ポケットに手を突っ込み、携帯端末を引き抜いた。
親指で画面を撫でる。電源は入っているはずだ。
――はず、だった。
だが液晶は墨を落としたように真っ黒のまま、ただそこに僕自身の顔だけを冷たく返してくる。
薄い黒膜の奥で“僕”は一拍遅れて瞬きし、口の端だけを勝手に動かした。タイミングが合わない。皮膚の下を細い寒気が這い、腕毛が一斉に逆立つ。
「ど、どうしたんですか……?」
肩越しに覗き込んだ須田先輩の声が、布越しのように少し籠って聞こえた。
「画面が……つかない。いや、電池はある。あるはずなんだけど」
試しに画面をタップする。指の軌跡と、黒い鏡の中の指の動きが半拍遅れて重なり、ずれて、また戻る。その遅れが、呼吸の拍子を崩す。発信画面は開かれない。どのボタンも沈まず、黒だけがそこにある。
……発信できない。
ここから外へは、声が届かない。
直感だけが先に着地した。
須田先輩も慌てて端末を取り出した。結果は同じ。真っ黒な鏡が胸元で震え、そこに映った彼女の顔だけが、現実より半拍遅れて笑った。本人は笑っていない。
「な、なんで……どういうこと……」
彼女は唇を噛み、端末を胸に抱きしめる。指が白くなるほど力がこもっている。その仕草に、小さな動物が雨宿りを探すような切実さが混じり、胸の奥がざわついた。
◆◆◆
路地の奥は、目に見えない膜で一段冷たく切り分けられていた。街灯の光は届いているのに、色味が薄く、影が浅い。コンクリの継ぎ目から湿気が立ち上り、鉄と藻の匂いが細長く鼻腔に残る。
ショーウィンドウのガラス、ビルのエントランスの磨りガラス、閉め切られたシャッターの小窓。どの反射面にも、僕らが映っている。半拍遅れで、歩調を合わせる“僕ら”。
目を逸らすほど、耳が敏感になる。
足音が二つ。……いや三つ、四つ。
僕と須田先輩の足取りに、乾いた影の足音が重なる。薄い靴底が濡れたタイルを踏む音が、路地の壁を伝わって、どこからともなく迫ってくる。
「な、なにか……変ですよね」
「ええ。変です。説明のしようがないくらい」
努めて軽く返したつもりでも、喉はかさつき、声は少しだけ高く出た。
ふと、ガラスに映った須田先輩が、こちらに向けて表情を整える。現実の彼女は眉根を寄せているのに、鏡の彼女は口角を上げ、何かを噛みしめているみたいに頬を丸くした。
瞬間、指先が冷える。
「……っ」
小さな悲鳴とともに、須田先輩が僕の袖を掴む。布越しの圧がはっきりと伝わる。離せない、という意思の形。
曲がり角をひとつ抜ける。同じ建物の、同じ窓。
さらにひとつ。やはり同じ。
看板の文字は鏡文字になって、読めるのに読めない。街灯の列は一本余計に伸び、現実より一つ多い光が路地を青白く塗る。
歩くほど、世界の精度が崩れていく。
呼吸は浅く速く、しかし胸郭の動きだけが鏡に遅れて写り、現実の自分の息が自分のものではないように感じられた。
「……鏡迷路」
須田先輩が、空気に飲まれないようにそっと声を置いた。
「石田先生の論文に、似た記述がありました。看板の反転、街灯の過剰、足音のずれ……」
言い切る前に、背後で乾いた音がした。
からん、と軽い金属音。
路地にそぐわない響きが、鼓膜を予告なしに撫でる。どこから落ちたのか分からない、小さな硬質の音が、恐怖の輪郭を無駄なく削り出した。
振り返る。誰もいない。ただ、ガラスの中の“僕”のうち、ひとつだけが遅れて一歩前へ出た。
その足元は濡れている。形が崩れ、踵が壁の光を吸い込んでいた。
視線が絡み、離れない。
見続ければ、戻ってこられない気がして、前を向く。視界の端で、遅れた“僕”が手を挙げ、笑う。現実の僕は笑わない。鏡の彼は笑ったまま、こちらの肩の高さまで手を上げた。
「走る?」
「……走って、出られる場所なら、もう出てます」
言葉にすると、立っていられる。言葉の重さぶんだけ、足裏に摩擦が戻ってくる気がした。
角をまた折れる。同じ窓。同じ貼り紙。
貼り紙の中のモデルの視線だけが、こちらを正確に追ってくる。人間の視線は追尾しないのに、印刷の眼だけが、わずかな遅延をもって動く。
奥へ進むほど、路地は細くなる。
壁と壁の間、幅の見積もりが毎歩変わる。狭まる。広がる。脈打つように。
ついに正面が行き止まりになった――――はずだった。
正面の壁一面、古いショーウィンドウのような大きなガラス。
そこに、見慣れた狐面がふっと灯先輩る。
狐の白、紅の紐。暗い輪郭の中に、呼吸のような明滅。
狐藤灯先輩先輩。
彼女の面が、そこにあった。
電話も通知もない。
ただ、ガラスの中に姿がある。
それなのに、声だけが“こちら側”に落ちてきた。
「……タマ、聞こえる?」
鈴の音が空気を震わせ、耳の外側と内側を同時に撫でる。
「須田さんも、一緒ね。よかった。ふたりとも、その場所から動かないで」
面の向こうの視線が、正確に僕らを捉える。
狐の目の角度が、路地の歪みを無視してまっすぐこちらへ向く。
胸の奥の鼓動が、ようやく現実の拍子に戻りはじめた。
「……先輩」
声を出すと、喉の乾きが思っていたよりも深いことに気づく。
「ここは、たぶん“境”に近い。今から開けるから、合図をしたらすぐに来て。いい?」
狐面がわずかに傾く。頷きの仕草。
次いで、路地の外から風が差し込んだのかと思うほど微かな空気の逆流があり、ガラス面の奥に波紋のような揺らぎが走った。
水でもゼラチンでもない、もっと乾いた媒質。
しかし確かに、そこに“隙間”ができていく。
「離れないで。ふたりで手を繋いで」
言われなくても、須田先輩の手が袖から滑って僕の手首を掴んでいた。
鏡面の内側で、白い指先が持ち上がる。
ガラスのこちらまで届くはずのないその指が、しかし路地の埃の粒を撫でていくように見えた。
「今」
短い合図。
ガラスの表面が、息を吸うみたいに凹み、こちらに指先が伸びてくる。
僕らの足元で、硬い音が再び鳴った。からん、からん――。
遅れてついてきていた足音の列が一瞬だけ止み、路地全体がわずかに沈む。
「来て、タマ」
狐面の口元は動かないのに、声ははっきりと届いた。
僕は須田先輩の手を強く握り直し、差し出されたその指先へ、片手を伸ばした。
冷たい。
けれど、確かに“こちら側”に触れていた。
◆◆◆
境目は、指の腹ほどの厚みで、そして世界の厚みほど深かった。
触れた瞬間、耳の奥で水音が潰れ、光が縒り合わされ、色が細い糸になって視野の端から引き抜かれていく。
身体の重さが、順番を変えて落ちていく。
足、肩、視線、名前――。
名前だけが最後にこちら側へ残り、すぐに引き戻される。
狐面の白が近づき、紅の結い紐が、ほつれた朝顔の蔓みたいに目の前を横切った。
「離れないで」
声が、いちばん近い場所で言った。
その言葉に、足裏が次の地面を探し始める。
僕らは同時に、世界の向きを変えた。
◆◆◆
落ちた先は、湿り気を帯びた石の床だった。
膝が打ち、体内の空気が一度に抜ける。
上を見上げても天井は見えず、代わりに壁面に埋め込まれた多数の反射面が、蛍光灯先輩のような青白さで断続的に明滅していた。磨りガラス、研磨された金属板、割れて欠けた鏡。そのどれもが、ここが地上の延長ではないことだけを、辛抱強く伝え続ける。
鼻腔に、鉄と潮と、乾いた香の甘さが重なる。
水滴がどこかで落ち、その響きが、空間の形を粗く描き出す。広い。だが、どこにも出口の線は見当たらない。
木箱が積まれている。古い軍用の箱のような緑褐色、らくがきの走り書き、掠れたステンシル。
――収蔵、像、鏡材。
読めるのに、読んではいけない言葉たち。
「ふたりとも、立てる?」
背中で声がした。
振り向くと、狐藤灯先輩がそこにいた。狐面を外し、額の汗を指で拭っている。肩で息をして、しかし目は冷静に空間を測っていた。
助けが来た、という単語が、胸の中心でやっと形を持つ。
「……先輩……」
須田先輩が、ほっとしたように笑い、すぐにその笑みを恥じるように俯いた。黒縁の眼鏡がずれているのを、灯先輩が見て、そっと直してやる。
「よく頑張ったね。ここまで来れば、大丈夫」
その一言に、喉の渇きが少しだけ和らいだ。現実が、輪郭を取り戻していく。
空間の中央に、それは鎮座していた。
二面像。
――顔が前後二つ刻まれた石像。
片方の顔は彫りが深く、穏やかな笑みを帯び、もう片方は浅く、口腔が空洞のまま開いている。
石肌は湿り、苔が眉間から生えている。眼窩には水が溜まり、蛍光の反射を内側で揺らしていた。
「論文、そのまま……」
須田先輩が小さく呟く。
「ええ。ここが“核”。旧市街の面越しが強くなるのは、このあたりの工事の後から。記録はそう言っている」
灯先輩は二面像から視線を外し、壁面の一角、貼りついた避難経路図のような紙片を確かめる。印刷は反転し、矢印だけが現実の方向を指している。
「足を滑らせないように。床、見た目より沈むから」
注意の声に従って足元を見ると、タイルの継ぎ目で薄く水が寝息を立てていた。
箱のひとつに、古い鍵束が乗っている。錆びた輪に、大小の鍵がいくつも絡み、からん、と軽く触れ合っては離れる。
その音に真っ先に反応したのは二面像でも反射面でもなく、僕の背中の筋肉だった。硬くなっていたものが、音の形に合わせて緩み、また硬くなる。
「こっち」
灯先輩が指先で示す。広間の奥、壁の反射面がいくつか外れ、暗い隙間が口を開けている。
「帰り道になる“乾いた面”があるはず。濡れているところは避けて」
言われてみれば、面には二種類ある。
水を吸って鈍く光る面と、空気をはじいて乾いている面。
乾いている方は、映り込みが薄い。こちら側の影が、ほんの少し軽く見える。
「先輩、どうやってここまで……」
「別のルート。境をこじ開けるには、こちら側に“手”が必要だから」
簡潔な答え。必要な分だけ、情報が落とされる。その調子に、胸の底の緊張が少しずつ解けていく。
僕らは灯先輩の後に続き、箱の列の間を縫う。
箱の蓋に記された番号が、規則のようで無秩序だ。
A-12、C-3、16、鏡印、面印。
読むほどに、頭の中の文字の向きが曖昧になっていく。
耳が拾うのは、水滴の音と、からん、という乾いた金属音、そして自分たちの靴底が薄い膜を踏むたびに生まれる微かな鳴き。
「ここ」
灯先輩が立ち止まり、反射面の一つに掌を当てる。
掌の形が、面の内側に半拍遅れて沈む。
沈みながら、外側へ出ようとするかのように、輪郭がふくらむ。
「少し押す。合図したら、一緒に」
狐面はもう着けていない。
彼女の素顔は汗に濡れて、しかし視線は曇らない。
その在り方だけで、ここが現実の側にわずかに傾いた気がした。
ふと、背後で笑い声が反響する。
誰かの、ではない。
空洞の中に落ちた音が何度も形を変え、最後に笑いの輪郭に似たものになって戻ってくる。
僕らは振り向かない。
振り向かずに、進む。
足元の膜が、不意にわずかに沈む。
沈んだ次の瞬間、二面像の空洞側の口腔が、その沈みを吸い込むように開いた気がした。
「大丈夫」
灯先輩が言う。
その声が、広間の奥の壁で跳ね返り、聞き慣れた高さのまま戻ってくる。
それで十分だった。
須田先輩の肩が、一段落ち着く。
黒縁の眼鏡の奥で、瞳孔がゆっくりと常の大きさに戻る。
からん。
鍵束がまた鳴った。
何が触れたのか分からないまま、二度、三度。
灯先輩が箱に目をやり、何かを数えるように顎をわずかに動かした。
「あと少し。ここから先は、なるべく音を立てないで」
僕らは頷き、靴底をわずかに外側へ向け、床の膜を撫でるように歩く。
歩幅を合わせると、不思議と反射面の遅れが薄くなる。
遅れが薄くなると、胸の拍子が現実と同期し始める。
同期が戻ると、怖さの形が整い、扱いやすくなる。
広間の縁に、乾いた面が連なる一角があった。
そこには映り込みが薄く、僕らの影も輪郭だけで立っている。
灯先輩が掌で面を撫でる。
面は、今度は内から外へ膨らまない。
ただ、薄い皮膜を一枚剥がすような乾いた手触りで、空気の向きだけを変えた。
「ここで一度、呼吸を整えよう」
灯先輩が静かに言い、僕らは壁に背を預ける。
湿った空気の中で、乾いた面の前だけ風が通る。
その風が、地上のものかどうかは分からない。
でも、体温にやさしかった。
須田先輩が小さく笑う。
「助かった……本当に」
灯先輩はただ頷く。
「まだ途中。けれど、もう“迷路の心臓”からは外れている。ここなら、声も届く」
言われて初めて、自分の声が喉の上に帰ってきていることに気づく。
言葉にすれば、現実がこちらに寄ってくる。
「先輩、ありがとうございます」
それだけを言うと、胸の奥の氷が少し溶けた。
遠くで、水滴が落ち続ける。
からん、という硬い音は、もうしない。
鍵束は動かず、二面像はただ石の顔でこちらを見つめている。
笑っていないのに、笑っているように見える。
空洞の口腔は、閉じも開きもしない。
この静止が、地上の夜よりも深く感じられる。
「もう少し休んだら、上へ戻ろう」
灯先輩が言う。
その言葉が、ここでの一区切りを示す合図になった。
須田先輩は眼鏡を押し上げ、深く息を吸い、吐く。
僕は頷き、乾いた面の風をもう一度吸い込む。
藻の匂いも鉄の匂いも、ここではただの背景に溶ける。
うつむくと、足元の水たまりに、僕らの影が薄く揺れた。
遅れはない。
影は、影の速さで、僕らと同時に呼吸をした。
それだけで、救いに近いものがあった。
狐藤灯先輩は、少し離れて二面像を眺めていた。
観察者の目で、過去と現在の像を重ね合わせるように。
やがてこちらへ戻り、短く「行こう」と言った。
声の高さも、響きも、いつもどおりだった。
僕らは頷き、乾いた面の前を離れる。
帰り道は、ここから始まる。
そのとき、ポケットの奥で端末が震えた。
画面には、見慣れた名前が浮かんでいる。
――狐藤灯。
背筋に、冷たいものが一筋走った。