愛が彼女を壊し、絶望が私を救う
始発電車で帰ってきてから、一歩も部屋を出ていなかった。
夜の雑踏は、数時間しか眠っていない頭に、鈍く響く。
『特集、創業家支配の功罪』
スマートフォンの画面を指でなぞる。流れていくタイムラインの合間、毛色の違う見出しは、大手ニュースサイトの経済コラムだった。
『豊川グループ。重工、物産、銀行を中核トライアングルとし、日本の産業史そのものを体現する、連結売上高36兆円の巨大コングロマリット。GHQによる財閥解体の楔によって、その支配の血脈は一度は絶たれたかに見えた。
しかし、戦後改革から半世紀の時を経た1997年、独占禁止法改正という国家自身の手で楔は引き抜かれる。創業家の血脈は、鉄壁の牙城である非上場のホールディングスをもって、再び経済帝国の玉座に君臨した。
上場子会社で進められる社外取締役の招聘などのガバナンス改革は、いわば堅牢な城壁に施された形式的な装飾に等しい。城の内側では、閉鎖的な意思決定構造が温存され、創業家の言葉が勅令として響き渡る。空前の発展にグループを導いたカリスマ性は、時代がコーポレート・ガバナンスを重要視し始めたことで、皮肉にも巨大なリスクへと変貌した。
その脆弱性を突かれたのが、都心一等地の用地取得を巡り、子会社の豊川地所が巨額の詐欺被害に遭った、地面師事件である。第三者委員会による事件の調査報告書は、創業家による歪なガバナンス構造のもとで、グループの内部統制がいかに機能不全に陥っているかを白日の下に晒した』
スワイプして顔を上げると、池袋PARCOの巨大なビジョンから、sumimiの初華が、完璧な笑顔でこちらに手を振っていた。妹の名前で歌い、笑い、本当の顔を誰にも見せず、ここまで来た。ビル風がカミソリのように頬を撫でた。目元まですっぽり隠れるマスクの位置を確かめ、私は俯いた。
夜明けにはまだ遠い赤羽を叩く雨は、もっと冷たかった。始発電車が動き出すよりさらに前、古びた木造アパートの、道を挟んだ向かいの電柱の影で、息を殺していた。降りしきる雨がアスファルトを黒く濡らし、街灯の光を滲ませていた。
やがて、アパートの二階から階段を降りてきたのは、ぶかぶかのカッパを着た、小さな影だった。
さきちゃんだった。
慣れた様子で自転車にまたがると、アパートの角を曲がっていく。私は、その背中を見失わないよう、一定の距離を保って後を追った。大通りに出る手前の路肩に、ライトを点滅させた一台の軽バンが停まっていた。スライドドアが開かれ、一瞬点いた室内灯に、ビニールで固く覆われた新聞の束が山積みになっているのが見えた。
運転席から降りてきた作業着の男性が、さきちゃんに何か話しかけて頷き、束の一つを手渡した。さきちゃんは、それをよろけそうになりながらも、しっかりと受け止めた。
フードの隙間から覗く顔は青白く、雨に濡れた前髪が額に張り付いていた。街灯の淡い光に照らし出され、遠目にもそれははっきりと分かった。
私のことなど気づきもしない。さきちゃんは雨の中に駆け出していく。ぎ、ぎ、と錆びついたような軋む音が雨に混じった。跳ねた水をペダルを漕ぐ脚に飛び散らせ、まだ夜の闇が支配する街の中へ、たった一人で消えていった。紺色の、月ノ森中等部のセーラー服をカッパの下に透けさせた背中が、闇に溶けきるまで、私は身動き一つできなかった。
風から身を守るように、羽織ったカーディガンの前をきつく掻き寄せた。
フリルとレースで甘く身を包んだ女の子たちが、まるで街路樹のように池袋サンシャイン60通りを等間隔に区切っていた。その間を埋め尽くすのは、国籍不明の言葉の洪水と、熱に浮かされた人々の群れ。そのすべてから、私は弾き出されていた。こうして島でも独り、ひっそりと息をひそめていなければならなかった。忌まわしいのは、私が隠された豊川の子だという事実じゃない。自分のことしか考えられない、この心それ自体だった。初華からも、夢も名前も幼馴染も奪った。それでもなお、生まれ変われるなら初華になりたいと願ってる。最初から、初音はいなければよかった。いっそ、あの時に消えてしまえばよかった。「初音は、パパが違うから悲しくないんだ!」
進む足は止まらない。むしろ早足になる。鼓膜ごと私を切り裂いた涙声が、頭の中で反響して、他の何もかもが聞こえなくなる。言い返せない。ごめんなさい、と伝えることすら叶わない。私を育ててくれた「パパ」は、もう二度と会えないところへ行ってしまった。
いや、私はこの「言い返せずにごめんなさい」という罪悪感を、ずっと抱えていたいんだ。そうしていれば、あの優しい人を「私のパパ」だと言い張れる気がするから。血の繋がった豊川定治を父だと、内心では認めてるくせにね。父の名前として、だからそれを簡単に口にできた。
優しく褒められるたび、頭を撫でられるたび、怖かった。その場所にいていいのか、優しさを受け取っていいのか、いつも分からなかった。温もりに、いつも後ろめたさを感じていた。
私の手を包んでくれた、パパとの、その繋がりを裏切り、お母さんの言いつけも破って、豊川の家に近づいた。ただ、さきちゃんに会いたかった。それだけの、エゴで。そして、さきちゃんの笑顔を、家族を、幸せを打ち壊した。さきちゃんを、私と同じにしてしまった。
サンシャインシティの入り口へと吸い寄せられる。私と同じにしてしまった。奥のエスカレーターで地下へ下り、動く歩道に乗る。私と同じにしてしまった。体は意思と無関係に前へ運ばれていく。私と同じにしてしまった。私と同じにしてしまった。壊れたレコードのように頭の中で繰り返される。
私の姉でもあった母を亡くして、帰るべき場所もなくして、さきちゃんは独りぼっち。さきちゃんは、私と同じ。
ぞくり、と、ねっとりとした仄暗い快感は背筋を這い上がっていった。目の前がちかちかと瞬いた。雨に濡れたあの青白い顔が、百均で売ってそうな大人用カッパを着た姿が、焼き付いて離れない。
こんな私の手を、両手でくしゃっと握ってくれたさきちゃん。なんでも知っていて、なんでもできて、東京のことをたくさんお話してくれた。私の幼馴染。私の、家族。可愛くて、優しくて、頭が良くて、きらきら眩しく輝いてる、気高いさきちゃん。私なんかが、触れてはいけなかった。
昨日まで住んでいた家の玄関よりも狭いアパートで、たった一人で、働いて、弱ってゆく。貴いさきちゃんが、人目を忍んで息をひそめ、賤しく暮らしてる。私のもとへ堕ちてきたさきちゃん。うらぶれてしまったさきちゃん。
手を伸ばさなくても、もう手が届く。完璧に微笑める誰かであれば、傍にいても赦されると、考える必要もない。弱って、うらぶれてしまったあなたなら、私でも、そばにいられる。ずっと、ずっと。好きで、好きで、好きで、好きで、好き。さきちゃんが欲しい。欲しい。知ってほしい。私がどれだけさきちゃんを必要としているか。さきちゃん以外に、誰が要るの。傍にいたい。離したくない。私だけの一等星。私だけのさきちゃん。
「デビューって本当ですの!?」
「おめでとう、憧れのプロになれたのですわね」
「どんな時も前向きな貴方でいれば大丈夫ですわ。わたくしは何も心配しておりませんわよ」
sumimiでデビューしたときにもらったメッセージだけじゃ、足りないの。もっと話してたい。さきちゃんに会いたい。一緒にいたい。さきちゃんが好き、大好き。二人で抜け出した島の夜、あの静かな時間だけが、私の永遠の宝物。
「初音は優しい月のようですわね」
さきちゃんが言った言葉が蘇る。あの日の天の川に、私、またもう一度。
動く歩道が私を運び終え、床に足が着いた。
私は完全に立ち尽くした。
右も、左も、分からない。
案内表示に並ぶ「アルパ」「プリンスホテル」「文化会館ビル」という文字の羅列が、意味のある言葉として頭に入ってこない。
矛盾に安らぐ憎むべき自分に気づくたび、苦しみこそが甘美な救いなのだと、どこまでも私、ねじれていく。さきちゃんの不幸を喜ぶおぞましいエゴが、私自身の不幸でもまた同じように脳髄を痺れさせる。罰しても、罰しても、さらに強い罰が必要になる。大好きな人を、よりにもよって、この手で私は不幸にした。疫病神。二度と関わるべきじゃない。もうさきちゃんを想うな。想うこと自体が罪だ!
罪を声高に叫ぶ声は、そして私を安らかにさせる。苦しくて、苦しくて、けれど、身を引き裂く矛盾の痛みだけが、もはや唯一できる贖い。ああ、このまま永遠に、私が引き裂かれ続ければいい。
十字架を背負った私をいたぶるこの声は、泣き叫ぶ初華の声音にも、「初音」と優しく呼びかけるさきちゃんの声音にも聞こえる。でも、耳を澄ませば、それは全部、私の声。私が私を慰めているだけ。「好き」の感情も、独り芝居を真実らしく見せるための小道具かもしれなかった。
自分は劣ってるってずっと感じてた。羨ましかった。妬ましかった。憎かった。祝福され、光の中にいたさきちゃんが。私の名前を知りもしない、存在すら、未だに知りもしないさきちゃんが。なんで、さきちゃんばっかり。血の繋がった同い年の子なのに。
浅ましいその気持ちに蓋をしたくて、私はさきちゃんを祀り上げた。気高く、尊く、優しい存在として仰ぎ見ていれば、惨めな比較をしなくて済むから。
私が初華だったなら足を止めそうな、きらきらしたキャラクターグッズのお店の前を通り過ぎた。初華が私じゃないと、さきちゃんは知らない。気づきもしない。その無頓着さが耐えられないほど憎かった。さきちゃんのきらきらした世界の中で、私は取るに足らない「その他大勢」でしかない。想いは、だから、物語になった。
さっき通り過ぎたはずのキャラクターグッズの店が、不意にまた目の前に現れた。いつの間にか戻ってきていた。目眩がした。この巨大な建物が、私そのものみたいだった。ショーウィンドウに映る、マスクで顔の半分を覆った女。辺りを窺ってばかりのその目つきが嫌いで、足早にその場を離れる。けど、その足が正しい方向へ向かっている自信は全くない。案内表示は、至る所で正しい道を指し示しているのに。
「ワールド……インポート……マートビル」
矢印の先は、いま通ってきたばかりの道。私はいったい、何をしているんだろう。
情けない足取りで彷徨い歩き、ようやく辿り着けたエレベーターホールは、まるで舞台袖のように、少し奥まった場所でひっそりと静まり返っていた。
タイミングよくドアの開いた一台に、ふらふらと一人で乗り込む。ドアが閉まり、外界から遮断された途端、張り詰めていた糸が切れた。水槽のような青い壁にもたれかかる。浅く速い呼吸が漏れた。すぐ脇の鏡張りの面が、ぼんやりとした輪郭の私を映し出す。初華ではない。では初音なのか。どちらでもない、影。
「……助けて」
床がふっと沈み、体が軽くなる。それは、さきちゃんをただ一心に追い求めていた頃の、あの浮き立つような心の軽さに似ていた。浮遊感とともに、耳の奥が詰まる。この息苦しい執着が、私を生かしてる。愛情が憎しみを呼び、憎しみが偽りの敬愛を呼び、そしてまた純粋な愛情に焦がれる。終わりない輪に閉じ込められ、数字だけが冷酷に上がっていくのを、私はぼんやりと見つめていた。
ごうっ、と地鳴りのような滝の音が、耳になだれ込んだ。開いたドアの向こうから、海の水の匂いがマスクの隙間をこじ開けて滑り込む。正面には「SKY FOREST AQUARIUM」と書かれた青いパネル。その前で、屈託なく笑いながらピースサインをする集団が、スマートフォンのフラッシュを浴びていた。
足がすくんだ。大丈夫。これはいつものこと。これから演じるのは、プラネタリウムに来た、ごく普通の女の子。
賑わいの少し先にある、プラネタリウムのチケットカウンターで、普通に伝える。
「19時の回を、一枚お願いします」
アクリル板の向こうで、インカムをつけた係の人が応じた。
「かしこまりました。割引券、特別鑑賞券はお持ちですか?」
「……いえ、持っていません」
「ありがとうございます。19時の回で今ですと、スクリーン全体が見やすい後方ブロックの、左側のお席がご案内できますが、いかがなさいますか?」
係の人は手元の端末を操作しながら、座席表を示してくれる。
「……はい、それで、お願いします」
「承知いたしました。料金は一般で2,100円です」
マスクの下の口角を上げ、頷き、財布から取り出したお金をトレーに置く。にこやかに応対しながら、係の人は手元の端末を数回タップした。小さな機械音とともに、チケットが発券された。
「お待たせいたしました。チケットでございます」
変じゃないかな、私。ちゃんとできているだろうか。
「ありがとうございます」
笑顔は、カメラの前でも教室の隅でも、どんな時でも頬に浮かぶもう一枚の皮膚。私の才能、ということに、今ではなっている。
差し出されたチケットを受け取る指先は、わずかに震えていた。
東京の空では見えない無数の星々が、ここでは見られる。「星が見たい」。私がぽつりと零したのを聞いて、まなちゃんが教えてくれた場所。プラネタリウムは、生まれて初めてだった。縋る先になるとは、そのときは思ってもみなかった。今から私は、天球儀の内側に入るんだ。ダメなのに、否が応でも鼓動は高鳴る。
シアターへと続く通路は、ツタのように絡められたLEDのイルミネーションで天井を飾り付けられていた。そこを抜けると、目の前にドームが広がった。想像していたよりずっと低く、近い。中央にある、ワールドカップのトロフィーみたいな形の、物々しい投影機が目を引く。
C5列、通路際から2番目。指定された座席を見つけて、倒れ込むように身を沈めた。この小さな空間が、これから無限の宇宙になる実感は、湧かない。右肘掛けの下にある黒いレバーを引くと、ガコン、と少し唐突な音を立ててシートが一気に倒れた。上映開始を待つ間、ドームにはニコちゃんマークや動物の形をしたカラフルな花火の映像が、無音で次々と打ち上がっていた。
やがて、スタッフからの注意事項を伝えるアナウンスが流れ、照明が控えめになり、CMが始まった。
色彩豊かな3DCGアニメーションの予告編。
同じ階の水族館を泳ぎ回るペンギンたち。
高まっていたはずの気持ちが、すっと冷めていった。流れていく映像を、ぼんやりと目で追った。
──人と、星を繋ぐ。豊川重工。
その無防備な意識を、見慣れた、そして今最も見たくないロゴは容赦なく貫いた。
明るく、希望に満ちた声で、ナレーションは語った。澄み切った青空。最新鋭のロケット。輝くソーラーパネルが広がる未来都市。そこに生きる、幸福そうな家族の笑顔。
人と星は、確かに、繋がっていると思う。星は、人が生まれた瞬間に、その運命をホロスコープとして描き上げるから。幸福な家族は、祝福の星の下に生まれてきたんだろう。
私は、どうかな。
私は、誰にも言えなかったことがたくさんあった。
私がさきちゃんを地獄に突き落とした。そうでも思わなければ、だから、立っていることさえできなかった。私一人の存在が、遠く宇宙にまで手を伸ばそうとする豊川の、巨大な歯車を狂わせられるはずがないと、分かっていても、そうでなければならなかった。私が原因でなければ、いけなかった。初華ではない私は、祝福されなかった初音は、「その他大勢」でさえない。認めてしまえば、始めから、何もない。存在すらしない。
無垢なあなたと、私の間に、偶然出会った、ありふれた過去はない。もし私があなたの人生をめちゃくちゃにした罪人でなければ、あなたと私は、永遠に何の関わりもない。あなたと私は赤の他人で、私は、永遠に独りぼっち。そんなの、絶対に嫌。
脚本家は、私。
演出家は、私。
主演も、もちろん私。
暗い客席で固唾を飲んで見つめる、たった一人の観客も、私。
これは、私の、私による、私のための悲劇。執着の愛に取り憑かれたサロメが恋しい聖人の首を求めたように、私があなたの屈辱を望んだの。
それが物語の筋書きではなく、真実だと言うのなら、さきちゃんの前で、お母さんと初華の前で、「私と同じにしてしまった」と泣きながら訴えてみればいい。
できるはずがない。
舞台装置の十字架を抱く、嘘で塗り固められた仮面の下、私の心だけが、いつも本物の安らぎに浸っている。そう、私はずっと、そうだった。
ふっとドームが暗転する。
そして映し出されたのは、日の光が差す森の風景だった。木漏れ日がきらきらと揺れ、彩度の高い蝶が舞う、作り物。明るさのせいで、すぐ隣の空席の、さらにその向こうに座るカップルのシルエットや、ドームの縁まではっきりと照らされて見える。消えてくれない。
流れ始めた、穏やかなピアノ。そのありきたりなメロディも、何の工夫も驚きもなく、予定調和の終止形へと向かっていく。
「もし、この森の木々が、私たちと同じように星空を見上げるとしたら。一体、何を想うのでしょうか。ざわめく木々の葉音に、耳を澄ませてみてください。森の息吹を、感じてみてください」
ナレーションは、女の人の落ち着いた声だった。ふわりと香りが漂う。ドームには、ミヤマビャクシン、モミ、ハッカの爽やかな香りに、カツラの枯葉が持つ甘さをブレンドしたアロマだと、説明が浮かび上がった。私の鼻には、真新しい木の家具の匂いとだけ感じられた。
日中の白い光は西日へと変わっていき、映し出された空も、少しずつ藍色に染まっていく。目を伏せると、座る私の影が長く、長く伸びて、夕闇に沈んでいく。
その匂い。伸びた影の先、見慣れた庭には母の背中があった。膝を抱えるように座り、手のひらに顎を乗せて、私はその姿をただ眺めた。虫が苦手で、草むしりを手伝うのは億劫だったけれど、黙々と働く背中を縁側で見ているのは、嫌いではなかった。私が生まれる前の仕事柄もあってか、母はよく庭いじりをしていた。剪定された枝を見て「可哀想」と言った初華に、母は何も言わなかった。
「可哀想」という言葉が好きじゃなかった。その言葉が、他の誰でもない私自身に向けられていることを知っていた。「初音は可哀想だ」。そう言われることで、私は本当に可哀想な存在になっていった。ここにいていいのかも分からなくなった。愛されている、と無邪気に信じていられなくなった。事実、私の存在はひた隠しにされていた。「生まれてしまった」子どもだから。
私の家族にとって、私にとっても、初音はいないほうがよかったのかもしれない。初音として家族の幸せを願うなら、少なくとも、生まれ育ったあの島で、死ぬまで息をひそめているべきだった。私も、そうして誰とも接しないほうが、ずっと楽なはずなのに、どうして。
秘密を抱えて人と向き合うのは、ひどく難しい。本当のことは話せない。理解されない以前に、理解されようとすることができない。
息が詰まるから、独りきりで大きく息継ぎをする場所が必要だった。夜空はそれを私にくれた。全天が闇に覆われ、余計なものがようやくすべて消える。そこに、たったひとつ。
無知なあなただけが触れられた、私の、この傷口に。いていいのか分からない私の手を、握ってくれた。
あなたの眼差しが少しでも逸れたら、声の響きがほんの僅かでも曇ったら、全身の血が凍りつく。見捨てられる。指がほどけていくのがあんなに怖い。その瞳から私が消えてしまったら、私はまた、輪郭のない影に戻ってしまう。いやだ。それだけは、いや。その恐怖と比べたら、プライドも、名前も、何もかもがどうでもいい。初華でいい。嘘で固められた私でいい。本当の私なんかどうせ誰も愛さない。だからお願い、その手を離さないで。嫌いにならないで。
たったひとつ灯っていた一番星の隣に、またその隣にと、瞬きが瞬きを呼ぶように、星々が生まれていく。心臓も押し黙らせるような、長い一音のフェルマータ。その余韻も、緩やかに静寂へ溶けた。
春の夜空だった。しし座のレグルス、おとめ座のスピカ、うしかい座のアークトゥルスが形作る大きな三角形が、淡い星屑の中で輝いた。地平線を覆っていた森は、いまや星の光を浴びて浮かび上がる影絵となっていた。天頂には、星々の大河、天の川が流れ始めた。誰かが小さく息を呑む。私だったかもしれない。
「人も、森も、そして星もまた、それぞれの時を生きています。桜が春のひとときを懸命に咲き誇るように、星もまた、何億年という時間をかけて輝き、やがては光を終えるのです」
白く凍てついた光の筋が、弓を引くように鋭く、軌跡を描いた。流れ星だった。夜空を抜け出した先の虚空で、私はそれを眺めた。底知れない宇宙のただ中に、私は剥き出しで浮かんでいた。
足元にまで広がる無数の微細な光に、ルーツも、抱えてきた願いも、どうしようもない不安も、あのどす黒い喜びさえもが、委ねられていく。もはや、豊川の隠し子でも、妹の名前を騙るアイドルでもない。家族を捨て、姪に執着する醜い叔母でもない。ただ星を眺める、名もなき視線となる。
マスクを外す。やっと、息ができる。呼吸は深く、しなやかに流れ込んでくる。静謐な光だけが、祝福のように、罰のように、等しく降り注いでくる。光は皮膚を通り抜け、骨の髄まで染み込む。呼吸する肺は暗闇と入れ替わり、脈打つ心臓は血液の代わりに、光を体の隅々へ巡らせて、私を内側から焼き払っていく。
けれど、その光は消えてなくなりません。いま私たちの目に届いている星の光が、何億年も前の過去から旅をしてきたものであるように。光は、距離も身分も選ばず、ただ、届く。
葉を蓄えた木の影が辺りを縁取っていき、星座の覗き窓を作る。やがて、影が生き物のように脈打ち、星々の間を縫うようにして、音もなく幾本もの枝が伸びていった。季節を早回しで見るように、枝という枝に蕾が宿り、こぼれんばかりに花開いた。一本の桜が作り出した巨大な花の森に私は包まれていた。見渡す限り、無数の枝が天蓋となって重なり合い、銀河を覆い尽くしている。
花びらはどれも形が不揃いで、けれど細部まで丁寧に光を帯びていた。等しく照らされる、それだけのことで、醜い花びらなど一枚もない。
もし、あの瞬く星の一つがさきちゃんで、舞い上がる花びらの一枚が私だったなら。私たちは何の区別もなく、ただ美しい光のまま、この夜に溶けていけたのに。
桜の枝の隙間で、星屑の川が葉脈のように走る。宇宙の深淵から輝きを樹液として吸い上げて、生きることそのものと信じてきた苦痛も、すべては美しい幻なのだと囁きかけてくる。
きれいだった。
きれいな、嘘だ。
桜は、赤ちゃんをおくるみで包むように、底なしの暗闇に張り巡らせた根と根毛の触手で星を抱え込み、腕の中に閉じ込めて、管を脈打たせながら輝きを食い尽くす。照らす星が燃え尽きようと構わずに。冷たくなった亡骸からでさえ、最後の燐光を吸い上げるように。
星明かりを求めて一心に咲き誇る、あの献身的な花は、おぞましい寄生を隠すための擬態に過ぎない。
私のすべてを差し出すから、あなたのすべてを私に差し出して。
あなたは、私が初めて見つけた、あまりにも美しく澄み切った鏡でした。そこに映ることでしか、私は自分の輪郭を確かめられない。だから、ただあなたに映っていたかった。それだけで良かった。
ううん、本当は、もっと欲しい。あなたの特別になりたかった。私は私の特別な人の特別になりたかった。誰かの特別だと、自分を思えるようになりたかった。そんなこと、許されるはずがない、なんて残酷なこと、言わないで。私を見てよ。私を一番に優先してよ!
願いが叶わないなら、いっそこの手で粉々に砕きたい。そうすれば、血に塗れて散らばった無数の破片は、そのどれもが私を見つめる星になる。この指でそれを全て拾い集めたら、もうどこにも行かない、あなたは私だけのもの。私の夜空で、私だけを映し、永遠に瞬き続ける。
そう。私を映し、肯定し、人間だと錯覚させてくれる光をくれるなら、その鏡が誰であったかなんて、本当はどうでもいい。
優しさを命綱に、その光を食い尽くして、そうやって生き延びる。温もりを奪い続けるためだけに、私はその手を離さない。そうして、温もりを求めた果てが、この、絶えず内側から抉られるような痛み。決して癒えることのない傷口から、じくじくと流れ出し続ける寂しさ。光を求めるのに、その光に焼かれる倒錯。生きている限り、この苦痛から逃れる術はない。この欠陥から解放されるには、生まれてこないことだけが唯一の救いだったと、その結論にしか、辿り着けない。だから、私はきっと、子どもなんて産まない。絶対に。
ふいに、頬に冷たいものが伝った。こっそり手の甲でぬぐうと、透明な雫がついた。花びらがふわりと落ちはじめた。それはもちろん映像なのに、頬に触れた気がした。星たちは私の額に、頬に、まぶたに触れるように流れた。
蓄えた光をこらえきれないかのように、ほろり、と枝先は花びらをこぼす。それを合図に、自らを構成していた光を、ゆっくりと宇宙へとほどいていく。無数の枝々は砂となって、天の川の雄大な流れに溶け込んでいく。
それは私の肺の奥にまで音もなく降り注ぎ、底に溜まっていた湿った砂を、さらさらと流れさせた。重力を失い、澱は砂時計を逆さに昇った。汚すことしかできなかった、あの手のひらが、私に手を伸ばす。
与える側は見返りを求めず、自分を削ってまで誰かを照らした。私は、月のように上手には、それを受け止められなかった。注がれた光は、私の内で屈折し、自らを焼く熱に変わるだけだった。痛みは光だった。私を、人に愛され愛する形をしていない私を、克明に浮き彫りにする光。
「初音」
いつまでも帰らずに見ていた、天の川の下、掠れた声が名前を呼ぶ。体を起こした私の、小さな手を、節くれだった大きな手のひらは包んでくれた。東の地平線が白んでいき、聞こえてくる、柔らかな鳥のさえずり。そして光は、永遠に遠ざかる。
夜は、必ず明けます。そしてまた、新たな星の夜が巡ってくる。数えきれないほどの光が、いつでもあなたを見守っています。またいつか、この星空の下でお会いしましょう。
言葉を終えないうちに、荘厳な音楽が響き渡った。夜明けを迎えようとする空に、くっきりと白い文字が滑り始める。監督、脚本、声の出演、音楽。無数の個人名と協賛企業名。星々は薄れていき、最後まで残っていた明けの明星が、静かにまたたいて消えた。空間を染める朝焼けの色も失われ、ドームは、無機質な白一色に戻った。
シートの足元に淡い灯りがともって、上映終了を告げる事務的なアナウンスが流れる。「きれいだったね」とカップルの声が囁き合い、他にもあちこちから話し声が聞こえ始めた。
右側から順に人々が退場していく流れを、列の左端の私は、座ったまま眺めていた。硬く握りしめていたチケットが、汗で少し湿っていた。涙が乾いていくのを感じながら、私はただ、じっと座っていた。
やがてほとんど無意識に、バッグからマスクを取り出し、いつもの手つきで顔を覆った。そうしてやっと、その他大勢に紛れて、静かに席を立った。
サンシャインシティの地下通路を抜け、地上へ出る。池袋の雑踏は、何一つ変わらない顔で無秩序なネオンの洪水を明滅させていた。プラネタリウムで切っていたスマートフォンの電源を入れた。
ロックを解除した画面に経済コラムが蘇るのと、ほとんど同時だった。背後から聞き慣れたイントロが流れ始め、弾かれたように振り返る。
サンシャインシティ入口の巨大ビジョンで、sumimiの初華が、完璧な笑顔を浮かべ歌いながら踊っていた。
私は目元まですっぽり隠れるマスクの位置を確かめた。その上を、冷たいビル風が滑っていった。