怖いもの見たさは猫を殺す   作:シキセ

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 ポケットの奥で、端末が震えた。


 黒いはずの画面が、ひとすじの光を裂いて、ありえない白を滲ませる。文字が浮かぶ。

 

 ――狐藤灯。

 

 鼓動が一瞬止まる。


 視線を上げれば、乾いた面の前で狐藤灯が確かにこちらを振り向いている。素顔、汗に濡れた髪、規則正しい呼吸。彼女は「どうしたの?」と口元を動かしていた。

 


 その動きと同時に、僕の耳には着信音と、狐火の匂いを連れた声が届く。

 

『――タマ? 聞こえるなら返事して。須田さんは一緒? そこ、空気が崩れてる、早く乾いた面に寄って』

 電話の向こうの灯が、慌てた調子で囁く。


 

 目の前の灯は、僕の手を強く引いて「こっち」と言った。

 


 同じ名前、同じ指示、同じ救いの文法。


 

 けれど、電話口の声には、霞廊の夜に嗅いだあの狐火の焦げる匂いが確かに混じっていた。

 

「せ、先輩……?」

 


 喉が勝手に乾く。
 須田先輩が袖にしがみつく小動物のような力が、逆に現実感をくれる。

 目の前の灯が、もう一度「早く」と囁く。


 

 その声が、反射面を這うように広がり、蛍光の青に濁っていく。

 


 同時に、彼女の腕が細く長く伸びたように見えた。


 

 光の歪みか、僕の錯覚か――そう思った瞬間、その指先が僕の頬に触れた。ぬるりとした感触。狐火の熱ではなく、地下水の底みたいな冷たさ。

 

「こっちにおいで。ねえ、タマ」

 

 電話の灯が、同じ瞬間に叫んだ。

 


『そこにいる“私”は私じゃない! 絶対に触っちゃだめ!』

 

 時間が二重に裂け、世界が一拍止まる。

 


 須田先輩が悲鳴を上げるより早く、目の前の「灯」の輪郭がひび割れた。


 

 狐面を被っていないはずの素顔が、鏡の表面みたいに薄く剥がれ、奥から別の顔が覗く。空洞の眼窩と、笑いの形だけを持つ口。二面像の空洞の顔そっくりの“なにか”。

 

 その“なにか”が、僕の腕を掴んだ。


 ぬめる冷たさが袖の下に潜り込み、筋肉を凍らせる。

 


 「灯」の声と二面像の笑いが重なり、耳の奥でからからと乾いた音が鳴った。

 

「やだ……やだやだやだっ!」


 

 須田先輩の叫びが、反射面に吸い込まれ、増幅して跳ね返る。

 


 偽物の腕が、もう片方の手をハム子に伸ばす。

 

 僕は反射的にその腕を払いのけようとした。


 だが指先がすり抜ける。掴んだ感触が、霧を掻くみたいに薄く変わる。


 

 見れば、偽物の肌は水銀のように光っていて、指を突き刺すたびに形を変えていた。

 

「離せっ……!」

 

 叫んでも、喉の奥で音が吸い込まれていく。


 声が壁に当たって返ってくる頃には、別の声に変わっている。


 

 須田先輩の泣き声が、何度も自分の名を呼ぶ声に変換され、耳の裏を擦る。

 電話の灯の声が、まだポケットの中で続いている。

 


『空洞の顔に背を向けて! 目を合わせないで! 足音を数えて、三歩下がって――』

 

 しかし、偽物の灯はその指示の真逆に僕らを引っ張っていく。

 


 足元のタイルが柔らかく沈み、濡れた膜が足首に絡みつく。


 冷たい湿気が膝まで上がり、鼓動が水に溶ける。

 

「や、やめて……いや……っ」

 


 須田先輩が半泣きの声をあげ、眼鏡がずり落ちる。

 


 偽物の腕がその肩に伸び、指が細い首筋を撫でた。


 撫でられた瞬間、須田先輩の影が壁の中に少しだけ吸い込まれ、頬の色が薄くなる

 

 僕は必死に反対の手を伸ばし、須田先輩の手首を掴む。

 


 冷たさが伝ってくる。だが、それが彼女のものか、偽物のものか、もう分からない。

 

 耳の奥で「からん」と小さな硬質の音が鳴る。


 鍵束の音に似ている。
 その音が、地下全体に広がり、光の向きを一瞬だけ変えた。

 

 偽物の顔が、空洞の口をさらに大きく開ける。

 


 笑い声が増える。


 笑っているのは一人ではない。


 

 壁の反射面に並んだいくつもの「灯」の顔が、同じ笑みを繰り返し、同じ腕をこちらへ伸ばす。

 

 僕は須田先輩を引き寄せ、身を盾にして壁際に追い込まれた。

 


 背中のタイルがじわりと濡れ、髪の毛を吸い込むように動く。

 


 ポケットの端末はまだ震え続けている。


 画面の「狐藤灯」の文字が、薄く滲み、形を崩していく。

 

『タマ、聞こえる? 今、誰と一緒にいるの?』

 

 電話の灯の声が、かすかに震えた。

 


 その震えが、目の前の偽物の腕と同じリズムを刻む。


 どちらがどちらか、もう分からない。

 

 須田先輩が喉の奥で小さく泣き、僕の背中にしがみつく。

 


 偽物の「灯」が、もう一歩近づく。

 


 足元の水が僕の靴底を舐め、踵を滑らせる。


 

 視界が青白い光で満たされ、耳の奥の笑い声が実体になろうとする。

 そのときだった。

 

 低い、飄々とした声が、地下空間に落ちてきた。

 

「――おっと、その辺でやめときな、お嬢さん」

 

 水滴の音が止まり、笑い声が一瞬だけ引いた。


 乾いた面の一角が音もなく裂け、くたびれたスーツ姿の男がぬっと現れた。


 

 緩んだネクタイ、ポケットに片手、もう片方には古びた杖。

 


 へらりと笑う口元と、氷のような目。

 

 その男が、軽く片手を上げ、まるで知り合いに挨拶するみたいに僕らに向かって言った。

 

「危ないよ、君たち。ここじゃ変なのに触っちゃいけない」

 

 男はポケットから手を抜き、杖の先を軽く床に当てた。

 


 その仕草は何でもない散歩の一歩のようだったが、杖先に触れたタイルがわずかにへこみ、薄く光を孕んだ。

 


 偽物の「灯」が一瞬だけ身じろぎする。

 


 光の膜が足首に絡みついたように見え、動きが鈍くなった。

 

「よしよし。まずは止まってくれれば十分」


 

 男はそう言って、へらりと笑い、須田先輩に小さな包みを投げてよこした。


 

 銀色の紙に包まれた飴玉だ。

 


「舐めとくといいよ。気休めだけど、震えがちょっとはマシになる」

 

 須田先輩は反射的にそれを受け取り、戸惑いながら握りしめた。

 


 男は僕の方を向き、軽く顎で示す。


 

「君たち、もう少し下がって。壁に背中つけない方がいい」

 

 言われるがままに、僕は須田先輩を庇いながら数歩下がった。


 壁際に貼りついた湿り気が剥がれ、細い糸になって床に落ちる。

 


 偽物の「灯」は、すり抜けた指をすぼめ、冷たい笑みだけを残して男の方に目を向けた。

 

「こいつは、何ですか……」

 


 僕が訊くと、男は肩をすくめて笑う。

 


「ただの変なものさ。どこにでもいるだろ、こういうの。君らは巻き込まれただけ」

 

 杖が再び床を叩く。


 

 こんどははっきりした波紋が広がり、二面像の空洞の口がわずかに閉じる。


 

 その瞬間、偽物の「灯」がびくりと痙攣し、足元から黒い水の糸がちぎれた。


 笑みがひしゃげ、顔の形が波打つ。

 

「今のうちに離れて」

 


 男の声は、さっきまでの飄々とした調子のまま、しかし奥に冷たい刃のような響きを持っていた。


 

 僕は須田先輩の腕を引き、示された乾いた面の方へ歩を進める。

 


 足裏に残るぬめりが、少しずつ消えていく。

 

 偽物の「灯」は、腕を長く伸ばし、僕らを掴もうとする。


 

 だが杖の先が再び軽く打たれるたび、腕は霧のようにほどけ、壁際に押し戻されていく。

 


 壁面の反射に並んでいたいくつもの「灯」の顔も、同じ動きで後退し、笑い声が遠くへ流れた。

 

 須田先輩が肩越しに男を見て、小さく訊ねる。


 

「……あなた、誰なんですか……?」

 

 男は笑って、首を横に振った。

 


「ただの通りすがりさ。名乗っても信じないだろうしね」

 

 その笑みは、冗談とも本気ともつかない。


 だが、その目だけが、僕らの逃げ道を正確に測っていた。


 

 僕は息を整えながら、須田先輩の背を押して先に進ませる。

 乾いた面の前に立つと、風がわずかに強くなった。

 


 地上の風とは違う。湿りを含んでいない、ひりつくような風。

 


 それでも、息を吸えば肺の奥まで届く空気だった。

 

「そのまま、まっすぐ進んで」


 

 男が背後から言う。

 


「出口はその先にある。ここは俺が押さえるから」

 

 押さえる――何をどう押さえるのか、考える余裕はなかった。

 


 偽物の「灯」が最後の力で床を這い、影の舌を伸ばしてくる。

 


 男は杖をひらりと振るい、地面に円を描いた。


 円から薄い光の柱が立ち上り、偽物の影を切り裂いた。

 

 笑い声が、いくつもの声に割れて消えた。

 


 空洞の顔だけが最後に大きく口を開き、ひゅっと風を吸い込む音を残して、壁の中へ沈んでいった。

 

 僕と須田先輩は、その光景を振り返らないようにして乾いた面を通り抜けた。


 

 風が強くなり、湿気が背中へ押し返される。

 


 足裏がタイルから石へ、石から土へと変わる感覚。


 どこかで水滴が落ちる音が消え、代わりに夜風の匂いが鼻を撫でた。

 

 男の声が、最後にもう一度だけ届く。


 

「上へ出たら、深呼吸しな。視線は下に落とさないこと。ああ、それと甘いものを食べるといいよ。さっき飴玉、渡しただろ?」

 

 それは冗談とも助言ともつかない調子だったが、不思議と胸の奥を軽くした。


 須田先輩がかすかに笑い、飴玉をぎゅっと握りしめたまま頷く。

 

 僕らは光の先へ進んだ。


 背後で何が起きているのか、確かめる勇気はなかった。

 


 ただ、足元の風が乾いていることだけが、現実のしるしだった。

 

◆◆◆

 

 数段の階段を上ると、地上の匂いが混じりはじめた。

 


 コンクリの隙間に染みた潮と鉄の匂いではない、街路樹や排気ガスや、焼きたてのパンの匂い。

 


 その匂いに、須田先輩の肩の力が少し抜けるのが分かった。


 僕も深く息を吸い、肺に現世の空気を入れた。

 

「助かった……の、かな」

 


 須田先輩が呟く。


 僕は頷くしかなかった。言葉を探しても、まだ喉の奥で水が揺れている。

 

 振り返ると、乾いた面はもうそこになかった。

 


 ただ古い倉庫の裏口のような扉がひとつ、風にきしんでいるだけだった。


 扉の向こうに、あの男がいるのか、それとももう消えたのか、分からない。

 

 ポケットの端末が、静かに光った。

 


 黒い画面の中央に、また同じ名前が浮かぶ。狐藤灯の名前だ。

 

 現実の夜風の中で、着信音が鳴る。

 


 須田先輩が僕の顔を見上げ、小さな声で言った。

 

「……今、誰と一緒にいたんだろうね」

 

 胸の奥で、冷たいものがゆっくりと広がる。

 


 それでも、手の中にはまだ須田先輩の温かさがあった。


 僕は画面を見つめたまま、息を飲み込んだ。

 

 着信の白い光が、闇の中で一筋だけ細長く揺れた。


 

 その揺れが、まるで誰かの笑い声のように見えた。

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