「巌勝殿、あなたには一度お会いしたいと常々思っていたよ」
「私に…ですか」
弟に案内されて通された屋敷、その寝室にて対面した人物を見て巌勝は内面の驚愕が態度や表情に噴き出すのを抑える為、いくらかの努力を必要とした。
彼はその天稟により生き物の体が透けて見える。布団の上で妻であろう人物に体を支えられて辛うじて起き上がっているその青年は、体中が病巣だらけだった。肺は殆ど繊維化していて酸素を満足に取り込んでおらず、内臓も殆どが機能を止めている。寧ろ病巣に沿って肉体があるのではないかと思うほどだった。
年は若い、恐らくは二十代であろうに八十歳と言われても納得出来るほど、体は痩せ衰えていて骨と皮のようだった。
正直な所、今こうして生きている事それ自体が奇跡であると言える。それは気力の為せる業なのだろう。しかし巌勝を驚かせたのはその点ではなかった。
こうして起きて話しているだけでも全身に耐え難い痛みがしかも絶えず走っている筈なのに、穏やかな笑みを浮かべたその姿からは少しもそれを読み取らせない。過酷な修練を幾年月も経た侍であっても同じように出来る者など少ないだろう。だが鬼狩りの当主だという目の前の人物は、体付きも戦士として少しも鍛えられているようには見えない。巌勝をして彼の精神力を評価するのには、恐るべきという形容詞を付けるのが最も適切だと考えられた。
「縁壱から、あなたの事は良く聞かされていたんだ」
「それは…どのような…ものでしょうか…」
異国の木乃伊のように包帯に覆われた全身の中で、僅かに露出している口元が少しだけ動いた。これは微笑する口の動きだ。
「誰より強く慈悲深く、勇気と自己犠牲の心を兼ね備えた真の侍だと…」
「…それは…事実と…異なります…私は…弟の…足下にも及ばぬ…愚兄…未熟者に…過ぎませぬ…」
「私はそうは思わないが…では慈悲の方はどうかな」
「慈悲は…優しさのみに…非ず…戦う中にも…慈悲は在る…戦いは慈悲では…ありませぬ…が…戦わねば…この世には…無道が…蔓延る…」
鬼狩りがそうである。誰かが鬼を狩らねば、鬼によって無辜の民が命を奪われる世は永遠に続く。
「無道を抑え…光を目指す…その心の奥に…ある…悲願が…侍の…慈悲…」
「縁壱から聞いていた通りだね。子供の頃から、兄は口癖のようにそう言っていたと、彼から聞かされているよ」
「私の望みは…平穏な世…愛する人が…理不尽に…命を…脅かされず…天寿を…全うするまで…幸せに…過ごせる世で…あること…その為に…戦うこと…故に…鬼狩りとなって…私はあなたの家来となるが…それよりずっと…以前から…そしてこの先も…私は…常に…仏様の家来であると…そう思われたく…」
病床の青年は頷いた。
「勿論、それで結構だよ。そもそも私は偉くもなんともない。皆が私を立ててくれているからお館様と呼ばれているだけで、嫌ならどのように呼んでどのように扱ってくれても構わない。それよりも巌勝殿はどうかその力を、人の命を守る為に使っていただきたい。私としてもその為の協力は決して惜しまないつもりだから」
青年は一度言葉を切ると妻に手伝ってもらって、一分ほどの時間を掛けてやっと正座の姿勢を取る。
「この通り、どうかよろしくお願いする」
そう言って深々と頭を下げようとしたが…体が前方に三十度ほど前傾した所で動きが止まった。
巌勝が彼の両肩を掴んでいた。
「頭を下げて…いただく…必要など…ありませぬ…戦う事は…私の…望む所であるが…故に…」
青年が座り直し、巌勝も同じように正座に戻る。
ふと、侍は開け放たれた襖から見える庭に目をやり、指差した。自然、青年と妻の視線もそちらに誘導される。
「あの…庭木を…ご覧あれ…」
巌勝が指差した庭木は、ちょうど暑さも和らぎ秋の気配が漂ってきたこの季節を象徴するかのように葉のいくつかが赤く染まり始めていた。
「人の世も…木と同じ…あなたも…私も…大樹の…葉の一枚…たとえ枯れ…落ちたとしても…大樹が朽ちる…事は無く…落ちた葉は…肥やしとなり…大樹を…更に…茂らせる…故に…人に…まことの死は…無く…受け継がれた…ものが…ますます…大樹を…茂らせていく…この身が…滅んでも…遺るものが…あれば…それは死では…なく…故に…戦う事は…恐れませぬ…」
「素晴らしい」
青年は我が意を得たりと幾度も頷いた。
「巌勝殿、私の息子に会ってくれ。今の言葉を聞かせてやってほしい。限りある命を持っている人間だからこそ、永遠を持っている。あなたの教えは是非、この先の鬼狩りにも伝えていってほしいんだ」
「お望みと…あらば…」
「そしてあなたを空席だった柱の一人として迎えるよ。どうかこれから、よろしくお願いする」
「謹んで…お受けします…お館様…」
柱達にぐるりと囲まれて、思わず炭治郎は固唾を呑んだ。
「悲鳴嶼さんの言う通り、話だけでも聞いてみましょうか。そろそろ口は動く筈です。竈門くん、話してくれますか?」
しゃがみ込んで出来るだけ視線を合わせて語られたしのぶの言葉に、炭治郎は彼の中で事情を整理する為の時間をやや掛けた後に、話し始めた。
「…俺の妹は鬼になりました。だけど人を喰った事はないんです。今までも、これからも。人を傷付ける事は絶対にしません」
「くだらない妄言を吐き散らすな。そもそも身内なら庇って当たり前。言う事全て信用出来ない、俺は信用しない」
「あああ…伊黒の言葉も尤もだ。我々としても君の言葉をそのまま信じる事は出来ない。誰か、人を喰わない事を証明出来る第三者は居ないのかね?」
伊黒と悲鳴嶼の反応は鬼殺隊の柱としては当然のものであった。
「聞いてください!! 俺は禰豆子を治す為に剣士になったんです。禰豆子が鬼になったのは二年以上前で、その間禰豆子は人を喰ったりしていない」
「話が地味にぐるぐる回ってるぞアホが。人を喰っていないこと、これからも喰わないこと、口先だけでなくド派手に証明してみせろ」
宇髄のこの言も正論である。
『カレーライスが食べたい…』
「この場に彼と妹を連れてくるように言われたのはお館様でしょ? だったら僕達でどうこうするよりもお館様の沙汰を待つのが筋なのでは?」
我関せずの有一郎。そして無一郎の発言には柱達も道理であると一定の納得を示したようである。
だが炭治郎としてはそのお館様なる人物の登場を待ってはいられない。無一郎の発言で少しは場が落ち着きはしたが、未だにこの状況はいつ自分と禰豆子を処断するという結論が下されてもちっとも不思議ではない。
「妹は俺と一緒に戦えます。鬼殺隊として人を守る為に戦えるんです。だから…」
「オイオイ、何だか面白いことになっているなァ」
言葉を遮って現れたのは、全身傷だらけでまるで猛獣のような気配を纏った剣士だった。
風柱・不死川実弥
彼が現れた事で、入院中の義勇を除く現役の柱は全員がこの場に集結した事になる。
「鬼を連れてた馬鹿隊士はそいつかいィ。一体全体どういうつもりだァ?」
不死川もこの中のいずれに劣らぬ実力者であるのは一目で理解出来たが、それ以上に炭治郎の目を引いたのは彼の手にあるものだ。国士某から授けられた、禰豆子が入っている木箱。それが今、彼の掌中で鞠のように弄ばれている。
「不死川さん、勝手なことをしないでください」
少しだけ語気を強くして、しのぶが窘めるが風柱には響かなかったようだった。
「鬼が何だって? 坊主ゥ。鬼殺隊として人を守る為に戦えるゥ? そんなことはなァ」
不死川の右手が、腰の刀に延びる。
「ありえねぇんだよ馬鹿がァ」
叫びながら抜き放たれた緑色の刃は、しかし不死川の手に何の感触も与えずに空を切るだけに終わった。
「何ィ?」
見れば、刃が貫く先にあった筈の箱が消えていた。
「むっ」「なんと」
柱の幾人かから、穏やかな驚きの声が上がった。
「えっ!?」
この場に同席していた数名の隠達の驚愕はもっと顕著だった。
つい一瞬前まで、縛り上げられて寝そべっていた筈の炭治郎の姿が無い。引き千切られた縄だけが残っている。柱達の視線を追うと、不死川を挟んだ対角線上に箱を手にして自分の背後に回して庇う炭治郎の姿があった。
「俺の妹を傷付ける奴は、柱だろうが何だろうが許さない!!」
「動けるようになるまで、後二時間は掛かる筈だったんですが…竈門くんは毒の分解も早いんですね」
半ば感心もう半分は呆れるように、しのぶがごちた。
「許さなかったらァ、どうするってんだァ?」
突進した不死川が繰り出した上段蹴りを、炭治郎は両腕で止める。
「ン!!」
止められたのは意外な反応だったらしい。風柱の眼が少しだけ見開かれた。
「このガキがァ」
続けて拳の連打。しかし炭治郎も然る者、全ての打撃に完璧に対応して攻撃を止めていく。
庭木の上からこの攻防を見て、包帯によって口元が隠された伊黒の表情は分かりづらいが、ほうという顔になったようである。
しのぶはやはり昨夜の戦い振りはまぐれではなかったのだと確信を強くした。炭治郎は自分とカナヲの二人掛かりの攻撃を、まるで読めているかのような反応の早さで初動を潰したり適切な防御で受けたりして、自分から攻撃は出来なかったにせよ付け入る隙を与えなかった。
今、猛攻を仕掛けている不死川にも同じ違和感があるようだ。
思ったように攻撃が出せず、出せても受けられてリズムが悪い。流れを掴めなくて尻の座りが良くない。波に乗りきれない。
「ぬおお」
拳の空中戦が続き、焦れたのか僅かに不死川の攻撃が大振りになった。
その瞬間、炭治郎の頭突きが不死川の眉間に入った。
「ぐおっ」
固い頭がしかもカウンター気味に勢い良くぶつかってきて、さしもの風柱もたたらを踏んで数歩後退した。
ヒュウと宇髄が口笛を吹く。
「不死川の攻撃を受けきり、尚且つ一撃返した。やるぜあいつ。ここに初めて来た時には、煉獄にだって地味に一発は入ってたのによ」
「うむ、強いな!!」
だが当人は一撃入れられ額が割れた流血で頭が冷えるどころか、寧ろその逆、ますます頭に血が上ってきたようである。
「やるじゃァねェか」
「善良な鬼と悪い鬼の区別も付かないようなら、柱なんて辞めてしまえ!!」
そしてこの炭治郎の啖呵がとどめとなった。
「てめェェ…本気でやってやるァ。ぶっ殺してやる!!」
再び突進する不死川。炭治郎も迎撃すべく突進してあわや激突するかと思われたその時、
「お館様のお成りです」
「!?」
炭治郎の注意が僅かに逸れた瞬間、頭上から物凄い力が掛かって庭一面に敷かれた玉砂利に顔面が押し付けられた。自分の頭を掴んでいるのが不死川の手だというのに気付くのに、少しだけ時間を必要とした。
同時に、柱達は一斉に膝を突いて傅く。
その前には、二人の子供に体を支えられて立っている青年の姿があった。
痣とも瘢痕とも付かないものが顔の上半分に広がっていて、瞳は白く濁っている。
足取りからして眼が不自由なようである。
「お早う皆、今日はとても良い天気だね。空は青いのかな? 顔触れが変わらずに半年に一度の柱合会議を迎えられたこと、嬉しく思うよ」
「お館様におかれましてもご壮健で何よりです。益々のご多幸を切にお祈り申し上げます」
先程までの血気盛んな様子からは一転、急に流暢かつ丁寧に話し始めた事に炭治郎は面食らった。
「ありがとう、実弥」
子供達の手を借りて、お館様と呼ばれたその青年は少しだけ危なっかしく正座した。
「畏れながら、柱合会議の前にこの竈門炭治郎なる鬼を連れた隊士について、ご説明いただきたく存じますがよろしいでしょうか」
当然と言えば当然の疑問である。これは柱だけでなくこの場の全員の疑問の代弁でもあった。
鷹揚に頷き、お館様・産屋敷耀哉は話し始めた。
「そうだね。驚かせてしまってすまなかった」
ここで一拍置く。早過ぎず遅すぎず、絶妙と言って良い間だった。
そしてこの間は、次の彼の言葉に最大級の衝撃を乗せる効果を発揮した。
「炭治郎と禰豆子のことは私が容認していた。そして炭治郎は下弦の弐を倒して甲階級に昇格しており、昨晩また下弦の伍を倒し柱になる為の条件を満たした。更に彼は失われていた完全な日の呼吸の使い手でもある。十二鬼月討伐の功績と併せて、彼に空席だった柱の席を与えて日柱としたい。この二つを、皆に認めてほしいと思っているんだ」