かつては誰より、父の背中が大きく見えた。
幼い煉獄杏寿郎にとって、父・煉獄槇寿郎とは全能の神であり、世界そのものでさえあった。
代々炎の呼吸を受け継ぎ、鬼殺隊の柱を輩出し続けてきた煉獄家。
その当代として炎柱の責務を担い、夜毎に家を空けて鬼を斬り、人を救い、そして必ず帰ってくる。
傷を負って戻る朝も少なくなった。
埃及の木乃伊のように包帯を巻かれ、母・瑠火に呆れたように叱られている姿を見た事も一度や二度ではない。だが父はいつも笑っていた。傷は勲章、勇気の証。剣士の血を無辜の民の涙と引き替えられたのなら、それは誉れでありこそすれ悔いなどある筈が無いと。
「父上!! 今日の稽古をお願いします!!」
「うむ!!」
庭に響く木刀の音。
杏寿郎は父のようになりたいと思い、鍛錬を欠かさなかった。
強く、正しく、人を守る為に刀を振るう、立派な剣士になる為に。
「杏寿郎!! 腰が高い!!」
「はい!!」
「肩に力が入りすぎだ!!」
「はい!!」
厳しくはあった。だが理不尽ではなかった。
技を覚えた時には褒めてくれた。
失敗した時には何故出来なかったのかを教えてくれた。
だから杏寿郎は、父との稽古が好きだった。
そして母はそんな二人を千寿郎と共に、縁側から静かに見守っていた。
病弱で、日によっては床から起きる事さえ出来ない人だったが、その眼差しはいつも強く、そして優しかった。
そんな日々が、いつまでも続くものと思っていた。鬼殺の剣士として明日の命をも知れない身であると分かっていたが、しかし父だけは例外だと心のどこかで思っていたのかも知れない。
だが。
ある日を境に父は変わった。
最初は、母が亡くなった事が原因だと思った。
父は母を深く愛していた。杏寿郎自身、母が亡くなった日は悲しかった。弟もまだ物心付かなかったが、分からぬままに泣いた。
父が打ちひしがれるのも無理は無い。だが、それだけではないような気がした。
酒は昔から嫌いではない父であったが、任務前でも断酒出来なくなる所から始まり、任務にすら酒を持ち込むようになった。やがて自室に籠もりきりになり、柱合会議にも出席しなくなった。
稽古も付けてくれなくなった。
今まで大切にしていた書物を乱雑に扱い、刀も床の間で埃を被るようになった。
「父上!! 今日の稽古を!!」
「うるさい!!」
酒で灼けた声だった。
「どうせ大したものにはなれないんだ。お前も俺も」
杏寿郎には、その意味が分からなかった。
「何故です!! 俺は父上のような炎柱になります!! いずれ千寿郎も…」
「無駄だ」
父は、息子を見ようともしなかった。
「どれだけ鍛えても、どれだけ剣を振っても……生まれ持ったものが違えば追い付けん。俺達がやっている事など、結局その程度のものだ」
「意味が分かりません!! 頂が遙か高みにあるからこそ、そこに至る為に鍛錬するのではないのですか!?」
「違うんだ。鶏がいくら羽ばたいても、精々足を少し地面から浮かせられる程度のものだろう。どれほど足掻いても、目に見えない高みを飛ぶ渡り鳥の真似事は出来ん。俺達のやっている事など、所詮子供のチャンバラごっこに毛が生えたものでしかないのだ。それでもやるなら好きにしろ。もう俺は教えん」
それ以降、本当に父は杏寿郎へ稽古を付けなくなった。
だが、杏寿郎は止まらなかった。
父が教えてくれなくても、煉獄家には伝えられてきた書物がある。
炎の呼吸を初め、鬼狩りの技について記された歴代炎柱の手記。
そこに記されていた型・呼吸・歩法・鍛錬法。
残された文字を読み、前にも増して木刀を振った。
分からなければ何度も読み返す。
それでも分からなければ、幾千回と刀を振り、自分の体で正解を探し続けた。
やがて杏寿郎は最終選別を突破して鬼殺隊へ入り、鬼を斬り続けた。
幾度も傷を負い、死の淵を彷徨い、それでも生き残って階級を上げ、遂には父と同じ炎柱の位を得た。
だが父が何故変わったのか?
その答えは、未だに分かっていない。
「……素晴らしい……」
無限列車。
杏寿郎を前にして、国士某の六つの眼が僅かに細くなった。
透き通る視界の中に映る肉体は、まさに鍛錬の結晶。
骨はがっしりと太く、筋肉は無駄なくしかも高密度に発達し、心肺は強靱。血流にも些かの淀みも無し。
剣を握る指の一本一本、爪先に至るまで鍛え抜かれている。
そして何より。
立ち姿・重心・息遣い・視線・心の置き方。
全てが一流の剣士である事を示している。一合も交えずとも、並の剣士ではない事が理解出来る。
「心…技…体…いずれも…高き域に…ある…人として…究極に…近い…」
「そうか!! それは光栄だ!!」
杏寿郎は朗らかに応じる。
だが、鬼侍の言葉には続きがあった。
「されど……不完全……」
「む!!」
炎柱の眉が僅かに動いた。
「それを……教えよう……」
国士某は木刀を正眼に構えた。
「良いだろう!! 俺が相手しよう!!」
「煉獄さん!!」
炭治郎が声を上げる。
「俺達も…」
「待て」
加勢しようとする所を、義勇が止めた。
「義勇さん?」
「今は無理だ」
国士某は車両と車両の間、連結部の出入口を背にして立っている。そしてここは列車内で、ただでさえ通路の幅は狭い。
二人並んで剣を振れるような空間ではない。
一斉に掛かろうとすれば、互いの刀が邪魔になり、最悪、味方同士で斬り合う事さえ有り得た。どうしても一対一になってしまう。
「だからって見てるだけなの!?」
「出来る事はある。乗客が戦いに巻き込まれないように守る事だ」
「わ、分かったよ」
善逸が泣きそうな顔になる。
一方、杏寿郎は既に完全な戦闘態勢に入っていた。
炎の呼吸・壱ノ型 不知火
ズンと一瞬重い列車の車体が浮き上がるほどの踏み込みで、一息に距離を詰める。
赤い日輪刀が、炎そのものの如き勢いで国士某へ迫った。
月の呼吸・壱ノ型 朔月・宵の宮
国士某が木刀を振る。
カァン!!
金属と木が激突したとは思えぬ、高く澄んだ音が響いた。
「ええっ!?」
蜜璃が眼を見開いた。
杏寿郎の一太刀を受けて、木刀は折れていない。罅さえ入っていなかった。
「ギョロギョロ目ん玉の刀とぶつかってんのに、何で奴の木刀は折れねぇんだ? 鉄でも仕込んでんのか?」
「違う」
義勇は即答した。
「仮に鉄の芯が入っていても、優秀な刀鍛冶が仕上げて磨き上げられた柱の刀、しかも激烈な打ち込みを特徴とする炎の呼吸と真っ向からぶつかれば、ひとたまりも無く真っ二つに切断される筈だ」
「じゃあ血鬼術!?」
「違う」
善逸の意見も却下された。
義勇の視線は瞬きもせず、両者達がぶつかり合う一瞬に注がれていた。
「これは技だ」
「技?」
「打ち合う瞬間を見ろ」
再び杏寿郎が踏み込む。
「炎の呼吸・弐ノ型 昇り炎天!!」
下方から振り上げられる斬撃。国士某の木刀がそれを受ける。
キィン!!
木刀は、今度も折れない。
「さっき言った通り、煉獄の剣をまともに受けては木刀は折れてしまう。それを避けるにはまず刃と木刀が触れる瞬間、ほんの僅かに木刀を動かして太刀筋を狂わせ、切れ味を出させないようにする必要がある」
完全に止めるのではない。
接触した瞬間にほんの僅か横、あるいは斜めへ。杏寿郎の一撃が本来通るべき線を、僅かにずらす。
「それだけじゃない。衝撃も逃がしている。奴は腕だけで受けていない。肩・胸・背中・腰・脚……体全体を僅かに動かして、打ち込まれた力を全身へ逃がして、吸収している」
「そんな事が出来るの?」
「事実、出来ている」
義勇の声には、僅かな苦々しさが混じった。
遙か高みにある剣の極みを、何でもないかのように国士某は見せ付けてくれる。
「と…口で言うのは簡単だが…力を入れ過ぎれば、斬撃の威力をまともに受ける事になって木刀は折れる。逆に力を抜き過ぎれば、日輪刀の軌道を逸らし切れず、そのまま体を斬られる」
力を抜きすぎても駄目、入れすぎて受け止めても駄目。
刃が触れたその一瞬に、最適な角度と速度と力。それら全てを合わせなくてはならない。
恐らく零から百の中で適切な数値を瞬時に選び取り、しかも上下に二の誤差もあればこの技は成立しないだろう。
あるいは相手がどう攻めてくるか分かっているお約束ならそも可能かも知れない。実際には自分を斬るつもりで襲い掛かってくる最強の剣士を相手に、それをやってのけているのだ。
「そんな事を考えてやってるんですか?」
炭治郎が尋ねる。
「違う」
義勇は首を振った。
「考えていたら間に合わない」
見る、考える、判断する、それから体を動かす。
いちいちそんな手順を踏んでいたら、煉獄の剣は既にとうの昔に国士某の頸を飛ばしているだろう。
「体全体で感じているのだろう」
それを可能にするのは極限の鍛錬と、間を置かず戦い続けた経験と、くぐり抜けた修羅場の数。何万、何十万、何百万という剣戟の中で積み上げられた感覚。それだけが最適な答えを教えてくれる。
「……化け物が」
義勇の結論はそれだった。
「お、俺はあんなのと戦うの……?」
善逸の顔色は青を通り越して白くなった。
炎の呼吸・肆ノ型 盛炎のうねり
杏寿郎の連撃が走り、国士某は全てを捌いてしまう。
上下左右に木刀が踊る。速さ故にその実体は鮮明には捉えられず、そんな者はここには居ないが未熟者が見れば木の壁のようにすら錯覚したかも知れない。
杏寿郎の剣は速く、重く、鋭い。
「良い……」
国士某は呟く。
「実に……良い……」
確かに強い。
一太刀一太刀に、積み重ねた鍛錬の日々が刻み込まれているようだ。
人の身、しかも二十歳ほどの若さでここまで練り上げたのは驚嘆の一語に尽きる。
しかしながら、だからこそ分かる事があった。
「……なるほど……」
数合。
更に十数合。
刃を交える度、鬼侍の中で疑念が強くなっていく。
そして、遂に確信した。
「煉獄殿……」
「む!!」
「貴殿は……炎の呼吸を……誰から習った……?」
「父から基礎を教わった!! だが途中からは、我が家に残された指南書を読み、自ら修練した!!」
「やはり……そうか……」
国士某の声が、僅かに沈んだ。
「何か問題があるか!!」
「ある……」
カァン!!
杏寿郎の刀が、大きく弾かれた。
同時に、飛び退って距離を置く。戦いが始まって、杏寿郎は初めて一呼吸置いた。
まだ数分も経っていない筈だが、極めて高密度な集中力によって行なわれる死合いは、対峙している両者は勿論の事、その背後の炭治郎達の体感時間を大きく引き延ばして、十数分も経ったかのように錯覚させていた。炭治郎は、思わず大きく息を吐く。肺の中に解放感が広がった。息をするのを忘れていた。それほどに、両者の立合いを追う事に心を奪われていた。
「記されたものが……何になる……?」
「何?」
「書物は…技の形を…残す事は…出来る…歩法…呼吸…構え…理合…それらは…文字として…後世へ…残せよう…」
それこそが書物の存在意義であり、人の発展を支えてきたもの。竹簡や粘土板の時代から、人の発展の歴史は記録の歴史でもある。
「だが…剣は…それだけでは…ない……」
木刀を構えたまま、国士某は静かに語る。
「僅かな力加減…呼吸の間…相手によって…変わる拍子…恐れた時の…心の置き所…迷いが生まれた時…何を信じ…如何にして…剣を振るうか……」
それは紙には書けない。小説で言えば行間に当たるもの。
仮に書けたとしても、読むだけでは理解出来ない。
「師が…弟子の剣を…その身に受け…弟子が…師の剣を…その身で知る…叱り…褒め…間違いを正し…共に年月を…積み重ねる…弟子は師から…学び…師は弟子より…教えられる…」
それこそが伝承。
「師と弟子の…絆あってこそ…技は……真に……受け継がれる……」
「…むう!」
杏寿郎は押し黙った。
胸中に浮かぶのは酒に溺れ剣を置いた父と、それを背にして鍛錬する自分の姿だった。
まさか国士某がそれを知る訳も無いが、自分と父の関係をずばり言い当てられた気がした。
『どうせ大したものにはなれないんだ。お前も俺も』
脳裏に父の言葉が蘇った。
「貴殿の技は……見事……」
六眼が、正面より杏寿郎を見据える。
「されど…炎には…足りぬ…」
「何と!!」
「火だ……」
「今の貴殿は…強く…熱く…眩い…されど…一人で燃える…火に過ぎぬ…」
火は強い。
だが炎とは、連なり、受け継がれ、より大きく燃え上がるもの。
「ならば……」
国士某が木刀を持ち直した。
その構えを目にした瞬間、杏寿郎の表情が変わる。彼だけではない。杏寿郎の継子である蜜璃、そして同じ柱であり炎の呼吸を知る義勇も同じだった。
「あ、あの構えは!?」
「やはり、出来るのか」
義勇の声には畏敬の念すらあるようだった。那田蜘蛛山での言葉がハッタリではなかった事が今再び、証明されようとしている。
「まさか……」
杏寿郎は知っている。
幼い頃、父に何度も見せてもらった。指南書にも描かれていた。
炎の呼吸の構え。
「火が…登れば…燈となり…」
国士某の呼吸が変わった。空気が熱を帯びたように錯覚する。闘気がそう体感させるのだ。
「燈が…連なれば…炎に至る…」
杏寿郎の眼が、大きく見開かれる。
「私が…階となろう…」
木刀が炎刀の如く振り上げられる。
「煉獄杏寿郎……」
国士某の口角が、僅かに上がった。
「貴殿は未だ鉄…それを鍛え直し…刃金にするには…炎を入れねば…ならぬ…私がその役目を…担おう…」
炎の呼吸・壱ノ型 不知火