怖いもの見たさは猫を殺す   作:シキセ

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霞廊二重足音はこれで完結。
末尾に挿絵があります。
作者の手書きですが、もしよければご覧ください。


1-3

 夜道は、息の白さを持たないのに冷たかった。二教院の灯りを背に、旧市街へ向かう坂を下る。狐藤灯はやはり後ろ向きで歩く。だが今夜は、袖の影から伸びた指で、ボク――猫田正樹の手を確かに引いた。掌に和紙のざらつきと、彼女の指の冷たさが同時に沈む。

 

「吸い込まないでね」

 

「……吸う?」

 

「気配。音の残り香。肺で吸うと、胸の中で育つ。目と手で受けて、紙に流す」

 

 言葉は簡潔で、命令のようで、やさしかった。僕は頷き、歩幅を合わせる。砂利が静かに鳴るたび、背後の“それ”は応じず、今日は沈んだままだった。足音に追われていた昨夜より、世界が半歩遠い。

 

 それでも、胸の奥ではかすかな鼓動が増えていた。坂道の脇に沈む石垣は夜露を抱き、月の光に銀の縁を帯びている。古い電灯が時折明滅し、明かりが消えるたび、街はひとつ深い呼吸をしているように思えた。

 

 遠海の旧市街は、昼間にはただの観光客用の古い通りにすぎない。しかし夜になると、瓦屋根の段差や格子戸の影が、すべて怪異の棲処であるかのように濃く立ち上がってくる。

 

 僕と灯の足音――いや、灯の足音は存在しない。彼女は後ろ向きに歩きながらも、地を踏むというよりも闇を撫でて滑っていた。

 

 ふと、右手の先に朽ちた鳥居が見えた。そこはかつて祠があった場所だと聞いたことがある。

 社は失われ、石段だけが残っている。その影の奥から、ひたり、と短い拍が追いかけてきた気がして、思わず足を止める。

 

 灯は振り返らない。ただ僕の掌を強く握り直し、無言のまま導いていった。まるで彼女の歩調に合わせれば、境のこちら側へ留めてもらえると告げているように。

 

 街並みの奥へ入るにつれ、空はますます沈み、星の数が減っていく。

 

 湿った潮風が横道を抜け、板壁を叩く音は波のように耳に返ってきた。石畳の継ぎ目からは草が生え、そこに夜露が滴って、冷たい銀の粒を灯している。

 

 どの粒も小さな目のようで、僕らを見つめている気がした。視線を逸らそうとしても、胸の内にじんと残り、歩幅をわずかに乱す。

 

 灯は止まらない。

 

 狐面の下から吐息が揺れ、後ろ歩きの足取りは迷いなく均一だ。裾がかすかに擦れるたび、巫女服の赤が月光に濡れた。

 

 僕は彼女の背を――いや、背ではない。面の裏の、正体の見えない素顔を思い描きながら歩く。部室で一瞬垣間見えた、ひどく整った顔立ち。

 

 胸の奥でひたり、と鼓動が増していく。

 

 道は細くなる。両脇の塀が迫り、上からは庇が重なって夜空を削る。閉ざされた路地は息苦しく、しかし逃げ場のない高揚を連れてきた。

 

 僕は思う――決着の時が近い。呼吸が浅くなり、指に力が入る。灯の指もまた、僕の掌を離さない。二人のあいだを流れる静電気のような緊張が、街そのものを震わせていた。

 

 やがて路地が途切れ、闇を纏った建物が目の前に現れる。霞廊――今夜、怪異を迎える舞台だ。

 

◆◆◆

 

 “霞廊”の前に立つ。軒の提灯の骨は歪み、夜の湿りをさっきより濃く握っている。床板の匂いは海の底の木箱みたいに冷たく、耳の奥に薄い膜が落ちた。灯は手を離さない。後ろ向きのまま、僕を玄関の一歩内側へと導く。

 

「ここで、逆行。わたしは境を踏む。タマは見る。書く。渡す。――息は、浅く」

 

 うなずくと、灯は袖から小さな金具をつまみ出した。火打石に似た、細い鉄の舌。指先が触れる。ぼう、と青い火が爪先ほど立ち、すぐに畳に吸い込まれた。廊下の奥行きが、暗さのまま輪郭だけはっきりする。

 

「鏡から」

 

 斜めに掛かった古い鏡。曇った面は、僕の肩の高さだけ濃く、影の縁が太って見えた。

 

「書いて」

 

 和紙の白へ、万年筆の黒い線が滑る。

 ――“鏡に寄る”。肩の高さ。縁が濃い。

 

「階段」

 

 二階へ上がる踏面。灯が踵で一段を叩く。コツ、コツ。音は乾かず、湿りを含んで戻る。

 

「二時に、降りた。二拍。半歩後ろ」

 

 書く。

 ――二時。降りる。二拍。左へ斜め。

 

 ――そして、来る。

 

 ひたり。

 

 空気が、背中の皮膚だけ別の温度で撫でる。見えない踵が、僕の足跡の端を踏み写すみたいに近い。灯の指が僕の手首をさらに強く掴み、呼吸の深さを制した。

 

「まだ胸に入れない。目で数える。手で押さえる」

 

 僕は文字で押さえ込むように、さらに書き足す。

 ――“踵は欠ける”。借りて広がる。借り先は……鏡。肩。

 

「渡して」

 

 紙が灯の手に渡る。彼女は反対の手で金具を弾いた。火花の短い舌が、青へ変わり、和紙の端に寄り添う。狐火が、書いた文字の骨格だけを辿って走る。焦げの匂いはしない。冷たい金属の気配だけが肺の前で反射した。

 

 足音は、一瞬だけためらい、奥へ退いた。

 だが、完全には離れない。鏡の面が波打つ。僕の肩の影が太り、鏡面の向こうへ滑ろうとする。

 

 視界がすべり、足元の段差が消える。吸い込まれかけて、思考の輪郭がほつれる。胸のひだへ、冷たさが糸のように入り込む。

 

「――タマ」

 

 灯の声が、面の内側で低く響いた。掴んだ手に、さらに力が乗る。

 

 それでも、足音は鏡の向こう側で増幅した。ひたり、ひたり。反響が重なり、二拍が四拍に増える。足元の段が“こちら”か“むこう”か曖昧になる。ふわりと、意識が浮く。

 

 空気がすっと途絶えた。

 

 廊下の湿りも、外の風も、完全に失せる。

 

 周囲が闇に包まれ、視界は深い井戸の底に閉じ込められたみたいに狭まった。

 

 本当の闇では、人は一歩も踏み出せない。

 そこに道があると、誰が保障してくれる?

 

 ひたり。ひたり。

 

 足音が迫る。鼓膜の奥でだけ鳴り、皮膚を踏んでくる。

 

 呼吸が胸に詰まり、声が出ない。

 

 恐怖で喉が震えるのに、音はひとつも外へ零れなかった。

 

 その時――頬を、冷たい指が挟んだ。ひやりとした掌。

 

 逃げ場を失った瞬間、唇に柔らかな感触が重なった。濡れていて、わずかに吸いつく。冷たい指の中で、温度を奪うみたいに深く重なり、口腔の奥へ甘い息が流れ込む。

 

 舌の先にかすかに湿り気が触れ、肺の奥へまで沈んでいく。

 

 恐怖で凍りついていた胸が、じゅっと溶けた。

 

 冷たさと熱が同時に走り、闇の中にひかりが戻る。

 

 頬が熱を帯び、身体の奥が一拍ごとに火照る。

 

 指先まで血が押し上げられ、震えながらも、彼女の口付けに縫い止められていた。

 

 やがて、ゆっくりと離れる。唇が離れる時の湿った音が、やけに鮮明に耳へ残った。視界の奥に、光が差す。

 

「……大丈夫? 見えてなかったでしょう?」

 

 耳に声が落ちた瞬間、息が解けた。目の前にあるのは狐面ではない。整った顔立ち。血色のいい唇。さっき触れた唇だ。まだ濡れた光を帯びて、僕を映している。

 

「――――っ!」

 

 頬が熱を持つ。鏡なんてなくても分かる。逃げ場のない熱が、視線と共に膨らんでいく。灯は狐面を拾い上げず、そのまま僕の手を再び握った。素顔のまま、黒い瞳が深く沈む夜を返す。

 

◆◆◆

 

 廊下の奥で再び青い火が点った。灯は紙を差し出し、僕は震える指で続きの文字を書く。

 ――“どこから”:鏡の縁。

 ――“どこへ”:廊下の奥、空洞の踵。

 ――“誰の”:空洞。欠けたもの。借りて歩く足。

 

 紙を渡すと、灯は睫毛の影を落としながら火打の金具を弾いた。狐火が紙を舐め、描かれた線を骨ごと剥ぎ取る。畳の上の指環に黒い粉が落ち、すぐに砂へと変わって消えた。

 

 足音は、静かに終わった。ひたり――の先が、来ない。闇の膜がほどけ、夜の温度が戻ってきた。

 

 灯はゆっくりと息を吐き、僕の肩へ手を置いた。触れられた場所に針の頭ほどの熱。昼間刻まれた“線”は残っていたが、重さは消えている。

 

「今夜のこれは、ここまで。……ありがとう。うまく書けた」

 

 言われて、急に膝が笑った。

 

 緊張の糸が切れた反動で、笑いと安堵が同時にあふれる。

 

 灯は狐面を拾い上げ、紐を結ばずに片手へ下げたまま、金属の輪を指で転がす。黒い粉は完全に埃に紛れ、消えた。

 

「抜け殻。朝には消える。……でも、タマ。語った人間は呼ばれやすくなる。名は“道”になる。きみの紙を通ったぶん、きみに来やすくなる」

 

 やさしいのに、残酷な声。僕は頷くしかなかった。怖さが内臓へ遅れて沁みていく。それでも、指先にはまだ、書いた線の“手触り”の名残があった。

 

「それでも歩く?」

 

 問われて、唇を噛む。けれど、素直に――負けるように――頷いた。

 

「……歩きます」

 

「なら、鎖。――副部長代理、正式にお願い」

 

 その声は逃げ場を与えない。僕は笑ってしまう。今の笑いはもう恐怖の反動だけじゃない。

 

「はい」

 

 灯は短く「いい子」と言い、狐面を顔に戻した。白漆の縁が頬へ触れる直前、黒い瞳がもう一度僕を射抜いた。心臓が大きく跳ね、夜の光が沈む。

 

◆◆◆

 

 外へ出ると、海の匂いが濃く、空は東の端で色を混ぜ始めていた。灯は後ろ向きに歩き出す。今度は手を繋がない。けれど、あの冷たい指と濡れた唇の感触は、掌と口内に焼きついている。

 

「夜道、鏡、階段、踏面、窓。ひとりの時はまっすぐ通らない。斜めにずれる。呼ばれても、返事は紙で。口で返さない」

 

「はい」

 

「明日は別の“名”を拾う。きみは部室に来て。……タマ、よくできました」

 

 巫女服の裾が音を立てる。後ろ向きの歩幅が、今は奇行よりも訓練に見える。境を踏み続ける者の歩き方。

 

 僕は背筋を伸ばし、ポケットの和紙を確かめる。足取りは軽い。背中は空っぽ。足音はもう、ついてこない。けれど耳の奥で新しい拍が生まれていた。紙の上に落ちる前の拍。言葉が形になる直前の、湿った熱。

 

 怖い。けれど、その熱に、僕は指先から惹かれている。それが答えだった。

 

 見上げれば、空は藍から薄紫へと滲み、雲の端に金の縁取りが現れていた。遠くで海鳥が鳴き、潮の満ち引きが町の呼吸のように伝わってくる。

 

 夜が明けるのは怖ろしいはずなのに、不思議と胸が高鳴った。新しい日が、また別の怪異と向き合わせるのだと直感してしまう。

 

 大学の屋根が連なる向こう、まだ眠る街の影のなかに、僕は見えない気配を感じていた。名も知らぬ怪異たちが、灯りの下で息を潜め、僕の言葉を待っている。そう思うと、背筋がひやりとするのに、同時に血が温まる。紙に書きつける瞬間、僕の存在そのものが“道”になる。その怖さと甘美さを、もう知ってしまった。

 

 灯は振り返らない。狐面の奥に隠れた瞳は、きっと僕よりも先を見ている。彼女に引かれたまま進めば、僕も境の向こうへ踏み込んでいけるだろうか。あるいは、踏み込まざるを得ないのだろう。彼女の歩幅に遅れまいとするだけで、身体の奥に火が灯る。

 

 紙の感触を確かめながら、僕は思う。今日書いた一行一行が、明日以降の自分を呼ぶのだとしたら。もう、ただの大学生活には戻れない。

 

 怪異に名を与える日々。灯と並び、時に彼女の後ろを追い、時に手を取られる日々。それは鎖であり、同時に選ばれた者だけが持てる道標でもある。

 

 東の空がさらに明るむ。街並みの瓦が一斉に朝の色を映し、鳥の声が増える。

 

 夜と朝の境で、僕は自分が二つの世界に片足ずつを突っ込んでいることを実感した。

 

 怖い。

 

 でも、そこから目を逸らすことはできない。僕はきっと、これからも歩くだろう。紙を握りしめ、言葉を刻みながら。

 

 灯と共に。




狐藤灯の立ち絵(カラー版)

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