裏世界ピクニックとときときチャンネルのクロスオーバーです。

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pixivにも投稿した裏世界ピクニックの二次創作小説です。


空魚「ときときチャンネル……?」

 

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 座卓に置いたノートパソコンのキーをひたすら叩き、次回のゼミで使うレポートを黙々と書いていた。課題が出されたのは二週間ほど前。静まり返った部屋に、キータッチの音がやけにカチカチ、カタカタと響いていた。

 裏世界絡みの事件は、ここしばらく何ひとつ起きていない。

私の学業を妨げるものもなく、生活はいたって平穏だった。

 だからあのとき、つまりレポートが出されたあの日、ふと思ったのだ。

──これなら、余裕で終わらせられるだろうなあ。

 認めるしかない。私は、あのとき確かに油断していたのだ。

 その油断があったからだろう。私は鳥子を誘い、短いあいだに何度も裏世界へ足を運んだ。

 必修科目をすでに取り終えて時間を持て余していた鳥子は、私の誘いをいつも気軽に引き受けた。

 骨組みだけのビルの床をハンマードリルでくり抜き、軽天や石膏ボードを買い込んでは壁を作ってみる。

 そんなことを、二人で飽きもせず繰り返していた。

 そうして支出がかさむと、今度は心許なくなった懐を暖めようと、AP-1に乗って裏世界をさまよい、アーティファクトの収集に勤しんだ。

……まるで計画性のかけらもない行動だった。

 頭の悪い大学生そのもののように、自由を満喫しすぎた。

 レポートを後回しにしたのが、そもそもの最大の過ちだった。

 夏休みの宿題を後回しにして、提出前日にひいひい言う学生。

 いや、「まるで」なんてごまかしは不要だ。今の私は、それそのものだ。

 とはいえ、今朝起きて提出まであと三日──という現実にようやく危機感を覚えた私は、「やばいやばい」とレポート作成に取りかかった。

 その甲斐あって、ようやく完成の目処が立ち始めている。ある程度レポート完成の目処が立ってきていたのだ。あとは足りない資料を大学の図書館で回収して、ひたすら文章を頭の中で組み立てて、打ち込むだけ。

 スムーズにいけば──まあ、ギリギリなんとか、間に合うはずだ。

 長時間の同じ姿勢で、重力に負けた首と腰がバキバキだ。

 私は肩をぐるりと回し、背中をひねって、筋肉をグイグイとほぐす。

 そのとき、ベッドに投げていたスマホがブーブーと震えた。

 手に取ると、茜理からのメッセージだった。

《お疲れ様です。いま電話しても大丈夫ですか?》

 茜理から連絡が来ること自体は珍しくもないが、電話で話したい、と言ってくるのは珍しい。私はスマホの連絡先から茜理を選び電話をかける。コール音が二度鳴るか鳴らないかのうちに、電話が繋がった。

「もしもし。茜理? どうしたの」

《お忙しいところすみません! センパイ、いまちょっとだけ、お時間大丈夫ですか?》

 私はテーブルの上に鎮座するノートパソコンを一瞥した。

「やってることはあるけど……大丈夫だよ。なに?」

 私が促すと茜理は隠し事を話すように声のトーンを下げた。

《実はなっつんから、YouTubeに変な動画があるって話を聞いててですね……》

「うん」

 私が相槌を打つと、思い出したように茜理は「あっ!」と言って更に声を潜めた。

《センパイ、もしかしてなんですけど、もう「ときときチャンネル」ってYouTuber知ってたりしますか?》

「ときときチャンネル……?」

 軽く顎を上げて記憶を探ってみる。 

 私自身YouTubeはよく観るが、そんな名前のチャンネルを見かけた覚えはない。

「いや、たぶん知らない」

《本当ですか!》

 正直にそのまま言うと茜理が嬉しそうに声を踊らせた。

《実は私も知ったばっかりでチャンネルの動画は全部観れてないんですけど、そういう変なYouTubeチャンネルがあるんです!》

「変ってなにが?」

《え? うーん、そうですねえ……》

 私が訊くと茜理が困ったように唸り声をあげた。「あー」とか「うー」とか意味のない言葉や、動画の内容と思われる言葉の切れ端などを発する茜理だが、最後には諦めたようにしょんぼりと言う。

《すみません。説明が難しいです……今度会う時に一緒に見てくれませんか?》

 背中を丸めて申し訳なさそうにしている茜理が見えるようだった。

《一応動画のURLも送りますね!》

 そう言う茜理だったのだが、ここまで聞いていてもなんともピンとこない会話だったので、私は茜理の誘いを断ろうかと考えていた。変って言ってもどうせ実話会談の朗読とかその程度だろうし、まだレポートの作業もある……なにより最近は動き過ぎでだいぶ疲れが溜まっていた。

 ……うん、茜理には悪いけど、今回は断らせてもらおう。流石に私にも、都合というものがある。

 しかし茜理が続けた言葉に、私はその考えを翻せざるを得なくなってしまった。

《これ……裏世界絡み、かもしれません!》

「…………はぁ〜〜〜」

《あれ? 大丈夫ですか、センパイ?》

 私は膝を抱え、深々とため息をついて身悶えた。

 まだ疑惑段階とはいえ、他人から持ち込まれた裏世界の案件。

 あるいは、向こうから接触してきた裏世界の現象──禁后しかり、Tさんしかり、閏間冴月しかり──いままで碌な目に遭った試しがない。

 私はスマホを持っていない方の手で顔を覆う。

 今度はいったい、なんなんだ?

 

 翌日の午後、私が大学のカフェテリアに着いた時には、すでに茜理が店の奥まった隅の席に腰掛けていた。

 またそこか……。

 私は心の中でため息をつく。

 Tさんの件で話した時も、紅森さん絡みで肝試しだの恋愛相談(?)だのをした時も、茜理とはいつもその席だった。なぜか毎回そこだ。紅森さんも茜理もなんでいつも示し合わせたようにそこに座るのだろうか?

 別に席自体に問題があるわけではないが、なんとなく厄っぽい因果を感じてしまい落ち着かない。

「お疲れ様です、センパイ!」

 茜理は私に気が付くとパッと弾けるような笑顔になり、大きく手を振って挨拶してきた。店内の視線が一斉にこちらへ向いた。……恥ずかしい。だからやめてほしい、ほんとに。

 私は軽く手を挙げて挨拶を返すと茜理の前の空いているソファ席に座った。肩にかけていたトートバッグを下ろして、水を持ってきた店員に場所代としてホットコーヒーを注文する。

 店員がその場を離れると茜理は話を切り出した。

「急に呼び出してすみません。昨日送ったURLは観てもらえましたか?」

「まあ、観たけど……一応」

 茜理の鼻息が荒いのとは裏腹に、私はどうにも冷めた反応しか返せなかった。

 コップの水に口を付け、唇を濡らすと私は言った。

「あの動画、正直意味がわからなかったんだよね。あれの何が裏世界絡みなのか私にはちょっとピンとこなかった」

 そう言う私に茜理が「あれ?」と首を傾げる。

「私には、あれ、裏世界で配信してるように見えたんですけど……」

「配信? 裏世界で?」

 意外すぎる組み合わせに、思わず間の抜けた声が出た。同時に、口元がひとりでに歪んで、ムッとしてしまう。

 裏世界で配信? 配信なんて、そんな不特定多数が視聴する場所に裏世界を晒し出すなんて……いや、そもそもそんなことできるものなのだろうか? 裏世界で撮影したものは全て不自然な形で出力されてしまうはずなのに。

 私が心中穏やかでない思考をしている間、茜理は腕を組んで目を閉じ、しばらくうんうんと唸っていると、ハッと何かを閃いたように目を見開いた。

「もしかしてセンパイ、私が送った動画以外のアーカイブ、観てなかったですか!?」

「え、うん。そうだけど……」

 私が観たのは、「宇宙飲んでみた」という意味不明なタイトルのアーカイブだけだった。

 「成人女性」を名乗る小柄な配信者・十時さくらが、長身の女性・多田羅未貴から「宇宙の入ったマグカップ」なるものを受け取り、それを飲んでトリップだかトランスだか、よくわからない状態になる。

……という、正直意味のわからない。気味の悪い動画だった。仮に演技だとしても、リアクションがあまりに自然すぎる。

 正直、ダウナー系の危ない薬でもやってるんじゃないのかと疑いたくなるくらいだった。

 だからどうして茜理がこんな動画を私に送ってくるのか疑問だったが、なるほど本命は他の動画だったということなのか。

「ごめん、茜理。他のやつは観てないや」

「いえいえ、私が言葉足らずでした! 最初の配信から見てもらった方がいいと思って送ってたんですけど、よく考えたら問題の動画だけを送ればよかったですよね。すみません!」

 茜理は勢いよく頭を下げ、それから膝の上のミニバッグをごそごそと探ってスマホを取り出すと、操作して画面を開き、恭しく両手で私に差し出した。

「本当に見てもらいたかったのはこっちです」

 茜理からスマホを受け取る。液晶にはYouTubeのアプリが立ち上がっていて、画面を押せば再生が始まるようになっていた。

 画面に表示されていたのは、〈家の外なくしてみた〉というタイトルのアーカイブだった。

「………………」

 無言のまま、再生アイコンをタップする。

半信半疑のまま、動画が始まった。

 

──数十分程度の動画の再生が終わる。

 私が顔を上げるとなぜだか茜理は緊張した面持ちで私を見ていた。

 茜理が訊ねた。

「もう一つありますけど……観ますか?」

「観る」

 私は即答した。

 しかし、スマホを操作している茜理の動きがぎこちない。次の動画を待っていると茜理が気まずそうに言った。

「あの……センパイ、もしかして、怒ってます?」

「?」

 茜理の言っていることの意味が理解できず、私は茜理を見返す。

「怒ってないよ? ……なんで?」

「だって、無言だし、すごい目つきでにらみ付けられてるみたいで怖いんです!」

 言われて自分の声がとても低く、胸中は不機嫌さに塗れていることに気がついた。

 なんだこれ。どうして私はこんなにムカついてるんだろう?

 私は茜理のスマホに目をやった。

 不思議な場所でわちゃわちゃ騒いで遊び、あまつさえその様子を動画サイトに載せている二人の女の様子が目に浮かぶ。

 ……ああ。そうか。

 私は、裏世界に私と鳥子以外の人間が割り込んできている状況に憤慨しているのだ。

 わかってしまえばいつものことだった。

 この二人がいるのが、裏世界なのか中間領域なのか、はたまた全く別の何かなのか、あるいはCG的ななにかなのかはまだわからないが……もし仮に、本当に私たちの裏世界か中間領域を遊び場にしているのならば即刻ご退場願おう。

 方法は……後で考える。

 だがしかし、その前に茜理を不安にさせるような振る舞いをしたことを私は詫びるべきだろう。

 私は目を閉じて頭を振り、怒りの念を振り払って顔を上げた。

「ごめん。確かに不機嫌になってたみたい。でも、それは茜理のせいじゃないから安心して? 次の動画も観せてくれる?」

 意識的に柔らかい口調になるよう私は努めて声をかける。母親が小さな子どもにかけるような声色が出て、ちょっとくすぐったくなった。

 だけど、その甲斐あってか──茜理の顔から、ほんの少しだけ緊張の色が消えていた。それでもまだ動きは硬かったが。

「次の動画は、これです」

 茜理の手から再びスマホを預かり、画面を見る。

 次の動画のタイトルは〈近所の異世界散歩してみた〉。

 私は思うところがあって右目のカラコンを外してから再生アイコンをタップした。

 

 ──数十分が経った。

提供されてから一度も口をつけていなかったコーヒーを、私はようやく啜った。ぬるくなった液体が喉を通る。

 コーヒーを口に含み、味わうでもなく数秒口に溜めてから飲み下す。

 スゥと吸い込んだ息を吐く時に、私はシンプルな感想を漏らしていた。

「これ絶対、中間領域じゃん……」

「なんですかそれ?」

「ああ、ううん。なんでもない」

 私はヒラヒラと手を振って誤魔化す。

 間違えた。茜理には裏世界と中間領域の違いを敢えて説明していないのだ。

 私は意図して茜理に情報を隠している。中間領域のことを、わざと「裏世界」だと誤認させていた。これは私が裏世界を自分と鳥子のためだけの場所にしたいと言うわがままから端を発しているので、これがバレると……あまり良くないことが起きる。何がとは言えないが、昔はどうでもいい存在としか思ってなかった茜理との関係にヒビが入りかねない。それはとても良くない。そんな気がした。

 しかし、もしも何かがあっても茜理に嘘がバレても今更どう説明していいのかわからないし、できることなら説明が必要な状況にもなってほしくない。

 そんなことを考えながら、私はなんでもないふうを装って茜理の様子を伺う。

 すると同じくこちらを見ていた茜理と視線がぶつかってしまった。

 茜理は驚いたように一瞬目をまんまるに見開いたが直ぐに柔らかく微笑んで小首を傾げた。

 私はたまらず視線を逸らした。

この後輩を見ていると、自分がどうしようもなく醜い存在になったような錯覚に陥る。

……いや、錯覚なんかじゃないのかもしれない。

──ああ、本当にどうしてこの子は私みたいな女を慕ってくれるんだろう? お世辞にも性格が良いとは言えないことは自分でもわかってるくらいなのに…………。

 いやいや、いまはそんなことを考えている場合じゃないだろう。

 ぐるぐると巡り始めていた自己嫌悪の思考を、無理やり頭の外へ追いやった。

 そうだ、今はこの動画のほうが問題なのだ。 

 そう、問題。

 問題、なのだけど…………これはどうしたらいいんだ?

 私はついさっき見た二つの動画の内容を思い出す。

 最初、一つ目の動画を観たとき、私はこの動画はAIの作ったリアルなフェイク動画なのではないかと推測していた。生成AI技術は現在進行形で、ものすごいスピードで発展していっているらしい。完全に本物だと思っていたものが実はAIによって生成された偽物だったという話も既に珍しく無くなっている。素人目にはもう区別などつかないのだ。

 それでも私が「これはAIによるフェイク動画ではない」と確信できたのは、この右目によるものだった。

 過去、鳥子が左手で触れただけで閏間冴月のことを「違うもの」と見破ったのと同じように。同じく潤巳るなが声を使って〈裏世界の彼ら〉の存在を知覚したように。私の右目がこの動画に映る風景は間違いなく本物であるということを看破しているのだ。

「教えてくれてありがとね。茜理」

 私は外していたカラコンを右目に着けながら茜理に礼を言った。

「はい! センパイのお役に立てて嬉しいです!」

 茜理の言葉に私は笑顔で返すと、窓ガラス越しに空を見た。太陽の位置が低い。そろそろ夕方になる。茜理さえ良ければ私の奢りで夕飯はどこかの店にでも食べに行こう。

「じゃあ、そろそろ出ようか」

「あの、センパイ!」

「なに?」

「結局、この動画の件はどうするんですか?」

「……うーん」

 私は腕を組んで唸る。正直どうすべきかということにまで、まだ頭が回っていない。私一人でどうにかできる気がしないし、小桜あたりに知恵を貸してもらいたいと考えていた。

「この件は鳥子たちに相談してみるよ」

「あ! あのセンパイ、私も手伝います!」

「え? それは……ダメかな」

 茜理が「え……」と小さく声を漏らした。

「今回は手伝わなくっていいや」

 しばし茜理はフリーズしていたが、すぐに両手を動かして言う。

「私、邪魔しませんし、きっと役に立ちますよ。空手でボッコボコにしてやりますから! あの坊主倒した時みたいに!」

「坊主?」

「このあいだセンパイに暴力振るった奴です! センパイを脳震盪にさせた奴!」

「ああ、〈Tさん〉ね」

 茜理がそう言って私は理解できた。それでも私は首を縦には振らない。

「いや、今回はアレ関係ないし、そもそも明確な敵がいるわけじゃなさそうだからさ、茜理に出張ってきてもらう必要性がないんだよね」

 諭すように話す私に対して、珍しく茜理は子供みたいに両手をブンブン振って自己主張している。

「でもでもっ、でっかい蛇みたいなのも出てきてましたよね!?」

「あれは空手でどうにかできるものじゃないでしょ……?」

「ダメ、ですか……?」

「いや、ダメっていうか……茜理になにかあったら私が夏妃に殺されちゃうよ」

「?……なっつんが、ですか?」

「夏妃、茜理のことすごく大事にしてるでしょ? そんな茜理を、もし裏世界に連れていって、そこで……取り返しのつかないことになったら、私は……夏妃にも、茜理のご両親にも顔向けできないよ」

「うーん……!」

 しばらくの間、茜理はゴネるように唸っていたけれど、最終的にガックリと肩を落として頭を縦に振った。納得したようにはとても見えなかったが、こればっかりは気軽にイエスとは言えないことなのだ。茜理はしょぼくれた顔で「役に立ちたいのに……」と呟いた。

……どうしてそんな顔をするのか、私にはうまく理解できなかった。

 茜理が役に立たないなんて、思ってないんだけどな。

 私は内心、首を傾げながら二人分の伝票を持ってレジへ向かうのだった。

 

 

 

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2

 

「ああ、あたしそれ知ってる」

 私の予想に反してそう言うなり、小桜は整然と並ぶマルチディスプレイの一つを手早く操作し、YouTubeを開いた。カチカチと何度かマウスをクリックし、やがて画面を指差す。

「このチャンネルだろ?」

「あ、はい、それです」

 茜理と話した翌日、私は鳥子と一緒に小桜の屋敷を訪ねていた。

 最初から順を追って説明しようと話し始めたばかりの頃、小桜が〈ときときチャンネル〉を知っていると言ったのだった。

 画面には、小桜が登録しているチャンネル一覧の中に〈ときときチャンネル〉の名前とアイコンが表示されていた。

 小桜がマウスを操作し、〈ときときチャンネル〉のアイコンをクリックする。画面がパッと切り替わり、最近投稿された動画や、再生回数の多い動画のサムネイルがずらりと表示された。

「んーっ、んんんっんん」

 鳥子が、小桜への手土産に持ってきたシュークリームを口いっぱいに頬張ったまま、行儀悪く何か喋ろうとしている。

 そんな顔ですら妙に愛嬌があって、可愛らしいと思ってしまうのが腹立たしい。私が同じことをしたら、きっと白い目で見られるに決まってる。……本当になんなんだ、この女は。

 そんな鳥子をスルーして、小桜が少しだけ不安そうに私に訊いてきた。

「なあ空魚ちゃん。これ観たからってさ、急に裏世界に飛ばされたりしないよな」

「さあ、それは……わかりませんけど」

 私が言い切る前に、小桜は両手を前に出し、勢いよく首を振った。

「ならパス。あたしは観るのやめる。登録も解除する」

「え、でも小桜さん、チャンネル登録してるんですよね? ってことは、もう観たんじゃないんですか?」

 私がそう言うと、小桜は眉間にしわを寄せて首を振った。

「いや、観てはいない。SNSのおすすめに出てきてて、なんとなく登録しただけ。裏世界に関係あるなんて知ってたら、速攻でブロックしてたわ」

 小桜の言葉に、私は小さな疑問を覚えた。

 普通は、面白い動画を観て「また観たい」と思ったからチャンネル登録をするものなんじゃないだろうか。あるいは、興味のあるジャンルを扱っているから、とか。

 でも小桜は、動画をひとつも観ないまま、大して興味もないのに登録したということになる。

……もしかして、おかしいのは私のほうで、小桜のやり方が今どきの“普通”なのか?

 なんだか妙だなと思っていると、隣にいた鳥子がシュークリームを飲み込んでから言った。

「私もこのチャンネル知ってる!」

「鳥子が?」

「うん」

 鳥子がうなずく。あまりYouTubeを見ているイメージがない鳥子が、こういうチャンネルを知っているなんて、ちょっと意外だった。

「このあいだ暇つぶしにYouTube観てたらオススメに出てきて、なんとなくチャンネル登録だけしてたんだ」

「じゃあ鳥子はもう観たの?」

「ううん。観てない。へー、こんなのあるんだ〜って、それだけ。登録したことも今さっき思い出したくらい」

 思わぬ偶然に私は面食らう。──何か、変じゃないか?

「このチャンネルの登録者数、千人もいってないんですよ」

「へえ、そうなんだ」

 私がそう言うと、鳥子が軽く相槌を打った。一方で、小桜の表情が曇るのを青白い液晶の光が浮かび上がらせていた。私はそのまま言葉を継いだ。

「千人も登録者がいないようなマイナーなチャンネルなのに、私も、鳥子も、小桜さんも知ってる。YouTubeのおすすめ欄って、どういうアルゴリズムで動画を出してるのか分かりませんが、ちょっと不自然じゃないですか?」

 私が疑問を投げかけると、小桜の顔色がみるみる悪くなっていった。

「空魚ちゃん、それって……」

「はい。偶然じゃなくて、意識を誘導されてたんじゃないかって思うんです」

「……誰に」

「それは、もちろん裏世界に──」

「いやだーっ!!」

 小桜が唐突に叫んで逃げようとするのを、示し合わせたように私と鳥子が遮った。私が正面に立ち、鳥子が背後から小桜の肩を押さえると、小桜は私の服を掴み、憤慨したように声を荒らげた。

「なにすんだ、どけっ」

「いえ、小桜さんにも観てほしいんです」

「観たくない!」

「どうしてですか?」

 私が尋ねると、小桜は呆然と怒りが入り混じった、なんとも味わい深い表情を浮かべた。

「空魚ちゃんさ、今までの話の流れでわかんなかった!? 裏世界関係の動画なんて観たくねえんだよ! 何かあったらどうすんだよ!」

「でも、小桜さんも無意識のうちに誘導されてた可能性が高いですよね?」

 感情的になる小桜をなだめるように、私は「ドウドウ」と手をかざした。

「それがなんだよ!」

「ここで何かしら解決の糸口が見つからないと、たとえば小桜さんが一人でいるときに、なぜか急に動画が観たくなって──そのまま裏世界に飛ばされてしまうかもしれませんよ」

「…………」

 小桜は何か思うところがあったのか、数秒黙り込んだあと、突然ヒステリックに髪をかきむしって叫んだ。

「ちくしょう、返せよ! あたしの平穏な人生!」

「別に奪ってませんよ」

「うるせー! 空魚ちゃんに言ったわけじゃねえよ!!」

 小桜が私の脛を蹴った。距離が近かったのと、スリッパを履いていたせいで、まったく痛くなかった。

「小桜、落ち着いて。リラックスだよ、リラックス」

 荒く息をしている小桜の肩を、鳥子が無言で揉んだ。小桜はそれを鬱陶しそうに払いのけ、一度深呼吸してから苦々しげに言った。

「まあいい……いや全然よくはないが、とにかく空魚ちゃんの言い分はわかった」

「はい」

「でもさ、そもそもあたしがそれ観て、何になるんだよ?」

 小桜がもっともな疑問を投げかけたので、私は答えた。

「動画の配信者は二人いて、片方の人が『天才科学者』っていう設定……っていうか、そういう役らしくて、いろいろ喋ってるんですけど、正直、何言ってるのかよくわからなくて。だから、もしかしたら小桜さんなら理解できるんじゃないかなって思ったんです」

 小桜は腕を組んでしばらく黙り込み、考え込んだ末に、ふるふると首を横に振った。

「なにか期待されてるのかもしれないけど、分野が違えばあたしにも分かんない可能性は高いぞ。ましてやそいつが出鱈目言ってるなら、なおさらだ」

「そうなんですか……」

「そういうもんなんだよ」

 小桜は大きくうなずいた。どうやら、観たくないからと嘘をついているわけではなさそうだ。

 なんとなく予想はしていたけれど、やはり無理なのかもしれない。そうなると、他の方法を考える必要がある。

「ねえねえ、空魚」

 私がひとり思考の渦に沈んでいると、小桜を挟んで鳥子が私に問いかけてきた。

「小桜が言ってたことを真似するわけじゃないけど、そもそも私たちがこれを観て、どうするの?」

 鳥子がPCのディスプレイを指さした。

「動画を観て私と小桜の意見が聞きたいの? それでもし危なそうなら配信者の人達に、そこは危ないから行くのやめた方がいいよって言ったりするの?」

 鋭い鳥子の指摘に、私は曖昧に頷いた。正直、どうすればいいか思いつかないからこそ、二人に相談しに来たのだ。

「……まあ、そんな感じよ。放っておいたら、この人たち中間領域から裏世界に迷い込んで、そのまま戻れなくなって死んじゃうでしょ」

「うん。たぶん、そうなるね」

「それに、不特定多数に裏世界が垂れ流されるなんて危険すぎるから、やめさせたい」

 私は続ける。

「あと単純に私と鳥子の裏世界に他所の人間が入り込むのが、すごく嫌」

「ふーん?」

 鳥子があまり見たことのない満足げな表情で鼻を鳴らすと、私と小桜から少し離れた位置にあった椅子をディスプレイの前に運び、ゆったりと腰を下ろしてもたれかかった。鳥子が私と小桜の方を振り返って言った。

「じゃあ観てみようか。ほら、小桜、座って」

「…………」

 促されて、小桜はトボトボと自分の椅子に座った。私は小桜を元気づけようと声をかける。

「大丈夫ですよ、小桜さん。私たちもいるので」

「そうだよ、小桜。何かあったら絶対に助けてあげるから」

 小桜は私たちの言葉を聞くと、なぜか大きく溜息をついて天を仰ぎ、肩を落としてうなだれながらつぶやいた。

「ちくしょおぉ……」

「じゃあ、再生しますね」

 私は小桜の呟きを横に置いて、デスクの前に屈み込みマウスを操作した。

 こうして、私たちの〈ときときチャンネル〉鑑賞会が始まった。

 

 

 

 

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2.5

 

〈家の外なくしてみた〉

「何言ってんだこいつら……?」

「ねえ空魚、これちょっと猫の忍者に襲われた時の小さな街に似てない?」

「あ、私もそれ思った」

「ここはあそこよりも広くて歩きやすそうだし、いいよね」

「わかる。ちょっと行ってみたいかも」

「何言ってんのおまえら……?」

 

〈近所の異世界散歩してみた〉

「これは空魚の言う通り、まるっきり中間領域だよね」

「うん。中間領域の深度を自由に変更できるアイテムは地味にほしいかも」

「そうだね〜……浅いところならそんなに気味の悪い感じもしなかったし、私も欲しいかも」

「だよね。色んな相を飛び越える感じが、ちょっと霞の能力に似てて羨ましい」

「わかる! あとバンちゃんがかわいい! ポケモンのポリゴンみたい!」

「なんでおまえらはあの馬鹿でかくておっかない蛇みたいなバケモノよりも好奇心が勝っちゃってるんだよ……」

「ううん、怖いなあくらいは思うよ? でもなんとなく、あ、このパターンか。みたいな慣れがあるよね」

「私たち、もう八百尺様に一度追いかけられたことあるからね」

「八百尺様ってなに??????」

 

 

 

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3

 

 動画の視聴を終え、私たちは三人でテーブルを囲んでいた。アーカイブはまだいくつか残っていたけれど、茜理の話では「裏世界っぽい」のはさっきの二本だけらしい。

「空魚、なんだか機嫌良さそうだね」

「そうかな?」

 言ってみたが私は自分でも両頬が緩んでいるのを感じていた。

 茜理の前で一人で黙々と動画を見ていたときとは違い、三人で雑談を交えながら観ていると、不思議と楽しかった。

 あまり詳しくはないけれど、立川あたりでやっているという「声出し上映」や、YouTuberがたまにやっているアニメや映画の同時視聴に似ているのかもしれない。以前は「なんでそんなことが楽しいんだろう」と疑問に思っていたが、いざやってみると予想外に楽しかった。

 咀嚼していたシュークリームを飲み込んでから小桜が言った。

「観たはいいけどさ、結局こいつらにあたしらはなんのアクション起こせば良いんだ? なんかおまえたちみたいに楽しそうにはしゃいでるぞ」

 視聴前は元気のなかった小桜だが今は調子を取り戻したようでハキハキと喋っている。

「そうなんですよね……鳥子はどうだった?」

「私も小桜と同じかな。楽しそうな遊び場を見つけてはしゃいでるように見えた。これ、『やめて』って言ってやめさせるのは難しいんじゃないかな」

「やっぱりそうだよね……」

 指についたクリームをティッシュで拭き取りながら、小桜が観察した内容をまとめるように言った。

「あえて言うなら、中間領域では映像に異常が起きないってのは、ひとつの発見だったな。話してる内容も異言にならず、普通だったし……まあ、やってることはまともとは言えないけどな」

 その言葉に、私は大きくため息をついた。

「そういう発見とかを、他人に先に見つけられるのが嫌なんですよ……はあ〜」

 もう誰も言葉が出てこないのか、テーブルの上に静けさが落ちた。このままでは、なんの解決策も見つからないまま終わってしまう。

 何か手を打たなきゃ。そう思えば思うほど、頭の中は真っ白になっていく。

 遮光カーテンの隙間から漏れる光が、うっすらとオレンジ色に染まっていた。

 どうしたものか……と思考の沼にズブズブと沈みかけていたとき、小桜がホットコーラの入ったマグカップをじっと見つめながら、無表情で呟いた。

「放っておいたら、こいつらいつか死ぬ可能性があるんだよな?」

 小桜が当然のことを訊ねてくるので私は思わず小桜をまじまじと見つめてしまった。裏世界の危険性を知らないはずはないのに、どうしてそんなことを確認するのだろう?

 私の視線に気づいたのか、小桜は不機嫌そうにマグカップをテーブルに置き、腕を組んで言い返す。

「どうなんだよ。合ってるんだよな?」

「そ、そうですね。たぶん、初手でグリッチ踏んでお終いだと思います」

「だよなぁ……しゃーねーな」

 小桜は小さく舌打ちをすると、ソファから立ち上がった。

 ペタペタとスリッパの音を立てながらデスクへ向かい、椅子にドスンと腰を下ろす。そしてすぐさま、何やらPCをカタカタと操作し始めた。

 私は鳥子と顔を見合わせる。

「小桜、どうするの?」

 鳥子が尋ねると、小桜はキーボードを素早く叩きながら答えた。

「まずは、無駄だと思うけど。捨てアカ使って、SNSからDMで注意喚起する。……反応は期待してないけどな」

 言いながらも、小桜の指は迷いなくキーを叩き続ける。私と鳥子は背後から小桜の画面を覗き込んだ。

 見る間に、丁寧で他所行きの文章が形になっていく。

 簡単な挨拶から始まり——あなたたちがたびたび侵入してしまっている空間は「中間領域」と呼ばれ、非常に危険な場所であること。さらにその先には、比べものにならないほど危険な「裏世界」が存在し、いずれあなたたち自身だけでなく、視聴者にも害を及ぼすおそれがあること——そうした内容が、簡潔でありながらも十分に危機感を与える文面にまとまっていく。

 最後に、小桜は迷うようにキーボードの上で手をさまよわせたが、思いつくことがなかったのか、ふたたびカタカタとキーを叩いた。

〈リトルブロッサム〉

 文の最後には、そう書かれていた。

 小桜はマウスを操作し、そのまま文面をダイレクトメッセージで送信した。

「わあ……」

「すご……」

 私と鳥子から、感嘆の声がもれる。

「小桜、すごいね。なんか社会人みたい」

「社会人だバカ。……それに内容は、普段お前らに言ってることと、言いたくても言ってなかったことのハイブリッドだよ」

 鳥子の余計な一言にムッとしながらも、小桜は苦々しげに続けた。

「あんまり期待すんなよ。さっきも言ったが、たぶん意味ないだろうからな」

「そうなの?」

 小桜は深く頷いた。

「シンプルに人格分析するだけでも、こいつら二人ともネジ飛んでるのがわかる。……たとえば、こっちのちっこいやつ」

  小桜が指差したのは、画面に映る小桜と同じくらい小柄な、ピンク髪の女性──十時さくらだった。

「散々、ありえない事象に遭遇して、化け物に襲われかけてるのに、平然と配信続けてる。……お前らと同じで、恐怖の感覚が狂ってるんだろ。小金目当てらしいが、あたしだったらもっと別の稼ぎ方考えるね」

 指をスライドさせると、気だるげな表情の大柄な女性──多田羅未貴の姿が画面に映る。

「で、こっちのでっかいモサモサは、もっとヤバい」

「そうなの? そんな感じしないけど……?」

 鳥子が首をかしげると、小桜はわずかに口元を歪めて首を振った。

「研究者ってのは、基本的に自分が見つけたもんを誰かに見せびらかしたくて仕方ない生き物なんだよ。実験して、論文書いて、発表して、スポンサーつけて、それでメシ食ってんだから」

 小桜はそこで言葉を区切り、画面の中の多田羅未貴を指して言った。

「でもこの女、自分の中だけで全部完結してる。誰にも評価されなくても、意味のわからないもんを黙々と作り続けてる。……だから、たぶんあたしみたいな外野の言葉なんて、聞く耳持たないだろうな」

 小桜は息を吐き、椅子にもたれた。

「どうせこんなメッセージ、厄介オタクの『お気持ちDM』扱いされて終わるのがオチだよ。だからこれはあくまでサブ。……メインは、汀に頼んでこいつらの住所調べて、直接家に行くことだろうな」

「それって……直接、会って話すってことですよね……」

 思わず口ごもった私に、小桜は椅子をくるりと回して向き直る。

「言ってもやめないなら、止めに行くしかないだろ。……言っとくけど、あたしが手伝うのはここまでな。実際に会いに行くなら、説得はお前らだけでやれよ」

 小桜のその言葉に、私は固まってしまった。

 説得? 私と鳥子が……?

 思わず鳥子の方を見る。

「……説得って、どうやるんだろう……?」

「さあ……?」

 ……そうだ。私たちは、二人そろってコミュニケーション能力が赤点なのだった。どうする……???

 脳内に、ぽつんと浮かんだのは──るなをDS研から連れてきて、声を使って〈ときときチャンネル〉の二人に「中間領域と裏世界に入るのをやめろ」と言わせる、という最悪のアイディアだった。

 ……が、それは以前、私が「そういうことは二度とするな」とるなにきつく言ったばかりで、とても言い出せない。

 でも、他に方法が思いつかない。そんな最悪な案しか浮かばないくらい、思考が追い詰められていた。

 私は縋る思いで胸の前で手を合わせる。仰ぐ神などいないので祈ったところでどうにもならないのはわかっている。けれど──

 お願いです、〈ときときチャンネル〉さん。頼むから、ダイレクトメッセージだけで目を覚ましてくれ……!

 その時、小桜のPCから「ピコン」と軽い通知音が鳴った。

「〈ときときチャンネル〉からだ。……早いな。無職か?」

 そう言いながら、小桜がダイレクトメッセージを開く。

 私と鳥子は、同時にごくりと唾を飲み込んだ。小桜の肩越しに目を凝らして、画面に表示された文章を読み進める。青白い液晶の光の中、感嘆符だらけのメッセージが踊っていた。

 

 そこには、こう書かれていた。

 

 

《リトルブロッサムさん

 配信をご視聴いただきありがとうございます! チャンネル登録もしていただけて、とても嬉しいです!!

 配信内容についてですが、このチャンネルは相方の多田羅が気まぐれで発明したものを紹介するチャンネルなので、私自身、その日の配信で何が起こるのかまったくわかっていない状態なんです……。

 以前、リトルブロッサムさんのおっしゃる「中間領域」という場所に入り込んでしまったときは、私たちも本当に怖い思いをしました。なので、二度とあんな場所には行かないよう、多田羅にはよく注意しておきます!

 ご心配いただき、ありがとうございました!!

 今後もぜひご視聴よろしくお願いします!!》

 

 

 ………………。

 小桜は無言のままため息をつくと、肩をすくめながら両手をヒラヒラさせる仕草を見せた。

 私と鳥子も、ジェスチャーこそしなかったが、同じようにため息をついていた。

 ──つまり、「わざと行ったりはしないけど、配信はやめないよ!!」ということだ。

 ……だが、それだけではきっと不十分なのだ。

 私たちが、裏世界の手に導かれるようにして〈ときときチャンネル〉に出会ったように。

〈ときときチャンネル〉の二人もまた、本人たちの意思に関係なく、裏世界へと引き込まれる可能性がある。

 配信をやめたからといって、それが完全に回避できるとは限らない。けれど──

 危険を承知で、それでもなお、無防備に踏み込むのをただ見ているわけにはいかない。

 なにより、私は。

 裏世界の存在を──あんなものを──世間に知られたくなんか、ないのだ。

 だけど……だけどさ……。

 本当に、これ……私たちが止めに行かなきゃいけないの?

 ──嫌だなあ……。

 

 

 

 

────────────────────

4

 

 小桜屋敷で〈ときときチャンネル〉の声出し上映会をした翌日。

 私は大学の学食で、遅めの昼食を取っていた。

 メニューは、ごぼうの天ぷらが乗った温かい蕎麦。

 食べ終わったら、レポート作成のための追加資料を借りに図書館へ行く予定だ。

 ──という建前で、私はレポートに集中していた。

 ………………。

 実際のところは、〈ときときチャンネル〉の二人を説得するという、あまりにも面倒で、あまりにも厄介そうなイベントから現実逃避していただけだった。

 まあ、レポートの提出期限が明日なのは事実なのだけど。

 どうやら、小桜の話では、例の二人の住所はすでに汀が割り出してくれたらしい。

 仕事が早すぎる。ありがたいけど、ちょっと怖い……。

 残るは、私と鳥子が動き出すだけ──という段階になっていた。

 なのに、私の頭の中では天秤がぐらぐらと揺れて、まったく安定しなかった。

 一応「裏世界に軽い気持ちで踏み込むなんて、許せない!」という思いはある。

 けれど、実際に会ったこともない他人を説得しに行くという行為が、自分にとって予想以上に重たく感じられていた。

 天秤がようやく一方に傾いたかと思えば、「いやいや、赤の他人とはいえ見捨てるのはまずいでしょ」という考えが浮かび──

 次の瞬間には「もう忠告はしたんだから、あとは自己責任でしょ」という思考が上書きしてくる。

 だが……正直に言ってしまうと。

 私の中でいちばん強く渦巻いている懸念は、実はそこではなかった。

 ──もし、〈ときときチャンネル〉の二人を見捨てたら。

 鳥子や小桜は、私のことをどう思うのだろう?

 それに、茜理がそのことを知ったら……私はどう見られる?

 そう考えた瞬間、胃のあたりがきゅうっと締めつけられるような感覚に襲われた。

 私は今、自分に向けられているみんなからの信頼を、失うのが怖いのだ。

 なにかを考えようとするたび、結局この一点に思考が引き戻されてしまう。

 半分ほどしか減っていない蕎麦を、箸でくるくるとかき混ぜた。

 ──ああ、悩みがあると、ご飯ってほんとに美味しくない。

 くそぅ、〈ときときチャンネル〉め……。

 全部おまえらのせいだ。マジ許さん……。

 私は深く息を吐いた。

 ──まあ、結局のところ、結論はもう出ているのだ。

 私は冷静にこの問題を分析する。感情を切り離して、何をするのが最も合理的かを考えてみれば、抱えている問題と、それを解決するための方法は明白だった。

 最大の問題は、「私が物事の主導権を握れていない」こと。それ以外に答えはない。

 〈ときときチャンネル〉がどう動くか、何をするのか──そのすべてに、私の思考も感情も、ひいては行動までもが振り回されている。支配されている。

 その感覚が、私はどうしようもなく腹立たしかった。

 だったら、ただ見守っている場合じゃない。

 私たちに都合の良い結果をただ待つよりも、彼女たちの家に直接乗り込んだ方が、よほどマシだ。

 面倒なことには変わりないけれど、少なくとも、自分以外の誰かの一挙手一投足に心をかき乱されることはなくなる。

 ……よし、汀から彼女たちの住所を聞こう。

 そして、レポートが完成したら──つまり明後日には、鳥子を連れて直接向かう。家凸だ。

 ついでに汀も誘っておこう。あの人が一緒にいれば、場の空気はこっちにとって都合よく動いてくれる。

 〈ときときチャンネル〉の二人には死ぬほど嫌がられるだろうけど、関係ない。

 どうなろうが、死の危険がある裏世界に行くよりは、よほどマシなんだから。我慢してもらおう。

 そうと決まれば、少しだけ気が楽になった。

 私は、水の入ったコップを手に取り、額に押し当てる。

 考えすぎて火照っていた頭に、冷たさが心地よかった。今後の目処が立ったことで、気持ちも少しスッキリした。

 思考を止めると、周囲の音が耳に入ってきた。

 学食では、学生たちがあちこちで騒いでいる。食事を済ませたものの、特に行くあてもないのだろう。

 私はポケットからスマホを取り出した。

 午後四時を過ぎている。そろそろ蕎麦を食べ終えて、図書館へ向かわなければ。

 たしか図書館の利用時間は午後五時。資料を探す時間を考えると、あまり余裕はない。

 ──と、その時だった。

 手に持っていたスマホから、着信音が鳴った。

 液晶に表示されていた名前は──瀬戸茜理。

 ……なんとなく胸にざわめきが走ったが、私は受信ボタンをタップした。

「……もしもし、紙越です」

《もしもしセンパイ! いまどこにいますか?》

 スマホのスピーカーから、茜理の急きたてるような声が聞こえる。不審には思ったが、私は素直に答えた。

「大学の学食にいるよ」

《今からそっちに行ってもいいですか?》

「別にいいけど……」

《すぐに行きます!!》

 そう言って、電話は一方的に切れた。

 私は顔をしかめる。嫌な予感がする。せっかく握りかけていた主導権の手綱が、また私の手元から離れていくような、そんな気配だった。

 一体、何が起ころうとしているんだろう。

 電話が切れたあと、私は残っていた蕎麦を平らげ、盆ごと返却口に戻してから茜理を待った。

 しばらくして、学食の出入り口から茜理が現れた。早い。まだ十分も経っていないはずだ。あたりを見回して私を探している様子だったが、手を挙げるより先に、茜理の方が私を見つけた。

 小走りで近づいてくる茜理は、メイクなしのオフモード。よほど急いできたのか、顔には大汗をかいていた。それでも呼吸は乱れていない。日頃の鍛錬がうかがえる。

 私は備え付けの紙ナプキンを手に取り、茜理の額や頬を軽くペタペタと拭いてやった。

「汗拭きシートでも持ってればよかったんだけど」

「あっ、あっ、センパイ! 自分でやりますから〜!」

 そう言いながら、茜理は自分の服の袖で何度か汗を拭った。

 それが済むと、彼女は息も整えぬまま話し始めた。

「今さっき、あのチャンネルが配信を始めたんですけど、最初は普通だったのに──急に画面が青くなって、二人が草原みたいなとこに飛ばされてたんです!」

「ちょっと、それ見せて!」

 茜理が即座にスマホを差し出す。画面にはすでにYouTubeの配信が映っていた。

 映っているのは、十時さくらと多田羅未貴。けれど、カメラの画角が明らかにおかしい。撮影機材を持っているはずの十時と、その隣に立つ多田羅を、まるで真後ろから撮っているような視点だった。

 私は唾を飲む。この現象は──見覚えがある。私と鳥子が裏世界で撮影したときに起きた、あの現象と同じだ。

 スマホのスピーカーが二人の声を拾った。

《宿をここに立てれば、もはや橋を労わる必要はなかったのでは!?》

 言葉が、変だ。何かの異言のように聞こえる。意味が分からない。

 小柄な十時さくらは、うろたえている様子で、カメラを構えたまま手足をバタバタさせながら、多田羅に何かを必死に訴えている。

《これまでに見た!? おばあさんの持っている櫛がなくなってしまいました!!》

《魚が来ます。色々な問答があるかもしれませんが……》

 カメラの画角が切り替わった。今度は上空からの映像──まるでドローンによる空撮のようだ。二人の姿を中央に収めた画面の端に、何かチラチラと光るものが映っていた。

「あれ?」

 あの光──まさか。

 多田羅もそれに気づいたらしい。指をその方向に伸ばしている。

《暗い夜道を辿って行く彗星を見て、ああ、これはしかばねなのだと納得できるのですか?》

《手には何も持ってない……足を拾っていると怖くなってしまいました……》

 多田羅が光の方へ歩き出し、十時がそれを追いかける。言葉の意味はつかめないが、行動から大体の流れは読み取れる。

 私は右目に意識を向けた。画面の中、二人の周囲にはグリッチは見えない。……いや、配信越しではそもそもグリッチが見えないだけかもしれない。それに、今はカラコンも入れたままだ。

 やがて二人の姿が画面からフェードアウトする。それに呼応するように、配信の映像も四隅から青く染まりはじめ──最後には、黒と見分けのつかないほどの濃紺に覆われて、すべてが消えた。音も、なくなった。

 チャット欄がざわついている。

《二人ともどうしたの?》

《今回もすげーな》

《最後何言ってるのかわからなくて草》

《配信終わってないんだけど大丈夫?》

 私は深いため息をついて、椅子の背もたれに寄りかかる。

 ──なるほど、こう来たか。

「こうなったか〜……」

 私がテーブルに手をつき、ぐったりとうなだれると、茜理が質問を投げかけてきた。

「この二人、いま裏世界に行っちゃったんですか?」

「そうだね……」

「じゃあ、センパイ、やっぱり助けに行くんですよね?」

 私は浅くうなずいた。

「……まあね。放っておくと死んじゃうだろうし」

「草しか生えてない裏世界なんて、初めて見ました。猫の忍者のときも、なっつんのやつも、坊主のやつも、全然ちがってて」

「私は、初めてじゃないよ」

 そう口にしてから、私は失敗したと気づいた。

 十時と多田羅──そして、あの光。それに気を取られすぎて、茜理が今の映像を“本物の裏世界”として目にしていた、という重大な事実をすっかり忘れていたのだ。

 でも、茜理は気にしたふうもなく、むしろ嬉しそうに身を乗り出してくる。

「そうなんですね! でも、あんな広そうな草原で人を探すなら、人手が必要じゃないですか? 私にも手伝わせてください!」

 茜理が、まるで予想した通りのセリフを言ってきたので、私は慌てて首を振った。

「いや、この前も言ったじゃん。あそこは裏世界の中でも、特にヤバい場所なの。本当に危ないんだって」

「でもっ──」

「あのね」

 食い下がろうとする茜理を、私はわざと低い声で遮った。

「私は、自分と鳥子以外の人に裏世界に入られるのが嫌なの。だから──したくもない人助けに行く。悪いけど、茜理は連れて行きたくない」

 茜理の体が、一瞬だけぴたりと固まった。

 でもすぐに、ぎこちない笑顔を作って返してきた。

「……そっか。ですよね。私、ちょっと張り切りすぎてたかも」

 その声が、わずかに震えていた。

 でも茜理は気づかれまいとするように、笑顔を崩さず言葉を続けた。

「でも、役に立てるならって……空手だって、少しくらいは……」

 その声はだんだんと尻すぼみになっていった。目元もどこか泳いでいて、さっきまでの元気さが消えている。

 私は、それでも話を進めた。

「それに、この前も言ったでしょ? もし茜理が怪我したり、最悪死んだりしたら──夏妃にどんな顔されるか、わからないじゃん。怒った夏妃が、私たちのことを警察に通報したら、それで終わりなんだよ」

「でも、なっつんとは『裏世界のことは誰にも言わない』って約束しましたし……」

 それでも、茜理の声はどこか不安定だった。

 私は言い返すように手をかざす。

「それでも、いざってときには、夏妃は約束を破ると思うよ」

「そんなこと……」

 そう言いかけた茜理の言葉を、私はまた手で制した。

「私だったら、破る。たとえばだけど──誰かのせいで鳥子が死んだり、大怪我したりしたら、私は怒り狂うと思う。その相手が警察に通報できる弱点を持ってるなら、絶対に通報する」

 夏妃は茜理を愛している。恋愛感情として、強い好意を抱いている。

 その茜理が裏世界で怪我でもしたら、夏妃は想像以上に怒るだろう。

 警察に駆け込まれるだけならまだいい。最悪、工具でボコボコにされて──本当に殺されるかもしれない。

「だから、私は茜理を連れていけな──」

 そこまで言って、私は言葉を止めた。

 茜理の様子が、おかしい。

 さっきまで作っていた笑顔が消えていた。

 目が赤くなっていて、まぶたがかすかに震えている。

 よく見ると──茜理の目が、じわじわと涙で潤んでいた。

 え? なんで?

 なんで泣くの?

 今、泣くようなところ……あった?

 いや、あったのか。

 ずっと明るく話していたから気づかなかったけど、茜理、ずっと我慢してたんだ。

「私、センパイにとって──必要ないですか……?」

 涙声になった茜理にそう聞かれて、私は焦って言葉を探した。

「い、いや、別に茜理が必要ないとか、邪魔だとか言いたいわけじゃなくてね。茜理の空手が必要になるような事態かどうかも、わからないしさ──」

 思わぬ事態に私は早口になった。しかし、その言葉は茜理に遮られる。

「必要になったら……本当に呼んでくれるんですか?」

 私の返事を待たず、茜理は続ける。

「私、センパイの役に立ちたいんです……」

 その瞬間、茜理の目から、一筋の涙がぽろりとこぼれ落ちた。

 私は、ひどく動揺した。

 どうしよう。泣かせちゃった……

 そんなつもり、なかったのに……

 私は訳がわからなくなり、いてもたってもいられず椅子を立った。そして茜理の横へ移動し、その背中を撫でる。

 茜理は驚いたように私を見上げたが、すぐにうつむいて顔を隠した。

 上から下へ、上から下へ。何度も背中を撫で下ろす。茜理の強張った筋肉をほぐすように。何度も、何度も。

 茜理は黙ったままだけど、鼻をすする音だけが聞こえる。

 私は、自分のこの行動に意味があるのか疑問に思いながらも──撫で続けていた。

 すると、ふいに、昔の記憶が蘇ってきた。

 まだ私が小さかった頃。理由は覚えていないけど泣いていた私の背中を、お母さんが撫でてくれたことがあった。

 あの手は優しくて、でも力強くて。何度も往復する、大きくてあたたかい手の感触──あのときの安心感は、十年近く経った今でも覚えている。

 だから、私は茜理にも、それをしてあげたくなったのだ。

「茜理は十分、よくやってくれてるよ」

 気づけば、私はそう言っていた。

 自分でも驚くほど優しい声が出て、一瞬だけ戸惑う。でも私は、そのまま言葉を続けた。

「そもそも、この動画を持ってきてくれたのは茜理でしょ? だから、もうすでに役に立ってるんだよ」

 それにね、と私は続ける。

「私は、茜理を危ない場所に連れて行くのが嫌なんだ。私たちはこれを持ってるからまだマシだけど──」

 そう言いながら、私は手を銃の形にして茜理の顔の前に出した。

 うつむいた茜理の表情は見えないが、手の先に視線を感じる。

「茜理は近接戦担当でしょ? 私たちより、よっぽど怪我する可能性が高い。裏世界は本当に命が危ない場所なんだから──だから、連れて行けないの」

 茜理は黙ったまま、私は背中を撫で続ける。

 沈黙が、重い。

 いつも明るい茜理が黙っていると、空気がこんなにも気まずくなるなんて。

 外の学生たちの談笑が無駄に耳に響く。食堂の電球は白々しく、ピカピカ光っていた。

 しばらくして──鼻をすする音が止まり、茜理の丸まっていた背中がすっと伸びた。

「……よし!!」

 茜理はそう言って、両手で自分の頬をパチンと叩いた。

 その音に、周囲の学生たちが何事かとこちらに視線を向ける。

 ……正直、茜理が泣き出してからずっと、周囲のざわめきと視線は感じていた。

 私は、もうとっくに居心地が悪くなっていた。

 バッと茜理が顔を上げた。頬はセルフビンタで赤く染まっている。

 それでも彼女はまったく気にしていない様子で、というか気づいてすらいないような顔で言った。

「裏世界に関係ないことでも、力仕事が必要なら遠慮なく呼んでください!」

「いや、そんな使いパシリみたいなこと……」

 私は困惑のまなざしで茜理を見つめる。

 その視線をどう受け取ったのか、茜理は張り切った様子で肩をぐるぐると回しはじめた。

「センパイのためなら、なんでもやりますよ!」

 ……いや、そんな力強くパシリ宣言されても。

「じゃあ私は自宅待機してます。何かあったら連絡ください! どこへでも駆けつけます!」

 茜理はそう言って髪を手ぐしで整えると、汗で濡れた前髪を指で払った。

 椅子から立ち上がり、スマホを肩掛けのミニバッグにしまい込む。

 そのままぺこりと一礼して、「失礼します!」と勢いよく食堂の出入口へ向かっていく。

 ──その背中を見て、私は思わず……自分でも理由はわからないまま、立ち上がっていた。

 手が、茜理の服の裾をギュッと掴んでいる。

「えっ……ええ? センパイ?」

「待って、待って茜理」

 突然の行動に茜理が目を白黒させる。

 そりゃそうだ。連れて行きたくないって言った直後に、服の裾を掴まれてるのだから。

 ──でも、私自身が一番驚いていた。

 何やってるんだろ、私……?

 私は慎重に言葉を選びながら、茜理の裾をそっと離し、皺を軽くなでつける。

「……茜理を連れて行きたくない、っていうのは、言いすぎだった。ごめんね」

「え!? いえいえ、あの、私が調子に乗ってわがまま言ってただけですし! センパイが謝る必要なんて全然……!」

 茜理は私に向き直って、ブンブンと両手を振った。

 けれど私はもう、茜理のことを「外部の人間」だなんて思えなかった。

 ──そうだ。

 そもそも〈ときときチャンネル〉を最初に見つけてくれたのは茜理だった。

 そしてさっき、汗だくになりながら裏世界に迷い込んだ二人のことを教えてくれたのも彼女だ。

 ……それに、気づいた。

 配信の異常にすぐ反応できたということは、茜理はたぶん〈ときときチャンネル〉を登録して、通知もオンにしていたんだろう。

 些細なことだけど──でも、それってつまり、何かあったらすぐに私に伝えられるように、ってことじゃないか?

 ……自分に都合よく考えすぎだろうか?

 でも、それが茜理なんだと、私は心のどこかで信じてしまっていた。

 ここまで私に一生懸命な後輩は、他に誰もいない。

 その想いを、全部無視するのは──ちょっと、人としてどうなんだろう。

 だから私は、たぶん……追いかけてしまったんだと思う。

 そして、そう思ってみると、ちょっとだけ。

 本当にほんの少しぐらいなら、サービスしてもいいんじゃないかとすら思えた。

「やっぱり……裏世界の“手前”までなら、いい」

「えっ」

 茜理が目を丸くする。

「本当ですか!?」

 私はこくんと頷いた。

「やったー!!!!」

 茜理が屈託のない笑顔で声を上げる。

 食堂のあちこちから、また視線が集まる。正直ちょっと恥ずかしい。

「なんで許してもらえたのか、正直よくわかんないですけど、めっちゃ嬉しいです!」

 小躍りしそうな勢いの茜理に、私は慌てて釘を刺す。

「い、言っておくけど! これ以上は譲れないからね!」

「はいっ! これ以上は求めません!」

 茜理は私の手を掴んでぶんぶんと振る。

「ありがとうございます! センパイ!」

 そう言って抱きつこうとしてくる汗臭い後輩を、私は手で制しながら食堂の出口へ向かう。スマホを取り出し、連絡帳を開いた。

 ──鳥子と小桜に連絡しなきゃ。石神井公園に集合だ。

 

──────────

 

 ……それにしても、私はちょっと引っかかっていた。

 ──茜理が泣いた理由、正直わからないのだ。

 もちろん「拒絶されたように感じたから」っていう推測はできる。

 でも、そもそもこの子の興味って、裏世界だったはずじゃなかった?

「裏世界に行きたい」じゃなくて、「私の役に立ちたい」とか「必要なら呼んでほしい」とか……。

 なんか、目的と手段が入れ替わってるように感じた。

 ……ほんとに、なんで泣いたんだろう。

 本人に聞いてみたい。でも、なんとなくそれはできなかった。

 ──やっぱり、よくわからないなあ。人の心。

 

────────────────────

5

 

「アーカイブは残ってないのか?」

 私、鳥子、小桜、茜理の四人は、小桜屋敷の応接室で〈ときときチャンネル〉の配信者失踪事件について話し合っていた。

 小桜の問いかけに、私は首を横に振って答える。

「ないですね。というか、いまも配信中のままなんですよ」

 私はスマホをテーブルの上に置き、画面が見えるよう向きを整える。小桜が身を乗り出しておそるおそる覗き込んだ。

 画面は濃紺のままだったが、左下の配信タイマーだけが黙々と進んでいた。チャット欄にはもう誰もおらず、最後のコメントは四十分以上前に書き込まれたままだ。

 小桜が腕を組み、「なるほどな」と頷く。

「じゃあ、あの二人が裏世界に呑まれた状況は、実際にリアルタイムで配信を観てた空魚ちゃんと瀬戸ちゃんにしかわからないってわけか」

「そうなりますね」

 鳥子が私と茜理を見比べながら訊く。

「空魚、あの二人がどこにいるのか分かりそうなもの、何かあった? 建物とか……茜理は?」

 茜理が申し訳なさそうに眉を寄せる。

「すみません。私は観てたけど、正直よくわからなくって……。最初のほうは二人で普通にお喋りしてたんですけど、多田羅さんっていう背の高い女性が、自分の部屋の扉を開けた途端、画面が真っ青になって……。気がついたら二人とも野原に立ってました」

「ふーん……空魚は?」

「そこから先は私も観てたけど、二人とも異言を喋りはじめてて、裏世界に入ったのは間違いないと思う。あと、カメラの視点もおかしくて、後ろからとか上からとか、誰が撮ってるんだっていう画角だったし」

 鳥子が納得したように頷く。

「でも、それだけじゃ居場所の手がかりにはならないか……困ったなあ」

 ソファの背にもたれて鳥子がため息をつく。私はそこで首を振った。

「ううん。画面の中に、チラチラ光るテープみたいなものが映ってたんだ」

「テープ?」

「たぶん、私たちが設置した蛍光テープとポールだと思う」

 鳥子がバッと上体を起こす。

「あっ、それなら!」

「うん。二人もポールに気づいたみたいだったから、たぶんそれに沿って進んでるはず」

 三人が前のめりになって聞いている。茜理だけは少し戸惑いながらも興味深そうだった。

「画面に映ってたポールは、〈一号線〉か〈クリスマス街道〉のどっちかだと思う。だから、それを私たちが辿っていけば、いずれ合流できるはず。なにより──」

「ポールのそばには、グリッチがない!」

 鳥子が私の言葉を引き取る。しっかり伝わっていると感じて、私は大きく頷いた。

「そう。二人がポールから無闇に離れさえしなければ、まだ無事でいる可能性が高い」

「なるほどな」

 小桜が腕を解き、ゆっくりと言った。

「じゃあ、ポールから離れて事故ってないことを祈るしかないな」

「何もない草原に、あんな人工物が刺さってたら、普通はそこから離れたりしないですよ。道標になりますし」

「……だといいけどな」

 会話が一段落ついたタイミングで、黙って話を聞いていた茜理がそっと手を挙げた。

「すみません。質問してもいいのかわからないんですけど、いいですか?」

「いいよ。あんまり長いのは困るけど、何?」

「〈グリッチ〉って、なんですか?」

 茜理が声を少し落として訊く。

「危険なものだってことはわかるんですけど……」

 私が答えた。

「裏世界にある地雷みたいなもの。それに触るとヤバいことになるし、最悪、即死する」

「そんなのが、たくさんあるんですか?」

「うん。いっぱいあるよ」

「……それって、センパイたちも危険なんじゃないですか?」

 グイグイと迫ってくる茜理に、私は内心少したじろぎながらも、右目を指差した。今はカラコンを外しているから、瞳は瑠璃色よりも深い青色をしている。

「私のこの右目はね、グリッチの位置が見えるの。だから、私たちは安全に裏世界を歩ける」

 そう言うと、茜理の目がぱっと見開かれ、きらきらと輝いた。

「センパイ、やっぱりすごいです! かっこいいです!」

「お、おう。ありがと」

 予想外の絶賛に戸惑いつつも、その尊敬に満ちたまなざしに私は笑い返した。

「まあ、グリッチを避ける方法は他にもあるから。安心して」

 そう言いながら、私は物をぽいぽいと放るような仕草をした。ボルトやナットのことだが、茜理には意味は伝わらなかっただろう。

「それと、もう一つだけ聞いてもいいですか?」

「なに?」

 茜理がもう一度手を挙げて質問する。正直、私はそろそろ捜索に出発したかったけれど、最後にもう一つだけ応えることにした。

「中間領域って、なんですか?」

「ちょっと!」

 その言葉に、鳥子が鋭く反応する。不機嫌そうに私に顔を寄せた。

「なんで茜理が中間領域のこと知ってるの?」

 低く尖った声色に、鳥子が思っている以上に不機嫌になっているのがわかる。その様子に気づいた茜理が、焦ったように私より先に早口で弁明した。

「あっ、違うんです! この前、最初に〈ときときチャンネル〉の動画をセンパイに見てもらったとき、センパイが“中間領域”って言ってたのが聞こえたんです!」

「あー……中間領域はね」

 私はもじもじと言葉を選んだ。やっぱり、あのとき聞かれてたか……。

 うまく誤魔化す言葉を探しているうちに、鳥子が口を挟む。

「渡り廊下みたいなものだよ」

「渡り廊下、ですか?」

 茜理が首をかしげる。

「建物と建物をつなぐのが渡り廊下でしょ? それと同じように、表世界と裏世界のあいだにある『つなぎ』の領域。それが中間領域」

「それも、グリッチみたいに危険なんですか?」

 茜理はまた少し声を落とす。彼女が私たちの身を心配してくれているのが伝わってきた。

 それがわかった私は、今度はしっかりと姿勢を正して答える。

「危ないときもあるし、そうでもないときもある。中間領域が存在しないこともあるし、何のためにあるのかも、正直わかってないの」

「なるほど……じゃあ、そこまで危険ってわけでもないんですね。わかりました!」

「なあ、おまえら」

 それまで黙ってやりとりを聞いていた小桜が、配信画面が濃紺に染まったままの私のスマホを指でトントンと叩きながら口を開いた。

「こんなところでのんびり話してないで、そろそろ探しに行ってやったほうがいいんじゃないか? 早ければ早いほど、生存率も上がると思うぞ」

 そう言ってから、小桜は壁にかかった時計に目を向ける。つられて私たちも見ると、時刻はすでに午後五時半を回っていた。大学から小桜邸までの片道だけでも一時間以上かかっている。

 小桜が続けた。

「夜が近い。〈ときときチャンネル〉の二人のことも重要だが、二次遭難や二次被害が起きる可能性だってある。だから、何があっても――おまえたちは、自分の身を最優先にして帰ってこいよ」

 

 

 

────────────────────

6

 

 準備を終えた私と鳥子は、小桜屋敷のゲートから裏世界へと入った。

 見送りに来ていた小桜の隣で、茜理は初めて見るゲートに目を輝かせ、感動したように声を上げた。

 興味津々という様子ではあったが、ゲートに近づいてこようとはしなかったのが少し意外だった。──どうやら、大学の食堂での「これ以上求めない」という彼女自身の宣言を、律儀に守っているのかもしれない。

「頑張ってくださーい!」という茜理の声とともにゲートが閉じ、小桜と茜理の姿が燐光のヴェールの向こうにゆっくりと消えていった。

 私たちはAP-1を操作し、車庫から出して夕焼けを浴びる庭へと進む。赤く染まった園芸用ポールが光を反射していて、その前で車体を止めた。ポールで作られた道は二股に分かれ、地平線の彼方まで続いている。

 片方は、小桜屋敷から神保町ゲートへと繋がる一号線。もう一方が、山の牧場まで続くクリスマス街道だ。

 どちらに〈ときときチャンネル〉の二人がいるのか確信はなかったが、鳥子は一号線を、私はクリスマス街道を選んだ。

 鳥子が一号線を支持した理由は単純だった。クリスマス街道よりも距離が短いため、仮に進行方向が間違っていた場合でもUターンが早く、リカバリーしやすいという判断だった。

 その意見には私も賛成したかったが――配信を見ていて、どうしても引っかかる点が一つだけあった。

〈ときときチャンネル〉の二人が上空から空撮されるシーン。かなりの高さから撮られていたにもかかわらず、ポールが一本しか画面に映っていなかったのだ。

 そのことを鳥子に説明すると、首を傾げながら「それが何を意味するの?」と問い返された。

 私は手振りを交えながら答える。

 ──クリスマス街道は、一号線よりもポールの設置間隔が広い。

 過去、出発地点の小桜屋敷から目的地の飯能の牧場までの距離が不明だったため、ポールの本数を節約していたことがあったのだ。

 だから、もし彼女たちがいたのが一号線なら、画面にはもう一本くらいポールが映っていてもおかしくない。……たぶん。

 もちろん、一号線にもポールの間が空いている場所はあるかもしれないけれど──。

 そうして少し尻すぼみになった私の意見に、鳥子は意外にもあっさりと頷いた。

 すんなり受け入れてくれたので拍子抜けした反面、少しホッとした。

 実は裏世界に入ってすぐ、鳥子から「二手に分かれて探したほうがいいんじゃない?」と提案されていたのだが、私はかなり強く反対していた。

 ポールがあるとはいえ、グリッチが見えない鳥子が一人で動くのはあまりにも危険すぎる。

 だから、鳥子が別の案を出してきたらまた押し問答になるかもしれないと思っていたのだ。

 ……まあ、仮に反論されたとしても、やはり私は拒否しただろう。

 小桜が言っていたとおりだ。〈ときときチャンネル〉の二人を助けるためとはいえ、私たちが二次被害に遭うのは絶対に避けなければならない。

 私たちは念のため、簡易テントなどの装備一式をAP-1に積み込んでいた。場合によっては、夜を越えて捜索を続ける覚悟だった。

 二人でAP-1のシートに腰を下ろし、レバーを押し込む。普段よりも速めに走らせ、ネジやナットのポイ投げは必要最低限に留める。

 無音の裏世界に、AP-1のエンジン音だけが響いていく。

 こうして、私たちの捜索が始まった。

 

 

 

「空魚、また連れてきちゃったんだ」

しばらくAP-1で裏世界を走っていると、鳥子がやや非難めいた硬い口調で言った。

「な、なにを……?」

「わかってるでしょ? 茜理のこと」

「あー、ええと……うん、ごめん」

 言われるとは思っていたが、反論できる要素は一つもなかった。私は素直に謝るしかない。

「私だってね、茜理を邪険にしたいわけじゃないの。でもさ、私と空魚のあいだに誰かが入ってくるのは……やっぱり嫌なんだよ」

 もっともな主張だった。でも、なんて返せばいいのか分からず、私は喉の奥で「ぐぅ」と小さく唸るしかなかった。

「逆の立場で考えてみてよ」

 鳥子が続ける。

「私が大学の後輩連れてきて、空魚そっちのけで盛り上がってたら、どう思う?」

「え、やだよ絶対…………あ」

 反射的に答えたあと、鳥子の言葉に釣られて思い描いたその『後輩』に対して、思いのほか強い嫌悪感を覚え、私はショックを受けた。──なるほど。確かに、これは……かなり嫌だ。

「少しはわかってくれましたか? 紙越空魚さん」

「申し訳ございません……仁科鳥子さん……」

 鳥子は「はあ」と大きくため息をつくと、恨めしげな目で私を睨みつけた。釘袋からナットを何個か取り出し、荒々しくバッと投げる。

 こ、怖い。

 このお説教、どこまで続くんだろう。

「そもそも空魚は、『共犯者は特別な関係だ』って言ってたけどさ、共犯者の条件を満たしてる相手、空魚には私以外にも結構いるじゃない」

「共犯者の条件を満たす相手……?」

 咎めるような口調に反して、私はピンと来ずに聞き返す。

 ……そんな相手、いたっけ?

「たとえば、小桜と茜理」

 思いがけないラインナップに驚いて鳥子の方を見る。すぐにハッと我に返って進行方向に視線を戻した。万が一にもグリッチに突っ込んだら洒落にならない。

 運転に意識を戻しながら私は問い返す。

「小桜さんは……まあ分かるけど、なんで茜理まで?」

「共犯者って、要は“秘密を共有してる”ってことでしょ? 小桜も茜理も、空魚が銃持ってることも、裏世界に来たことも知ってる。だったら共犯者、みたいなもんじゃん」

 いやいやいや。ならないならない。

 私は口を開く。

「違うよ。共犯者っていうのは、お互いが“同じ罪”を抱えてて、それを共有してるって状態のこと」

 鳥子は無言のまま、じっと私の話を聞いている。

「小桜さんは、私たちが銃を持ってることを知ってる。でも、小桜さん自身も銃を不法所持してるでしょ? どっちかが喋ったら終わり。そういうのが共犯者。でも茜理は銃なんて持ってないし、警察のお世話になるようなこともしてない」

「……茜理、サンヌキカノやTさんのこと、ボコボコにしてるよ。有段者が暴力ふるうのって犯罪なんでしょ」

 子どもみたいに唇を尖らせて言う鳥子に、私はゆっくりと首を振る。

 これは──ただ怒りたいだけなのだ。茜理への嫉妬。その感情を受け止めてほしいというサイン。

 そう理解すると、少しだけ気が楽になった。

「裏世界の相手はノーカン。ノーカンよ。鳥子さ、わかってて言ってるでしょ」

 鳥子の言葉に一部納得できるところはあったが、茜理についてはどうにも無理がある。

 AP-1が岩を一つ越える。クローラーが衝撃を吸収して、車体はほとんど揺れない。吊るされた道具がガチャガチャと音を立てた。

 私はハンドルを操作しながら言う。

「小桜さんはともかく、茜理は共犯者っていうより……〈関係者〉って感じかな」

「……関係者? そんなのあったっけ」

「今つくった。けど、しっくりこない? 汀さんや看護師さんたちも、銃や裏世界のこと知ってる。でもDS研って私たちの罪を共有してるわけじゃないよね。だから共犯者じゃない。ただの、関係者」

 ……まあ、るなを不法に監禁してるから、DS研も若干アウトな気はするけど。

 その余計な考えは口には出さず、私は話を続ける。

「他にも、トーチライトの人たちとかね。あの人たちの方が銃とか持ってるぶん、ある意味共犯者かも。でも正直、私はあの人たちと親しくなれそうにない。鳥子は?」

「……それは、そうだけど」

「でしょ? 共犯者って関係に、親しさは関係ない。でも私はもう、そういう“名前のついた関係性”に、こだわらなくなってきた気がするんだよね」

「どうして? 前はあんなにこだわってたじゃない」

「それは──」

 私は言った。

「鳥子と、鵼になったから」

 鳥子が小さく息を吸う音が聴こえた。

「鵼になってから、たぶん私、共犯者って枠に誰が入ってきても気にならなくなった。だって共犯者と違って、鵼は一つ上の関係で、絶対に唯一無二だから。小桜さんとは親しいし、共犯者になれるかもしれない。でも鵼には絶対にならない」

 鳥子は黙ったままだった。

 顔は薄暗くて見えない。でもまだ怒っているのかもしれないと思って、私は少しだけ明るい声を出す。

「なんていうのかな……要は、『鵼以外どうでもいい!』って感じなの。いまの私は。関係性の名前で測らなくていい。ただ親しいかどうか、それだけでいいと思える。共犯者って括りは、もういらない。だから──」

 言葉を止めると、鳥子が私の方へ向き直った。

 夕陽の残光に照らされたその顔は、暗がりの中でもはっきりと美しい。私はその顔に向かって、言った。

「たしかに茜理とは親しいけど、絶対に鵼のレベルにはならないよ。……これじゃ、ダメ?」

 鳥子と目が合う。

 私は必死に視線を逸らさないように頑張る。

 やがて、鳥子の表情がふっと柔らかくなった。

「……たしかに、それならいいかな」

 鳥子は釘袋からボルトを取り出し、下手投げでぽーいと投げる。

「私と空魚は鵼で、唯一無二の関係。そういうことだよね?」

「そう。そういうこと……ちなみに、鳥子が他に鵼作ったら、私、怒るからね」

「鵼って作れるの?」

 私が冗談めかして言うと、鳥子はふふっと上機嫌に笑った。

「なんだか上手く丸め込まれちゃった感じがするなぁ」

「してないしてない」

 私は大きく首を振って否定する。人を言いくるめるような能力なんて、私にはない。けれど鳥子は、「はいはい」とでも言いたげに軽く頷いた。

「まあ、とにかく。茜理は共犯者でも鵼でもない。ただの可愛い後輩ってことでセーフ……そういうことにしておいてあげる。でもね」

 言葉を切って、鳥子が真っ直ぐに私の目を見つめた。

「今度、空魚には『鵼だからこそできること』、いろいろしてもらうからね」

 鵼だからこそできること……?

「私いま、『ただの可愛い後輩の茜理』に嫉妬してるから。だから空魚、あとでよろしくね」

 そう言って、鳥子は長い金髪をふわりと翻し、前を向き直った。

 その一言に、私の腹の奥がひゅっと冷える。……いったい何をさせられるんだろう?

 こわ。

 私も鳥子と同じく進行方向に顔を向け、グリッチに集中しようとする。が、無言でいると雑念が湧いてくる。

 ……でも、あらためて考えてみると。共犯者になったからって、必ずしも親しみが湧くわけじゃないんだな。

 自分で言っておきながら、ちょっとだけ驚いていた。

 いままで共犯者が鳥子しかいなかったから、そんな単純なことにも気づいていなかったのかもしれない。

 ただの後輩でしかない茜理のほうが、共犯者たりうるトーチライトのオペレーターたちよりも、よほど関係性が深い。

 その事実に、少しだけ意外さと納得を覚えながら──。

 私と鳥子は、AP-1とともに、すっかり暗くなった裏世界を進んでいった。

 

 

 出発から一時間ほどが経過した。

 空は雲に覆われ、月も星もその光を隠している。かろうじて辺りを照らしていた光源が失われ、視界はかなり悪くなっていた。

 運転席の私の隣で、鳥子がAP-1の少し前方をライトで照らし続けている。

 アウトドア用の光量が強いライトだ。蛍光テープの反射を見るため、そして何かしら彼女たちの痕跡を見逃さないため。

 本当なら、空に向かってサーチライトでモールス信号でも打って、こちらの存在を知らせたかったのだが……それは却下された。

 もし彼女たちがクリスマス街道の先を、あるいは一号線を歩いていたとしたら。

 光を見つけてこちらに向かってくるかもしれない。

 しかしそのとき、ポールのガイドから外れてしまう可能性がある。

 そうなれば、高確率でグリッチにやられてしまう。

 そのリスクを避けるため、ライトによる誘導案は鳥子との話し合いで即座に却下された。

 

 

「鳥子、なにか痕跡はありそう?」

「今のところ、なにもない」

 私は腕時計に目を落とす。午後六時半を回っていた。

 辺りはもう完全に暗くなっているが、そのぶんグリッチの可視性は上がった。

 そのため、私たちがグリッチで事故を起こすリスクはかなり減っている。

 ……とはいえ、夜の裏世界が危険な場所であることには変わりない。

 風が吹き、草木がざわめく。

 潜んでいた生物たちの、湿った気配が一斉に立ち上るように感じられる。

 私と鳥子は相談した。「このまま捜索を続けるか」「テントを張って朝を待つか」。

 結果として、このまま進むことに決めた。

 ただし、どれだけ遅くとも九時を過ぎたら一旦中断し、テントを張る──という取り決め付きで。

 長時間の移動は集中力を削り、思わぬ事故を招く。

 それを避けるための措置だ。

 できることなら、そんな時間になる前に──二人を見つけ出したい……。

 そうしてポールを辿りながらAP-1を運転していると、地平線の向こうに光が見えた。

 最初は、ポールに巻かれた蛍光テープが鳥子のハンディライトか月明かりに反射して光っているのかと思った。けれど、それとは違う。

 指向性の低い、拡散された光。

 上下左右にふらふらと揺れる、有機的な明滅。──風に揺れる蛍光テープとはまるで異なる、そんな光だと直感した。

〈ときときチャンネル〉の二人だ……!

 どうやら、向こうも私たちのライトに気づいたらしい。

 あちらの光が、突然、激しく揺れた。

 ──走っている!

 グリッチの地雷原の中を!

「ああっ!」

 鳥子が悲鳴じみた声を上げた。

 私はとっさに懐からマカロフを取り出し、空へ向けて一発、引き金を引く。

 夜の裏世界に、鋭く乾いた銃声が響き渡った。

 激しく揺れていた光が、ピタリと止まる。

 驚いたのだろう。けれど──やってしまったかもしれない。

 恐怖を覚えた彼女たちが、今度は私たちから逃げようとしてまた走り出してしまったら、元も子もない。

 私はAP-1の荷台にかけていたサーチライトをつかみ、空に向けてスイッチを出鱈目にオンオフした。

 モールス信号の知識なんて私にはない。ただの点滅。でも、少しでもこちらの意図が伝わればそれでいい。

 トントン、ツー。トントン、ツー。

 一定のリズムで、繰り返しライトを明滅させる。

「敵じゃない、こっちは敵じゃない」──そんな気持ちが伝わってほしい。

 その願いが届いたのか、あちらの光はその場にとどまり、動こうとはしなかった。

 私はダメ押しに、両手で口元を囲み、メガホンの形を作って声を張る。喉が裏返るほど、叫んだ。

「そこにいてーーー!!! 動かないでーーーーー!!!!」

 反響の少ない、開けた草原。

 私の声がどこまで届いたのかはわからない。けれど今は、とにかく──。

 私はAP-1のレバーを目いっぱい押し込み、彼女たちのもとへと一気に駆けた。

 

 

────────────────────

7

 

「人〜〜!!!!!」

 私たちがAP-1に乗って暗がりから現れると、謎のYouTubeチャンネル〈ときときチャンネル〉を運営する十時さくらが、その場でテンション高くピョンピョンと跳ね回った。

 その背後から、背の高い女性がのそのそと現れる。多田羅未貴だ。緩慢な動きは、まるで寝床から出てきたばかりのパンダのようだった。

 

 十時が叫ぶ。

「すみません、助けてくださいっ! 配信してたら、気がついたらここにいて……あの、それで!」

 手をバタつかせて経緯を話そうとする彼女を、私は手で制した。

「助けますよ。そのために来たんですから」

「本当ですか!? よかった〜っ! スマホのバッテリーもほぼゼロで、どんどん暗くなるし、街灯ないとこんなに暗いんだって思ったら……あっという間に真っ暗で、本当に一寸先は闇って感じでめちゃくちゃ怖かったんです!」

 マシンガンのように言葉をまくしたてる十時。元気そうだ。やはり配信者にとっては、トークが命なのだろう。私には無理な職業だ。

 だが、それよりもまず言っておきたいことがあった。

 私は意識的に声を低く落とし、不機嫌さをにじませる。

「警告したのに……配信を続けたのが悪いんですよ」

 ピタリと十時の動きが止まる。視線が泳ぎ、気まずそうに口を開いた。

「あ、あの……私にメッセージで警告してくれたのって……それに今、助けに来てくれたってことは……もしかして、あなたが〈リトルブロッサム〉さんですか?」

 私は首を横に振る。

「いいえ。その知人です」

「そうなんですね……じゃあ、お二人は……何て呼べば?」

 私は黙り込んだ。彼女たちにこれ以上、情報を与えたくなかった。裏世界のことも、私たち自身のことも。

 この二人とは〈共犯者〉にも〈関係者〉にもなりたくない。

 気まずい沈黙の中、慌てたように十時が言う。

「あ、いや、不都合なら名乗らなくても全然──」

「ザ・ガールズ」

 隣の席から、鳥子が十時を見下ろして言った。

「ざがーるず?」

「そう。私たちは〈ザ・ガールズ〉。それでいいよね? 〈フィッシュ〉」

 私と鳥子が目を合わせる。

 コードネームなんて、ちょっとカッコつけすぎかもしれない。けれど、鳥子と気持ちが通じ合っていることが嬉しくて、私は思わず頬を緩めた。

 悪くない。

「……それでいこうか、〈バード〉」

 

 

「それじゃあ、行きますよ。私たちの後ろから離れないように」

「はい! フィッシュさん!」

「それと、もしかしたら聞きたいこともあるでしょうけど、基本的に質問には答えません」

「わかりました!」

 十時が元気よく答える。多田羅はほんの少し顎を引いている。どうやら頷いているようだ。そう受け取ることにした。

 私はふと思い出し、二人に尋ねる。

「ちなみに、配信は切ってますよね?」

「あ、はい。バッテリーが気になって」

「ならいいです」

 私は満足げにうなずくと、AP-1をぐるりと旋回させ、レバーを押し込んで小桜屋敷に向けて発進させた。

 速度を上げたいところだが、徒歩の二人を考えると、無理はできない。

 自分のペースで動けないもどかしさに、私は頬の内側を噛んだ。……やっぱり、裏世界に余計な人が入っていると面倒くさい。

 

 

 しばらく進むと、ちょうど良いものを見つけた。

 数十メートル先、私は手で合図をしてAP-1を止める。

「そこ、見てください」

「? はい」

「あそこに、ちょうどいいグリッチがあります」

「グリッチ?」

 

 私は鳥子からハンディライトを受け取ると、霞のようにもやもやと揺れるグリッチを照らした。

 私の右目を使わなくても視認できるタイプだ。

 十時が興味津々と覗き込む。

「あ、昼間歩いてるとき、こういうの何回か見ました」

「触ったりは?」

「いえ! 怖かったので近づいてません。未貴ちゃんもやめた方がいいって言ってたので」

「賢明な判断です。見ててください」

 私は多田羅を近くに呼び、鳥子から金属ボルトをひとつ受け取って、グリッチに投げ込んだ。

 瞬間、目が痛くなるほどの閃光が走り、ボルトは痕跡も残さず消えた。

 十時は「うひゃっ」と叫び、多田羅の背に隠れた。対して肉の盾にされた多田羅は、ちらと一瞥しただけで、特に興味も示さなかった。科学者としては少し意外だ。

 私は簡潔に説明する。

「グリッチは目に見える地雷みたいなものです。触れると、今のように何も残さず消えることがあります。なので、私たちの指示以外では絶対に動かないでください。ポールとポールの間は安全です」

「突然何かが起こる……って、何が起きたりするんですか……?」

 十時が多田羅の背後から顔だけ出して尋ねる。

「わかりません。ただ、私たちは一度、怪物に追い回されたことがあります」

 人面犬のことだ。だが、それをそのまま言えば、恐怖よりもチープさが先に立つ。だからあえて言わなかった。

 十時がゴクリと唾を飲む音が聞こえた。私は緊張感を保つように、わざときつめの口調で続ける。

「もしパニックになれば、その瞬間に全滅する可能性が上がります。だから、くれぐれも動き回らないこと。指示には必ず従ってください。わかりましたか?」

「わ、わかりました……あの、怪物って、倒すことはできるんですか……?」

 私はその問いには答えず、多田羅に目を向けた。

「あなたは、わかりましたか?」

 多田羅は小さく「わかった」と言い、うなずいた。

 十時の質問は、意図的に無視した。

 怪物の倒し方なんて答えられない。

 銃を使っていることも、彼女たちには知られたくなかった。

 さっき空に向けて撃ったマカロフの音も、本当は失敗だったと思っている。

 もし「今の音は何だったんですか」と聞かれたら、私は「運動会のピストルです」とでも答えるつもりだった。

「じゃあ進みます。なるべくゆっくり、早歩き程度のスピードで進みますんで、頑張ってついてきてください」

 振り返ると、暗がりの中で二人が頷いたように見えたので、私はAP-1のレバーを押し込んだ。

 

 

 一時間以上かけて来た街道を遡る。出発から一時間ほどで十時たちを見つけたので、本来ならもう小桜屋敷に着いていてもいい頃だ。だが、徒歩の二人に合わせて進むとなると、どうしても移動は遅くなる。

 ピンピンしている十時はともかく、すでにフラフラで、見るからに出不精かつ運動不足そうな多田羅に「もっと速く」とは言いづらかった。

 風に波打つ草原の先、ポールとポールを辿りながら、私たちは無言のまま進む。

 十時という配信者は、もっと喋りかけてくるかと思って身構えていたけれど、移動を始めてからは一言も無駄なことは言わなかった。

 もしかすると、私が「質問には答えません」などと言ったせいで余計な緊張感を与えてしまったのかもしれない。とはいえ、返事に困るのでこれはこれでありがたかった。

 ……まあ、配信外では無口なタイプなのかも。いや、でもさっきはペラペラ喋っていたな……。まあいいや。わからん。

 ──そのときだった。

「あ! あれ!!」

 十時の叫びに驚いて振り返ると、彼女は後方を指差していた。指の先を追ってみると──。

「なにあれ……?」

「蛇!?」

「深海魚だー!!!」

 多田羅を除く全員が声を上げた。十時は悲鳴混じりに叫び、私は困惑する。黒くて長くて、空を滑るように動いている「何か」──。それだけで、正体はよくわからない。

 鳥子は「蛇」と言い、十時はなぜか「深海魚」と言った。

「深海魚?」

 魚っぽさは皆無だった。私は十時に訊ねる。

「なんでとっさに深海魚って?」

「ご存知ないんですか!? フィッシュさん!!」

「いや、知らない。初めて見る。……十時さんは何か知ってるんですか?」

「私も、ほとんど知らないです!」

 なんだこの意味のない会話は。

 けれど、十時は続ける。

「でも前に見たことあるんです! あいつ、肉食だし、やばいです! 逃げましょう!」

 そう言って、その場で足踏みを始める。

「あーもー! バンちゃーん!!」

 その一言で、記憶が結びつく。バンちゃん。あの十時たちが飼っている、犬とも猫とも違う、謎の生物。──そうだ。「深海魚」というフレーズ、つい最近どこかで聞いた……。

 ハッとした。

「あの深海魚か!!」

「知ってるんですか! フィッシュさん!」

「ずっと追いかけてきてたやつですよね? 動画で見ました!」

「ご視聴ありがとうございます!!」

 鳥子も思い出したようで、手を叩いて言った。

「あの、めちゃめちゃ長くて大きいやつ!? やばいじゃん、急がなくちゃ!」

 空を覆っていた分厚い雲が流れ、月光と星明かりに照らされて、巨大で不気味な輪郭が徐々に浮かび上がる。

 私は二人に向かって叫んだ。

「走って!!」

 AP-1のレバーを最大まで押し込む。モーターが回転し、機体は最高速度十五キロで走り出した。

 ……間に合うか?

 そもそも、逃げ切れるのか?

 〈ときときチャンネル〉の配信では、あの深海魚は幾つもの中間領域を貫いて、どこまでも追ってきていた。だったら、裏世界から表世界にすら突入してくる可能性だってある。

 だとすれば──逃げ場はないということになる。

 だが、それでも今は他に手がない。表世界へ戻る、それだけが唯一の選択肢。

 私は祈るような気持ちで、右目を使って深海魚の姿を注視した。……が、ダメだ。何の変化も起きない。

 右目では効果がないタイプの存在。だとすれば──。

 マカロフも、鳥子のAKも、たぶん効かない。

 きさらぎ駅で遭遇したホーンドマンと同じように。

 ──常に最悪を想定すべきだとしたら、それが一番自然だ。

 改めて、深海魚の姿を確認する。遠近感が狂いそうなほど巨大だが、まだ距離はある……はずだ。けれど、そう遠くない未来には、確実に追いつかれるだろう。

 これは――まずい。本格的にまずいやつだ。

 鳥子が叫ぶ。

「〈フィッシュ〉! どうする!?」

「だめ、思いつかない! とにかく小桜さんのとこに逃げる!」

 私は念のため、十時に大声で問いかけた。

「今日、バンちゃんは連れてきてないんですか!?」

「いないみたい! お留守番です!」

 十時の元気な返事とは対照的に、多田羅の走りはグラグラしていて、肩で息をしている。今にも倒れそうな様子は、薄暗い闇の中でもはっきりわかった。

 ああ、もう!

「バード! 私と交代して、運転!」

「いいけど、なんで?」

「多田羅さんが倒れそうだから! 代わりに座ってもらう!」

「それは……」

 鳥子は一瞬言葉を濁したが、すぐに反論してきた。

「それなら私が交代するよ! 私、よくランニングしてるから! フィッシュより走れる!」

 私が迷っている間に、鳥子はすでに行動を開始していた。

「フィッシュ! 一回止めて、AP-1!」

 仕方なく、私はレバーを操作してブレーキをかける。

 スピードが落ちると同時に、鳥子はグリッチに触れないようAP-1の内側から素早く降り、へとへとになった多田羅に近づいた。

「今の話、聞こえてた? 交代するよ。いい?」

「ああ……はあ……すまないっ、ゲホッ」

 鳥子は多田羅の手をそっと取り、AP-1の座席へと導いた。多田羅はされるがままに、座席にしがみつくようによじ登り、そのままぐったりと身を預ける。ヒューヒューと荒い呼吸が止まらず、顔は真っ赤に染まり、汗がポタポタと垂れていた。全身、びしょ濡れだろう。

「進むよ!」

「オーケイ!」

「オッケー!!」

 鳥子と十時の返事が重なり、私は再びレバーを押し込んだ。AP-1はポールに沿ってゲートへ向けて全力で走り出す。

 

 

 どれくらい走っただろう。体感で五分ほどか。

 背後からは、鳥子と十時の荒い息遣いが聞こえてくる。

 深海魚は、今どこまで迫ってきている――?

 気になる。でも、振り返るのは危険だ。走行中のAP-1の操縦をしながら後ろを見るなんて、事故のもとだ。

「多田羅さん! あいつ、どのくらい近くまで来てますか!?」

 私は、さっきまで鳥子が座っていた隣の席でぐったりしている多田羅に声をかけた。

 多田羅が白衣の袖で汗を拭いながら、振り返る。

「……さっきより、でかくなってる。かなり近いと思う!」

「……ああ、クソ!」

 私は叫んで、腰からマカロフを取り出した。安全運転なんて言ってられない。

 ギョッとする十時と多田羅を無視して、マカロフを構える。狙いを定めて、発砲。一発、二発、三発。

 深海魚は──反応しない。

 的は大きいのに、全部外したらしい。私は自分に腹が立って、太ももを叩く。

 もっと鳥子と一緒に射撃の練習しておけばよかった……!

「空魚……!」

 走りながら、鳥子が荒れた息を整えるように声をかけてくる。

「マカロフじゃ……そんな距離……当たらない……!」

「え、うそ!?」

 まさかの射程不足。

「じゃあAKは!?」

「三百……メートル、くらい……!」

「じゃあ……M4は!?」

「…………わかんない! けど、たぶん当たるかも……!」

 鳥子の顔がパッと明るくなった気がした。

 私は迷わず、AP-1の荷台に積んであった、シートで隠していた一番大きな銃を引き抜く。〈ときときチャンネル〉の二人に見つからないよう、事前に隠しておいたやつだ。M4 CQBR──在日米軍から“借りパク”してきた本物のアサルトライフル。

 イスを反転させて後ろ向きに座り、スコープを覗き込む。

 深海魚の、無数の目がこちらを睨んでいる。

 私はAP-1の揺れで外さないように深く呼吸し、眉間を狙って引き金を引いた。

 ……反応は、ない。外れたか。

 もう一度深呼吸して、狙い直す──今度は当たった!

 深海魚は、うざったそうに首をゆっくり振った。巨体のせいで動きは遅く見えるが、明らかにイヤイヤをしている。

 効いているのかどうかはわからない。でも、少しくらいは足止めになりそうだ。

 私はM4を抱えたまま、進行方向へと体を戻す。AP-1は相変わらず走り続けている。

 誤ってグリッチに突っ込んだら最悪だ。私はライトでポールを照らして進路を確認し、また背後に振り向いては、深海魚に鉛玉を撃ち込む──そんな曲芸じみた動きを繰り返した。

 的が大きいから、たぶん当たっているはず。

 撃ったら、逆にスピードを上げてくるかも……とも思ったが、それほど変化はないようだ。もしかすると、ほんの少しだけ遅くなっているかもしれない。でも、微妙すぎて断言できない。

 それでも撃ち続けるしかなかった。

 深海魚の巨体は、もう視界の大半を占めている。

 ──やばい、やばい、やばい。近い、近い、近い!

 死ぬ……! 食われる!!!!!

 私の脳内が、じわじわと冷たい絶望に染まっていく。

 撃っても効かない、逃げても追いつかれる。その現実に押し潰されそうになりながらも、私はなおも銃撃を続けていた。けれど、照準がぶれるたびに心も折れそうになって、ついに私はマガジンを残したまま引き金を引く手を止めた。

 ダメだ。何か、別の手を──。

 私は無理やり前方へ意識を戻し、左手のハンディライトで次の蛍光テープを探す。頼む、見えてくれ……!

 だが──。

「……あれ? ない!」

「なにが!?」

 鳥子が即座に問い返す。

「ポールが、ない!!!」

 叫ぶ声が裏返った。

 進行方向にあるはずのポールが、いつの間にか消えていた。そんな馬鹿な──。慌てて周囲をライトで照らすが、そこにあるのは、ぼうっと灯る一際大きなグリッチらしき燐光だけ。

 ポールのラインから外れた……? もしかして、私たち、道を逸れた……?

 その時、背後からズズン、と地響きのような振動が伝わってきた。

 深海魚の巨体が、もう間近に迫っている。背中に、気配が張り付いて離れない。

 間に合わない。今からポールを探しても、きっと間に合わない。

 ああ……終わった。

 体から力が抜けて、私は右手からM4を取り落とした。地面にぶつかる音がガチャガチャとやけに大きく響く。

 死ぬのか……? こんなところで? 私だけじゃない、鳥子まで……。

 押し寄せてきたのは、恐怖よりも後悔だった。

 なんでこんなことになった?

 私一人で来るべきだったのに。どうして鳥子を巻き込んだ? 助けに行こう、なんて余計なことを言わなければ……。

 目は開いているのに、視界が真っ暗になっていく。冷たい膜が世界を覆っていくみたいだった。

「鳥子……」

 自然と声が漏れた。喉が詰まって、震えていた。

 その瞬間、私の頬に鋭い衝撃が走った。

 ばちん、という音が耳に残る。顔が振れて、身体が硬直する。

 …………。

 いつの間にかうなだれていた私が顔を上げると、目の前に見慣れた顔があった。

 金髪の、美しい女。

 ……またか。こいつ、また私を引っぱたいたのか。

「なん、で……?」

 呆けたように呟く私に、鳥子が叫ぶ。そして、AP-1のシートから私を容赦なく引きずり下ろした。

「空魚! なにボーッとしてるの! 着いたんだよ!!」

 その言葉に意識が引き戻される。鳥子が前方を指差す。

 私はのろのろと首を巡らせて、その方向を見た。

 五十メートルほど先。二本の古びたトーテムポールが並んで立っていた。その間を縁取るように、銀色の燐光がゆらめいている。

 ……グリッチじゃない。あれは、ゲートだ。

「あ、出口だ……」

 心臓が跳ねた。

「出口じゃん!!!」

 私は叫び、思い出す。このトーテムポールには蛍光テープを貼っていなかったのだ。テープがないせいで、ライトに反射せず気づけなかっただけ……!

 次は絶対に、ぐるぐる巻きにしてやるからな……!

「鳥子! ゲート!!」

「わかってる!」

 鳥子がAP-1を追い越し、左手の手袋を外す。その手が燐光に触れると、ゲートがわずかに開いた。

 私はAP-1の操作を放棄し、半ば転がるように多田羅の腕を掴んで引きずり下ろした。

 彼女をゲートの向こうへと押し出すと、追ってきた十時に向けて進路をあける。

 続いて私もゲートへ突っ込む。

 振り返ると、鳥子が手を伸ばしていた。私は右手を差し出し、彼女の手を掴む。

 次の瞬間、二人一緒に──裏世界から表世界へ飛び込んだ。

 閉まりゆく燐光のヴェールの向こうから、あのバケモノの悔しげな唸り声が微かに響いた気がした。

 

 

────────────────────

8

 

「おかえりなさい! みなさん、どこか怪我してませんか!? 喉渇いてませんか!?」

 ゲートの向こうには茜理が待っていた。足元には、パンパンに膨れた薬局のビニール袋が二つ。

 汗だくで地面に座り込んだり、寝転がる私たち一人ひとりに声をかけつつ、茜理は袋からポカリスエットを取り出し、次々に手渡していく。

 私の番になり、差し出されたペットボトルを受け取りかけたところで、茜理が輝くような笑顔で言った。

「お疲れ様です、センパイ!」

「ただいま、あか……」

「……はい? どうしましたか?」

 言葉を途中で止めた私に、茜理が不思議そうに首を傾げる。私は口元に手を添え、こっちにおいでと手招きした。

 茜理は膝を少し曲げて、私の口元に耳を近づける。

 ──あれ、なんか違和感あるな。

 すぐに理由がわかった。そうだ、茜理って私より背が高いんだった。普段の従順すぎる態度のせいで、小柄なイメージが勝手に出来上がってた。全然気づかなかった。

「センパイ?」

 黙ったままの私に、茜理が小さく呼びかけてくる。本題を思い出した私は軽く咳払いして、そっと囁いた。

「私たちさ……あの二人に名前とか住んでる場所とか、知られたくないんだよね。だから……」

 そこまで言ったところで、茜理がピクッと一度大きく身を震わせた。

 ……えっ、なんかまずいこと言った?

 思わず口をつぐんだ私の目の前で、茜理がふらりと体を傾ける。とっさに両腕で支えると、重さはそれほどでもなかった。茜理はすぐに体勢を立て直したが、私が囁いた耳を手で押さえている。

「ご、ごめん。大丈夫? 嫌だった?」

 訊くと、茜理は少し照れたように笑った。

「あ、いえ。耳元で囁かれるのって、結構くすぐったいですね」

 ほんのり赤い顔。

 ああ、そっか。茜理って耳が弱いのか。あんなに強いくせに、こんなことでふらつくなんて、ちょっと意外でおかしかった。

 誰にでも弱点はあるんだな。鳥子も「反則」って言ってたし。

 ……まあ、私も耳元で喋られるのは得意じゃないし、ちょっとやりすぎたかも。今度からコソコソ話は控えよう。

 私は視線だけを動かして、十時と多田羅を確認した。聞かれていたとしても、もう今さらだろう。

 私たちが個人情報を知られたくないってことは、あの二人にも伝わっているはず。

 ……ていうか最後の方、私も鳥子もお互いの名前を普通に呼んでた気がする。

 改めて茜理に向き直ると、彼女は「続きをどうぞ」と言わんばかりに耳に手を添えていた。

「いや、もういいよ。普通に話すから」

「えっ!?」

 茜理が思いがけない声のトーンで跳ねる。

「だって苦手なんでしょ? 耳元で話されるの。変なことしてごめん」

「えっ、いや、そういうわけじゃ……」

 何か言いかけてはモゴモゴと口ごもり、結局、茜理は小さく肩を落として、ぐんにゃりとうなだれた。

「まあ、個人情報知られたくないから、私たちや自分のことを名前で呼んだり、ここがどこなのかとか……他にもいろいろ喋らないように気をつけてね、ってこと」

「わかりました……了解です……」

 だからなんなんだ? その反応は?

 肩を落として離れていく茜理を横目に、私は彼女が用意してくれたポカリスエットに口をつけた。私たちが頼んだわけでもないのに、こうして気を回してくれる。できた後輩だと思う。ゲートの前で何時間も待っていたのなら、私たちほどではないにしても、それなりに疲れているだろうに。

「茜理、良い子だよね」

 私の横でペットボトルをペコペコと鳴らしながら、鳥子がぽつりと呟いた。

「うん。そうだね」

「だから嫌いになれないんだよね」

「え……」

 聞き返そうとしたが、鳥子はもう口をペットボトルにつけていた。それが、なんとなく会話を閉ざされたような気がして、それ以上言葉をかけることができなかった。

 それでも、鳥子の言いたいことくらいはわかっている。嫉妬しているのだ、私の――ただの可愛い後輩に。

「センパイたちもどうぞ!」

 再び配給係に戻った茜理から、カロリーメイトとウィダーインゼリーを受け取る。

 私は特に空腹でも喉が渇いていたわけでもなかったので、受け取るだけ受け取ってポケットにねじ込んだ。後でいただこう。お代も払わなくちゃ。

 一方、十時はゼリーをゴクゴクと飲んでいた。多田羅に至っては、すでに空になったペットボトルを横に置いて地面にバッタリ寝転び、深呼吸を繰り返している。隣を見れば、鳥子も汗を袖でぬぐいながら、ポカリを半分ほど飲み干していた。

 そこで私は、ハッと気づいた。

 ……そっか。私以外、全員、裏世界を走ってたんだ。私だけが、ひとりでAP-1を操縦していた。

 まあ、仕方ないことだったとはいえ、そう思った途端、急に申し訳ない気持ちが湧いてくる。ていうか、AP-1に十時と多田羅を乗せて運べば、もっと楽に小桜屋敷に到着できていたのでは?

 ……いや、でもあのときはそんなこと思いつかなかったし、誰も何も言わなかったし……。それに、知らない人にAP-1を触らせたくなかったし……。

 言いようのない自己嫌悪のようなものが、どんと背中と肩にのしかかる。こういうところが、私のダメなところなんだろうな。

 気を紛らわせようと、私は茜理の動きを目で追った。

「十時さんと多田羅さん、足とか大丈夫ですか? 怪我してるなら教えてください! 消毒します! 絆創膏も包帯もありますんで!」

 その声に、私も十時と多田羅の足元を見る。どうやら二人とも、室内履き用のスリッパしか履いていなかったようだ。言われてみれば、当然だ。突然裏世界に拉致られて、靴に履き替える暇なんてない。

 多田羅はスリッパを履いていたが、十時は底の抜けた靴下を巻いただけの、ほぼ裸足だった。

 二人とも、そのまま不整地を延々歩いて、十時に至っては最後、深海魚から逃げるために全力疾走していたのだ。きっとその時、スリッパはどこかに飛んでいってしまったのだろう。

「十時さん、足の裏ケガしてますね。こざ……家主に、お風呂借りて汚れを洗い流していいか聞いてみますね」

 何か自分にもできることはないかと考えていた私は、すでに心の中で白旗を上げていた。……この気遣い娘には勝てる気がしない。

 いいさ。私は私で、十時と多田羅という赤の他人のために、命がけでAP-1を操縦してたんだ。何かするのは、求められてからで十分。

 私は今日、頑張ったんだ! だから――ヨシッ!

 

 両足を怪我している十時を、茜理と私で両側から支えながら、小桜屋敷の玄関をくぐった。そこには、小桜が腕を組んで立っていた。

「おかえり」

「ただいまです、リトルブロッサムさん」

 私が名前を使わなかったことに、小桜は一瞬きょとんとしたが、すぐに視線を十時へと移す。

「えっ、十時さん怪我してんの? 救急車呼ぶ?」

 問いかけに答えたのは十時ではなく、茜理だった。

「足の裏を少し切ってるみたいです、リトルブロッサムさん。お風呂をお借りして、足を洗わせていただけませんか?」

「いいよ。好きに使って」

「すみません! ありがとうございます!」

 そう言って、茜理は十時を支えたまま風呂場へと歩いていく。私も手伝おうとしたが、「大丈夫です! 休んでてください!」と元気よく断られてしまった。

 ――なるほど、必要とされないってこういう気持ちか。

 妙に納得しながら、私は玄関に留まった。

 小桜は首をめぐらせて、今度は多田羅に声をかける。

「多田羅さんの方は大丈夫?」

「私は……大丈夫です」

 小桜は「そうか」と頷くと、私の腕を軽く引いて多田羅たちから距離を取り、声を潜めて訊いてきた。

「いま、偽名使ってんの?」

「はい」

「なんで?」

「私たちのことを知られたくなくて。銃を撃ったところも見られてますし、個人情報はできるだけ伏せておきたいんです」

 小桜は納得したように腕を組み直した。

「たしかに、YouTuberに個人情報握られるのは……まあ、怖いし、面倒だな」

「はい。だから今後のことも考えて、名前も、この場所のことも教えていません」

「そっか……でも、あたしの家、もうバレてない?」

「暗い中で外観を少し見ただけですし、家の中を見ただけでは場所の特定は難しいと思います」

「なるほどねぇ」

 小桜はそう言いながら首を前に倒し、しばらく考え込むような素振りを見せた。

「あたしは『リトルブロッサム』なわけだ。まあ、自分で名乗ったしな。……空魚ちゃんたちは、なんて呼べばいいの?」

「私は『フィッシュ』、鳥子は『バード』です」

「そのまんまじゃん。瀬戸ちゃんは?」

「……そういえば、決めてませんでした」

「おいおい」

 小桜は呆れたように笑い、組んでいた腕をほどいた。

「まあいいや。じゃあ、フィッシュちゃん。あたし、汀に帰りの車を出してもらえるように電話してくるから、応接室で待ってて」

 そう言って屋敷の奥へ歩きかけたところで、小桜はふと立ち止まり、半身になって私と鳥子を交互に見つめた。

「……二人とも、今日はよく頑張ったな。立派だったと思うぞ」

 

 

「多田羅さんも、こいつらが話し相手になるから、適当にお喋りでもして寛いでて。バード、お茶でも淹れといてくれ」

「わかった」

 玄関で私たちは分かれ、私は多田羅を連れて応接室へと案内した。壁づたいに室内灯のスイッチを探して押し、ソファを指さして「どうぞ」と促す。

 多田羅と私のあいだに、会話はなかった。

 配信で見るかぎり、彼女はまったくの無口というわけではなさそうだったが、かといっておしゃべりというタイプでもなさそうだった。

 たぶん話を振れば、何かしら返ってくるのだろう。でも、こちらの心の準備がまだできていない。

 知らない人と二人きりで過ごすこの時間が、どうにも落ち着かない。──もう、トイレに行くふりでもして逃げようか? いや、さすがに露骨すぎるか……。

 私は顔を上げ、横目で多田羅をうかがった。

 だいぶ落ち着いたようで、さっきのような荒い呼吸はしていない。化粧も崩れていなかった。あれだけ汗をかいたのに崩れてないということは、ノーメイク派なのかもしれない。そもそも、そういうことに興味がなさそうな人だ。

 それでも、どこか目を引く人だった。たぶん顔立ちがいいのだろう。……鳥子には及ばないけど。

「……なんでしょうか」

 多田羅が言った。

 ジロジロ見すぎたようだ。

「あ、いや、えーと……大変でしたね?」

「……そうですね」

「………………」

「………………」

 ………………終わりか!

 私がコミュニケーションの難しさに頭を抱えかけたそのとき、応接室のドアがノックされた。

「お待たせ」

 鳥子が盆を持って入ってきた。足元には給湯ポット。

「デザイン、ばらばらになっちゃった」

 困ったように笑ってテーブルの中央に盆を置く。私が覗き込むと、急須にガラスのコップが一つ、マグカップが一つ、意匠も大きさもまちまちな湯呑みが四つ。白い無地の平皿には、チョコ菓子やまんじゅうなどの茶菓子がのっていた。

「仕方ないよ。こんなに大勢が集まること、きっと想定されてないんだろうから」

「そうかなあ……お茶の葉、これぐらいで大丈夫?」

「うん。たぶん、それくらいで」

 ポットのお湯が沸くのを待って、鳥子が急須に湯を注ぐ。しばらくしてから、そのお茶を湯呑みに注ぎ分け、湯気の立つ湯呑みを多田羅と私の前に置いた。自分の湯呑みは私の隣に並べ、そのまま隣に腰を下ろす。

 誰もお茶に手を伸ばさない。

 沈黙が、部屋にじわりと沈殿した。

 気まずい。

 応接室には、三人の呼吸の音だけがやけに大きく響く。

 私は私で、無から話題をひねり出す芸当はできないし、鳥子は鳥子で、真顔で澄ましている。完全に人見知りモードだ。

 多田羅は、ぼんやりと自分の手のあたりを見ていた。だが、焦点は合っていない。なにか考えごとをしているのかもしれない。

 配信で見る彼女が演技じゃないとすれば、かなりの切れ者だ。もしかして、裏世界に関心を持って、理論立てて何かを分析していたりするのだろうか。

 ──できれば、しないでいてほしい。

 そんなことを思っていたとき、不意に多田羅が口を開いた。

「君たちは普段から、あの世界に出入りしてるの? ……ですか?」

「あ、敬語じゃなくてもいいですよ」

 多田羅の顔がわずかに揺れた。動きが小さすぎて判然としなかったが、多分首を横に振ったのだろう。

「そちらが敬語なのに、こっちが敬語使ってないの、礼儀がなってない感じがして」

「多田羅さんの方が年上ですし、私たちは全然気にしないですよ。ね、鳥……バード?」

「うん。ぜんぜん気にならないよ」

「……そう? じゃあ、遠慮しないよ」

「はい。それで、何の話でしたっけ」

「君たちが、普段からあの世界に出入りしているのかって話だったと思う」

「まあ……そうですね。もう結構な回数行ってます」

「怖くないの?」

 多田羅が首を傾げた。

「怖いこともありますけど……」

 楽しいこともある。具体的には工具使って廃墟でDIYしたりしてるんだけど、そんなこと言ったらどう思われるだろう。

「ポールを立ててくれていたのも……君たち?」

「あ、はい。そうです」

「そう……」

 そう言って多田羅は姿勢を正した。かなりの猫背だったのか、急にシルエットが大きくなったように見えて驚いた。

 そして、そのまま深く頭を下げた。

「今回は本当にありがとうございました。あんな恐ろしいところに、わざわざ助けに来てくれて」

 急に年上の女性に頭を下げられて、私も鳥子も戸惑った。

「私も、さくらから『ネットで誰かに警告された』って話は聞いてたんだ。なのに私は深く考えずに動いてしまって……危うくみんなを殺してしまうところだった。迷惑をかけて、申し訳ない」

 多田羅はさらに深く頭を下げる。

「あ、いえ、話を聞いてる限り、今回は多田羅さんが何かして裏世界に飛ばされたわけではないんで、謝る必要ないですよ。ね? バード」

「うん、フィッシュの言うとおり。大丈夫だよ、多田羅さん」

「それでも……ありがとう」

 顔を上げないままの多田羅に、私たちは困惑しきりだった。こんなに真正面から謝られたのは初めてで、どうしたらいいのか分からない。

 私と鳥子が顔を見合わせていると、応接室の外から声がした。

「お風呂上がりましたー!」

 場違いなほど明るい声がドア越しに響く。

「すみません、何か拭くものもらえませんかー!?」

「半透明のボックスにタオル入ってるから、それ使っていいよー」

「ありがとうございます!」

 小桜の声はくぐもっているのに、茜理の声だけは妙にクリアに聞こえる。やっぱり空手やってると声量も違うのかもしれない。

 やがて小桜が応接室に入ってきた。

「汀、四、五十分くらいで着くってさ」

「了解です」

 小桜が私の隣に座り、湯呑みたちを見て眉を上げた。

「さすがに不格好だな」

 私は苦笑する。

「そうですね」

「セットになってるやつでも買うかー」

 小桜がまんじゅうに手を伸ばしたので、私もチョコのお菓子を取る。すると、釣られるように鳥子、そして多田羅も茶菓子に手を伸ばし、全員でモグモグし始めた。……不思議な時間だ。

「お待たせしました!」

「マダーちゃん、本当にありがとうねえ。うう〜、消毒死ぬほど痛かったぁ〜」

 しばらくして十時が茜理に支えられて入ってきた。彼女の足には包帯が巻かれている。

「そんなに深かったんですか?」

 私の問いに、十時が笑いながら手を振った。

「あ、今のちょっと大袈裟入ってます。多分大したことないんで、帰ったら様子見て病院行くから大丈夫です!」

「そうですか」

 茜理が十時から離れる隙に、私はふとした疑問を小声で尋ねる。

「マダーってどういう意味?」

 茜理は私の背後に立ち、耳元で囁いた。ちょっとくすぐったい。

「さっきスマホで調べたら、茜色って英語で『マダー』って言うらしいんです」

「へー、知らなかった」

「私も知りませんでした」

「私も初めて知った」

 鳥子までそう言うので、私は驚いた。

「バードも?」

「『マダー』って単語は知ってたけど、日本語で茜色のことだっていうのは知らなかったの」

「へえ、なるほどねえ……」

 英語の豆知識を共有する私たちの横では、小桜と十時が何やらおしゃべりしていた。いけない、いけない。今は雑学を楽しんでる場合じゃないのだ。

「リトルブロッサムさん、どうもすみません! お風呂とタオル、お借りしました! 血がついちゃったので、タオルのほうは弁償させていただきたいんですが……」

「いーよいーよ。どうせ古いやつだし、雑巾にでもするか捨てるかするからさ」

 小桜が朗らかに言うと、十時はますます恐縮した様子で首を振った。

「いえいえ、新品みたいにふわふわで綺麗でしたよ! せめて、弁償だけでもさせてください。助けてもらった上にお風呂まで借りて、何もせずに帰るなんてできません!」

「ほんとに気にしなくていいって。だいたい助けに行ったのも、うちじゃなくてそこの二人だしさ」

 そう言って小桜が私たちを指すと、十時は改めて私と鳥子のほうを向き、深く頭を下げた。

「フィッシュさん、バードさん。本当に、ありがとうございました!」

「当たり前のことしただけだよ。ね、フィッシュ?」

「……うん」

 今さらながら、私はこの「偽名」にじわじわ恥ずかしさを覚え始めていた。

 なんだフィッシュって。スカイとかの方が、まだマシだったんじゃ……。

 私がそんな微妙な羞恥心にモゾモゾしていると、小桜が笑顔のまま、少し声のトーンを変えて言った。

「それよりも……ちょっと十時ちゃんと多田羅さんには、気分を害するかもしれない話をしなきゃなんないの。もしタオルの件が気になるなら、それでチャラってことにしてくれると助かる」

「えっ、気分を害するって……?」

 十時が顔をこわばらせると、小桜は両手を軽く振って安心させるような仕草をした。

「そんな大したことじゃないよ。『助けてやったんだから何千万払え』とか、そういう話じゃないから安心して」

「あっ、ほんとですか!? はあ〜……よかったぁ……借金してもそんな大金出てこないですから……」

 十時が大げさに額の汗をぬぐう真似をする。

 それを見て、小桜はふっと私に視線を向けた。

「じゃあフィッシュちゃん、あたしたちがなんで偽名で話してるか、二人に説明してくれる?」

「あ、はい」

 私はうなずいてから、十時と多田羅に向き直った。

 先ほど小桜にしたのと同じように、説明を始める。

 ──私たちの身の回りには、裏世界を含めた様々な「隠し事」があること。

 そのため、たとえ悪意がなくても個人情報が漏れれば重大なトラブルに発展すること。

 今いるこの場所がどこか、私たちの本名が何か、そういった情報を明かすこと自体が非常にリスキーであること。

 それに、法律的にはもちろんアウトだが、不法に銃器を所持していることも。

 話している間、十時は真剣な表情で何度も「うんうん」とうなずきながら聞いてくれた。

「逆の立場でも、同じこと考えると思います」

 彼女はそう言って、こちらの立場に理解を示してくれる。

 一方、多田羅はと言えば、表情こそ読みづらいものの、じっと私の目を見て話を聞いている。彼女なりに、真剣に受け止めてくれているのが伝わってきた。

 ──その時だった。

「身バレって怖いですもんね〜──うひゃっあ!!!!!」

 十時が間の抜けた悲鳴をあげた。すぐ真横に、突如として黒い人影が現れたからだ。

 その人影はお盆の上にあったチョコ菓子を無言で取り上げ、封を開けるとパクリと口に含み、包装のプラゴミをそのまま床にポイッと落とした。

 現れたのは、子供服売り場で売られていそうな、フリルだらけのヒラヒラした服に身を包んだ少女──霞だった。

 見咎めた小桜が軽く眉をひそめる。

「おい霞、ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てろ。今なら盆の上でもいい。あと、お客さんがいるときは挨拶くらいしな」

「はーい。どーも、ときときチャンネルの十時さくらでーす。はじめましてー」

 霞は抑揚のない声でそう言うと、床に落としたゴミを拾い、お盆の上にそっと置いた。

「んー。まあ、よし。良い子だ」

 ……いや、判定が甘すぎないか?

 他人の名前で挨拶しちゃってるんだけど。

 十時は驚きの姿勢のままフリーズしていたし、多田羅は興味深そうに霞を見つめていた。

 ついでに、なぜか茜理までびっくりしている。

 ああ、そうか。茜理は霞のことは知っていても、中間領域を通じて好きな場所に現れることは知らなかったんだな。あとで訊かれたら説明しておこう。

「……ま、こんなふうにね。世間に知られると都合が悪いことが、私たちにはたくさんあるってわけ。だから二人には、情報を持ち出せないように、ちゃんと対処させてもらう必要がある」

 小桜は微笑んだまま、静かな声で言う。

 十時がビクッと肩を震わせ、カチコチの半笑いで小桜の方を振り向いた。

「対処って、それって……もしかして、か、監禁とか、殺されちゃったりとか……? なんて、アハハ……」

 小桜は笑って首を横に振った。

「そんなことするなら、わざわざ裏世界にまで行って助けたりしないって。放っておけば勝手に人が死ぬ場所なんだからさ」

「そ、そうですよね〜……。じゃあ、私たちは……どうすれば?」

「今さっき、車を呼んだところだから。二人にはその車に乗って帰ってもらう。ただし、そのときは目隠しをしてもらうよ。私たちの住所とかを知られたくないからね」

「そ、それだけ……ですか?」

「それだけ……といえば、それだけ。でもまあ、ちょっと怖い思いはさせちゃうかもしれないけど」

 そこに、私も一言、補足する。

「とにかく言いたいのは……裏世界の存在や、私たちが違法な武器を持ってること、そういう秘密を絶対に世間に漏らさないで欲しいってことです。ひとつたりとも」

 十時と多田羅が、お互いに顔を見合わせる。

「ぜんっぜん構いません。了解しました!」

 

 

 

「車の運転を担当いたします、汀と申します。大変お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした」

 小桜屋敷の敷地に停まった、黒塗りの高級車。

 その運転席から降りてきた長身の男が、十時と多田羅に向けて慇懃に頭を下げる。手の甲に踊るマヤ文字のタトゥーが、街灯に照らされて今日も異様な存在感を放っていた。

「では、お二人とも後部座席へどうぞ。目隠しをお忘れなきよう、お願いいたします」

 汀がリアドアを開け、手のひらで車内を差し示す。

 どう見てもカタギじゃない風貌の登場に、茜理に抱きかかえられていた十時がぷるぷると震え出す。

「あの、やっぱり私たち、タクシーで帰った方が……」

「ダメだ。さっきも言ったけど、車を呼んだからそれに乗って帰ってもらう」

 渋る十時に対して、小桜がきっぱりと言い放つ。

「で、でも……」

「大丈夫だよ。汀さん、見た目ちょっと怖いけど、すっごく優しいから」

 鳥子の、やや失礼な紹介にも汀はにこやかなまま。

「ご安心ください。安全運転を心がけております」

「うううううう……!」

「先に乗るよ、さくら」

 十時が震えながら唸っている間に、多田羅がスタスタと歩いていき、後部座席の奥にすとんと座る。渡されたハンドタオルを目隠し代わりに頭に巻いた。

 鳥子の言葉を信じたのか、ただ単に観念したのか、それとも肝が据わっているのかはわからない。

 けれど、そんな多田羅の姿を見て、ゴネていた十時も観念したようだった。

 「くぅぅぅん」と、小型犬が病院に連れてこられたときのような声を漏らしながら、茜理に手を引かれて後部座席へ。ハンドタオルを頭に巻き、ぐったりと体を預けて座る。

 全身で「もう好きにして……」と語っていた。

「悪いね、タクシー代わりに使っちゃって」

「いえいえ。UBLが関わっているのなら、これも私の業務の一環ですから」

 汀は小桜と軽くやりとりを交わすと、後部座席の二人に声をかける。

「それでは、これより発進いたします。お忘れ物などは、ございませんか?」

 そのとき、十時が「あっ」と声を上げた。

「そういえば、私たちの、住所……」

 恐るおそる問いかけるような声に、汀が即座に答える。

「ご安心ください。すでに住所はナビに入力済みです」

 十時が固まった。

 ──ああ、そういえば小桜が言ってたっけ。もう汀が住所の調査を済ませてるって。

 数秒かけて、十時が息を吹き返す。

「え!? なんっ、えええ!?!?!?」

「失礼ですが、調べさせていただきましたので」

「調べ……た………………」

 汀はそれ以上何も言わなかった。

 十時も、多田羅も、黙り込んだ。

 他人、それもどう見てもヤバそうな男が、自分の住所も名前もすでに把握している──。

 ……私が十時たちの立場だったら、絶対イヤだな。かわいそうに。

 三人を乗せた車が、静かに去っていく。

 それを、私と鳥子、小桜、茜理──そして小桜に手を繋がれた霞の五人で、車の姿が完全に見えなくなるまで、じっと見送ったのだった。

 

 

────────────────────

9

 

 後日、夕方過ぎ。世の中の多くの人々が家庭で夕食を囲んでいるであろう時間、私はノートパソコンの前で頭を抱えていた。レポートの提出期限は明日まで。とてもじゃないが終わりそうにない。

 もう嫌だ。何も見たくない。時計すらも見ない。どうせ何をどうやっても完成しないし、仮にできたとしても間に合わない。だから、時間を知る必要なんてないのだ。

 原因は二つある。一つは、私がレポート作成を怠り、ギリギリになるまで遊び呆けていたこと。もう一つは、レポート用の資料を借りに大学へ行ったものの、〈ときときチャンネル〉失踪事件に巻き込まれたことだ。食堂からそのまま小桜屋敷へ向かってしまったため、資料を借り忘れていた。

 どっちの方がよりクリティカルな問題だろう? ……どっちもだな。

私は現実逃避しかけていた。だって仕方ないじゃないか。人の生き死にがかかっていたんだ。あそこで見捨てていたら、人としてのあれこれが確実に損なわれていた。

 だから仕方ない。

 仕方ないったら仕方ない。

 ……でも、なんでだろうなあ。私の人助けを、世間は誰一人として認めてくれないし、褒めてもくれない。レポートの提出期限すら、伸びてはくれないのだ。

 もういいや。阿部川教授に正直に言おうかな。

「どうして遅れたんですか?」「人命救助です」って。

 ──零細YouTuberが異世界に迷い込んで死にそうになっていたので、相方と一緒にたばこ管理作業者AP-1(改)を駆って救助に向かいました。そのせいで大学図書館で資料を借り損ね、レポート作成時間が大幅に遅れて完成できませんでした、と。

 我ながらZ級映画のあらすじ並みに意味不明だけど、こんな話を聞かされる教授のほうがもっと混乱するだろう。

「はあ……」

私は憂鬱に押し潰され、座卓にベチャッと倒れ込んだ。

 どうすれば、次のゼミで阿部川教授に吊るし上げられずに済むだろうか。

 メールで真面目な謝罪文を送ったら、ほんの少しでも期限を延ばしてくれるかもしれない。……でも、あの人はそこら辺、けっこう厳しそうなんだよなあ。

 優しいけれど、甘くはない――それが、短い付き合いの中で私が得た阿部川教授の印象だった。

 

………………。

 

 よし、諦めよう。

 ダメな大学生になってしまおう!

 レポートの一つや二つ、裏世界でのはちゃめちゃに比べれば怖くもなんともない!

 勢い任せにスマホを開き、鳥子、小桜、茜理の三人を食事に誘った。

 この三人を選んだのは、べつに私の不遇を理解して慰めてほしかったからではない。ただ単に、食事に誘えるような友人がこの三人しかいなかったというだけだ。

 一年前の私に比べれば、ゼロが三になったのだから大躍進である。

 メッセージを送ってから数分後、三人から了承の返事が返ってきた。

「持つべきものは友」という言葉をよく耳にするが、なんとなくその意味が実感としてわかった気がした。

 すぐに家を出られるよう、支度を進める。

 ベッドに放りっぱなしだった布バッグを肩にかけ、ハンガーに吊るしてあったパーカーに腕を通す。化粧なんてしない。したら負けな気がするからだ。誰と戦っているのかはわからないが。

 準備をしていると、座卓の上でスマホが鳴った。

 画面を見ると、茜理からだった。

《十時さんと多田羅さんが配信してますよ!》

 URLが貼られている。

 私は手を止めてリンクを開く。

 YouTubeアプリが立ち上がり、元気に話す十時と、その隣で無言でコーヒーを啜る多田羅の姿が映し出される。

 まだ配信が始まって間もないらしい。

 十時は、前回の放送について謝罪していた。重くなりすぎないよう、あくまで明るく。

 多田羅も、十時に言われてしぶしぶといった感じで頭を下げていた。

 そこからは、コメント捌きが中心になる。

《あの時何があったの?》

「うーん、ごめんなさい、それは言えません!」

《あの草原はどこ?》

「それもごめんなさい!」

《少しだけ教えて》

「本当に命に関わるので……ごめんなさい!」

《なんで命に関わるの?》

「えっと……ちょっと危ないかもしれない人たちと関わっちゃって……いや、語弊があるかな?」

《ヤクザ?》

「ヤクザではないです! たぶん。いい人たちでした。はい!」

《何も言わないと登録者減るよ》

「え!? 待って、えー、どうしよう……話せる範囲で……いやでも、どこまでが“範囲”なんだろ……?」

《言う言う詐欺かよ。失望しました。十時ちゃんのチャンネル解除して多田羅さんのチャンネルに登録します》

「あー! 待って待って! 未貴ちゃんチャンネル持ってないですよ!? ……じゃあ、ほんの少しだけ、ギリギリ話しても大丈夫そうな範囲でお話しします! それで許してください!!」

 私はスマホを操作し、右上の人型アイコンをタップ。デフォルト名のままのチャンネル名を消し、新しい名前に改名した。

これはちょっとした八つ当たり――いや、親切心。誰にも評価されない、私の“人助け”の一つ。

この二人が、もう二度と裏世界に飛ばされないように。変な発明に手を出さないようにするための、ささやかな楔。

 私は素早くフリックして、コメントを打ち込 む。

 チャット欄に、私のコメントが表示された。

 視聴者数が数十人にも満たないチャンネルだ。コメントが見逃されるはずがない。

 身振り手振りで語っていた十時が、多田羅の呼びかけで手を止める。

 多田羅が指し示した画面を覗き込んだ十時が、ギャッと叫んで猫みたいに飛び上がった。

 

 

《〈ザ・ガールズ〉見てますよ》

 

 

 

 チャット欄がざわつく中、十時は平謝りを始める。

 私は満足してスマホをポケットにしまった。

 

 ちょっと悪いことをしたかな? と、自問する。

 この二人だって、行きたくて裏世界に行ったわけじゃない。被害者といえば被害者だ。

 ……でも、話さないって約束したのに話そうとしたのだから、これは仕方ないことなんだ。

そう自分に言い聞かせて納得する。

 そして私は玄関の扉を開けた。

 憂鬱なレポートのことは、家に置いていく。

 清々しい気分だった。若干、後ろ暗さはあるけど。

 三人との、きっと楽しいであろう夕食を想像しながら。

 私は集合地点へ向かうため、南与野駅へ歩き出した。


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