怖いもの見たさは猫を殺す   作:シキセ

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 夜風の中で鳴っていた着信に、僕は反射的に応答していた。

 耳元から聞こえたのは、確かに狐藤灯の声だった。

 

『……詳しいことは明日、部室で話そう。二人とも無事でよかった』

 

 短い通話のあと、画面の光は静かに消えた。

 その一言が、昨夜の異様な光景の中で唯一の現実のしるしのように感じられた。

 

◆◆◆

 

 そして翌日の放課後、第二文芸部の机の上に、灯先輩は分厚いファイルを広げた。

 黄ばんだ紙片と、論文の抜き刷り。石田庸名の名前が、あちこちに印刷されている。

 

「ほら、昨日あなたたちが見た“看板の反転”“街灯の数”って、ここに全部書いてある」

 

 灯先輩が指で示す。赤いマーカーで引かれた「面越し」「鏡迷路」の項目が、古い地図のように現象の道筋を並べていた。

 僕と須田先輩は身を乗り出す。

 

「……ほんとだ」

 須田先輩の声はまだかすれている。昨夜の出来事が夢ではない証拠が、活字の形でそこにあった。

 

「この“二面像”って、昨日の地下にあったあれですよね」

「そう。石田庸名が現地調査で記録した遺物。前後二つの顔を持つ石像。発掘されたのは旧市街の地下工事現場」

 

 灯先輩は淡々と言いながらも、その目はわずかに細められていた。

 

「この像が出土したあとで“面越し”体験談が急増したって記録がある。つまり、鏡迷路と面越しは、同じ根から出ている可能性が高い」

 

 僕はファイルの端に目をやる。手書きのメモが挟まっていた。

 

《欠けた影は帰りたがる。置き去りは怒る。怒りは往く者の背に手を伸ばす。手は、鏡の上で滑る》

 

 読んだ瞬間、昨日の感触が喉の奥に戻ってくる。冷たい指、笑う顔、からんという音。

 灯先輩は僕の視線に気づき、ファイルを閉じた。

 

「これは石田庸名が書き取った古い口碑。呪文じゃなくて、現象のパターンの説明だと思えばいい。要するに“置き去りにされた像”が現実の自分に触れようとする、ってこと」

 

「置き去りにされた……像」

 須田先輩が繰り返す。

 

「昨日、灯先輩にそっくりな人が、わたし達の前に現れたのも、それ?」

 僕は息を呑む。昨夜、鏡の奥から伸びてきた手と笑顔を思い出した。

 

 灯先輩は指先で机を叩いた。

 

「そう考えると筋が通る。鏡はただの道具じゃなくて“欲望”や“視線”を反射している。歓楽街だった旧市街に溜まったものが、信仰やしきたりを失って、境界にこぼれ落ちた」

 

 彼女の声は淡々としているが、奥に冷たさを帯びていた。

 

「だから“迷路”は出口のふりをして入口を繰り返す。置き去りにされた感情が、現実の自己を引き戻そうとするから」

 

 僕は息を吸い、問いかける。

「じゃあ、どうやって抜け出せばいいんですか。足音のときみたいに紙に書いて燃やすんじゃ駄目なんですか」

 

 灯先輩は一瞬だけ眉を動かし、静かに答えた。

「それは“個別に取り憑く”怪異に効く方法。紙に書けば、その像を閉じ込めて狐火で還せる。でも今回は境界そのものが歪んでいる。紙一枚には閉じ込めきれないから、今度は“案内”で迷宮全体の向きを変える必要があるの」

 

「案内……?」

「うん。私たち三人の声と光で“ここが帰り道だ”って境界に教える。紙はその下書きに過ぎない。読み上げた後に燃やして還すのは最後の仕上げ」

 

 その言葉で、胸の奥のもやが少し晴れた。

 方法が“発展形”になっていることが、はっきり分かったからだ。

 

 灯先輩は新しいファイルを開き、紙に条件を書き出した。

 指先でその三つの条件をなぞりながら、ゆっくり言葉にする。

 

「鏡を三枚、光を三方向から、そして声は三人で。石田庸名の記録にあった“往きと還りの声”を三人で唱える。昨日は偶然二人だったから“ずれ”が大きくなった。今度は三人で行く」

 

「三人で……」

 須田先輩が僕を見る。

 

「わたしも、行くんですね」

「あなたがいなきゃ成立しない。昨日の“置き去り”はあなたをターゲットにしてた。だからこそ、逆に糸口にもなれる」

 

 灯先輩はやわらかく言い添えた。

「怖いと思う。でも、あなたが一緒に声を出してくれれば、私たち三人の“今ここにいる”という輪郭が強くなる。輪郭が強ければ、鏡の“置き去り”は私たちを離せない」

 

 須田先輩は唇を噛んだが、やがて小さく頷いた。

 その頷きに、僕も胸の奥で決意を固める。

 

◆◆◆

 

 日が暮れる頃、僕らは旧市街の外れに立っていた。

 シャッターの降りたガラス張りのビル、剥げかけた看板、ひび割れた防犯ミラー。

 昨日は迷路に呑まれた場所も、今日はただの廃れた路地に見える。

 灯先輩は周囲を見回し、条件に合う反射面を選び始めた。

 防犯ミラーを二枚、閉店した店舗のショーウィンドウを一枚。

 路地に差し込む街灯の位置を確認し、懐中電灯で三方向から光を当てる。

 

「よし、準備完了」

 灯先輩は狐面をバッグから取り出し、まだ顔に当てずに手元で回した。

 

 その動きだけで、空気がわずかに張りつめる。

「三人で唱える言葉は、石田庸名のメモにあった通り。欠けた影は帰りたがる、置き去りは怒る、怒りは往く者の背に手を伸ばす、手は鏡の上で滑る――ここまでを三人で一緒に言う。そのあと紙に写して燃やす。これで向きが決まるはず」

 

 須田先輩は深く息を吸い、眼鏡の位置を直した。

 僕も喉を潤し、声を整える。

 

「いい? 合図したら声を合わせる」

 灯先輩が指先を立てる。

 

 その瞬間、路地の奥で、昨日と同じ「からん」という音が鳴った。

 鍵束が触れ合うような小さな硬質音。

 光がわずかに揺れ、空気が一層冷たくなる。

 

「……来る」

 灯先輩の声が低くなる。

「怖がらないで。今回は“こちら”が呼び込む番」

 

 僕ら三人は肩を寄せ、反射面の前に立った。

 灯先輩の合図で、三人の声が重なる。

「欠けた影は帰りたがる。置き去りは怒る。怒りは往く者の背に手を伸ばす。手は、鏡の上で滑る」

 

 言葉が終わった瞬間、三つの反射面が同時に波紋を広げた。

 水ではない、光の層がめくれ、路地の奥にもう一つの路地が立ち上がる。

 昨日よりもはっきりした迷路の骨格。反射面が層状に重なり、感情が歩みの形を取っているのが見える。

 

「……見える」

 須田先輩が呟く。

 迷路の壁は昨日のように無作為ではなく、ひび割れた鏡板の裏側に街の影が貼りついている。

 人影、看板、笑い声、赤提灯、ショーガールのポスター。

 歓楽街の断片が、ここでは薄い皮膜になって揺れていた。

 

 僕らは一歩を踏み出す。

 足裏に冷たい膜の感触が広がるが、昨日のような無秩序な引き戻しはない。

 三人の声と足取りが揃っているからだろうか。

 壁の影がこちらを覗くが、手は伸びてこない。

 

「この感じ……境界が見えている」

 灯先輩が呟く。

「面越しと鏡迷路、二つの怪異が融合した“迷宮”そのもの。祭祀を失った神格が恐怖の対象に変わったと論文にあったけど、これがそう。歓楽街に溜まった視線や欲望が、鏡に反射したまま“置き去り”になってる」

 

 須田先輩が目を見開く。

「じゃあ、あの二面像は……?」

「境界の核。前後二つの顔を持つ“神”が、もう自分を祭ってくれる人を失って、ただ像だけが境に残った。その像が“置き去り”の通路を作り出した。……論文どおり」

 

 僕は喉を鳴らし、口を開く。

「じゃあ、鎮めるには……」

 

 灯先輩は深く息を吸い、狐面を顔に当てた。

「“物語”で輪郭を与えるしかない。欠けた影に帰り道を、置き去りに還り道を。私たち三人の声で、それを教える。そのあと紙に写して燃やす。足音のときと同じ“還し”の仕上げをする」

 

 迷路の奥で、青白い光がゆらりと揺れた。

 昨日の“灯”に似た笑顔が、鏡のひび割れの向こうに立っている。

 

 だが今は、恐怖よりも構造の方がはっきり見える。

 その笑顔は、欲望の残像でしかないことが、目で分かる。

 

 僕らはさらに一歩を踏み出した。

 迷路の中に、二面像の“空洞”が見えてくる。

 これから先が、核心だ。

 

◆◆◆

 

 足裏の温度が一段下がった。

 膜のような路面が、僕らの歩調に合わせてわずかに呼吸する。三人の影は重なり、遅れなく伸びて――それでも、壁の反射だけは半拍遅れてこちらを追いかけてくる。

 

「ここから先は、声を刻む」

 狐面越しに灯先輩の声。

「往きと還りを、交互に。私が“往き”を、あなたたち二人が“還り”を重ねて」

 

 頷いて、喉を整える。

 迷路は層を重ね、かつての街の名残りを薄皮にして揺らしている。赤提灯の朱は退色し、ポスターの笑顔は歯だけを強く反射する。笑っていないのに笑っている顔――面越しの症状が、壁一枚ごとに貼り付いていた。

 

「往く者は、影を落として歩く」

 灯先輩。

 

「還る者は、影を引き剝がして歩く」

 僕と須田先輩。

 

 声が膜を叩き、層の間に入り込むたび、反射の遅れが薄くなる。

 右の防犯ミラーが、こちらの歩幅に合わせて焦点を変える。左の鏡板はまだ半拍ずれている。灯先輩が懐中電灯の角度をわずかに上げた。三方向の光が交わり、僕らの輪郭に細い縁取りができる。

 

「視線は前。鏡は“見られたい”から振り向かせにくる。乗らないで」

 声の調子は静かだが、言葉の端に硬さがある。

 その硬さに合わせて、僕は呼吸を均す。須田先輩の小さな息が、背中から一定の間隔で届く。三人分の呼吸が、迷路の拍子を塗り替えていく。

 

 曲がり角の先、縦長の鏡面が連続し、廊下が水たまりの列みたいに見えた。

 その中心に、ぽっかりと暗い口腔――二面像の空洞が、鏡越しに覗いている。

 昨日、あの口が笑い、声が絡み合った場所。

 近づくほど、耳の裏で乾いた笑いが蘇る。

 

 からん。

 鍵束の音が、今度は遠くで鳴った。誰かが合図しているような、しかし主はいない。

 灯先輩は足を止めない。狐面の下で息だけを深くし、言葉を一段踏み込んだ。

 

「欠けた影は、帰りたがる」

「置き去りは、怒る」

「怒りは、往く者の背に手を伸ばす」

「手は――鏡の上で滑る」

 

 四節目を言い終えると同時に、鏡の列が一枚分だけ沈んだ。

 中に挟まった空気が、長い呼気になって吐き出される。

 反射していた笑みが一枚、剥がれた。

 

「見て」

 灯先輩が顎で示す。

 剥がれた反射の下に、別の顔が重ねてあった。頬骨の角度も、目尻のしわも、見覚えがある。歓楽街で笑い続けた誰かの顔。

 残像は、まだ微かに笑おうとして――けれど、声が揃うたびに、口元から力が抜けていく。

 

「この層、全部“置き去り”の顔だ」

 灯先輩が言う。

「祭りの終わった神棚。外された鏡。客を待ち続けた看板娘。笑顔だけが残って、からっぽになった。“二面像”がその空洞を引き受けて、通路になった」

 

 須田先輩が小さく喉を鳴らす。

 眼鏡の奥の瞳が、暗順応のようにじわりと広がった。

「じゃあ、わたしたちは……どうすれば、その人たちを……」

「返す。『ここは帰り道、あなたの帰り道はこっちじゃない』って、はっきり言う」

 灯先輩はそう告げて、狐面を左手に移し、右手を空洞の方へ突き出した。

「声を合わせる。次は“名乗り”。誰でもいい。“ここにいる三人”を、ここに固定する」

 

 言われて、僕は名を告げる。

「猫田正樹」

 須田先輩が続く。

「須田、公子」

 灯先輩が最後に。

「狐藤、灯」

 

 三つの名が層に打ち込まれ、波紋が三方向へ走る。

 光の縁取りが少し太くなり、影が足元にだけまとわりつく。壁の反射が、僕らから目を逸らした。

 “見る”という行為の向きがわずかに変わる。

 さっきまで、こちらへ向いていた無数の視線が、ほんの少しだけ、自分の背中へ向き直る。

 

「このまま核まで行く。口の縁に立たないで、周回して」

 灯先輩は空洞に背を見せないよう半身で進む。

 僕らも半身を保ち、視界の端に口腔を置いたまま歩く。

 近づくほど、笑いは笑いの形を失い、ただの風の飲み込み音になる。

 

 やがて、空洞の手前に浅い踊り場のような張り出しが現れた。

 そこで灯先輩が立ち止まり、狐面を顔に掛ける。面の内側で、目の色が変わる。

「ここが境の“縫い目”。鎮めるなら、ここ」

 指で床をなぞると、指先に砂のようなざらつきが残った。

 よく見ると、それは微細なガラス片――笑顔の反射の落屑だ。

 

「方法は単純。三人で“帰路(みち)”を読み上げる。往きと還りを交互に、最後に“ここで終わり”と書きを置く。これは呪文じゃなく、案内。鏡に残った歩みへ向けた『案内板』。そして読み上げた案内を紙に移して狐火で還す。それが仕上げ」

 

 灯先輩はバッグから白紙を三枚取り出し、僕と須田先輩に渡した。

「唱えながら、そのまま書き写して。私が火を出す」

 

 須田先輩の指が震える。

 僕もペンを握る手に汗を感じた。

 それでも三人で拍を合わせ、声と文字を重ねる。

 

「往く者は、足音を増やして歩く」

「還る者は、足音を減らして歩く」

「往く者は、名前を忘れて進む」

「還る者は、名前を拾って戻る」

「往く者は、笑顔を貼って見せる」

「還る者は、笑顔を剥がして帰る」

 

 言葉の“案内”が進むにつれて、空洞の縁が乾き、黒から灰へ、灰から石へと戻っていく。

 壁の反射に貼られていた笑顔は、順番に口角から色を失い、頬のハイライトが曇り、ただの古い紙片に変わって床へ舞い落ちる。

 からん。

 鍵束の音が、今度は足元で鳴った。

 床に転がる細い金属の輪――いや、輪に見える光の反射。

 反射は反射に戻り、物ではなかったことを思い出したように消える。

 

 最後の節を唱え終えたとき、三人分の白紙には同じ文字列が刻まれていた。

 灯先輩は狐面の奥から短く頷き、指先に小さな火を灯す。

 青白い狐火が三枚の端に移り、ゆっくりと紙を包んだ。

 火は熱を持たず、ただ文字を透かしながら食べ、最後に灰の欠片を残して消える。

 灰は床に落ちる前に、空洞の縁へ吸い込まれた。

 

 ――ぴしり。

 乾いた音が、空間の骨に入った。

 空洞の縁に細い亀裂が走り、それが同心円状に広がっていく。

 鏡の層が一枚、また一枚と外れて、遠いところで倒れる食器のような硬質音を響かせた。

 

 風向きが変わった。

 湿りは引き、代わりに埃っぽい、現実の匂いが流れ込む。

 視界の端で、二面像が――昨日見たあの石像が――鏡越しではなく、石としてそこに“在る”。

 前後二つの顔のうち、空洞の側が静かに閉じようとしていた。

 

 灯先輩が面をはずし、目を細める。

「ありがとう、と言うべきかは分からないけど……役目は終わった、はず」

 そう言って、踊り場の砂を指で摘んだ。

 それは砂というより、きわめて細かい“笑いの欠片”だった。

 陽の当たらないところでだけ光る、透明な屑。

「持って帰るものじゃない。ここに置いていこう」

 

 須田先輩が小さく頷く。

 肩のあたりが、ようやく落ち着いた沈み方をする。

 僕自身も、胸の奥のざわめきが一枚薄く剥がれて、深いところに水面が戻るのを感じた。

 

 退路は、来たときよりもはっきりしている。

 三方向の光に合わせ、僕らの影はひとつにまとまり、遅れずに歩く。

 壁の反射は、もう僕らを見ない。

 代わりに、かつての笑顔たちが――顔ではなく、ただの擦りガラスの模様として――ゆっくりと後ろへ流れていった。

 

 出口の面に近づくほど、空気は乾く。

 最後の角を曲がるとき、ふと背後でなにかがこちらに手を振った気がした。

 振り返らない。

 僕も須田先輩も、灯先輩も、振り返らない。

 それが“案内”の最後のルールだ。

 

 面の縁を跨ぐと、夜の匂いがまとめて肺に入った。

 シャッター通りの風、遠くの踏切、バスのブレーキの鳴き。

 現実の音たちが、順番を思い出しながら耳の奥に帰ってくる。

 

 僕らはしばらく何も言わなかった。

 体の表面についた“湿った視線”が、風で乾くのを待った。

 やがて灯先輩が、バッグに狐面をしまいながら言う。

 

「終わった。……“今回は”ね」

 その言い方が、安堵と同じくらい慎重だった。

「境界は、人の歩みが重なればまたできる。今日ここで終わったものが、別の日に別の場所で“始まる”こともある」

 

 須田先輩が眼鏡を押し上げ、深呼吸をひとつ。

「それでも、いまは……助かった、って思っていいんですよね」

「もちろん」

 灯先輩が笑う。今度の笑みは、誰かに貼られたものではなく、彼女自身の表情だった。

「甘いもの、食べに行こう。現世復帰には糖分」

 

 思わず、僕は笑ってしまう。

 気が緩んだのか、須田先輩が階段の一段目でつまづき、慌てて足を戻す。

「……見てませんから」

「み、見られてたら恥ずかしいですぅ……」

「じゃあ、なおさら甘いものだ」

 

 歩き出そうとして、ふとポケットが重いことに気づく。

 指を入れると、爪先に硬いものが触れた。

 取り出して、街灯にかざす。

 ――透明な、米粒ほどの欠片。

 笑いの屑に似ているが、光は吸わない。

 ただ、角だけが妙に鋭い。

 

 灯先輩が覗き込み、首を傾げる。

「持って出た覚えは?」

「ない、はず……」

 欠片は、指の上で鳴らない。からん、ともしない。

 笑わない“笑いの欠片”。

 僕はしばらく迷ってから、ポケットに戻した。

 持ち帰るべきではないのだろう。でも、なぜか捨てにくかった。

 

 風が一段強くなり、シャッターの隙間で紙片が鳴る。

 遠くで電車が渡り、夜はいつもの順路で更けていく。

 僕ら三人は並んで歩いた。

 影は重なって、遅れずに伸びていく。

 

 そのとき、ポケットの奥で、ごく短い震え。

 反射的に取り出した画面は、黒いままだ。通知はない。

 ただ、表面に僕の顔が映り――半拍も遅れず、同時に瞬きをした。

 

 今度は、笑っていなかった。

 それだけを、はっきり覚えている。

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