怖いもの見たさは猫を殺す   作:シキセ

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鏡迷路
2-1


 昼下がりの旧市街は、ひどく静かだった。

 

 かつて商業の中心だったビル街は、今ではシャッター通りと化し、昼間でもどこか冷え冷えとした気配がある。

 

 ガラス張りのビルが陽を受けて鈍く光っているのに、そこに人影はない。風が吹くたび、ガラスの破片や古びた看板がかすかに鳴った。

 

 僕がその一角に足を踏み入れたのは、単なる寄り道だった。授業帰り、妙に胸騒ぎがして歩みを向けた先がここだったのだ。

 

 ——いや、正確に言うなら、ここに来てしまった、というほうが近いかもしれない。足音の件以来、どうにも怪異を引き寄せやすくなっている。灯先輩には「そういう体質にされてしまった」と笑って言われたが、笑いごとではない。

 

 ふと、路地の向こうに人影があった。

 

 一見すれば小柄な少女。キャスケット帽を深くかぶり、大きな黒縁眼鏡の奥から所在なげに周囲を見回している。胸にはノートを抱え、ゆったりしたスウェットの上から着たオーバーオールは少しダボついて、かえって華奢な身体を強調していた。

 背中には大きすぎるリュック。膝上のスカートに黒タイツ、足元は厚底スニーカーと、どこかアンバランスで子どもっぽい。肩をすくめる仕草は、小動物が寒さに身を寄せ合う様を思わせた。

 

 ——見覚えがある、ような……。

 

 いや、直接会ったことはない。だが、部室の名簿に書かれていた「須田公子」という名前の横に、小さく落書きのように描かれていた似顔絵が頭をよぎった。

 黒縁眼鏡に帽子、いつもノートを抱えている——そんな特徴を、誰かが半ば揶揄で描いたものだ。

 

 その落書きと、今目の前に立つ少女の姿が、ぴたりと重なった。

 

 僕は思わず足を止めた。

 

「……須田先輩?」

 

 彼女がびくりと肩をすくめた。抱えていたノートを落としかけ、慌てて胸に押しつけ直す。

 

「ひゃっ……あ、あの……」

 

 小動物のように目を丸くして僕を見上げ、言葉を探すように口を開いた。

 

 僕も思わず立ち止まった。

 顔を見た覚えはない。けれど、胸の奥で微かに引っかかる違和感があった。

 

「……もしかして、第二文芸部の人、ですか?」

 問いかけると、彼女はぎゅっとノートを抱き締めて、ためらいがちに頷いた。

「す、須田……須田公子です」

 

 その名を聞いた瞬間、心の中で合点がいった。

 ——ああ、名簿にだけあった名前だ。幽霊部員。姿を見たこともないけれど、紙の上でだけ知っていた存在。

 

「やっぱり……。初めまして、猫田です」

「し、知ってます……名簿で、名前を」

 小さな声。黒縁眼鏡の奥の瞳は不安に揺れていた。

 

 そういえば灯先輩が、第一文芸部から流された子だと話していたっけ。石田庸名に関する民俗学論文を提出したのが原因だと。

 

 けれど僕にとって、その時点ではただの文字列でしかなかった。

 

 今こうして向かい合うと、その「文字」が生身の人間として息づいているのが妙に現実感を伴って感じられてくる。

 縮こまった肩。曇ったレンズの向こうの大きな瞳。頼りなげに立つその姿。

 

 ようやく僕は「須田公子」という存在を、本当に実感していた。

 

「……こんなところで、何してるんです?」

「わ、私は……ちょっと、調べ物を」

「調べ物?」

「石田先生の論文に……鏡迷路の話があって……確かめに」

 

 ああ、と息が漏れる。

 遠海地誌の著者、石田庸名。あの足音怪異の記録を残した人物。彼の民俗学的考察は、いまも議論を呼んでいる。そして、この子はその信奉者で、結果として第一から追い出され、第二に流された。

 

 危うい。そう思った。

 彼女は、怪異の渦中に足を踏み入れようとしている。

 

「でも……道に迷っちゃって」

 小さな声で彼女は言った。

 確かに、この界隈は奇妙だ。ガラス張りのビルが似通いすぎていて、どこをどう歩いたのかわからなくなる。僕の目にも、ガラスの中の景色が一瞬ずれて映るのが見えた。

 鏡の中の僕が、わずかに遅れて動いている。

 

 須田先輩はおずおずとノートを開いた。そこには、見慣れた活字がびっしりと写されていた。

「これ……石田先生の論文を写したものなんです」

 彼女の声は震えていたが、その瞳には光が宿っていた。

 

「面越し……鏡迷路考。那珂宮旧市街で“鏡や水面に映る自分が半拍遅れる”とか、“笑っていないのに鏡像が笑う”とか……そういう伝承を整理した論文なんです。私、石田先生のファンで……」

 早口でまくしたてる。

 

 その直後だった。僕らの周囲の景色が、わずかに揺らいだ。路地の看板の文字が反転し、同じ建物が繰り返される。足元のタイルの色合いが、少しずつずれていく。

「っ……!」

 公子先輩がノートを抱きしめ、声を詰まらせた。

「これ……本当に、書いてあった通り……“看板が逆に読める”って……」

 

 ガラスに映る僕の顔が、にやりと笑った。現実の僕は唇を固く結んでいるのに。

「……!」

 彼女が震える指で窓を指差す。

「“笑っていないのに鏡像が笑う”……石田先生、ほんとに……」

 

 眼鏡越しの瞳は恐怖に揺れていた。それでも、その奥底には熱に浮かされた光があった。論文の文字が、現実に迫ってきたことへの興奮だ。

 

 喉が鳴った。

「……須田さん。ここ、やばいですよ」

「やっぱり……そうなんですか?」

「ええ。怪異の匂いがする」

 

 そのとき、彼女の肩が小さく跳ねた。

 頬をふくらませるようにして、じっとこちらを見る。黒縁眼鏡の奥の瞳は、意外に強い光を宿していた。

 

 その仕草に、ふと胸に浮かんだ映像があった。

 ——頬袋をいっぱいにした、小さな小動物。

 

 須田……ハム須田……。

 頭の中で、音が自然とつながっていく。

 気づけば、口から零れていた。

 

「ハムスター……いや、ハム子、だな」

 

 ぴたりと、彼女が固まった。

 次の瞬間、顔を真っ赤にして叫ぶ。

「っ!? は、ハム子って言うなあああっ!」

 

 口に出して待ったことを、他人事のように反省しつつ口元に手をやる。

 

 両手でノートを振りかざして抗議する姿は、余計にハムスターのようで、思わず笑いが込み上げた。

「いや、すみません。悪気はないんです。でも、似てるんですよ」

「似てませんっ! わ、私のどこが……!」

「小さくて、頬をふくらませて、眼鏡で……とても愛嬌がありますよ。ハムスターみたいに。」

「わあああっ、言わないでっ!」

 

 ぷりぷりと怒るその姿は、完全に小動物そのものだった。

 

 僕は片手を上げて降参のジェスチャーをした。

「了解です。じゃあ、ハム子先輩」

「ちょっとっ!? 変わってないじゃないですか!」

 

 からかい甲斐のある人だ。

 おかげで、こんな状況の中でも落ち着いていられる。

 

 けれど、このやり取りをしている間にも、周囲のガラスはきしむように歪んでいた。

 

 窓に映った僕らの影が、妙に遅れて動いている。須田先輩の口だけが勝手に動き、遅れて声が重なる。

 視覚の齟齬が、少しずつ大きくなっていた。

 

「……須田先輩。冗談じゃなく、まずいですよ」

「う、うん……やっぱり、そうですよね」

 

彼女の声は震えていた。

 

 ガラスに映る「僕ら」は、こちらを見て嗤っているようにさえ見えた。影の唇が勝手に動き、声とは違う囁きが耳の奥に滑り込んでくる。まるで別の“僕ら”が、鏡の中から呼びかけているかのようだった。

 

 映像は次第に遅れるだけでなく、歪みを増し、笑う口元は耳まで裂けるほどに広がっていく。眼鏡の奥の瞳が赤く濁り、瞬きをせずにこちらを睨み返す。

 

 背後の窓からも、横の壁面からも、次々と影が増える。どれも僕らの姿をしているのに、微妙に違っていた。肩の角度が反対であったり、足の運びが異様に遅かったり、首がわずかに傾きすぎていたりする。その不協和音が幾重にも重なり、視界の中で“僕ら”は群れを成した。

 

 嗤い声はやがて笑いではなく、板ガラスを爪で引っかくような甲高い音に変わった。耳を塞いでも、頭蓋の内側で鳴り続ける。足元の石畳まで震え、靴底の下で何かが蠢くように感じられた。

 

 須田先輩が小さく悲鳴を洩らし、僕の腕に縋りつく。彼女の影はすでに鏡の中へ半歩沈み、こちらの身体からわずかに遅れて動いていた。影が勝手に笑い、肩を震わせる。本人は怯えているのに、鏡の中では愉快そうに震えている。

 

 鏡面に浮かんだその異様な姿は、まるで“向こう側”が本物で、こちらが偽物であると主張しているようだった。

 

 背筋に冷たい汗が流れた。

 

 これは、石田庸名が記した「鏡迷路」の怪異そのものだ。鏡の反射が境界を歪め、いつしか異界へと引きずり込む。

 

 隣の須田先輩も、気づいたのだろう。

 ノートを握る手が震えていた。

 

「……た、助けてください」

 弱々しく、彼女が口にした。

 

 僕は頷き、ポケットの中の携帯を握った。

 そこには、あの奇妙な先輩の番号が登録されている。

 

 狐面の下に、美しい目を隠した女。

 人と怪異の境を歩く、狐藤灯。

 

 今、この状況で頼れるのは彼女しかいない。

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