人でいてほしい」

 

 早苗は何も言わなかった。彼女の手が、おれの背中に回される。その腕に、力が籠められたのを感じる。

 おれの胸に顔を埋める彼女の吐息が、じんわりと熱を持った皮膚を優しく撫でる。それがきっと、答えだった。

 

 

 それからおれは、毎日早苗に会いに、守矢神社へ行った。

 残された2週間足らずを、大切な人と過ごしたくて。そして、彼女を忘れてしまうという運命に、少しでも抗いたくて。

 

 早苗を神社から連れ出して、諏訪の街を歩いた。諏訪湖の周辺であれば、おれとふたりで出掛けてよいと、神様から許しを得られたらしい。

 デパートのゲームセンターに、初めて足を踏み入れた。クレーンゲームの景品のひとつに、抱えられる程度の大きさのカエルのぬいぐるみがあった。それを見て、早苗が「これ欲しいです」と呟いた。100円玉を入れて、レバーを操作する。狙い通り、ぬいぐるみに下りたアームは、しっかりとそれを掴み、持ち上げる。カエルはそのまま運ばれ、当然のように獲得口へ落ちた。思わず、早苗と顔を見合わせる。彼女は“何もしてないです”と小さく首を横に振った。そして、笑い合う。偶然にしては出来すぎている気もしたが、それならそれでいい。早苗は嬉しそうに頬を緩め、ぬいぐるみを大事そうに抱きしめた。

 それから、プリクラを撮った。ちょっと不自然なくらい綺麗なふたりとカエルくんは、幸せそうに笑っていた。ペンやスタンプを用いて加工をするステップは、早苗に任せることにした。完成したものを見ると、“さなえ” “ひかり”と名前が書き込まれ、顔の隣に、それぞれハートマークが描かれていた。「色々描こうと思ったんですけど、分からなくなってしまって」と早苗は言ったが、加工だらけの画よりも、この方が良いと思った。プリントアウトされた紙の半分を早苗に手渡し、もう半分は財布の中に入れた。

 

 早苗と映画を観に行った。『時をかける少女』。元々はごく僅かな数の映画館でのみ上映されていたが、口コミやインターネットで好評が広がり、全国規模で公開されることになったらしい。青春を謳歌する高校生達と、タイムトラベルというSF要素が融合した、ひと夏の物語。タイムリープの能力を得た、主人公の少女。彼女の遊び仲間には、千昭という春に転校してきた男子もいて、自分と重なった。もし、今のおれが同じ力を手にしたなら――きっと、早苗と過ごす時間を、何度も繰り返すだろう。叶うならば、この命が燃え尽きるまで、大切な人の傍に居続けたいから。

 物語の最後、ヒロインと、彼女が想いを寄せる少年とが離れ離れになってしまうシーンで、思わず早苗の手を握った。早苗はただ、優しく握り返してくれた。「未来で待ってる」。別れ際、想いを打ち明けた主人公に贈られた言葉。そんな科白が、とても羨ましかった。もうすぐおれは、愛する人のことを忘れてしまうというのに。映画のエンドロールが流れても、暫くその手を放せなかった。

 

 制服を着て、夏季休暇中の学校に行った。災害の所為で終業式が行われず、置きっぱなしの早苗の荷物を取りに行くためだった。生徒がひとりも居ない学校は、少し不思議な感じがした。教室に入ってみると、後方のロッカーには、教科書がきちんと並べられていた。他にも、文房具やら何やらが、丁寧に整理されている。

 窓を開けると、吹き抜ける風が心地良い。早苗が使っていた机に、そっと触れる。休み時間に雑談したり、友人に揶揄われながら昼食をした場所。岡谷に転居してきて、奇跡的な出逢いをして。おれの人生には、いつだって隣に早苗が居た。

 不意に、背中に感じる柔らかさ。腰に回される、細い腕。早苗が背後から、おれに抱きついてきていた。シャツ越しに伝わる体温。視界の端で揺れる、緑の髪。振り返り、正面から抱き締める。互いの存在を、確かめ合うように。輝く諏訪湖の水面に見守られて、長い口付けを交わした。

 

 守矢神社へ泊まりに行った。奥宮へ用があるという早苗の代わりに、社務所の番をした。参拝者は、ひとりも現れなかった。夕暮れ時に、早苗と手を繋いで境内を歩いた。奥宮へ向かい、ふたりで参拝した。早苗の祈りは、長かった。

 社務所に戻ってから、夕食をふたりで作った。好きだと言った煮物の味付けを教えてもらった。食事を終えて、居間の窓を開けて涼んでいると、早苗がおれの隣に腰を下ろした。肩に重みを感じて、彼女を抱き寄せる。時折、早苗は何かを言いたそうにこちらを見て、俯いて。幾度か繰り返したのち、口を開いた。「“初めて”は、あなたがいいです。……光くんじゃなきゃ、嫌です」思わず早苗の顔を見遣る。おれだって理解できたのだから、彼女がその意味を知らないとは思えなかった。頬を赤らめながら、真っ直ぐにおれを見つめる目からは、決意を感じて。その想いに向き合うには、ほんの少しだけ時間が必要だった。

 ふたりきりの寝室。衣服を開けさせて恥じらう早苗を抱きしめ、何度もキスをした。早苗の柔肌に触れて、互いの全てに触れて。そうして、ひとつに融け合って。その深奥に、幾度も自らを刻み込んだ。熱も、吐息も、喘ぎも、汗も、涙も、何もかもを愛して。幸福の中で、おれたちは共に求めあった。

 

早苗の。

 

早苗を。

 

早苗と――――。

 

 

 「また明日」。その言葉が、少し嫌いになった。愛する人との幸せなひと時の約束が、逃れ得ぬ別れへのカウントダウンに変質してしまったから。

 おれたちの“終着点”は、確実に迫っていた。

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