遠い日の記憶。見渡す限りの暗闇。手は血肉に塗れ、返り血で濡れた身体は、むせ返るような罪の匂いをまとっている。人間を求める。殺し、喰らう。また殺し、喰らう。全身に熱が駆け巡る。また、人間を求める。
――お前もいつか、この山を守るんだ。
温かい何かが、頭に触れる。人間だ。その温もりごと、喰らう。憶えのある断末魔。
――兄ちゃんの手は温かいね。
澄んだ声。美味そうな肉。それを喰らう。また、断末魔が頭を揺らす。
ふと、振り返った。血に塗れた道。そこに転がる、何かの残骸。猟銃。罠。俺が贈った、腕輪。
胃が逆流した。すべてを、血の海の中にぶち撒ける。吐いても、吐いても吐いても、中身がなくならない。すべてが奪ったもの。そのすべてが、罪。
――喰らえ。
脳に響く不快な声。胃の中身とともに吐き出す。鳴りやまない声。耳を引きちぎる。鳴りやまない。目を潰す。世界が痛みに飲み込まれる。
血がせり上がり、吐き出す。息が詰まった。僅かな空気を求め、血の海の中でもがく。足を掴まれ、引きずり込まれる。罪に塗れた手を、必死で伸ばした。
――早く起きて。
泣き声が聞こえる。心を掻きむしりたくなる声。暗闇の先に、進まないと。その先に待つものを、守らないと。泥濘を振り払って、手を伸ばす。
――その手を、誰かが掴んだ。
***
「カナエ様!」
早朝。私室で支度をしていたカナエのもとに、アオイが訪ねてきた。随分と慌てた様子に、僅かにたじろぐ。
「どうしたの――」
アオイは、返事を聞くまもなく手を握り駆け出した。その尋常ではない様子に、不吉な汗が頬を伝った。
春の陽気も、温かな香りも忘れ、ひたすらに駆ける。その行き先があの部屋だと気づいた瞬間、喉が詰まった。
「――アオイ!斎鬼くんに、何かあったの……!」
振り向いたアオイが、悲壮な表情を浮かべている。呼吸が荒れる。鼓動が、自分のものとは思えなかった。足を速める。
扉が見えた。慌ただしく人が出入りしている。その手にある、血のついた、ガーゼ――。
「斎鬼くん!」
駆け込む。そこにいる、目と耳から血を流す彼。その手が、何かを求めるように彷徨っている。気づけばその手を握っていた。血に塗れた手。爪に、肉が挟まっている。その手が、頭に爪を突き立てた。
「ダメ!斎鬼くん!ダメよ!」
その手を精一杯の力で握りしめる。彼が、何かと戦っている。きっと、自分自身の罪と。
「大丈夫よ……!大丈夫だから……!」
頭を撫でる。彼の手から、力が抜けた。荒れていた呼吸が落ち着き始める。その胸をさする。穏やかな寝息が、少しずつ戻ってきた。
膝から崩れ落ちる。血がついたことも忘れ、胸元を握りしめる。そして、混乱した呼吸を必死で整えた。
「姉さん、どうしたの!?」
しのぶの声。ゆっくりと振り返る。しのぶの瞳が、動揺に揺れていた。
「……これは、どういうことよ」
***
「……再生が、止まってる」
しのぶが、信じられないものを見るような目で呟いた。絶望的な事実。彼の右目と欠けた耳は、もう治らない。握り続けている手を、祈るように額にあてた。
「……でも、脈も呼吸も、前よりずっと良くなってる」
「それは……!」
しのぶが強い光を宿した瞳でこちらを見つめる。そして、確信を持った声で告げた。
「姉さん、声をかけ続けて。この鬼が目覚めるしかないくらいに」
その言葉に大きく頷く。しのぶは、道具を持って部屋を出ていった。
血で満ちた匂いが部屋を漂う。春の温かさは存在せず、ただ残酷な静寂が肌を貫いていた。自身の鼓動は未だ正常ではなく、浅い呼吸をするので精一杯だった。
「……斎鬼くん。どうしてこんなことしたの?」
体が壊れることを厭わない。陽だまりのようにみんなを包み込むのに、決してその中に自分を置こうとしない。心に刻まれた深手を隠そうと顔を歪ませる姿に、いつも胸が痛んだ。
「いつもそう。あなたは、あなた自身の命を勘定に入れない」
優しい花の香り。炭治郎くんが言っていた、斎鬼くんの本質。それが、歪に結びついてしまっている。彼にはきっと、彼を生に繋ぎ止める楔が必要だった。
「ねえ、あなたが傷つくと、私も痛いのよ」
悲しい目が、破綻した憎悪を宿した瞳が、胸を締め付ける。でも、その殻をひとつずつ剥がした先に残ったのは、純朴な心優しい青年だった。そしてその心が、彼を苛み続けている。その重荷を、半分で良いから背負わせてほしかった。
「私じゃ、ダメ?私は、斎鬼くんが生きる理由にはなれない?」
今朝の出来事が嘘のような、穏やかな呼吸。いつも、いつも、この部屋にある変わらない光景。ついに何かしたと思ったら、心配を増やしただけ。心の箍が、ついに外れてしまった。抑えていたはずの感情が、悲鳴となって溢れ出した。
「こんな時くらい、返事しなさいよ……!」
部屋に落ちる沈黙。心を押し潰すような重圧が、呼吸を乱す。落ちる涙を止めることもせず、ひたすらに祈った。
反応はない。今日もまた、声も祈りも届かない。全身の力が抜ける。手を握る力だけを必死で残して、彼の体にもたれ掛かった。
「……起きてよ……お願いだから……」
その時、手に伝わる微かな力。鼓動が跳ね上がる。握り返すと、少し力が強くなった。ぼやけて意味を持たない視界を懸命に合わせる。細い細いその希望を、掴み取らないと。気づけば、その体を必死で揺すっていた。
「斎鬼くん!起きて!起きてよ!」
細く、その瞼が上がる。光を失っていた瞳に、ゆっくりと焦点が結ばれていく。眩しげに細められた目がゆらゆらと揺れ、ようやくこちらを捉えた。
「……カナエ。……ごめんなさい」
酷く掠れた声。ずっと焦がれた声。やっと訪れた、冬の終わりを告げる響きだった。息を吸うことすらままならず、込み上げる混乱した感情が、とめどなく頬を伝って落ち続ける。彼の震える手が、そっと拭ってくれた。
喉から出る声に、意味のあるものなど一つもなかった。彼の手が、優しく頭を撫でている。じんわりと染み込むその温もりだけで、すべてが報われていた。
***
「アオイ!これ持っていくわね!」
そう言って、満面の笑みを浮かべ、鼻歌を歌いながら去っていくカナエ様。この屋敷の全員が、その分かり易すぎる変化の原因を知っていた。
「姉さん、全然まわりが見えてないわね……」
しのぶ様が呆れたように呟く。その表情はこの上なく温かい。とは言え、否定のしようがない事実だった。苦笑とともに頷く。
――斎鬼さんが目覚めた。
今朝の壮絶な格闘は、予兆だった。きっと、内側の何かに打ち勝ったのだ。あの痛々しい状況を思い出す。だが、それでも笑みがこぼれた。
「……必勝、でしたね」
食事を運んでいくカナエ様を手伝おうと、すみがトコトコと横を歩いている。その顔に輝く笑顔。時期に、あの部屋は喧騒に包まれるだろう。
この屋敷でただ一つ取り残されていたあの部屋の時間が、ようやく動き出していた。