ふとした瞬間に、可可ちゃんがまた誰かの背中を押す。
そんなお話。
歩く、歩く、歩く。
人ごみに押されながらも曇ったレンズ越しに靴先を見ていた。
反芻するべきものは無数にある。英単語、数学の公式に古文単語、それから社会科の年代もだ。
中学三年生、春。いわゆる受験生になってしまった私には学ぶべきものが多くあった。
華の女子高校生なんてまだ遠く、イメージすら沸かないけれど、がむしゃらな今と隣合わせに。だからこそ、そんな風に視野狭窄にでも陥っていたのかもしれない。
「──うわっ!?」
ドンと、急に体中を鈍い衝撃が走った。
ふらつく足元で慌ててバランスを取ろうと──するも、予備校帰りで若干堪えた体にはそこまでの余裕がなくて。ひっくり返ろうとした視界に、急に射し込んだものがあった。
──光が。曇ったレンズを貫いて、私の視界を埋め尽くす。赤、青、黄、無数の光彩が見えるな……だなんて、そう思った瞬間に体が後ろに引っ張られていく。
多分、これは不味い転び方をする。そうわかっていたのに、どこか冷静で──。
「大丈夫デスか!?」
ぐっと、私を強く引っ張り上げる力があった。後ろ向きに倒れ込もうとしていた体が今度は前のめりになろうとしたところを、柔らかい感触が包み込む。
私よりも、背は高い。グレーのボブカットに、慌てたような口元。くいっと上げられたサングラスの下には、人懐っこそうな丸い瞳があった。
「……きれー……」
だけれど、そんな顔のパーツ一つ一つなんて些細なものだ。メイクか、それとも、体中が纏っている雰囲気のようなものとでも言うべきだろうか。
私を受け止めたその人は──彼女は華やかだった。思わず、声が漏れてしまうぐらいには。
「気を付けて歩いた方がいいデス! 今日この辺りはヒトが多いんデスから!」
とはいえ、そんな言葉をさほど意に介さずに。彼女はどこか片言気味に注意してくる。「綺麗」だなんて、言われ慣れてるのかな、だとか考えてしまったり……サングラスをかけているぐらいだし、してるんだろうなぁ……。
「どうしました? ボーっとしてるようですが……」
「……あ、すみません。少し、その……お姉さんに見とれてたっていうか……」
何言ってるんだ私。思わず言ってしまう言葉でもないだろうに。
「お姉さんじゃなくて……唐可可デス! 覚えてもらえると嬉しいデス!」
「えっと……たん、くーくーさん……?」
あんまり聞いたことがないような名前だから、思わず発音に悩んでしまう。
「クゥクゥ、デス! 出身が上海デシテ!」
「……なるほど。えっと……クゥクゥさん……?」
「はい。それで完璧デス! それで、アナタは? 随分とお疲れのようデスが……」
そこで、ようやく私はクゥクゥさんの話ばかりしていることに気がついた。我が身を振り返れば、クゥクゥさんとは程遠いと言うほかない。
服装は三年目にもなってくたびれたセーラー服、肩にかけたカバンだって参考書を入れているせいで今にも底が抜けそうだ。確かに言われた通り、お疲れ……にも見えるのかもしれない。
「今はその……予備校帰りで……」
「じゃあ、勉強をしてきた帰りなのデスか?」
「……はい。成績は振るわない身ですけど……受験生なのに」
どこか自虐的にそう口にする。こんな投げやりな言い方、相手を困らせてしまうだけだ。
「私、他に何もなくて……自分のことも、好きになれなくなってきて……」
それはわかっていたのに。それでも、今は誰かに吐き出したかった。そんな気がした。
「でも、頑張るのは偉いことデス!」
けれど、クゥクゥさんは受け入れてくれた。幾分か背丈の低い私の頭を撫でて、ニッと笑顔を向けてくれた。何だか大人の女性、華やかな人……今まではそんな風に見えていたのに。笑ってみせると、どこか無邪気な、急に近しい存在に思えた。
「それなら、少し休憩していくことも大事デス! ここで、見ていきませんか?」
「見ていくって……何を……」
そんなクゥクゥさんからのお誘い、それに伴って顔を上げた時。私は、ようやく先程視界に入った光彩の正体を知った。
「……代々木、スクールアイドルフェスティバル……」
夜闇を照らすスポットライト、野外音楽堂がステージになっていて……そこに立って歌っている人たちがいた。年齢的には私よりも少し上、女子高生だろうか。それがどんな存在か、世情に疎い私でも何となくはわかった。
「ハイ。スクールアイドルの集まるイベントデス。アナタもどうデスか?」
「で、でも……帰って勉強の続き、しなくちゃ……」
「休憩も大事デス。例えば、あそこで歌っている子たちだって、休憩と練習を繰り返して、上手になっていってるんデスから」
そんな風に誘惑するような言葉。だけれど、どこか本心では私も落ち着ける瞬間が欲しい……だなんて、思っていたのかもしれない。
「わかり、ました」
クゥクゥさんに手招きされるように、気づけば私もステージの前──観客の中に混ざっていた。
「その……私、スクールアイドルには疎くて……良ければ、クゥクゥさんのおすすめとか、教えてもらえますか?」
「オススメですか!? いっぱいいますよ! 今歌っている”テンシャイニー”は二度目のライブでも高い歌唱力が売りですし、次に出るフラワー……」
「あ、えっと……一つで、お願いします。クゥクゥさんが大好きな、スクールアイドル……とか」
「大好き、デスか。みんな素敵なので、一つだけを選ぶなんて難しいデスけど……」
クゥクゥさんはよっぽどスクールアイドルが好きなのだろうか。うんうんと悩んでいる時間も長いものだった。そんなに決めかねるものなのだろうか。けれど、やがては答えが出たらしい。
「決めました。では、お話ししましょう」
「は、はいっ。お願いします……」
その様子がどこか神妙で、私は思わず身構えてしまったけれど。そんな私を見てだろうか、クゥクゥさんはぷっと吹き出すと、言葉を続けた。
「スクールアイドル──Liella!について!」
また、無邪気な微笑みを浮かべて。
◆
「……まず、そうですね。高い歌唱力でグループをまとめ上げてくれるレンレン! しかも彼女はバレエまでできるのデス! ちょっと、ポンコツですけど……」
「千紗都はすごいデス! ダンスの大会で優勝したこともあって、Liella!の部長を務めています! 厳しいところがあるのも、メンバーを考えてくれている証デス! 私はヘロヘロになっちゃってましたが……」
そうして口々に、彼女が話してくれるエピソード。それがLiella!のメンバーのことだったのだろう。あれがすごい、これがすごいと、大仰に身振り手振りまで付けて話して。
それでも、必ず何かしらの欠点やエピソードが挟まる。偶にはちょっとした愚痴も。ただ”好き”なアイドルのことを話していると言うよりも……そうだ。
「グソクム……すみれは、見栄っ張りで、ミスも多くて……それでも──」
もっと近しい存在のことを。まるで一緒に過ごしてきた仲間のことを話している──。
「それでも、誰よりも私のことを気にかけてくれました。上海に帰らなくてはならない私の手を、取ってくれました。本人の前では決して言えませんが……彼女も最高の仲間でした」
ふっと、クゥクゥさんの表情が更に綻ぶ。そうして笑うと、彼女はどこか幼く見えるのだ。そうだ。それこそ……今、ステージで輝いているスクールアイドルぐらいに見える。
「そして、絶対に忘れてはいけないメンバーが、一人います。──かのん」
「……かのん?」
「……ええ。誰も一緒にスクールアイドルをやってくれなかった頃、一番最初に私の元へ来てくれました。いつかあんな風になれたらって希望──一番星みたいな人デス」
そのメンバーに思いを馳せているのか、クゥクゥさんはすっかり黙り込んでしまう。それでも、私がじっと見つめているのに気がついたのか、微笑みかけてきた。
「勉強は大変デスか?」
「……大変というか、やらないといけないからというか……わからなくなってきたんです」
きっと、勉強をすること自体が辛いわけではなかった。ただ、数字の羅列。自分の立ち位置。目的はA判定、合格という結果──それを求めている内に……わからなくなっていた。
「この先のこと。失敗していく内に、本当に自分がなりたいなって思えた高校生になれるのか、わからなくなって……」
「……そうデスか。では最後に、絶対に正しいことを、一つだけ教えてあげましょう」
ひらりと、クゥクゥさんがこちらを向く。その言葉にはどこか気負ったようなニュアンスは感じ取れなくて、どこか肩の力が抜けていくようだった。
「終わりは、ありません。アナタの人生は続いていく……そして、それは自分が好きなように描けるものデス。失敗しても……そうデシタ」
終わりは、ない。失敗するか、成功するか……受験がどうなるかは、今の段階ではわからない。
「たとえ、自分のことが好きになれなくても……眩しい憧れが連れてきてくれる場所があった。照らしてくれる仲間がいましたから! アナタにも、きっとできますから──」
だけれど、彼女がぎゅっと握った私の手。それと一緒に持たせてくれたのは──希望だった。
「──
一抹の、私の未来への。立ち去っていく背中を眺めながら、ふと考える。もしも、そんな未来が待っていたら──私は、まだ頑張れるのだろう。
ステージの方へ目を向けた。その輝きは、曇ることなく。
確かに、私へと届いた。
◆
「──かのん、久しぶりデス!」
少女と別れて間もなく、クゥクゥは観客の中にいた
「クゥクゥちゃん! 久しぶり、元気にしてた? そうだ、芸能活動は?」
「かのんにこそ、留学とか……聞きたいこと、いっぱいありマス!」
数年前、スクールアイドルを志した時、ちょうど自分も中学生ぐらいだった頃。
『可可って勉強ばかりでつまらなくない?』
勉強ばかりの日々の中で、街頭ビジョンで見つけた憧れ。
何もなかった自分は、中々好きになれなかった自分は、その時駆け出した。
初めて立った舞台は今日も照らされている。あの日に見つけた
そんな今だからこそ、思えるのだ。仲間たちと過ごした青春があって良かった──と。
そして、認めていいとすら思えるのだ。あの日、街頭ビジョンで見た憧れに並び立てる存在に……まだ少し、恐れ多いけれど、きっとなれたのだと。
「我爱你──可可」
今でも記憶の中で照らされている、Liella!一期生、最後のメンバーは。
──私自身を、叶えることができたのだから。