彼女はくるりと――いや、やはり振り返らず、後ろ向きのまま方向だけを変えた。ためらいのない歩幅で石畳を渡っていく。僕は紙札を握り直し、その背を追った。背後の“それ”も、ひたり、と一拍遅れで付いてくる。
文学部棟の三階、端に近い空き教室の扉に、紙のプレートが押しピンで留められていた。
――第二文芸部。
黒の太字で「二」の字だけがやけに大きく、上から赤ペンで斜めに×印が走っている。悪ふざけなのか、侮蔑の目印なのか。取っ手は手の脂で鈍く光り、扉を引くと、乾いた紙と古いインクの匂いが一度に鼻に上がった。
スチール棚に、背表紙の幅が揃わないファイルがぎっしり並ぶ。ラベルには「遠海怪異蒐集ノート」「面越し」「婆蛇駅」「蛇輪」「影嚙」……黒いインクで手書きの文字が踊っている。机は二つ。片方には硝子のペン立て、旧式の万年筆、そして火打石に似た金具。もう片方は空で、向かい合う椅子が二脚。薄いカーテンの向こうで午後の光がふるえ、埃が縦に揺れていた。
「座って」
巫女服の裾が椅子の脚にさらりと触れた。狐面は外れない。面の内からの呼吸だけが微かに深く浅く、規則正しく往復している。
「
「
「タマ、だね」
抑揚の少ない声が、確信だけを滑らせてくる。からかいめいていないのが逆に居心地を悪くした。
「昨夜、どこに入ったの」
「旧市街の廃宿です。霞廊って呼ばれてるところ」
「入った瞬間、音が一枚、薄くなったでしょう。耳の内側に膜が張るみたいに」
「……はい」
「なら、拾ってる。足音」
灯は棚から薄いノートを一本抜いて机に置いた。表紙に鉛筆で『足音のこと』。ぱらぱらとめくると、ページの前半は既に整った文字で埋まっている。――夜更け二時/鏡に寄る性質/踵の欠け/肩口に影。断片の列は、証言と観察の混合体で、ところどころに小さな図が添えてあった。
「正しく語れば、形が出る。出た形は紙に移る。紙に移ったものは、ここでは紙だよ」
灯は万年筆を取り、僕の指に握らせ、その上から自分の指を重ねた。指先は驚くほど冷たい。墨の匂いが立ち上り、鼓動の音だけが耳の膜に当たって大きく響いた。
「思い出して。最初の一歩の前に何があった?」
目を閉じる。湿った藁の匂い、柱の黒い影、月光の粉。――ぱき、と空洞が先に鳴る。
「呼吸が一回、細くなって……床板が踏まれるより先に鳴りました。人の重みじゃなく、からっぽが先に鳴った感じ」
「いいね。二歩目は」
「僕の一歩の、半歩後ろ。真後ろじゃなく斜めにずれる。左側に寄ります」
「三歩目」
「同じリズム。……でも縦じゃなく横に、幅が出る。足音なのに広がっていく」
「幅」
筆先が止まった。面がわずかに傾き、灯は僕の肩口を凝視する。
「踵が欠けてる。足りないぶん、他から借りる。だから広がる。……少し痛いよ」
「え」
布越しに爪がほんの一瞬だけ触れた。静電気の針のような熱が皮膚の下を走り、青白い灯が内側でぱちんと弾ける。息が短く吸い込まれ、肩に薄い線が浮いた気がした。灯は袖の陰から短い紙片を取り出し、指先で触れた。ぼう、と青い火が紙の端で点る。狐火。呼吸を一つする間だけ燃え、すぐ消えた。
「見本。本番はまだ」
金属の薄い匂いが残る。灯はノートに数語を書き足し、万年筆のキャップを閉じた。
「語りは半分。残りは、焼く。でも今は早い。形がまだ足りない。『誰の』『どこから』『どこへ』」
「それを、これから集める」
「昼と夜で、拾える“名”が違う。昼は形。夜は行き先」
言いながら、灯は机の引き出しからもう一枚の紙を出した。入部届。印刷欄の一行目には、もう僕の名前が書かれている。字は僕の癖に似ているのに、書いた覚えがない。
「副部長代理。今日から」
「ちょ、ちょっと待ってください。副部長って、代理って何を」
「試用期間。語って、燃えるのに、どれくらい耐えられるかを見る。肩書きは鎖。“二”は嫌われるから、鎖は太いほうがいい」
「“二”……第一文芸部と揉めてるって話は聞きましたけど」
「向こうは正統派。文学は純であるべき、怪異はお話にすぎない、って。――でも、書かなかったら死ぬことがある」
淡々と告げる声に、冗談の余地が見えない。灯はペンを僕へ差し出した。ペン先が光の粒を弾く。
「書いて。タマ」
サイン欄の上に、狐面がなだらかに近づく。黒髪がさらりと落ちる。ほんの一瞬、面の隙間から“片目と頬の線”が覗いた。澄んだ黒。年齢より少し幼く見える無垢な光。頬の輪郭はやわらかく、ただ“普通に美しい少女の顔”。醜悪でも絶世でもない、人間の顔――それなのに、普通であることが逆に不気味で、心臓が掴まれたみたいに跳ねた。
灯はすぐに面を正し、短く促す。
「書いて」
インクが紙の繊維を滑り、黒に少し青の混じった線が僕の名前を結んでいく。最後の一画が紙に沈んだ、その刹那――
ひたり。
廊下の向こうで、足音が一つフライングで鳴った。灯の金の目が扉へ向き、首がわずかに横へ振られる。
「まだ」
空気が言いつけに従うみたいに沈み、音はそこで途切れた。鳥肌が二の腕を駆け上がり、うなじの産毛が立つ。僕は反射的に扉の隙間を見たが、当然、そこには誰もいない。
「質問、ある?」
「……ひとつ。先輩、その、いつも後ろ向きで歩くんですか」
「エクササイズ。目と足の訓練。健康的」
面の口元が、きわめてわずかに笑った気がした。冗談のようで、本当のようでもある。言葉の温度は一定なのに、意味だけが二重底になって沈んでいく。
「それと、覚えておいて。――藝亭院は、こういうのを嫌う」
「藝亭院……附属図書館の、別名の」
「表はね。裏で禁書を扱う人たち。紙を燃やすのが嫌い。紙がもったいないから、って」
さらりと言って、灯は万年筆をペン立てに戻した。軽口みたいな響きなのに、そこだけ温度が変わった気がする。
「現場をもう一度見る。鏡、階段、踏面、窓。全部、余さず記録する」
「分かりました」
言葉に出してみると、思っていたより素直な返事になった。名を記した紙のせいだろうか。僕の名前はまだわずかに湿り、線の縁に光が滲んでいる。
◆◆◆
部室を出る。三階の廊下は、昼の光のわりに静かだった。古い窓枠のペンキはひび割れ、ガラスは気泡を抱いて鈍く歪む。遠くの教室で、チョークのこすれる音がした。
踊り場へ向かう途中、灯が踵で踏面を軽く叩く。コツ、コツ、と乾いた音が返る。
「階段の音は癖が出る。夜、ここでも一度合わせておくと、現場で外さない」
「合わせる……?」
「足音の“歩幅”と“拍”。きみの紙に、間違った歩調を入れないため」
言いながら、灯はまた後ろ向きのまま踊り場を折れた。僕は二段ほど間を置いてついていく。窓の外、構内の銀杏並木が揺れていた。下生えの芝の向こうを、新入生らしい集団が笑いながら横切っていく。さっき僕らのまわりにできたような空白は、ここにはない。
外へ出るまでの廊下で、灯はふと足を止めた。面がわずかにこちらへ傾く。
「タマ。夜、二時前に、メッセージを送る。迎えに行くから、現場で書いて。今夜は“足音のこと”の続きを」
「はい」
「できるだけ正確に。わたしが燃やすとき、間違いが残ると、わたしが少し焼けるから」
袖口から覗いた手首に、淡い痕が一筋、白く沈んでいるのが見えた。手形とも火傷ともつかない痕。視線が吸い寄せられて、逸らせない。灯はそれに気づいた様子もなく、踵を返す……いや、返さない。後ろ向きのまま、昼の光へ滑っていった。
◆◆◆
階段の下で、風が一つ生まれ、消えた。窓の隙間が鳴り、手すりの影が床の木目に沿って細く揺れる。僕は深く息を吐き、紙札を握り直した。和紙の繊維が微かに鳴る。
その時、踊り場の奥で、階段が一段だけ、確かにきしんだ。
ひたり。
音は一つだけ。けれど、次があると確信させる質量で、鼓膜の奥に残る。僕は無意識に背を伸ばし、踵を揃えた。階段に人影はない。光の角度が変わり、手すりの影が僕の足元とぴたりと重なった。
名前の乾いた紙の触感が、ポケットの内側で静かに擦れる。
今夜、二時。続きを書く。
そして、あの足音の“どこから”と“どこへ”を、言葉にする。
それだけを確かにして、僕は歩き出した。