怖いもの見たさは猫を殺す   作:シキセ

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霞廊二重足音
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 それでも僕のあだ名が「タマ」になったのは、単に名字が猫田だからで、別に好奇心が強いからじゃない――と、本人としては言い張りたい。

 言い張りたいのだが、“好奇心は猫を殺す”という言い回しを、僕はどうも他人事として笑い飛ばせない性分らしい。

 ちょうどよく死なない程度に、覗いてはいけないものへ顔を突っ込みに行ってしまう。

 

 その夜、友人に引っ張られて行ったのは、那珂宮市旧市街のはずれにある潰れた宿だった。

 観光の名残で、ひしゃげた提灯の骨が軒にぶらさがり、木賃宿の看板だけが風に小さく鳴る。

 板塀は崩れ、草は膝まで伸び、雨を吸った木と潮の匂いが鼻に重くまとわりついた。

 地元では“霞廊”と呼ばれている。

 夜になると廊下が白く霞む――そんな噂が名前の由来だ。遠海地方の怪談史をなぞる授業で、その名は何度も耳にしていた。

 

「はい、三、二、一、いぇーい。タマ、ピース!」

 

 スマホのライトを顔に向けられ、僕は片手で目を庇った。

 夜風は湿っていて、潮の匂いが遠くにある。ふざけた動画を撮る友人たちは、しかし“廊下が霞む宿”の真っ暗な口にだけは近づかなかった。

 入り口の床板は抜け、のぞき込むと湿った木屑が底に溜まってる。

 

「うわ……マジで出そう」

 

「タマ、猫目で先陣よろしく」

 

「証拠だけ撮って帰ろ、な?」

 

 囃し立てながら、誰も玄関の闇には踏み込まない。笑い声が強がりに聞こえる。僕は手の中のライトを落とし、闇の目を借りるみたいに、縁に片足を置いた。

 

 軋む。古い床板が、肺をしぼるみたいに鳴る。壁の割れ目から差す月光が埃を筋にして漂い、湿った藁の匂いが喉に貼り付く。

 

 まるで水面の下に顔を突っ込んだみたいに、耳の奥に薄い膜が張った。呼吸が一枚、浅くなる。

 

 ――暗い廊下。障子は抜け落ち、柱の影が真っ直ぐに伸びている。どこかで何かが擦れる。

 

 そして。

 

 足音。

 

 僕のすぐ背後で、ぱき、と木が小さく割れる音がした。反射で振り返る。ライトは握っていた。照らした先には、崩れた下駄箱と白く乾いた埃しかない。

 

 そこで、記憶が白く切れた。

 

 気づいた時には、道路の縁でしゃがんでいた。友人が肩を揺さぶっている。「おい、タマ? 平気か?」

 

 スマホのカメラロールには、ぶれた廊下が二枚と、十数秒の真っ暗な動画。遠くの物音と、僕の荒い息だけが入っていた。誰も何も深追いせず、場は白け、散会になった。

 

 帰りに寄ったコンビニで、小銭を落とした。かがんだ瞬間、背中に針の頭みたいな冷たさが刺さる。

 ――誰かが、一歩半うしろを、同じ歩幅でついてくる。

 そんな気がした。振り返る。誰もいない。錯覚だ、と言い聞かせて家へ急いだ。

 

◆◆◆

 

 翌朝。キャンパスに着いても、錯覚は消えなかった。

 僕の通う二教院大学の正門は、いつもの通り大仰に古い。

 広報は“日本最古の大学”と誇らしげに刷り込み、起源は儒教と仏教の二教を教えた二教院だと説明する。

 二教院の学生は暦生と呼ばれる。歴史を重んじる、古い大学にありがちな、独特の呼称。

 

 暦生は暦の上に歩く、なんてキャッチコピーを見た記憶がある。うまいことを言う。

 けれど実際には、僕たちは毎日を、一日分ずつ落としながら歩いているだけだ。

 

 楠は百年の風を吸い上げ、枝の影を地面に濃く落とす。新入生の歓声、シャッター音、紙コップの珈琲の蒸気。

 

 歩く。背後に、ひたり、ともうひとつ分の重さがまとわりつく。

 

 振り返っても誰もいない。視線を前に戻す。――ひたり。

 

 錯覚、にしてはしつこい。眉間に小さな疼きを抱えたまま中庭を横切ると、人の流れの中に、輪のような空白がひとつ浮いていた。

 

 そこに、彼女がいた。

 

 背筋を伸ばし、後ろ向きに、石畳を足裏で探るみたいに歩いてくる。足の置き方に迷いがない

 儀式をなぞるような滑らかさ。

 周囲の学生は露骨に距離を取り、けれど視線だけは吸い寄せられて、見ていないふりに忙しい。

 

 空白の輪は、彼女の移動とともに、音のない行列みたいにキャンパスの空気を押し分けて進んだ。

 

「また後ろ歩きしてる」

 

「やば……目ぇ合ったら呪われるやつ」

 

「“狐藤(ことう)先輩”だろ」

 

「顔、見たら死ぬって」

 

「いや絶世の美女って説も聞いた」

 

「どっちにしろ怪異。逆さ巫女」

 

 囁きが風の端に引っかかって、僕の耳に届く。誰もが彼女に名前を与え、違う仮面をかぶせている。

 

 避けようとして、間に合わなかった。彼女は音もなく僕の目の前まで来て、そのまますれ違う。――その瞬間、視界の端に白が落ちた。

 

 白漆の面。頬には薄紫の藤の房が描かれ、金の瞳孔が針のように細い。縁は使い込まれて微かな艶を失い、しかし描線は異様に端正で、仕立ての良さだけは隠せない。

 黒髪の艶が面の下からすべり、うなじの赤い紐が蝶に結ばれて、皮膚の上で静かに揺れた。

 緋袴の裾が風を含み、白衣の布目が陽に淡く透け、擦れた衣擦れの音が耳に触れる。す

 れ違う一瞬、香のような乾いた匂い――多分、神社の社務所に漂う紙と墨の匂い――が鼻先をかすめた。

 

 その狐面の金の目が、こちらをまっすぐ射抜いた。

 

「きみ、そのままだと死ぬよ?」

 

 振り返る前に、声が落ちていた。面の内から響くのに、距離の感覚を失わせる音量で、よく通る低さだった。喉がからん、と小さく鳴る。

 

「……僕が、ですか」

 

「足音。昨夜から、ついてきてる」

 

 僕の肩の皮膚がきゅっと縮む。彼女は背を向けたまま一拍置き、こちらの逡巡を待っているように見えた。僕は思わず、半歩だけ近づいた。

 

「気のせい、じゃないんですか」

 

「気のせいで済むといいけどね」

 

 袖の影から白い紙札が一枚、こちらへ差し出された。薄い和紙。

 

「確かめてみる?」

 

 細い、強い筆圧で何かが書きつけてある。近づけられたそれは春の空気の中なのにひやりとして、紙の繊維が指腹にざらりと立つ。

 

「握って。今、ここで」

 

 言われるまま、指を伸ばした。彼女の指が上から重なる。驚くほど冷たい。

 触れた瞬間、中庭のざわめきが一枚、遠のいた。鼓膜に薄い水の皮膜が張る、あの夜の感触が戻る。

 

 ――ひたり。

 

 背後で、確かに、足音がした。

 

「――っ」

 

 肺が、勝手に息を止めた。彼女の指先の冷たさから、細い火が逆流するみたいに熱が上がってくる。

 

「ね?」

 

 狐面の奥の声が、軽く笑った気配を作った。周囲の学生の囁きは、今度こそ完全に遠のいていく。輪の空白だけが、僕と彼女を包んだ。

 

「……それ、何なんですか」

 

「読めば、書ける。書けば、掴める。掴めば――」

 

 彼女はそこで言葉を切り、紙札から指を離した。面の金の目が、僕の背後を一度だけ見たふうに、微かに揺れた。

 

「部室に来て。続きはそっち。歩ける?」

 

 気圧されて、思わずうなずくと、彼女はくるりと――いや、やっぱり振り向かず、後ろ向きのまま、ためらいのない歩幅で動き出した。

 

 石畳を探る踵の角度が正確すぎて、僕は遅れまいと足を運ぶ。ひたり、と背後の足音も、もう一拍を添えてついてきた。

 

 “好奇心は猫を殺す”。

 胸の内側で、その言葉が乾いた音を立てて転がった。

 それでも、猫は歩いた。首のどこかに、まだ見えない鎖が掛かったままで。

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