無一郎の厳しさは体力面からではなく、精神的なものから来る。
彼には恵まれた才能があり、だからと言って慢心があるわけではない。むしろ柱としての責務を果たすため、寸暇を惜しんで己を研ぎ澄まし続けるひたむきさを持っていた。
しかし。
一番の問題は、彼の認識だろう。
自分が出来るのだから、他の人も出来て当然。
悪気のないその前提こそが、凡庸な隊士達にとって何よりも鋭利な刃となっていた。
「脇が甘いよ」
「ぐ·········っ!!」
打ち込みの太刀筋を指一本分で躱し、流れるように反撃を叩き込みながら少年は息一つ乱さずに言葉を落とす。
何故こんな初歩的な足運びができないのか、何故太刀筋をこれほど容易く逸らしてしまうのか。
「何もかも隙だらけ·········本当にやる気あるの?」
「·········ッ!!」
淡々と事実の不出来を指摘するその眼差しには嘲弄の気配すらなく、ただ氷のように澄み切った無機質さだけが漂っていた。
高速移動による打ち込みは反射神経の強化を目的としている。
“見る”から“判断する”と移行し、そして“動く”までの過程を縮め、鬼から少しでも生き残れる確率を増やすことを目標にしているわけだが、この少年の動きはとにかく早い。
まさしく“霞”。
遠くの景色がぼんやりとしてハッキリと見えなくなる現象を呼吸として自在に操る無一郎は、その実体すら疑ってしまうほどに素早かった。
そして何より、言葉の一つ一つが厳しすぎる。
感情を剥き出しにして怒鳴られる方がまだ救いがあったのかもしれない。人格を否定する怒号ではなく、ただ純粋な合理性によって『出来ていない無能』のように扱われる絶望。その酷く冷たく、情け容赦のない無慈悲な言葉の連打が、連日の打ち込みで軋む肉体以上に隊士達の心を内側から消耗させていたのだ。
打撃を受けた小手を抱え込み、隊士の指先から力が抜けた木刀が乾いた音を立てて板の間に転がった。
手首の関節を正確に砕くような衝撃に脂汗を滲ませ、呻きながら膝をつく男。
その頭上から、甘さを切り裂くような平坦な声が再び降ってくる。
「木刀拾って、まだ終わってないよ」
少年の口調には苛立ちも叱責も含まれていなかった。ただ決められた日課を消化するかのような淡々とした響き。
だが。
その感情を宿さない無機質さこそが、打ち倒された隊士の自尊心を容赦なくすり潰していく。
男は震える指先で板張りの床を擦り、転がっていた木刀の柄を無理やり掴み直した。
立ち上がったその肩は激しく上下し、乱れ切った呼吸からは霧ほどに細かい唾液が飛散している。
それはこの稽古をやり続けた結果生まれた底知れぬ恐怖による緊張感なのか、己の無力さに対する悔恨なのか、はたまた手加減一つ見せずに自らを突き放す年下の柱への恨めしい感情なのか。
胸の内に渦巻く暗い熱に呑まれ、隊士の瞳は濁り切っていた。
「うわあああああ!!」
理性をかなぐり捨てた絶叫と共に、男は上段から木刀を振りかぶって突っ込んできた。
足運びの基礎も、呼吸の統一もない。
ただ激情に任せて腕を振り下ろすだけのその動作は全身の骨格が四方八方に崩れた、あまりにも無防備な隙の塊であった。
どこを突かれても、どの角度から打ち込まれても、即座に致命的な損壊を負うような杜撰な突進。
「········」
無一郎の何も思わない冷たい目が呆れたように細められた。
少年は構えを変えることすらなく、左足を半歩横へと滑らせただけで、迫り来る太刀筋の軌道線上からひょいと身を外した。
空を切った木刀の風圧が少年の隊服の裾を微かに揺らす。その男の体勢が前のめりに崩れ落ちる間際、無一郎の手元にあった木刀が疾風の如き速度で裏返された。
バシィッ!! と。
無駄な力みを一切削ぎ落とした手首の返し。
背後を無防備に晒した隊士の後頭部、隙だらけとなった首筋の急所へと正確な角度で木刀が叩きつけられた。
「がは········っ!?」
急所を打たれてもなお男が意識を保ち、荒い息を吐きながら床に手をついていられたのは、無一郎が寸前で木刀の威力を加減したからに他ならなかった。
容赦なく打ち据えたように見えて、骨を砕く直前で寸止めされた際の残りの威力による一撃。
床に這いつくばる隊士を見下ろしながら少年は木刀の先をだらりと下げ、抑揚のない声で冷酷に指摘した。
「感情のまま攻撃しても相手に敵うわけないでしょ? それどころか、飛んで火に入る夏の虫だ」
痛みに呻く男の耳へ、一切の情けを挟まない言葉が容赦なく叩き込まれる。
「鬼との戦いにやり直しはないよ。たとえ九勝一敗でも、その一敗で命を落とす」
淡々と告げられるのは、戦場における純然たる事実、ただの正論であった。
反論の余地すら残さない冷徹なまでの真理を前に、隊士は唇を噛み締めることしかできない。
「生き残る術を持つために、一つ一つの動きを研ぎ澄ますんだ。それもできないようじゃこの先すぐにやられちゃって、文字通り無駄死にになるだけだよ」
「くっ!!」
誰もが頭では理解しているはずの常識。
それを自分よりも遥かに年若い少年に、息一つ乱さぬ圧倒的な実力差を見せつけられながら突きつけられたことで男は言葉を失い、完全に意気消沈して床へ額を擦りつけた。
無一郎の物言いは酷く厳しく、一切の妥協を許さない。
「··············」
だが。
その苛烈な言葉の裏側に宿る本質を、道場の壁際で見学していたリンクは静かに見抜いていた。
(確かに厳しいけれど·······彼も本当は死なせたくないんだ)
感情を排した合理的な指摘の奥底にあるのは、悪意でも侮蔑でもない。
これ以上、未熟な隊士達が無残な屍となって無様に転がる光景を見たくないという、この少年なりの不器用で切実な優しさ。
生き残らせるため、命を繋ぎ止めるためにこそ敢えて情けを捨てて冷酷な現実を突きつけているのだと、異国の剣士はその鋭い観察眼で察していた。
「今日はここまでにしよう」
無一郎はそれ以上誰に視線を向けることもなく、木刀を無造作に壁際の立て掛けへと戻すと、静かな足取りで道場を後にした。
少年の背中が引き戸の向こうへと消えた途端、張り詰めていた空気が一気に弛緩する。
「おい、大丈夫か·······!?」
「しっかりしろ、立てるか!?」
周囲を取り囲んでいた隊士達が、我先にと打ち倒された男の元へ心配そうに駆け寄ってきた。
肩を貸して引き起こし、打たれた首筋を冷たい手拭いで冷やす仲間達。
しかしその全員の顔には、過酷すぎる稽古に耐えかねた疲労と、精神的な限界の色が濃く滲んでいた。
今にも弱音を吐き出し、膝から崩れ落ちてしまいそうな空気。
その時。
一人の隊士が意を決したように、道場の隅に控えていた少年へと縋るような視線を向けた。
「なあ竈門、お前から柱に稽古を少し軽くするように言ってもらえないか·······?」
「え?」
柱と親しげに言葉を交わしていた炭治郎への、あまりに切実で情けない懇願。
その弱音交じりの相談を耳にした瞬間、傍らに立つリンクもまた静かに目を細めた。
「このままじゃ鬼と戦う前に倒れちゃうよ·······」
「う〜ん、でも·······」
炭治郎も無一郎の稽古が厳しいのは重々理解していた。
だが。
それと同時に、誰よりも過酷な負担を背負っているのが無一郎本人であることも、痛いほど察していたのだ。
たった一人で何人もの隊士を同時に相手取り、瞬時の交錯の中で個々の悪癖や足運用の乱れを見逃さずに捉え、正確に指摘し続ける。感情を交えない物言いには確かに角があるが、それは戦場において一切の甘えを許さないための厳格さに他ならない。
心優しい炭治郎だからこそ言い淀む炭治郎だったが、その横から静寂を切り裂くようにして青年の声が響く。
「みんなは強くなりたくないのか?」
低く、しかし道場内の隅々まで明瞭に通る静謐な響き。
疲弊しきっていた隊士達が弾かれたように顔を上げ、視線が一斉に異国の青年へと集まった。
周囲の戸惑いを意に介することもなく、リンクは感情の起伏を排した瞳で、立ち尽くす隊士達を静かに見据え、淡々と言葉を重ねていく。
「彼はたった一人で全員を見ている。それがどれだけ過酷なことだってわかってるのか?」
急な説得に誰もが言葉を失う。
数々の修羅場を潜り抜け、戦いというものの本質を骨の髄まで知る勇者の言葉には、誰にも反論を許さない重みが宿っていた。
「自分の時間もあまり作れず、だからと言って文句は一切吐かずに一人一人正確に見て悪いところを見つけてくれている。それは君達に死んでほしくないからだ」
隊士達の喉仏が、ごくりと重く鳴った。
無一郎のあの態度の裏側にあったものが悪意などではなく、ただ『生きて帰すため』の切実な配慮であったという事実。それを青年の口から真っ直ぐに突きつけられ、居たたまれなさに視線を落とす者が続出する。
リンクは視線を逸らすことなく、核心を突くように語りかけた。
「言い方は確かに厳しいけど、だからと言って甘えさせるような口調で指摘されて、君達は本当に強くなれるのか? 『気にすることはない、また次頑張ればいい』って、その次が来るかどうかもわからないんだ。『鬼との戦いにやり直しはない。たとえ九勝一敗でもその一敗で命を落とす』という彼の指摘は正しい。死んでしまったらそこまで、これは誰もが知る当たり前のことだ。稽古を軽くしたところでみんな強くなれるわけがないから、そして命を大事にして欲しいからこそ、彼は厳しいんだ」
「「「「「「「「「「············」」」」」」」」」」
命のやり取りに二度目などない。
一度の油断、一度の悪癖が即座に己の首を刎ね、命を奪い去る。
命を尊く思い、生き残らせたいと願うからこそ、あの年若き柱は自ら悪役に徹し、一切の妥協を排して言葉を研ぎ澄ませているのだ。
それは分かっている。
でも。
だとしても。
「でも、あんな見下すような言い方は············!!」
「あれは見下しじゃない。鬼との死闘から生きて帰らせるための、彼なりの『
静かに告げられた決定打に、反論しようと口を開きかけていた隊士が言葉を詰まらせた。
ぐうの音も出ない。
言われてみればその通りなのだ。本当に見込みがないと切り捨てるなら、無視して放置すればいい。わざわざ一人一人の癖を見抜き、的確すぎるほど痛い所を突いてくるのは、見てくれている動かぬ証拠だった。
理屈では、痛いほど理解できた。
しかし。
だからといって、容赦なく抉られた自尊心や、積み重なる圧倒的な実力差への無力感まで消えるわけではない。
「「「「「「「「「「···········ッ!!」」」」」」」」」」
道場に再び重苦しい沈黙が落ちる。
隊士達は肩を落とし、握り締めた木刀の先を床へと向けたまま、暗い表情で俯いてしまった。正論を突きつけられたからこそ、己の不甲斐なさが余計に身に染みて、立ち上がる気力が湧いてこないのだ。
その沈黙を破ったのは、陽だまりのように温かく、芯の通った声だった。
「···········うん。俺も、リンクさんの言う通りだと思います」
炭治郎が皆の前に歩み出て、項垂れる隊士達を一人一人見つめながら言葉を継いだ。
「時透君は、絶対に俺達を見捨てたりなんかしてない。見捨てていたら、あんなに何度も何度も付き合ってくれないはずだから」
炭治郎はそこで言葉を区切り、自分自身の傷だらけの手のひらをぎゅっと握り締めてから柔らかく微笑んだ。
「きつい言葉を言われると胸が痛くて苦しくなりますよね、俺もそうです。でも···········時透君が悪いところを教えてくれるってことは、そこを直せば俺達は『今よりもっと強くなれる』ってことなんじゃないでしょうか?」
「「「「「「「「「「············」」」」」」」」」」
「鬼に殺されないための方法を、時透君は全力で教えてくれてるんだと思う。ここで悔しい思いをしてでも生き残って、大切な人を守れるようになるために·············もう一度、みんなで一緒に頑張りませんか!?」
炭治郎の言葉は、傷ついた心に染み渡るように真っ直ぐ響いた。
誰一人として馬鹿にせず、同じ痛みを分かち合いながら差し伸べられた手。
隊士達の胸に、消えかけていた熱が微かに灯る。
────それでも。
「「「「「「「「「「············はぁ」」」」」」」」」」
一度ズタズタに引き裂かれた心と、限界を迎えた身体はそう簡単には追いつかない。
納得はした。
炭治郎の言うことも分かる。
やるべきなのだとも分かっている。
けれど、次に控える時透無一郎のあの底冷えするような視線と木刀の痛みを想像すると、重く垂れ下がった腕はすぐには上がらず、隊士達はなおも悔しさと疲労の中で呻くように押し黙っていた。
□■□■□■
夕陽が山の端へと沈みかけ、西の空を茜色から深い群青へと染め変えていく。
過酷を極めた木刀の打ち合いがようやく終わりを告げ静まり返った屋敷の裏手には、釣瓶が軋む音と桶から溢れ出る冷水の水音だけが微かに響いていた。
汲み上げたばかりの水で額の汗を洗い流した炭治郎は滴る水滴を手拭いへ吸わせながら、隣で腕を洗うリンクへと、痛ましさを滲ませるような眼差しを向けた。
「·········まぁ、あそこまで言われちゃうと落ち込むのは当然ですよね」
その口調には、稽古に耐えかねた隊士達を咎める気配は一切なかった。
他者の痛みを己の身に引き受けてしまう性分の彼だからこそ、心を折られた者達の辛さが理解できてしまうのだ。
「時透君·········あれでも刀鍛冶の里の頃に比べたら、ずっと柔らかくなった方だと思うんですけどね」
「·········確かに」
炭治郎の呟きに、リンクもまた静かに息を漏らして頷き返した。
刀鍛冶の一件で初めて会った無一郎の姿が鮮明に脳裏を過ぎる。当時の彼は他者に対してどこか無関心で、人と言葉を交わす際も感情が欠如した、虚ろな風が吹き抜けているかのようであった。周囲の出来事に意味を見出すことすら億劫そうに放棄し、淡々と課せられた役割のみを果たすような危うさを宿していたのだ。
それに比べれば、今の彼が口にする厳しい言葉の数々には、生き残らせようとする静かな配慮と、対峙する相手へ向けられた揺るぎない厳しさがある。
不器用な振る舞いではあれど、かつて漂わせていたあの冷淡な態度とは明らかに違っていた。
実際リンク自身も里で無一郎と初めて会った時の印象は決して良いものではなかった。一応の気遣いこそ見せてはいたものの、どこか見下すような部分があり、少なくとも最初のうちは明確に足手纏いとして扱われていたと思う。
「······あの時は俺も結構心が弱ってましたからね」
炭治郎は手拭いを畳みながら、遠い目をして苦笑いを浮かべた。
井戸の縁に腰掛け、夕闇が迫る空を見上げる。
「時透君に悪気がないのは分かってたんです。言ってることも正しかった。でも、容赦なく図星を突かれると、やっぱり胸の奥がぎゅっと痛くなって······あの時は自分の未熟さを思い知らされました」
炭治郎は刀鍛冶の里に滞在していた時のことを思い出す。
竈門炭治郎は一時的に一人になっていた時期があった。“上弦の陸”を討ち倒した後、彼は別の鬼狩りの任務に赴き、そこで最愛の妹を失ってしまっていた。鬼を倒した直後に謎の霧に包まれ、そこに最後の悪足掻きとして突っ込んできた鬼の爪によって、木箱ごと禰豆子は行方不明になってしまった。
それから彼は意気消沈としてしまって、生きる糧というものを見出せなくなっていた。
だからこそ、無一郎と会った時の言葉は辛く、余計に落ち込んだ。
「まあ、俺の心がまだまだ弱かったからなんですけどね」
あはは······と冗談めかして笑い、炭治郎は頭を掻いた。
自分が傷ついた理由を全て己の至らなさのせいにして、何事もなかったかのように流そうとする。
心優しい彼がよく見せる癖、自分を後回しにする悪癖だった。
「············」
リンクはそんな彼の顔を横目で静かに見る。
当時の事は知らないが、炭治郎の気持ちは察せられる。
彼の妹である竈門禰豆子はその時リンクと一緒にいた、その間彼の心を埋め尽くしていたのは想像を絶するような孤独感だったろう。
たった一人の家族、それを失った時の絶望感は今まで以上に辛かったはずだ。
どこまでも探し回り、必死に見つけ出そうとしても手掛かりすら掴めない。だからこそ虚無感に蝕まれ、ただ呼吸をし、身体を動かしているだけの抜け殻のような日々を送っていたはずだ。
そんな状態の時に訓練用の絡繰人形の鍵を力尽くで奪おうとした無一郎から、一切の手加減もない正論を突きつけられたのだ。
生きる支えを失い、辛うじて立っていただけの心に、その言葉がどれほど深く刺さったかは想像に難くない。
だが。
水で濡れた腕を拭っていたリンクは、炭治郎のその言葉に首を横に振った。
「それはちょっと違うと思う」
「え·········?」
静かに落とされた否定の言葉に炭治郎は頭を掻いていた手を止め、目を丸くしてリンクを見上げた。
リンクは濡れた手拭いを桶の縁に掛け、静かに炭治郎と視線を合わせる。
リンクの感情に流されない落ち着いた眼差しの中には、『幾多の別れと過酷な現実を見届けてきた者』特有の、深く静かな優しさが宿っていた。
「それは心が弱かったからじゃない·········ただ、受け止めきれなかっただけだ」
「·········受け止めきれなかった?」
「昨日まで隣にいて、一緒に笑い合っていた大切な存在が突然いなくなってしまう。その事実を前にして、平気でいられる人間なんてどこにもいないよ」
リンクは淡々と、しかし一言一言を確かめるように言葉を紡ぐ。
夕暮れの冷ややかな風が、二人の間を静かに通り抜けていった。
「受け入れられるはずがないんだ。大切な人を失った現実を認めてしまったら、本当にいなくなってしまったことになってしまうから。心はそれを受け入れるのを必死に拒んで、絶望から自分を守ろうとする。それは弱さなんかじゃない、人間として当たり前のことだ」
炭治郎は息を呑んだ。
無理やり蓋をして鍵をかけていた当時の痛みが、リンクの穏やかな声によってそっと解かれていくような感覚を覚える。
「俺もさ、最初は受け止めきれなかったよ。大切な人が目の前からいなくなって·········そして次会った時には、
「? 俺の、ことすら·········?」
炭治郎は息を詰まらせ、リンクの顔を見つめた。
いつも静かで動じることのない青年が、その瞬間だけ遠くを見つめるように伏し目がちになったからだ。
異国の地からここへ流れ着いたこと、そして故郷で起きた全ての出来事は産屋敷耀哉との話もあって、他者に話すことは避けるようにしている。徒らに明かせば無用な混乱を招くだけだと、リンク自身も重々承知していた。
だから口には出さない。
どれほど各地を巡り、僅かな痕跡を追い求めても手掛かりを掴めなかった日々のこと。
ようやく真実に辿り着いた時、雲海を裂いて飛翔する『白き龍』の頭上に立ち、かつての面影すら失われてしまった『姫君』の姿を前にした時の、あの胸を切り裂かれるような感覚のこと。
心も記憶も全て手放し、朽ちた退魔の剣を元に戻すためだけに人の形を捨て去った“彼女”は、どれほど呼びかけてもリンクのことなど認識しなかった。
ただ、ハイラルの地に溢れ落ちた『泪』だけが、かつてそこに心が存在していた証拠として残されているだけだった。
あの過酷な現実を、最初は全く受け入れられなかった。
認めてしまえば、本当に彼女を失ったことになってしまうからだ。
そこにいるのに、そこにいない。
誰かもわかってくれない、声も届かない。
自分を、見てくれない。
そんな胸の内に渦巻く壮絶な記憶を押し殺し、リンクは夕暮れの冷気を吸い込んで、静かに言葉を続けた。
「·········変わり果ててしまって、言葉も交わせない。自分が誰なのかさえ分かっていない状態だった。その現実を前にした時、俺も最初は何も認められなかったよ。信じたくなくて、受け入れるのが怖くて仕方がなかった」
感情の起伏を抑えた低い声。
しかしその一言一言には、実際に死線を潜り抜け、絶望を踏みしめてきた者だけが宿す重みがあった。
「認めてしまえば、これまでの出来事が何もかも無駄に思えたからだ。何の為に鍛錬してきたのか、何の為に剣の腕を磨いたのか、何も守れなかったら結局は全部意味がなくなるから、認めたくなかったんだ·········でも、現実から目を背けている間は、一歩も前に進めなかった。どんなに受け入れ難い事実であっても、自分の無力さや至らなさを真っ向から認めた時に初めて、俺は本当の意味で立ち止まるのをやめられたんだ」
リンクは炭治郎へ視線を戻し、少年の赫い瞳を静かに見据えた。
「だから受け止めきれないほどの衝撃を前にして心が動かなくなるのは、決して心が弱いからじゃない。誰だって心を守るために一度は立ち止まる·········今のみんなも同じなんだよ」
「みんなも·········ですか?」
「そう。命を懸けて鬼と戦い、今日まで生き延びてきたという誇りがあるからこそ、自分の積み上げてきたものを頭ごなしに否定された現実を受け止められないんだ。『自分は必死にやってきた、間違ってはいない』という意地や誇りが盾になって、目の前の現実を直視する邪魔をしている。受け入れられないからこそ、彼の言葉がただ痛いだけの刃になって深く心を削ってしまう」
リンクは井戸の縁にそっと手を置き、静まり返った屋敷の方へと視線を移した。
「傷つくのは軟弱だからじゃない。認めたくない自分と、突きつけられた現実の間で、誇りが悲鳴をあげているからだ·········本当に強くなるためにまず必要なのは剣筋を正すことじゃない。自分の至らない部分から目を逸らさず、言い訳を挟まずに認めてあげることなんだ。痛いけれど、そこを通らないと次には進めない」
リンクの言葉が空気にゆっくりと浸透していく。
炭治郎は息を呑み、己の手のひらをじっと見つめた。
数々の修羅場を潜り抜け、刀を握り締めてきた証拠の硬い胼胝。
あの時妹を失い、生きる意味を見失っていた自分が無一郎の言葉に打ちのめされたのも、まさにそうだったのだと納得がいった。
妹を守れなかった無力な自分、何も成し遂げられていない現実。
それを認めてしまうのが怖くて、心が拒絶していたからこそ、当時は耐えきれなかったのだ。
「そっか·········みんな必死だったからこそ、なんですね」
炭治郎はぽつりと呟き、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には隊士達に対する哀れみではなく、同じ痛みを通過してきた者としての深い敬意と理解が宿っていた。
「みんな鬼殺隊として誇りを持って戦ってきたから·········だから認めるのが苦しいんだ。時透君の言うことが正しいと分かっていても、これまでの自分を否定されたように感じて、心がついていかないんだ」
「うん。だから焦る必要はない」
リンクは静かに微笑み、小さく息を吐き出した。
「誰かが無理やり引き摺り上げるものじゃない。彼ら自身が悔しさと向き合って、自分の未熟さを受け入れるのを少しだけ待ってあげるべきだと思う」
「·········はい!」
炭治郎の表情から痛ましげな曇りが消え、いつもの温かく力強い光が戻った。
相手の弱さを責めず、その奥にある誇りごと受け入れる。
リンクの示した剣士としての真摯な在り方は、炭治郎の心に確かな道標を灯していた。
□■□■□■
夜が明け、翌朝の稽古が始まっても、道場に満ちる刺すような空気は何一つ変わっていなかった。
朝露の残る板の間には、昨日と変わらぬ淡々とした声が容赦なく響き渡っていた。
「はい、死んだ」
「·········ッ!!」
無一郎の手にした木刀が、対峙していた隊士の喉笛の手前でぴたりと静止していた。
踏み込みすら目視できなかった相手は瞬きをすることすら許されず、血の気を引かせた顔で立ち竦んでいる。
「そこ、動きが止まってる」
無一郎は首を巡らせることすらなく、背後の微かな気配だけを捉えて呟いた。
次の瞬間、霞が晴れるようにその姿が掻き消える。
残像に惑わされ、身構えることすらできなかった別の隊士の死角へ回り込むと、流れるような無駄のない軌道で木刀が振り抜かれた。
バシッ、と鈍い音が道場に響く。
「ぐあ·········っ!?」
関節の急所を的確に叩かれた隊士は腕全体に走った激しい痺れに耐えかね、落とした木刀が乾いた音を立てて床を転がっていく。
腕を押さえて崩れ折れるその姿を、少年は見下ろすことすらしない。
「はい、君も死んだ」
「「「「「「「「「·········ッ!!」」」」」」」」」」
木刀をだらりと下げ、無一郎は息一つ乱さずに淡々と告げた。
あまりの落差と手加減のなさに、周囲を取り囲んでいた隊士達の間に動揺が走る。
昨日炭治郎やリンクが投げかけた言葉に背中を押され、今日こそはと意気込んで臨んだ者達もいた。しかしいざ目の前で圧倒的な実力差を見せつけられ、次々と虫けらのように処理されていく光景を前にしては、恐怖が勝って足が竦んでしまう。
その怯えと動揺を、無一郎の澄んだ瞳が見逃すはずもなかった。
少年は軽く息を吐き出すと、手に馴染んだ木刀の重みを確かめるように見つめ、退屈そうに口を開いた。
「やっぱり、緊張感が足りないな」
「え·········?」
その声に、誰かの隊士の喉が引き攣る。
これほどまでに追い詰められ、息も絶え絶えになっているというのに、まだ緊張感が足りないとこの少年は言うのか。
絶望に染まる一同の視線を意に介することもなく、無一郎は平然とした顔で、恐ろしい言葉を事も無げに口にした。
「一度、真剣で稽古してみようか」
「「「「「「「「「「!?」」」」」」」」」」
道場内の空気が、文字通り凍りついた。
冗談を言っているようには到底見えない。木刀ですら骨に響くような一撃を与えてくる柱が、本物の刃物を振るうと言い出したのだ。
一歩間違えれば稽古ではなく、ただの処刑になりかねない。
「な、何を·········っ!?」
「冗談ですよね霞柱様!?」
悲鳴にも似た狼狽の声が幾重にも重なる中、無一郎の表情には微塵の揺らぎもない。
本気だと誰もが察した。
少年は首を傾げ、何ぼさっとしてるのとでも言いたげに冷ややかな視線を向けて、近くにいた隊士へ告げる。
「早く真剣持ってきて。日輪刀じゃなくてもいいから、本物の刀·········早く」
□■□■□■
言いつけられた隊士が顔面を蒼白にしながら屋敷の奥へと走り、ほどなくして鞘に収まった二振りの真剣を抱えて戻ってきた。
無一郎は受け取った一振りを無造作に抜くと、残る一振りを昨日感情に任せて突っ込んできた例の隊士へと差し向けた。
「君からね、構えて」
「ひ·········っ!!」
押し付けられるようにして真剣を握らされた男の膝が目に見えて震えた。
逆らう事は許されないからこそ嫌々ながらも青黒い刃を鞘から抜き放った瞬間、冷え切った道場に鋭い金属音が響く。自分がいま命を奪える本物の刀を持たされていることを自覚した男の両腕は激しく震え、その震動が切っ先へと伝わって、カチャカチャと頼りない音を絶え間なく鳴らしていた。
対する無一郎は、自らの刀を音もなくすらりと構えた。
曇り一つない鋼の刃が、朝の薄明かりを浴びて冷酷な光を放つ。
「さあ、始めよう」
少年の構えには、木刀を持っていた時と何一つ変わらない軽やかさがあった。
だが、向けられた切っ先から漂う重圧は先刻までとは比べ物にならない。
少しでも間合いを見誤れば肉を断たれ、血が流れる。
ただの稽古が、一瞬にして命のやり取りへと変貌していた。
「む、無理です·········!!」
男の口から、情けない悲鳴が絞り出された。
恐怖で喉がカラカラに渇き、息を吸うことすら苦しい。
相手が鬼であれば恐怖を押し殺して刀を振るうこともできた。生きるか死ぬか、斬らなければ喰われるだけの単純な殺し合いだからだ。
しかし。
いま眼前に立っているのは人間であり、味方であり、鬼殺隊最高峰の剣士である『柱』なのだ。
向こうが本気で刃を振るってくれば、自分など瞬く間に斬り捨てられて命を落とすかもしれないという恐怖。
そしてそれ以上に、万が一にも有り得ないことだと分かってはいても、もし奇跡的に自分の刃が届いてしまい、この年若い柱の身体に傷をつけてしまったらどうなるのかという恐怖が男の思考を激しく縛り上げていた。
来るべき決戦を前にして、柱という貴重な戦力を己の手で損なうことなど許されるはずがない。
たとえ言い出したのが無一郎本人であり、責任の全てが彼にあったとしても、組織の中でどんな糾弾を受けるか分かったものではないのだ。
殺されるかもしれないという恐怖と、傷つけてしまうかもしれないという重圧。
二つの葛藤が頭の中で激しく衝突し、男の足は板の間に縫い付けられたように一歩も動かなくなっていた。
「どうしたの? 構えてくれないと始まらないんだけど?」
無一郎は首を傾げ、ずっと変わらない表情のまま退屈そうに催促した。
「ッ!!」
催促された男は悲鳴を押し殺しながら両手で柄を握り締め、何とか構えようと切っ先を持ち上げた。
しかしその切っ先は小刻みに円を描くようにブレ続け、とても構えと呼べる代物ではなかった。
恐怖と重圧で指先は白く強張り、手首の制御など疾うに失われている。こんな状態で踏み込めば、間合いも目測も狂い、刃の軌道が暴走して互いの身体を切り裂く大事故へ直結することは火を見るより明らかだった。
それでも、無一郎は眉一つ動かさない。
少年はただ静謐な眼差しで、震える切っ先を澄んだ瞳に映しているだけだった。
男の額や掌からは止めどなく冷汗が噴き出し、柄を伝って床へと滴り落ちていく。
その極度の緊張を見かねた炭治郎が、たまらず一歩前へと踏み出した。
「時透君、それ以上は────!!」
炭治郎が制止の声を張り上げかけた、
「すみませんっ!!」
その時だった。
裂けるような叫び声と共に、男はその場に力尽きたように膝をついた。
両手から滑り落ちた真剣が、カランと高い音を立てて板の間に転がる。
男は床に両手をついて深く顔を伏せ、肩を激しく上下させていた。
板の間へポタポタと絶え間なく重い滴が落ちる。
汗だけではない。恐怖と情けなさに耐えかねて溢れ出した涙が、床に黒い染みを作っていた。
その姿を見下ろしながら無一郎は静かに息を吐き、構えていた自らの刀を降ろした。
「········昨日みたいに感情に任せて闇雲にかかってこなかったのは、成長かもね」
少年の口調は淡々としていたが、そこに嘲りの色は欠片もなかった。
床に額を擦りつけ、しゃくり上げるようにして顔を上げた隊士の瞳は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡れていた。己の不甲斐なさに打ちひしがれる男を、無一郎は感情を挟まない澄み切った瞳で見据え、静かに問いを投げかける。
「刀を持つこと。それはね、誰かの命を断つ覚悟を持つということだよ········でも君は真剣を握った瞬間に手も足も震えて、構えることすらできなくなった。どうして?」
「········っ!!」
隊士の喉が引き攣り、言葉は出てこない。
ただ荒い息が漏れるだけだった。
無一郎は転がった真剣の刃へと一瞥を向けると、教え諭すように、けれど一切の甘えを許さない言葉を重ねていく。
「木刀なら振れるのに、真剣になった途端に動けなくなる。それは君の中で、自分が背負っているものの重さをまだ理解していないからだ。木刀での稽古をただの痛い訓練だと甘く見て、自分が『命のやり取りをする組織』にいる自覚が足りていない証拠だよ」
少年は自らの刀の柄に手を添え、道場にいる全ての隊士へ届くように言葉を響かせた。
「刀を抜くというのは、“相手を殺す覚悟と自分が死ぬ覚悟”の両方を背負うことだ。相手が鬼だろうと人間だろうと、その重みは変わらない。君が震えたのは、その責任の重さに今更気付いたからじゃないの? 刃の重みを知らないまま戦場に出たって、いざという時に足が竦んで首を刈られるだけだよ」
無一郎の言葉に、床に伏した隊士だけでなく、道場を取り囲む全員が息を呑んだ。
厳しさの奥にある、戦場で生き残るために最も不可欠な『覚悟の真髄』を突きつけられ、誰もが言葉を失っていた。
「········僕はそうなってほしくない。できれば、長生きして欲しいと思ってる」
その一言はこれまで道場に響いていたどの言葉よりも低く、けれど確かな温かみを帯びていた。
かつての時透無一郎であれば、こんな言葉を口にすることはなかったはずだ。
他人に無関心で、霞のように靄がかかっていた記憶の中に閉じこもっていた頃の彼は、刀鍛冶達に対しても『刀を作ることしか能がない』と言い放ち、ただの道具を作る者として切り捨てていた。
けれど、記憶を取り戻した今の彼には、痛いほど理解できていた。
刀は鬼を、そして人すらも容易く両断できる恐ろしい凶器だ。
しかし同時に、誰かの尊い命を繋ぎ止めるための盾にもなり得る。
戦う術を持たない刀鍛冶達が己の手を削り、魂を込めて鉄を打ち続けるのは、命を救うその力を剣士達へ託しているからに他ならない。
託す側にも、それを預かって振るう側にも、背負うべき重い責任があるのだ。
命の重さを知ったからこそ、無一郎は目の前の隊士達を無駄に死なせたくなかった。
悪役に徹してでも、心を鬼にしてでも、この場にいる全員に『刀を握る覚悟』を骨の髄まで刻みつけなければならない。
高速移動が目的の稽古ではあるが、それ以上に重要なものを理解してもらいたい。
少年は静かに息を吸い、抜いたままだった刀の切っ先を、道場の端へと向けた。
その視線の先────慣れない正座をして一連のやり取りを見つめていた異国の剣士へと、迷いなく注がれる。
「········言葉だけでいくら説明しても、実感できないよね」
無一郎は首を巡らせ、リンクを正面から見据えた。
周囲の隊士達が、息を呑んで二人の間を見比べる。
「命のやり取りがどういうものなのか、覚悟を持った者同士が刃を交えるってどういうことなのか········一度、その目で直接見てもらった方が早いと思うんだ」
少年は刀の柄を両手で握り直し、切っ先を僅かに持ち上げた。
その目の奥に灯ったのは、隊士達を指導していた時のような冷酷さではない。
自分と同等、あるいはそれ以上の境地を知る手強い好敵手へ向けられた、静かで鋭い闘志だった。
「リンク········貴方と僕、真剣で立ち合ってくれないかな」
道場の中が一瞬にして静まり返った。
誰もが耳を疑い、炭治郎もまた大きく目を見開く。
木刀ではなく、真剣による立ち合い。
それは、ほんの一筋の狂いすら命取りとなる、純然たる真剣勝負の申し入れだった。