「おい新堂。やっぱりお前とsaiは繋がっていたじゃないか!!」
北斗杯が落ち着き、緒方さんとの本因坊防衛線第一局が終わったころ。
若獅子戦に向けて自身の囲碁を見つめなおそうと考えたヒカルに誘われ、最近では回数を減らしていた資料室での研究会を再開していた。
ヒカルの今の目標は若獅子戦の優勝。対戦表を見せてもらったが一回戦は院生下位の子で、その子に勝てば二回戦で対面に座るのは塔矢アキラ。北斗杯の結果や直近の成績からも、事実上の決勝戦が行われる。
対して俺は本因坊戦に並行して行われる碁聖戦の第一局がもうすぐある。三大タイトルを保持する俺だが、ここで止まる気は全くない。一つでも多く対局し、一つでも多く勝つ。どのタイトルでも上座に座れるように。
検討もあらかた終わり、互いに次の一局に向けて考えをまとめている最中、だいたいの人がノックをしてから入ってくるこの資料室に、緒方は勢いよく入ってきた。
「もう、何? 緒方さん」
「何? だと? お前、saiと昔からの知り合いだと言っていたらしいな。俺には散々あんなことを言っていたくせに」
「ちかいちかいちかいちかい」
高身長のくせに椅子に座る俺ににじり寄ってくるから圧がすごい。ついでにタバコ臭い。人のことは言えないが。
「saiと打たせろ」
「無理」
「なぜだ」
「もういないから」
「いないだと? 掲示板では入院していたと言っていただろう。退院すれば
無理だよ」
そう。佐為と対局することは二度と叶わない。佐為はヒカルとサヨナラをして、この世界から消えたから。きっと今頃、囲碁の神様と対局していることだろう。
「佐為はもういない。それは紛れもない事実で、変えられない。たとえ俺やヒカルが望んでも、もう現れることはない」
「っ!? どういうことだ。入院じゃなかったのか?」
「これ以上はプライバシーにも関わるから言えない。もう一回言うね。これ以上は
チクタクと時計の音が鳴る。
エアコンの音が部屋内に響く。
俺は顔を伏せ、ヒカルはどこか気まずそうな顔をしている。
「なら、お前とsaiの棋譜を見せろ」
「え?」
「何を驚いている。お前はsaiに勝ったと言っていたはずだ。saiのことを詮索しない代わりにお前とsaiの対局を見せろ」
「ちょっと緒方さん! 強引すぎるって、本因坊もそんなの言われても見せれないよ!」
「いや、良いよヒカル。緒方さんのストーカー気質は今に始まったことじゃないし。掲示板のIDもogaだったし」
「それは知らん」
そういえば。なんてヒカルも言っているが、緒方さんは筋金入りだ。酔った勢いで無理やり佐為と対局するほどに。それほどまでに執着する存在なのだろう。俺たちにとって佐為がそうであるように、彼にとってもsaiは重要。
「一手目から見せるよ。俺と佐為の一局。今までで何百回と打った中で一番きれいな碁。ヒカル。覚えてるな?」
「もちろん俺が黒の佐為。本因坊が白」
そう言って俺たちは石を手に取った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「本因坊。佐為が本因坊と打ちたいって。今からでも良い?」
4月。佐為が消えることとなる5月5日まで残りわずかと言った日に、佐為が俺に対局を申し込んだ。
「良いよ。ただ、持ち時間長めにできる?」
持ち時間3時間で対局をした場合かかる時間は最大で6時間ほど。となると今が15時なので、夜の9時ごろになる。
「え? 佐為?」
「なんか言ってる?」
「できれば、持ち時間5時間でやりたいって言ってるけど、大丈夫?」
持ち時間5時間ともなれば終わるのは日付をまたいだ1時ごろだろう。
正直いうとすごくやりたい。だが、朝イチからならまだしも、この時間からというのは悩む。
「ある程度したら出前取るとか」
「考えながら飯だってか? まあ、それくらいしかできねぇしそれでやるか。良いかヒカル?」
もちろん! と元気よく返事をしてくれたので対局時計を準備する。先にパソコンに届いているメールなどを確認し、誰からも連絡がないことを確認する。
せっかく佐為と打つのに邪魔されるのは嫌だ。
「よし、始めるぜ?」
ストックとして冷蔵庫に入れているお茶や水のペットボトルを取り出して準備する。
対局中あまり何かを食べるタイプではないが、恐らく塔矢だとは思うが誰かが置いて行ったクッキーも皿に移して用意する。
ヒカルは俺の正面ではなく横に座り、座布団を置いた向い側には誰もいない。おそらく、そこには佐為が座っているのだろう。先手を決めるため佐為の代わりにヒカルが黒石を握り、俺が白石を握る。
数えた結果は佐為が先手。
「よろしくお願いします」
「お願いします」
先ほどまでののんびりとした空気から、挑戦者として対極に挑む。
まだ出場した棋戦の決勝やタイトル挑戦の経験がないヒカルからすると、今の俺は違和感だろう。普段ヒカルが見るとすれば、上座に座り堂々と挑戦者を迎え撃つ俺。だが今はそうじゃない。
佐為が一手目を示す。
置かれた黒石に合わせて返し、どんどんと白と黒の数が増える。
至って普通というにふさわしい始まり方。だが、えも言えぬやりにくさを感じる。
打ち筋から佐為の意思を感じることはできる。記憶の中にいる佐為と、盤上に現れた佐為が混ざり合い、誰もいないはずの向いに幻想が見える。
白い狩衣に紫がかった長くキレイな髪。目元はすらっとしていて、時折冷たく感じるほど鋭いまなざし。そんな彼が向かい合っているように思える。
ただ見えない。というだけで恐ろしいほどやりにくい。いなかった期間の方が長いのに、やりにくい。
持ち時間は長くある。序盤ではあるが時々立ち止まるように自分の打ち筋を確認し、佐為の一手に込められた思いを噛み締める。
想定できる枝分かれした未来を読み、その中で自分が戦える流れを見つめる。
(佐為が攻めてくるような素振りはない。しっかりと形を整えながらって感じか。想像してたよりも隙が無いから、こっちから攻めるわけにもいかないんだよな......)
隅に白を散らしながら、ここからの展開を考える。
(厚めにしてるのは右上隅と左下隅。か......。難しく考えすぎか? ただ、右上隅がきつくなると面倒だな。それに比べて左はまだ良い。早めに対処するか)
右下隅から右辺にかけてを取りに行くための主張を始める。
(手が止まった? そんなに止まるような場所はないはず。早めに仕掛けたから警戒している? それでもここは素直にアテて様子を見るんじゃないか? どう返してくる? アテた形の方が黒は良い。次は、中央に出られないようにするためボウシをかぶせるか。ただ、ボウシにすると......いや、ボウシの方が中央にもけん制ができるか)
少し待って打たれた際の一手は、俺の白石から斜めにずれた一手。中央・右上隅へのけん制のために抑えに来た一手。
(肩ツキ......。ボウシよりも厄介だな。ちょっかいをかけながらするのも良いけど、実利は確保したい。やっぱ佐為はいろんなとこ見えてんだな)
一口分お茶を飲み、口の中を湿らせる。
出鼻をくじかれた。というにはまだ手は全然多く残っている。ただ、中央と絡めるのが難しくなる展開なら、それに合わせて進める他ない。
(右辺丸ごと狙うか)
手を進めるごとに見えてくるのは、佐為が比較的右辺に対して寛容であること。中央にも手を伸ばそうとすればかなり厳しく詰めてくるが、それでも右辺から右下隅に関しては比較的捨てるつもりなのかもしれない。
(上隅の守り方はやっぱきれいだ。これ以上狙っても疲弊するし、他の綻びがでればきつくなる。その隙をついてこないような奴じゃないし、そもそもそんな隙は作らない)
思い出すのは佐為と塔矢先生が対局したあのネット碁。
盤面全体を支配しようとする塔矢先生に対して、見事に受け切り反撃を決めた佐為。このままじゃ同じ展開。受け切られてしまえばやり返されるし、この場で完全に攻め切れるほど佐為との実力差は離れていない。
一手進むごとに、佐為と自分との距離がわかる。
背中すら見えなかった小学生のころとは違う。
その遠さを初めて知った院生のころとも違う。
北斗杯を通じその背中を明確に意識し、研鑽を積み重ねた今、佐為の背中は前にはない。
(ほとんど横並び。なのに、わずかに佐為の方が上)
本因坊秀策が現代の囲碁を学べば最強になる。なんて誰が言ったのか覚えていないが、まさにその通りだ。しかも、現代どころか俺とヒカルの対局を通じて未来までわずかに知っている。そうなれば文字通り最強だろう。
「もう1時間以上使ってるのか」
対局時計を見てぽつりと呟く。
まだ中盤に入るころではあるが、互いに慎重に打っていることもあり1時間ずつくらいは持ち時間を消費してしまった。ただ、焦るほどのことじゃない。落ち着いて、一手ずつ対処すれば良い。
(右辺はさっきのでだいぶ厚みが出た。大丈夫。俺の碁は佐為にちゃんと届いている)
惚れ惚れするような打ちまわしだ。
的確に佐為は俺の手を捌く。砂漠に水を一滴たらしたところでなんの影響もないように、ダメージは無いと余裕な態度。
まだ100手にも届いていない状況ではある。
じっくり進めていくべきだ。この一局は流れでやるようなものじゃない。俺のことを育ててくれた佐為ではないが、それでも本因坊秀策と対局できる貴重な時間。
きっとこの対局が終われば、佐為はヒカルにつきっきりになる。それまでに、俺は俺の心残りを晴らす。俺の中でのサヨナラをする。
佐為を相手に小細工は効かないし、そもそも小細工程度なら跳ね返される。
ならば、と今はじっくり備えた手を打つ。
大丈夫。大丈夫。
自分の進む道が間違っていなかったと不安を押し殺し、自信をもって手を返す。
(思考を整理しよう。必要な内容を整理して、僅かで良いから佐為を上回り続ける。先に読める者は読み続けないと、勝てない)
盤面の隅から隅までをギロリと見つめる。それぞれの石がどう絡み合っているのかの確認を行う。どことどこが厚くて、どこの形が悪くて。結びつきが良いところはどこなのか、悪いところはどこなのか。打つべき手、打たせる手は何で、どんな形に持って行くのが良いか。
碁盤に石が当たり音を鳴らす。
間隔は長かったり短かったりするが、それでも途切れることなく部屋に音が響く。
「飯だな。ちょうど俺の手番だし。長考がてら頼むか」
電話を取り出した俺は、腹持ちが良く比較的早く届くうどんを頼み、ヒカルもまたそれに合わせて注文する。注文先のお店によると届くまで20分ほど。
「タバコタバコタバ......コっと」
息抜きがてらタバコを吸う。
最近のタイトル戦でもたびたびするが、長考のたびにタバコを吸うのは良いのだろうか?
まあ、自分の持ち時間を使って吸っている訳だし別に悪いわけじゃないが、アドバイスを聞いたり不正があるといけない以上良くは無いような......。
脳みそがニコチンに支配されてるから無理だな。禁煙もする気全くないし。
吐き出した煙が霧散するように、凝り固まっていた思考が解けていく。
(この盤面、佐為としては左側の主張が強いけど、カカッたら割と面白いか?)
一つ、思いつく。
形としては無理に荒らしに行く。強引な力碁に持って行くような手であるため、良くはない。攻めたところで捌き切られたらかなり俺の形が悪くなる。
(正直五分五分だけど、攻めるきっかけがないのも事実なんだよな)
攻めきれれば俺が勝ち、守り切れれば佐為が勝つ。
(そろそろ飯も来る。来たら開戦だな)
どうなるかはわからないが、それでも攻め続けることはできる。あとは自信をもって進むだけ。
(いっちょやるか)
気合を入れた俺は、指先を碁石の海へと落とし入れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(な、なんだよ、これ......)
出前を取り、本因坊が自身の持ち時間を30分くらい使ってタバコ休憩。
そんな状況の後に始まった怒涛の攻め筋は、これまで俺が見てきた新堂輝という存在の棋風とは少し違う風に見て取れた。
基本に忠実。柔軟に受け、相手の弱い部分を的確に攻める。
あまり自分から開戦するタイプではなく、俺が研究した中では桑原先生との本因坊戦や塔矢先生との棋聖戦や挑戦手合いなどの一部の対局でしか見せていなかった。
でもそれはここまで深い打ち方ではなかった。
まだ俺が本因坊から教わっていない、おそらくは未来の打ち筋だって使われていると思う。
なぜそこに打つのか意図を理解できない手を本因坊は打ち、佐為はそれを受けている。一見悪手ではないものの最善手とも言えない手を打ち続けている本因坊の手に、佐為は防戦に回らざるを得ない状況になっている。
佐為の指示を受けて代わりに石を置く。佐為が何を狙って打っているのかは大方わかる。どう言う展開になるのが理想なのかもわかる。それは俺が佐為に囲碁を教えてもらってきたから。佐為の打ち筋を学んできたから。
(なんだよこのハネは、普通なら絶対ツケるのに……。俺なら合わせるけど、佐為も同じ手。だから悪くはない、ハズ)
それでもどんどんと佐為は押されていく。それに合わせて長考も増えていく。
(左側の優勢はもうなくなった。最初からこれが狙いだった? でも、休憩終わりまではこんな展開じゃなかったし、この形を想像するなんてできない、と思う。いくら本因坊だからって)
「俺、佐為と打てて嬉しいよ」
足を置いた本因坊が口を開いた。
「俺、強くなったんだ。塔矢と打って、ヨンハと打って、緒方さん達と、いろんな人と打って強くなったんだ」
本因坊が、佐為の座る対面の空間を見つめた。
「俺とあと何回打てるかはわからない。そもそも、俺の目の前にいるのは佐為だけど、俺の知ってる佐為とも違う。でも、またお前と打てたのが嬉しい。俺の全力が佐為に届いたことに気づかせてくれたことが嬉しい。そして、
色々思うことはあったけど、吹っ切れた。
そう言った本因坊の顔は、昔母が何かの時に撮ってくれた俺の写真の顔のように、とてもとても眩しく、輝くような笑顔だった。
(ヒカル。伝えてくれますか?)
(何を?)
(私も嬉しいと。私はあなたが知る私ではありませんが、それでも共に囲碁を打ち、共にヒカルを育ててくれている。その事実が果てしなく嬉しい。あなたが私を通し、別の私を見ていることはわかっていますが、同じ囲碁を嗜む同志として、この出会いには感謝しかありません)
(わかった)
俺は佐為の言葉をそのまま本因坊へ伝える。
佐為と本因坊をつなぐ役割。二人が棋士としての俺を育てている。
今まで深く考えてきたことはなかったけど、すごく重い出来事なんだということを直感的に理解した。
「俺は師匠を越えることなんてできないけど、ヒカルは佐為がいなくなっても俺がいる。佐為の代わりなんてできないけど、二人目の師匠としてこいつには師匠越えをさせてみるよ」
簡単には勝たせないけどね。
なんて茶目っ気たっぷりに言う一手を見て佐為は頭を下げた。
選局を一気に手放された。
盤上を支配する一手だと佐為は素直に察し、感嘆し、感動し、震えた。
幽霊である身として、汗なんてものはかかないはずなのに、打たれた石を見て、新堂輝という碁打ちの強さに
(碁の神に愛されているというのは彼のことをいうのですね……)
(佐為?)
(ヒカル。強くなりなさい。このままでは、彼は一人で碁を打つことになる。彼が一人にならないよう、あなたが強くなり、彼の前に座るのです)
(……うん)
(それにしても、その向かい合うのが私ではないというのが、これほどまでに悔しく感じるとは。私以外のものがそこに座るというのがこうも妬ましく感じるとは)
本因坊は吸い切ったタバコの火を灰皿に押し付け揉み消した。
佐為は、姿勢を正してしっかりと頭を下げた。
その姿を見て、俺は一言、参りました。と口にした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「俺のこの白で佐為が投了して終局」
「やっぱり綺麗だよ。これ」
初手から並べられた一局は、本因坊と佐為二人だけの広く壮大で、美しい宇宙になっていた。
「っ……」
「緒方さんが何をどれだけ願ったとしてもsaiは居ない。でも、俺とヒカルの中にはちゃんと生き続けてるし、棋譜として生き続ける」
「どんな奴だったんだ……、そのsaiは」
俺の向かいにあったパイプ椅子に座った緒方さん。
彼の表情はどこか暗い。
とりあえずタバコの箱を渡す。
「俺からの印象とヒカルのからの印象は違うけど……、なんていうか、あそこまで囲碁を愛してる奴はいないね。断言する。それと……」
入水自殺をした佐為だし、こんな印象は良くないかもしれないが、俺から見ると、池の上で鮮やかな赤色を写す蓮の花のような存在だと思う。
ただそこにいて、穏やかに全てを見つめる蓮の花。
近づくには池の水が邪魔で、でもポツンと咲く姿は寂しそうに見える。
「大型犬みたいじゃない?」
「ぶふぁっ!? おいヒカルっ!」
ぼそっとヒカルが呟いた言葉に、思わず犬の耳と鼻が付いた佐為を思い浮かべた。
「はーっ! やべぇ、俺も昔思ったそれ」
「やっぱり!?」
佐為と過ごした短くも濃いあの頃を思い出す。
じーちゃんの蔵で出会い囲碁を知り、塔矢と出会って、大会に出て、院生のことを知って、プロになって。
前世でも一生忘れることはできなくて、今世でも忘れることができなかった。
そんな俺の前に、ヒカルが現れて、佐為と打つことができた。
それは追憶。もしくは泡沫の夢。
俺は今、泡が弾けた池を見つめてる。
「佐為と約束したんだ。本因坊を一人にしないって」
「ん?」
「囲碁は二人でする遊戯だから、本因坊の向かいには俺が座る。緒方さんでも塔矢でもなく、俺が」
緒方さんが机に置いた箱を取り、一本取り出す。
「いや、コイツを倒すのは俺だ。ぽっと出のやつには任せられん」
火をつけ、タバコを吸い、一息吐く。
「二人とも、楽しみにしてる」
資料室の窓から見える外は日暮に向かっていて、空は少しずつ、佐為の髪色のように薄く紫がかっていた。
これにて完結。