ダンクロ2周年イベント、アストレアレコード及びイレギュラーレコードのネタバレしかありませんし、その知識がなければ読んでも楽しめないと思うので、まずはそちらをご覧ください。いいストーリーでしたよ。

イレギュラーレコード最終話を読む前に頭に浮かんだストーリーです。罪人都市がどうだとかギルド地下に牢屋なんてあんの?とか細かいことを言ってはいけない。いけないのです。

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アンカー

「彼が来た。気付いていたよね?」

 男神様は言った。

 私は頷いた。

「彼はまた、無茶をやらかすだろうね」

 溜息混じり。それでも男神様は笑っていた。

「その渦に、君は巻き込まれる。間違いなく」

 私もそう思う。だから頷いた。

「君に預けたい情報がある。絶対に彼が欲しがるだろう情報だ」

 どうして貴方が伝えないのか。

 そう問うた。

「それじゃあ、ドラマにならないだろう?」

 男神様は目を細めた。

「ドラマの名は喜劇。そう定まっている。だって彼は、喜劇しか描かない。だからこそ君は、スポットライトの下から離れられない。いや。離れてはいけない」

 言っている意味があまりわからなかった。

「それに、下界でこの情報を唯一知る権利があるのは君だけだ。君だってわかっているだろう? 彼女の真実を知るのは君だけなのだから」

 頷けなかった。肯定も口に出来なかった。

「それに、最初に彼に追い付くのは、君以外にあり得ない」

 またもわからなかった。だからただ黙っていた。

「彼はまた無茶をやらかす。そんな彼を支えられるのは君だ。誰よりも君だ。君しかいない」

 そう言いながら男神様は、丁寧に封をされた手紙を差し出した。

「これは、オレから彼へ宛てた贈り物。しかし、この中身を見る権利が君にだけはある。惑わすつもりも何もない。君がこれを開封したとてオレはもちろん誰もがそれを咎められない。もちろん、彼自身にだって」

 目の前にいるのは、底の見えない男神様。

 それでも今だけは、揶揄うような響きも、試すような神意も感じられなかった。

「全ては彼次第。そして君次第。もしかしたら君には酷なことでしかないのかもしれないけれど……彼のこと。頼んでもいいかな?」

「はい」

 私は迷わず頷いて、男神様の手の中から、彼へと届く片道切符を手にした。

 

* * *

 

 土と石。金属の匂いも少し。遠くからは火薬の香りも届く。

 何より際立つのは、カビの匂い。

「狭いわ」

「退屈だわ」

「匂うわ」

「ジメジメしているわ」

 五感が集める情報が一々ネガティブなものしか存在していない地下深くの空間に取り残されている二人は、約二年間過ごしても愛着など湧きもしないこの汚い空間に、今日も今日とて不満を口にしていた。

「ここから出たいわ」

「ええ。今直ぐに出たい」

 左右の目の下に刻まれた涙のタトゥーは、二人の心情を表したかのようだ。

「そして会いたい。ねえ会いたいわ」

「ええそうね。だって会いたくて会いたくて仕方がないんだもの」

 金色の髪と銀色の髪を揺らしながら、二人は視線を重ね、その名を口にした。

「「道化師(ジェスター)に」」

 次には両手を重ね、顔を寄せ合った二人の表情は、近寄り難さを孕んだ恍惚とした色に染まっていた。

「数日前、いきなり思い出してから、もう居ても立っても居られないのに」

「どうして私たちに会いに来てくれないのかしら」

 唐突だった。

 数日前。変わり映えのない獄中生活に、一筋の光が差し込んだのは。

 二人の記憶の支配から逃れていた誰かの輪郭がくっきりと浮かんだ。

 その背中は、清廉な輝白を放っていた。

 目を覆いたくなる輝きの中。手が見えた。足が見えた。武器が見えた。背格好が見えた。性別が見えた顔が見えた声が聞こえた名前を思い出した。

「ねえディナお姉様。お姉様もはっきりと思い出したのでしょう?」

「もちろんよヴェナ。思い出してからずっと頭から離れないの!」

「あの耳障りな声も!」

「あの憎らしい顔も!」

 ディナとヴェナ。互いをそう呼び合った姉妹は。

「「全て思い出した……!」」

 顔を寄せ合い、歪んだ笑みを浮かべていた。

「だったら話が早いです」

「「!」」

 姉妹の耳を撫でる声はやはり、酷く耳障りだった。

「お久しぶりです」

 姉は妹から、妹は姉から目を外し、声の発信源に目を向ける。

「ああ……!」

「待っていた……待っていたわ……!」

 何とも締まらない、何とも憎たらしい顔がそこにあった。

「どうやら僕は、貴方たちを二年も待たせてしまったみたいです」

「そう! そうなのよ! 貴方は私たちの前からいなくなってしまった!」

「貴方ときたら、私たちの頭の中からも飛び出して行ってしまったキリだった!」

「ついさっきまで貴方の顔も思い出せなかった!」

「けれど許すわ! だって今、貴方がここにいるのだもの!」

「ありがとうございます……でいいのかな……いや、いいのか……えっと……色々と話さなければならないことがあるんですが……今はどうか静かに」

「無理よ! 私たちのこの昂りを鎮めろだなんて! こんなに酷い話が他にあって!?」

「私たちがこの時をどれだけ待ち侘びたと思っているのかしら!?」

「……貴方たちを、この牢屋から出します」

「「え?」」

 二人の女が表情を変えた。

 そんな二人の目を奪って離さない少年の左手の中には、魔石製の鍵らしきものが。

 二人の女が知っているこの少年は無茶苦茶をやる男ではあったけれど、道理に反する行いをする男ではなかったかと思うのだが。

「その仕込みを色々としていて時間が掛かってしまいました。本当はこんなこと絶対にいけないしやりたくないですけど……僕たちには、約束がある。多くの人に謝らなきゃいけないことばかりですけど……今の僕が何よりも優先しなくてはならないのは、この時代に残した約束を果たすことだと思うから……」

 少年は言った。まるで、誰よりも自分に言い聞かせるみたいに。

「これから騒ぎが起こります。それに便乗して、貴方たちを解放する。貴方たちがここから無事に逃げられるよう全力で支えます。その代わり条件が……お願いがあるんです」

「まどろっこしいのは止めて道化師(ジェスター)!」

「貴方との逢瀬が一秒でも短くなってしまうだなんて許せないもの!」

 魔力と超硬金属(アダマンタイト)で編まれた格子にしがみ付く姉妹は、良しの号令を待ち侘びる犬宛らであった。

「……わかりました。その代わり、僕のお願いを、全て叶えてくれる。これだけは約束してもらえますね?」

 全て。

 そんな文言をしれっと追加しながら、少年は小首を傾げてみせた。

「勿論よ! 二言はないわ!」

「私たちは誇り高い妖精だもの!」

 ディナが笑う。ヴェナも笑う。

「ありがとうございます。じゃあ」

「待って道化師(ジェスター)!」

「お誘いの言葉を頂戴!」

「え?」

「私たちをその気にさせる素敵な言葉を!」

「頂戴! 私たちに相応しい舞台に誘う、貴方だけの誘い文句を!」

「「私たちに聞かせて!」」

「……そういうことなら……」

 頬を紅潮させた妖精二人の前で暫しの逡巡。

 少年から手を伸ばされるのを待つのは誇り高き妖精二人。しかし、これから誘うのは舞踏会ではない。高潔な妖精などには決して似合わない、もっと粗野で、もっと下劣で、けれどもきっと、当事者たちには生涯忘れられないかもしれない、情熱的な一時。

 だったら、これくらいでいいか。

「ディナさん」

「ええ!」

「ヴェナさん」

「ええ!」

「ここからこっそり抜け出して……僕と、いいことしましょう」

「「喜んで!」」

 不器用な笑みを浮かべる道化が、大好物を目の前にした無垢な子供のような二つの笑みに向けて手を差し伸ばした。

 その日が、『妖魔』と呼ばれた二人の妖精と英雄の集う都市オラリオの、今生の別れの日となった。

 

* * *

 

「ふぅ……」

 青いゴミ箱の中身を廃棄場所に片付け終えたところで、シル・フローヴァは小さく息を吐いた。

 本日の豊穣の女主人も夕方の営業開始と同時に大入り。空席を見つける方が難しい繁盛それ即ち、シルら従業員たちへの負荷も最初からクライマックスなわけで。

「サボっちゃおうかなあ……」

 これから数時間休む間もない現実を目の当にしたシルの中から、悪い子なシルが顔を出す。幸い、同僚たちには見られていない。

「今ならノーダメージでいけそう、で……!」

 頻りに周囲を見渡していたシルの目が、ある一点で止まった。

 シルの目は見逃さなかった。

 次があるなら。続きがあるならば。

 もう二度と逃さないと決めていたものが、か細い路地に消えていくその瞬間を。

「っ!」

 衝動に突き動かされるまま、シルは走った。冒険者のように早く走れない細い足をがむしゃらに動かして、ひたすらに走った。

「待って!」

 そうして、わざとらしく姿を晒してみせた白い背中に追い付いた。

「はあ……はあ……はあ……!」

「そんな風に息を切らすシルさんを見るの、久し振りだなあ……」

 感慨深そうに呟く少年は、いつかのように目深にフードを被り、しかし覆面はしておらず。自分を追い掛けて来た酒場の店員を、穏やかに微笑みながら見つめていた。

「……それって……いつの話ですか……?」

「秘密です」

「秘密なんて、そんな勝手は認めません……!」

「おっ、と……!」

 今度は短い距離で良かった。

 思わせ振りなことを口にする白い少年の胸へと飛び込む為には。

「会いたかった……会いたかったです……!」

 まるで、誰かのヒロインのように振る舞うシル。

 大袈裟だなんて笑うこと勿れ。

 勝手と詰るのはまあアリだろうが。

 彼女は、いつかの一目惚れが単なる一目惚れじゃなくなる日を夢見て、ずっと大切に胸に秘めていた。

 それを笑っていい人物など、どの世界の何処にも存在しない。

「……失礼します……」

「ぁ……!」

 自分に身を寄せる身体を抱かず。腕をだらりと下げたまま、しかし身を寄せにいく少年。二人の密着が強まる。少年の吐息がシルの耳朶を撫でる。

「このまま聞いてください」

「え?」

「多分、アレンさんが警護しているはずですよね? 動かないよう伝えてもらえませんか? 絶対に貴方に危害を加えません」

「…………」

「誰にも聞かれたくないんです。どうかお願いします」

 こんな状況になったら頬を真っ赤に染めて慌て倒す。そんなありふれた狼狽をみせる様がよく似合いそうな少年を見上げると、そこに動揺の色はなかった。

 そうして視線を重ねたまま、シルは右手を上空に掲げた。待てと告げるように、五本の指をピンと伸ばして。

「…………」

 返事はない。代わりにシルの瞳が映したのは、長槍に手を掛けていた一匹の猫が渋々と言った具合に、何処かへと飛び去っていく後ろ姿だった。

「もう大丈夫ですよ」

「ありがとうございます」

「でも……どうして?」

「他の誰かが僕のことを忘れても、貴方は僕のことを忘れないって知っているから」

「……私の事情はご存知、と……」

「はい……貴方も、貴方の眷属や関係している下界の子供全員が僕を忘れているのに、貴方一人だけ忘れていない。それだけで色々と察しているんでしょう?」

「……さっきの私の質問に私が答えます。私が息を切らして走る姿を貴方が見たのは、貴方にとっては過去。私にとっては未来。もしくは、違う世界。そういう話ですよね?」

「はい。流石です」

「じゃあ……本当に……」

「ええ」

 シルを受け止めたままの姿勢で少年が頷く。

 言葉足らずを許容し、それでもすれ違いの起こらない問答を交わす二人のキャッチボールは止まらない。

「どうしてこの話を私に?」

「必要なことだから」

「それは誰に?」

「この世界の僕に」

「…………もしかしてですけど……貴方の前に現れた私は……貴方にとんでもないご迷惑を?」

「……僕と貴方を真ん中にした戦争遊戯(ウォーゲーム)にまで発展して……僕は……貴方に刃を向けました」

「……そうですか……」

「それで…………貴方は……辛そうだった」

 その様子でも思い出したのか、少年の笑みがぐにゃりと歪む。

「それまでのように、なんてことない言葉を交わし合って、笑い合える日なんて戻って来ないんじゃないかって思いながら、それでも戦いました。本当にたくさんの人を巻き込んで、傷付けてしまいました。その真ん中で、貴方はずっと辛そうで……気が付けば僕も、家族や仲間たちから忘れられていて……世界に一人ぼっちみたいになっていて……」

「ああ……」

 幾つかのキーワードから、シルはこの少年に自分がやらかしたこと、その大枠へと思考が行き着いた。

「それも全て貴方一人の為に……ってことなんですよね?」

「はい……」

「……今の私には正直想像は出来ませんけど、そういうものなんでしょうねって、納得出来る部分だらけです……」

 この少年の魂の色が。この少年の存在全てが伝えてくれる。

 私はこの少年に、何処までもご執心になれてしまうんだろうな、と。

「そうなるのが怖いから、この世界の僕に会わないでくださいとかそういう話ではないんです」

「いいんですか? 会うなって言っておいた方が為になると思いますよ?」

「それを今飲み込んでくれたとしても、いざとなったら貴方は躊躇わず、本腰入れて欲しいものを奪いに行く。そうですよね?」

「……ええ。その気になったら躊躇いません。私は、そういう存在なので」

「よく知っているつもりです。それでも……うん。会わないで欲しいだなんて、やっぱり僕には言えません」

「どうして?」

「貴方と出会ったことが間違っていただなんて思ったこと、一度もないですから」

 彷徨いがちだった紅い瞳はふらふら揺れるのをやめて、真っ直ぐにシルだけを映した。

「初めてその姿の貴方と出会ってから、何度となく元気を分けてもらって……救われ……試練を与えられ……ここまで導いてもらいました。貴方がいなければ今ここに僕はいません。綺麗事でもおべんちゃらでもなくてこれは絶対です」

「…………聞かせてください」

「なんなりと」

「貴方にとって、貴方の日々に存在している私はどんな存在ですか?」

「大切な人」

「…………」

「どんな言葉を選んでも、結局ここに落ち着くんです。だから……って言うのもおかしいですけど……貴方と彼が出会わないなんて勿体無いなって思ってしまうんです……」

 自分ではなく、自分ではない自分と、シルが出会う瞬間でも夢想しているのか。

 フードの下の目は細く、口の端は確かに高くなっていた。

「……そっかあ……」

「この世界の僕はいつか、僕の所為で多くの苦難が待ち受けていることが確約されているこの都市へやって来るでしょう。英雄になることを夢見て」

「それはいつ?」

「僕と同じ道を辿るなら十四歳の頃には。今の彼は九歳だと思われますので、五年後の話になるかと。もちろん、僕の世界とは前提が何もかも違うので、絶対にそうだと確約することは出来ないのですが……」

「……私に望むことは?」

「彼がこの都市に現れた時は……彼を見守ってあげてもらえませんか? 貴方が僕にしていてくれたみたいに」

「未来だか他の世界だかの私が貴方にしたような横暴を、この世界の貴方にしないであげて欲しい。そういう話ですね?」

「端的に言ってしまえばそうです……」

「……約束は出来ません」

「それでいいです。その方が貴方らしい。それに、下向きなことばかりじゃないですし」

「と言いますと?」

「この都市に来れば貴方や、たくさんの人たちとの素敵な出会いが約束されているようなものですから」

 少年の脳裏に浮かぶのは、少年が出会うことが出来なかった少女たち。

 可憐で、誠実で、正義を愛する彼女たちと。

 同好の士である、喜劇が大好きな彼女と。

 彼が出会えたとしたら。

 きっと素敵な物語が。

 愉快な喜劇が始まることだろう。

 その輪の中に、この人もいてくれたら嬉しい。

「僕にはこれ以上彼の人生に介入する資格も時間もありませんし、この世界にまた来られるのかもわかりません。だから、シルさんともここでお別れです」

「一方的に言いたいことだけ言って、私の前から消えるつもりですか?」

「僕に許された時間があとどれくらい残っているかわからない。その間に、どうしても成し遂げなければならないことがあるんです」

「……また、いなくなっちゃうんですか?」

「遅かれ早かれ。絶対に」

「私、前に言いました。貴方に一目惚れをしたって」

「はい……言われました」

「叶えてもらえないんですか? 私の……初めての……」

 シルは、言葉に詰まった。

 そのか細い己の呟きから先を、シル・フローヴァはまだ知らないから。

「…………ごめんなさい……」

「……参りました……ちゃんと告白もしていないのにフラれちゃうなんて……しかも、私はこんなに辛そうにしていると言うのに、貴方は抱き締め返してもくれませんし」

「あぅ……」

「しかもしかも、私が胸に縋り付いている今も、貴方は他の女性(だれか)に心を割いている。貴方は本当に勝手な人ですね。酷い女たらしです。女の敵です」

「い、今ばかりは否定出来ない……」

 またヘルンさんに怒られちゃう。

 そんな呟きが聞こえた。

 そうか。そんなにも、近くなれたのか。私じゃない私も。あの子も。

「……でも……そんな貴方を好きになってしまったんですね。私は」

 きっと、本気になれたんだ。

 この男の子に。

 それは、苦しかったろうな。

 それでも楽しかっただろうな。

 私の知らない幸せを知ったのだろうな。

 私の知らない私は。

 嗚呼……羨ましいな。

 嘘偽りなく、そう思った。

「……安心してください。貴方みたいに自分勝手で女心もわかってあげられないお子様に、今以上私の心が揺れることなんてないですから」

 どんな反応で返すべきなのか悩んでいるのか、言葉も表情も迷子な少年の情けない姿を見ていると、こちらの頬が緩んでしまう。

「ふふ……」

 楽しいな。

 ずっとこうしていたい。

 ずっとここにいて欲しい。

 お別れしたくないな。

「……だから……素敵なお友達になれますよ。私と、この世界の貴方は。きっと」

 その感情にこれ以上支配される前に、少しでも彼を安心させてあげられる言葉を用意して、シルは笑った。

「……そう……ですか……うん…………そうなってくれると……嬉しいです……」

「……ねえ」

「はい」

「貴方の本当のお名前、教えてくれませんか?」

「勿論です」

 やおらに頷いた少年は、世界に聞かれないような何処までも静かな耳打ちを一つ、シルの耳元に落とした。

「これが僕と、この世界の僕の名前です」

「……素敵なお名前ですね」

「いつか、この世界の僕にそう伝えてあげてくれませんか? 大喜びしますから」

「それは、貴方の経験談?」

「半分は。もう半分は、貴方に褒められたら嬉しいっていう当たり前の話です」

「女たらし」

「ナンデェ!?」

「わからない所が余計にタチが悪いです。貴方はもう少し悪い子になった方がいいです。今の貴方はタチが悪い子ですからっ」

「え、えぇ……?」

「……それで? 貴方のこの中には、私に話したい何かがまだあるみたいですけど?」

 シルの人差し指の爪先が、少年の胸元をぐりぐりとなぞった。

「貴方に隠し事は出来ないなあ」

「隠すつもりもなかったくせによく言います」

「……お願いがあります」

「聞かせてください」

 胸元で頷くシルを見て、少年はお願いを語った。

 この世界にいる今の自分のこれからの為に必要な、身勝手で危険な綱渡りとなるお願いを。

「どうでしょうか?」

「やりましょう」

「いいんですか? そんなあっさりと……」

「面白そうなので!」

「あ、ああ……なるほど……」

「決行は今夜?」

「はい。それでお願いします」

「合図は?」

「不要です。始まったら直ぐにわかりますから。あ、それと……頼んだ僕が言うのもおかしい話ですけど……やり過ぎないようにだけお願いしますね? いや本当に」

「さあ、お約束は出来ませんっ」

「あ、あはは……」

「…………もう行くんですか?」

「……はい。行きます」

「だったらその前に……」

 少年の胸を押して距離を開けて、シルは両腕を広げた。

「一方的なお願いの全部を聞いてあげるかもしれない私へのご褒美に、ハグの一つくらいあってもいいと思いませんか?」

「そ、れ……は……」

「……貴方の目の前にいる私は、貴方を苦しめ、貴方に傷付けられた私ではありませんよ?」

 なるだけ優しく。それでも揶揄うような響きを忘れずに。シルは微笑み掛けた。

「夢から覚めても忘れられない思い出。ご一緒してくれませんか?」

 少年の逡巡は、存外に長いものではなかった。

「ぁ……!」

 想像よりずっと逞しい二本の腕が、シルの身体を包んで引き寄せた。

「シルさん」

「はい」

「フレイヤ様」

「………何かしら」

「ありがとう」

「…………」

「貴方がいたから……僕の知らなかった貴方との出会いに恵まれた。とても驚きましたけど……嬉しかった。本当に嬉しかったです……」

「……私もよ」

「ここが僕の夢だとしても……この一時を、絶対に忘れません」

「私も。絶対に忘れないわ」

「……お元気で」

「貴方もね」

「さようなら」

「ええ。さようなら」

 最後にぎゅっと抱き締め、静かに女の身体を解放した少年は、今の顔を見られることを嫌がるみたいに、慌ただしく一人の女の前を離れ、人気のない路地へと消えていった。

「はあ……」

 やたらと大きく動いて大きな音を立てている自らの胸に左手を当てながら大きく息を吐くシル・フローヴァ。

「……えいっ」

 彼女の右手の指先がぱちんと、よく通る音を立てた。

「お呼びでしょうか」

 途端にシルの目の前に、猫人(キャットピープル)の青年が現れた。

「アレンさんにお願いが……いえ。命令をします」

「……なんなりと」

「茶番に付き合ってください」

「茶番……ですか?」

「さっきの彼からのお願いを叶えてあげる為に必要なことなんです。派閥総動員でいきます」

「……あの男、以前都市に現れた道化で間違いないと見えましたが……何者なのですか?」

「幻です」

「幻?」

「そう。彼は……幻なんです」

 まるで、一日花だ。

 儚く、それでも懸命に咲き誇り、あっという間に盛りを終え、時が来たら静かに散って行く。果ては、この世界全ての人の記憶からも勝手にいなくなってしまう。

 彼は幻で、幻よりも酷い何かでもある。

 彼のことを忘れることのないこの身にとっては、尚更だ。

「幻でもなんでも、彼は都市の英雄。大恩人です。だから、私に出来る花向けで、彼の花道を飾ってあげます」

「……俺たちは、具体的に何を?」

「戦争!」

「は?」

 何を言っているのかこの人は。と言わんばかりの表情を自分が作っていることにも気が付いていなさそうなアレンに背を向けたシルは、茜に染まる夕空を仰いだ。

「さようなら」

 私の伴侶(オーズ)を選んでくれなかった、酷い人。

 そこに涙はなく。

 代わりに、まだ恋を知らない少女が落としたのは。

「ふふふっ……!」

 花のような笑顔、ただ一つ。

 

* * *

 

「はあ……」

 吐き出された溜息は重く、春の夜風と共に、白く染まったカーテンを揺らした。

「今日も見つからなかった……」

 部屋の主、アーディ・ヴァルマは、着替えるのも後回しで自室のベッドに倒れ込んだ。

「君は……何処にいるの……?」

 数日前。

 唐突に彼女は、喜劇を愛する一人の冒険者の存在に、脳を刺された。

 白い髪。紅い瞳。喜劇が好きで、道化の物語も大好き。

 趣味の合う冒険者。

 私の英雄。

 引き留める姉の声も聞かない彼女は派閥の活動から離れ、ようやく思い出せた遠い影を独断で追い掛け始めた。

「そう! そうよ! あの子! あの子がまた帰って来たのよ! この感じ絶対にそう!」

「アーディの暴走はつまり……つくづく罪作りな男だな、あの青二歳は……」

「アタシらでとっ捕まえて説教でもしてやるか? どうする、末っ子ちゃん?」

「無論です。言いたいことがたくさんある。アーディのことも心配です。今もアーディは街中を駆け回ってる。私たちも行きましょう……!」

 アーディに同調した派閥があった。その派閥の団員一人一人が、派閥の垣根など軽々越えた、アーディの友であった。

 その派閥の団長、アリーゼ・ローヴェルを先頭に、一人で先走り続けるアーディとまずは合流し足並みを揃え、大きな迷子の行く末を徹底的に追い掛けた。

 しかし見つからない。

 彼と縁のある場所全てを探した。オラリオの隅から隅まで徹底的に調べ尽くしたつもりだ。

 それでもあの白い少年は、誰にも己の影を踏ませることはなかった。

「オラリオにはいないのかな……」

 うつ伏せのまま零れ落ちた声もベッドに溶けて消える。

 アーディと彼の間には、約束がある。

 誰にも言いたくない、二人だけの約束が。

 アーディは知っている。あの少年は、女の子との約束を反故にするような男の子ではない。

 だから再び彼がこの都市に現れる日が来たならば、彼の方から私に会いに来てくれると、そう思っていた。

 彼ならそうすると絶対的に思える。根拠など列挙出来たものではないが、しかし自惚れなどでもない。盲目的になっているのは否定しないが、それでもとアーディは思い続けるし言い続ける。

 それは信頼か。将又、もっと違う何かに根差しているものなのか。そのどちらでもあるかもしれない。

 けれど、事実として彼は現れない。

 どうして? 何で?

 アーディは焦った。慌てた。彼の存在を感じられるのに、彼の影すら見えないことに。

 彼ならいつか来てくれると胸を張って言えるのに、どうして私は彼を待ってあげられないのか。

 誰にも答えを出せない問いばかりが積み重なり、アーディの困惑が深く重く酷くなる。

「私に……会いたくないのかな……」

 考えたくないことばかり考えてしまい、心が弱くなる。

「お腹空いたかも……」

 こうしてベッドに身体を預けてようやく、今日は何も口にしていないことに気が付いた。

「何やってんだ私は……」

 あれから二年経って、更に可愛くなった私をばばーんとお披露目しなきゃなのに。

「リオンにも怒られちゃったし……」

 鏡を見ろ。ちゃんと寝ろ。ちゃんと食え。私たちを頼れ。

 簡潔に纏めるとこういった言葉群を、親友である妖精から頂戴した。

 そっか。今の私、そんなに酷い有様なのか。

「……寝なきゃ……」

 目を瞑る。

 着替えるの面倒。お風呂も今日はいいや。お腹空いてるけど今はやめやめ。明日の朝多めに食べればへーき。

「その前に少しだけお話、いいですか?」

 閉じたばかりの瞼が、ばちっと音を立てる勢いで持ち上がった。

「っ……!」

 慌ててベッドから起き上がって全方位に目を向ける。薄暗い部屋の中には誰もいない。

「遅くにすいません」

 その声は、窓の外。夜風に踊る白いカーテンの向こうから聞こえた。

「……覗き魔」

「覗いてません。空を眺めてますので」

 アーディを誘うように波立つカーテンの間隙に、アーディが探していた背中が見えた。どうやら窓の前に座り込んでいるらしい。

「……こっち、向いてくれないの?」

「覗き魔になりたくありませんから」

 緩慢にしか動いてくれない身体を引き摺って窓の前に立つ。

 手を伸ばせば触れられる背中は、やっぱり振り向いてくれない。

「お久し振りです。アーディさん」

「…………うん。久し振り。アル」

 春の夜。空には冬の名残りの星の海。

 白く輝く月星に見守られながら。

 アルとアーディは、再会を果たした。

「どうですか? 元気にしていますか?」

「うん。アルは?」

 癒えない緊張に全身を躍らせながら、アーディは窓台に腰掛けて、アルに背中を向けた。

 レースのカーテン一枚と、窓一枚分に加え、拳二つ分。

 このなんてことのない距離が、どうしようもないくらいにもどかしい。

「変わりないです。本当、びっくりするくらい何も」

「そっか。でもなんか、今日のアルは雰囲気が落ち着いてるね」

「そうですか?」

「そうだよ。前に会った時のアルは酒場の店員さんや『剣姫』に振り回されてずーっとバタバタしてたもん」

「あ、あはは……そんなこともありましたね……そういうアーディさんは、大好きびーむなる技、恥ずかしがらずに撃てるようになりましたか?」

「なってないよっ! 何で一番忘れて欲しいヤツ忘れてないのかなぁ君は!?」

「思い出だから」

「…………」

「忘れたら、ダメじゃないですか」

「…………そだね……うん。ごめん」

「謝らないでください」

「でもっ、恥ずかしいからそれは禁止! いい!?」

「墓場まで持って行きます」

「絶対ね! 約束だよ!?」

「はい。約束します」

 約束します。

 そう言ってくれた。

 アルはまだ、約束を口にしてくれる。

 守るつもりがあるから。

 だったら。

 今度会った時に聞かせる。

 今度会った時に聞く。

 それを約束だと口にしたのは、自分じゃなくてアルだった。

 それでもそれは、アルだけの約束じゃない。

 互いが抱えている約束のはずなんだ。

「本当はもっと話したいことがあります。けど、その時間があるかどうかもわかりません」

「……どうして?」

「何せ今回は、今まで以上に先のことが読めませんので」

「どういうこと?」

「今夜、ディナさんとヴェナさんを、ギルド地下から脱獄させます」

「はぁっ!?」

 大声を出して振り返ってしまった。白い背中は変わらずに、アーディのいない方向に目を向けたままだった。

「な、なんでそんなことを……!?」

「果たさなければならないことがあります」

「…………まさか……あの時の約束を……!?」

「こんなやり方しか思い付きませんでした」

「……死ぬつもりなの?」

「まさか」

「だったらどうするの?」

「あの人たちと、正面からぶつかり合いながら考えます」

「…………やめて欲しいな……そんなの……やめて欲しい」

「アーディさんのお願いでも、それは聞けません」

「……だったら……」

「僕を捕まえますか?」

「私に出来るわけないってわかってて言ってるよね?」

「…………」

「……助けるつもりなんだね。アルのやり方で、あの姉妹を」

「出来る限りのことをしたいと思っています」

「……なら……アルがまた私たちの前に現れたのは……その為なんだね……」

「そう……なるんですかね……ここに僕が存在しているのは自分の意思とは少し違うような気もしているので、何とも……」

「それなら……アルは誰かに……何かに振り回されて辿り着いた先で、誰かを助けたくて走り回ってるってこと?」

「……そうかもです」

 奥歯に何かが詰まったような言葉選び。

「変な話だね」

 それに歯痒さを覚えるのはアルではなく、アーディ。

「そうかもしれません」

「…………じゃあ、またなんだね。またアルは、ボロボロになるんだ」

「無傷ってわけにはいかないでしょうね」

「私、前に言った。絶対言った」

「何をです?」

「ちっとも休まないでボロボロになって、それでも独りで戦うアルを見るのが嫌だって」

「……言われましたね」

「また繰り返すの?」

「ごめんなさい」

「そんなのやだ。違う。おかしい。そう思ったらダメ? これ、私がおかしい?」

「…………」

「嫌な言い方しちゃったね。ごめん」

「いえ……」

「……またアルが傷付く。アルだけがたくさん傷付く。それを見逃せって……黙って見ていろって、私にそう言うのかな、アルは」

 アルは何も答えない。

「それを言う為に私の前に現れたの?」

 歯軋りの音が何処かから聞こえた。

「誰かを守る。約束を果たす。素敵なことだと思う。カッコいいことだと思う。でもさ……でもさあ……!」

 自分の口の中からだった。

「なんでいつもアルなの!?」

「アーディさん……」

「確かにアルは強いよ!? アルだから守れる人がたくさんいるのもわかる! でも、いっつもアルに全てが降り掛かってる! いつだってアルが誰よりもボロボロになってる! しかも全部終わったと思ったらアルはいなくなっちゃうし! アルがいなくなったら私たちみんなアルを忘れて! アルが現れた時だけ思い出して! 本当ならアルはたくさんの人に感謝されなきゃおかしいのに! いっつもアルは何処かに消えちゃう! そんなの、世界にとってだけ都合が良い便利屋じゃん! 道化でもなんでもないよ!」

「……怒ってますね」

「怒ってるよ! 当たり前でしょ!」

「どうして?」

「アルが自分のことを大切にしてあげてないからだよっ!」

「そんなこと」

「あるよ! だって、アルは誰からも忘れられちゃうんだよ!? 忘れられることは悲しいことなの! 辛いことなの! 忘れられるアルにとっても! 忘れちゃう私たちにとっても!」

「っ、ぅ……」

 腕を伸ばせば掴める背中に吠えるアーディの声の隙間に、アルの呻く声が転がり落ちた。何か思い当たる節でもあるのだろうか。

「こんなこと続けてたら……アルが壊れちゃうよ……!」

「……大丈夫ですよ、僕なら。僕は……その……幸運なので」

「こうしていきなり誰かの前に現れたり出来ること!? 誰かの記憶からいなくなること!? それの何処が幸運なの!?」

 弱々しい語気しか吐けないアルの言葉が悉く塗り潰される。

「こんなの、呪いだよ!」

 そう断言したアーディの言葉が、アルの心に重く深く突き刺さる。

「アルが擦り減って! 私たちも擦り減って! 会えて嬉しいと思い出せて嬉しいと同時に、会えなくなって寂しいと思い出せなくなって悲しいを繰り返し続ける! こんなのおかしい! こんなこと繰り返すなんて呪いでしかない! だから! アルのやり方じゃ、誰もが幸せになんてなれないよ! アルに助けてもらった誰かが幸せになれたって! アルが幸せになれないもん!」

 アーディの瞳は濡れていた。

「こんな物語! アルの大好きな喜劇には描かれてないよっ!」

 まつ毛を伝う雫が二人の間に落ち、微かな水音を立てた。

「…………聞いてもらえますか?」

「……うん…………聞く……」

「僕は、ですね……僕以外を良くしたいんです。特に、アーディさんのいるこの世界は、尚更に」

「どうして?」

「この世界は……僕の夢だから」

「夢?」

「僕が見たかった夢を叶える為に、僕が僕自身に見せている夢なんです。きっと」

「……だったら……私は幻? 私の目の前にいるアルは、私が見ている幻?」

「違います。幻を……夢を見ているのは、僕の方です。僕だけが幻なんです」

 意味がわからない。

 その言葉を飲み込みながら、目元を濡らす何かをアーディは拭った。

「それでも……今ここにいる僕には過去も未来も夢も幻も何も関係ない。ここが今の僕の現実なんです。だからこそ僕は、僕に出せる全力を出し尽くして、限られた時間の中を精一杯生きなきゃならない。だから」

「出来ることを全力でやりたい?」

「はい」

「それで、傷付くことになっても?」

「出来ることをやらずに甘く腐っていくだなんて真っ平御免です」

「……なら……私が止めても、アルは聞いてくれないんだね」

「はい」

「…………ねえ。どうして今。私の前に君はいるの?」

「アーディさんの無事を、この目で確かめたかった」

「それだけ?」

「アーディさんに会いたかった」

「それで?」

「アーディさんと話したかった」

「他には?」

「…………約束を」

「おいあれ!」

「侵入者だ! あそこはアーディの部屋か!?」

「アーディ! 無事か! アーディっ!」

「行きます」

「やだ。行かないで」

「ごめんなさい」

 さっと微かな音を立てて、部屋の窓を占拠していた背中が見えなくなった。

「何処にいる!?」

「姿が見えない!」

「いやいたんだ! けれど消えた!」

魔道具(マジックアイテム)か!?」

 騒ぎが広がっていく。彼の気配が遠退いていく。

「……アルのバカ……」

 散々言ったし言われたけれど。

「喜劇の別れの言葉がごめんなさいは御法度だよ……!」

 ごめんなさいじゃないんだ。喜劇に必要なのは。喜劇じゃなくたって。素敵な結末だろうと後味の悪い結末だろうとも。

 ごめんなさいで終わっていい物語なんてないはずなんだ。

 だから。

「直ぐに追い付いちゃうんだから……!」

 このまま自分の前からいなくなるだなんて。

 ここが物語の結末だなんて。

 アーディ・ヴァルマは絶対に認めない。

「アーディ! 無事か!?」

 錠を破壊する音と共に、アーディの私室の扉が開かれた。そこから飛び込んできたのは、アーディの姉。シャクティ・ヴァルマ。

「不審者がいたと聞いた! 本当か!?」

「……お姉ちゃん……」

「どうした!?」

「…………お風呂入ってくる!」

「……はあ?」

「しっかりお風呂入っていっぱい食べてお肌こんでぃしょん整えてくるね!」

「お前は何を」

「団長! 急ぎ報告したいことが!」

「今忙しい! 後にしろ!」

「フレイヤ・ファミリアの面々が、ロキ・ファミリアと抗争を始めました!」

「何だそれは!?」

「やっぱお風呂は後かなぁ!?」

 慌て倒しながら、アーディは確信していた。

 君の仕業だね?

 意外と荒っぽい所のある君らしいね。

「アーディ! 何を笑っている!? 行くぞ!」

「……うんっ!」

 今は行かなきゃ。そうして部屋に戻ったら身体の状態を少しでも整えて、直ぐに彼を追い掛けるんだ。

 彼が眠ろうとしていないのに、私が眠っている場合じゃない。

 伝えたいことが、たくさんあるんだ。

 

* * *

 

 茶番だ。

 これは、不細工な茶番だ。

 まず、シナリオライターがシナリオを描き慣れていないことが大問題だ。

 抗争を起こす。

 その機に乗じて目的を遂げる。

 それ以上の奥行きを用意出来ていない、なんと稚拙で退屈なシナリオだろうか。

 ではそのライターとは誰か。

 監督は誰か。

 主役は誰か。

 全て、同一人物。

 ここ数日の間に記憶のエラーコードの海原から引き揚げられた、都市最大の異常事態(イレギュラー)にして、都市の大恩人。

 誰に何を言われるでもなく、一部の者たちは確信を胸に秘めていた。

 美神の子供たちが、ギルド本部の直ぐ側で道化の子供たちと刃を交えたのが合図。

 大混乱に陥ったギルド本部内から三つの影が飛び出して、騒ぎから逃れるように人も物音も少ない暗がりへと飛び込んで行った。

「くだらん」

 美神の子供の誰かが、ズレた眼鏡の位置を直しながら悪態を吐く。

「参るね。けれどまあ、これくらいは」

 道化の子供の誰かが困ったように笑いながら、存外に乗り気な様子で槍を振り回す。

 相手に合わせて踊れる花形たちが、拙い脚本に梃入れを加え一本の花道を用意し、音にならない言葉で舗装を施した。

 感謝している。

 さようなら。

 格好良かったよ。

 くだらねえ。

 一杯くらい酌み交わしたかったのう。

 感謝くらい直接伝えさせろ。

 馬鹿野郎。

 二度とツラ見せんな。

 ありがとう。

「ありがとう……ございました……!」

 音にならない言葉と形になった思いに背中を押された道化師は、あちこちで爆音轟く英雄の都から、二人の妖精と共に姿を消した。

 

* * *

 

「どうやったかわからないけど、この騒ぎはアルが引き起こした。ディース姉妹と一緒にオラリオから脱出する為に。私はアルを追う。アリーゼたちはどうする?」

 オラリオの夜が燃える大騒動の中。

 アーディは、アストレア・ファミリアの面々にそう言った。

 事実、ディース姉妹が幽閉されていたギルドの地下から姿を消していることを確かめたアリーゼ・ローヴェルは、騒ぎの沈静化にファミリアの団員約半数を投入し、自分は幾人かを引き連れて、アーディと行動を共にすることを決意した。

 先ずアーディたちは、とある男神に会いに行った。

 その男神は、アリーゼたちの主神と並んで、彼との繋がりが深い男神だった。

「恐らく、北」

 その男神は、さらりと言った。

「オレの知っている彼の来歴からの推察だ。彼の世界は意外と狭そうだからね。身体に馴染みのある方角へ向かうんじゃないかな。習慣ならぬ習性とは侮れたものじゃないんだぜ? もちろん正確な場所はわからないけどね。それと、オラリオからは意外と離れていないと思うよ? 何せ彼は、いつだって時間に追われているからね」

 状況証拠無し。

 全て直感のみで男神は、可能性を語った。

「夢の中でも時計を気にし続けているなんて真面目な彼らしいけれど……おかしな話ですね」

 その言葉を受けて目を丸くした男神に頭を下げて、アーディはオラリオから飛び出した。

「君は本当に罪な男だな……道化師(ジェスター)……」

 男神の言葉は誰にも届くことなく、夜の闇に消えていった。

 日が登った。

 きちんと自らの主神に状況を説明して許可を得たアリーゼ、輝夜、ライラ、リューの四人は、アーディと共にオラリオを飛び出して逃亡犯たちの足取りを追っていた。

「聞き込みよ聞き込みっ! あの三人の見た目なら目立ちまくるでしょうから!」

 アリーゼに促されたアーディたちが、オラリオから少し離れた集落にて聞き込みをしている中。

「白い髪の男となんか危ない感じの二人のエルフが買い物をして行ったよ。数日分の食料やらランタンやらを売ってくれと言っていたなあ。全員顔を隠していたっけか」

 男神の言葉通りに北に足を向けたアーディたちは、拍子抜けしてしまうくらいあっさりと情報の一端に辿り着いた。

 しかしそこからの進展はほとんどなく、無為に時だけを浪費した。

 次の展開に巡り会えたのは、更に北へと進んだ同日の夜。

「半日前くらいかな。あんたの言うようなヤツらが回復薬(ポーション)やらナイフやらをたーっくさん買い込んでいったよ。オラリオにでも行くのかいって聞いたらよ、北の山奥で修行をするんだとか慌てながら言っとったわ。変なヤツもいたもんだと笑っちまったよ」

 アーディたちの足が早まった。

「見つけた。人間が木々を蹴って進んだ痕跡だ」

 それを見つけたのは、ライラだった。

 獣道から外れた薄暗い森の奥深くへと、三人の冒険者が踏み込んで行った痕跡が、確かに残されていた。

 その痕跡を追っていると。

「今のは……剣戟の音か……!?」

 輝夜が、その音に気付いた。

「っ……!」

「アーディ!? 先走らないでください! アーディ!」

 アーディが駆け出した。その後をリューたちが追う。

 月明かりも弱々しく思える暗闇の中を駆けて駆けて駆け抜いて。

「アル……!」

 火の付いたランタン。焚き火。そして月明かり。

 とても明るいとは言えない、山間にあって比較的開けた空間の中で、一人の男と二人の女が、刃を向けあっていた。

「ボロボロじゃねーか……」

「既に何時間戦っていると言うのだ……」

 ライラと輝夜の呟きの向こう。

「あれから二年も経ったのに強さは据え置きなのね道化師(ジェスター)!」

「貴方たちにとっては二年後でも、僕にとっては昨夜の続きとほとんど変わらないので……!」

「何を言っているのかわからないわ!」

 二人の女も一人の男も、酷く消耗していた。

 薄暗い世界の中でも、足元はもちろん草木にまで三人の血が飛び散っているのがわかる。回復薬(ポーション)が入っていたのだろう試験管の残骸もあちこちに転がっている様は、数時間以上は戦い続けていることを示唆していた。

「優勢なのはディース姉妹のようですね……」

 リューの見立ては正しい。

 この二年もの間、まともに身体を動かすことさえ儘ならなかった二人の妖精ではあるが、鈍った勘を取り戻すまでに大した時間も必要なかった。

 そもそもの地力の高さと戦闘経験値。何よりも抜群の連携を見せる姉妹が、終始アルを圧倒していた。

「ねえディナお姉様。いつの間にか観客が集まっているわ。招待状を出した覚えはないのに」

「本当ねヴェナ。あの憎たらしい顔の全てを覚えているわ。今もほら、私たちの邪魔をしようとしているもの」

「だったら、お姉様?」

「そうね、ヴェナ」

「ダメですよ」

 隠しきれない殺意を向けられたアリーゼたちが身構える前を、アルの穏やかな声が走り抜けた。

「ディナさんとヴェナさんは、僕と(あい)し合っている最中じゃないですか」

「アル……!」

「余所見は無しですよ」

「……ふふ……ふふふ……!」

「ええそうね! その通り! 私たちは逢瀬の真っ最中だった!」

「そうですよ……みなさん。手出し無用でお願いします。僕が死にそうになっても、絶対に」

「何を言っているのですか貴方は!?」

 リューが叫ぶ。彼女の手は既に、得物を握っている。

「わかったわ!」

「アリーゼ!?」

「貴方たちの逢瀬の邪魔はしない! その代わりに、ここで貴方たちの行く末を見届けることを許して欲しい! いいかしら!?」

「はい。お二人も、いいですね?」

「「好きになさい」」

「だそうです」

「ありがと!」

 三人に笑い掛けたアリーゼは、手持ち式の魔石灯やら何やらを点灯し、そこらにばら撒いた。薄暗かった世界が微かに明るくなり、薄闇の中を揺れていた三つの輪郭が太く濃くなった。

「じゃあ……続きを……」

「「ええ踊りましょう! 愛しの道化師(ジェスター)!」」

「ぐっ……!」

 三人の舞踊の再演。あっという間に押し込まれたアルから苦悶の声が上がった。

「いいのですかアリーゼ!? これではアルが……!」

「これでいいのよ。そうでしょ、アーディ」

「…………」

 アリーゼに促されてもアーディは黙ったまま、三人の逢瀬から視線を外さない。

「アーディ……」

 その後ろ姿に胸中を騒がせながらリューは、アーディの隣に並び、刃を収めた。

「見ている他ないか」

「ここまで来て帰るってのもなー」

「見届けましょう。私たち全員で」

 輝夜、ライラ、アリーゼも並ぶ。

 五人の少女に見守られる戦闘は、熾烈を極めた。

 一人一人の実力は拮抗している。ならば二人で組んでいる姉妹の方が優位に立つのは必定。耐え凌ぎ続けているアルこそ褒められるべき状況なのだろう。

 しかし決着が付かない。

 愛してあげる。愛してあげるわ。

 愛を謳い、何度も何度もアルに飛び掛かる姉妹。

 まだまだ……!

 その愛から逃げず、決して臆さず。アルは前へ前へと挑んだ。

 ひたすらに挑んだ。

 何度跳ね返されても挑み続けた。

 血を流しても。身体に穴が開いても。

 アルは、愚直に挑み続けた。

 気が付けば、下界の天井の支配権は月ではなく、太陽に移りつつあった。

「アル……!」

 掠れ、震えるリューの呟きが地に落ちる。

「はあ……はぁ……ぐっ、あ……!」

 死ぬ。

 その寸前にまで、アルは追い詰められていた。

 ディナに顔を殴打された際に左目は塞がり見えなくなった。

 ヴェナの魔法を間一髪で躱した際に焼けた右の耳は音を拾う役割を放棄している。

 指は折れ、鼻は曲がり、肩には穴が開き、両腕を上げることさえ満足に叶わない。

 膝はガクガク震え、立っていること以上のことは何も出来ないと訴えているかのよう。

 血を流し過ぎた。意識を手放さないギリギリの所まで魔法を使った今、精神疲弊(マインドダウン)の兆候も見えている。回復薬(ポーション)の在庫など、数時間前には失せている。

「邪魔をしないでください!」

 見ていられないと回復魔法を放とうとしたリューに吠えたりもした。

 アルは、三人の時間にとことん拘り、とことんまでその身を壊していた。

「ま、だっ……まだぁ……!」

 壊れていないのは、彼の冒険全てに寄り添ったナイフと心だけ。

「…………」

「…………」

 アルに負けじと全身傷だらけになっているディナもヴェナも、笑っていなかった。

 それでも、二人の刃の先端は、彼の心臓を睨み続けたまま。

「な……んて顔……してるんですか……」

 鳥の囀りにさえ届かないようなか細い声が、二人の妖精の頬を揺らす。

「そん、なっ……辛気臭い顔してないで……綺麗な笑顔……見せて……じゃ、なきゃ……勿体無い……です……よ……」

 笑った。

 姉妹も。観客たちの誰もが笑えずにいる前で唯一人だけ、アルは笑った。

「わらっ、て……ください……」

 姉妹は何も言わない。笑いもしない。

「……こ、ない……なら……こっちから……!」

 アルが、姉妹目掛けて突っ込んだ。

 その足取りは重く、遅い。

 とても第一級冒険者のそれには見えやしない愚かな突撃は、病魔に犯された老人の歩みにも劣るようなものだった。

「…………」

「…………」

 姉妹が武器を高く掲げ、既に見えている勝敗を白日の下に晒すべく迎撃の構えを取る。

「これ以上はっ……アーディ……!?」

 いけないと叫ぼうとするリューの腕を掴み、アーディが待ったを掛けた。

「もうよせ……!」

「おいいいのかよアリーゼ……!?」

「っ……!」

 輝夜が呻く。

 ライラが団長の横顔を見る。

 アリーゼが歯を食い縛る。

 誰もが最後の攻防と認めたアルの突撃は。

「ぁ……!」

 糸の切れた操り人形のようにすとんと、アルの両膝が地面に落ちたことで、あっさりと決してしまった。

「アルっ!」

 アーディに掴まれ動けずにいるリューの叫びが木々を揺らした。

「…………え……?」

 彼女の空色の瞳は映した。

 殺し合いをしている最中の三人の周りに、誰にも刺さらなかった三本の刃物が転がり落ちる様子を。

「んっ……!」

「こ、のっ……!」

 今にも前のめりに倒れ伏しそうなアルの身体を挟むようにして、ディース姉妹が支えている姿を。

「……あ、れ……?」

 自分に何が起きているのかわかっていないのか、妖精に挟まれ俯く少年は、みっともない声を溢した。

「私たちの勝ち」

「貴方の負け」

「で、もっ、まだ……」

「「それでいいわね?」」

「…………はぃ……けほっ、けほ……!」

 弱々しい咳に混じって飛び出した血が、二人の妖精の召物を汚した。二人の妖精は顔色一つ変えることなく、不快を示すこともしない。

「そっか……勝てなかったかぁ…………あぁ……悔しいなあ……」

 二人の妖精の間に、拭われることなく赤く染まっている口元を引き攣らせ無理矢理に笑う不恰好な笑顔が生まれた。

「で、も……いいんですか……? 貴方たちは……僕のことを(あい)さないと……」

「……荒れ狂え……第二の園……」

 アルを支え、その横顔を見つめるばかりだったディナから、魔力の渦が立ち昇った。

「詠唱!?」

「ディナの得意とする魔法は……魅了の呪詛(カース)!」

「流石に止めるぞ! 構わないな団長!?」

「くっ……!」

「大丈夫」

 歯を食いしばって観客役を全うしていた少女たちが武器を構えるが、彼女たちの出足はアーディの一言に阻害された。

「大丈夫なものか! 魅了の呪詛(カース)がどれだけ厄介だと」

「大丈夫だから、黙って見ていて」

「いい加減にしろアーディ!」

「あの姉妹の操り人形になったアルとやり合うなんて真っ平御免だ!」

「いいから見ててっ!」

 アリーゼたち全員の肩がびくりと跳ねた。

「私たちが見ているのは、あの子たちが約束を果たす! それだけの物語! 私たちはただの観客っ!」

「アーディ……」

「だから……私たちが邪魔なんかしちゃ、駄目なんだから!」

「甘く腐れ……第九の歌……」

「糞っ……間に合わない……!」

 輝夜の悪態が虚しく溶ける前で。

「ディアルヴ・リミニス……!」

 ディナのとっておきが、アルを包んだ。

「……なん……で……?」

 本来なら魅了の下僕に堕ちるはずの標的は、まだ完全に開ききらない両目を最大限に広げ、自分に呪詛(カース)を放った女を見つめた。

「くっ、ぁ……!」

「お姉様っ!」

 長時間に亘る戦闘を経て、ディナの精神(マインド)精神疲弊(マインドダウン)寸前にまで至っていた。そこに彼女とっておきの呪詛(カース)など使おうものなら、精神枯渇(マインドゼロ)は目と鼻の先にもなる。

 快楽に狂うという代償に耽溺する猶予も余裕も残されていないディナはフラついた背中をヴェナに支えられ、泥に塗れるのを回避した。

「ディナ……さん……どうして……?」

「今のままでは……まともな会話すら儘ならないもの……」

 気付けば、さっきまで支えられていたはずのアルの手が、ディナの肩を支えていた。

「魅了を弾いた!?」

「それどころか傷が癒えていくだと……何なのだあのふざけた能力は……!」

「……アーディ。お前……知ってたのか?」

「うん」

「ったく……先に言えよな、馬鹿」

「ごめん」

「…………あの三人にはもう、武器なんて必要ない。だから私たちも」

 アリーゼがそう言うと、輝夜たちは手にしていた得物を隠した。

「勝敗は決した。声を掛けなくて……せめて傷を癒すくらいしなくてもいいのですか、アーディ」

「無理だよ。今の三人に割って入るなんて、誰にも出来ないもん」

「……差し出がましいことを」

「ううん」

 アーディの微かな笑みを見た四人の観客は、一番眺めの良い席から舞台を見据え続けているアーディと共に、舞台の真ん中に目を向けた。

「いつまでも……果てなく(あい)しあうのもいいけれど……折角の逢瀬だもの……睦言の一つや二つくらいなければ……風情がないでしょう……?」

「お姉様……」

「私とヴェナで……貴方に勝った。貴方を一度、(あい)した。そうよね、ヴェナ?」

「そうね、お姉様。だから……」

 意地と誇りに突き動かされるように、アルの手を押し返したディナ。

 姉の背中を支えながら微笑むヴェナ。

「「約束は、果たされた」」

 二人の口が告げる。

 二年の時を経て、三人の間で交わした約束の成就は果たされたのだと。

「……よかっ……たぁ……」

「何処が?」

「何が良かったのかしら?」

「貴方、一度私たちに(あい)されたのよ?」

「貴方が今も生きているのは、私たちの気紛れ」

「貴方との約束が果たされた今、私たちを縛るものは何もない」

「私たちは躊躇いなく、全てを(あい)すわ」

「それの意味がわかっていて?」

「わかっています……でも……一先ずは、これで良かったんです……」

「どうしてかしら?」

「聞かせて、道化師(ジェスター)

「……守れない約束を……貴方たちに背負わせたままいなくなるなんて……嫌だったから……」

「いなくなる?」

「はい」

「前みたいに?」

「そうです」

「どうして?」

「…………僕は……この世界にいてはいけない存在なんです……」

 少しずつ身体は癒えていくが、それでもまだまともに動けそうもないアルを見つめる妖精二人の顔色が変わった。

「僕は……この世界の存在じゃないから」

「……意味がわからないわ」

「ですよね……実は……僕自身もあんまりわかっていなくて……」

「そうだとして……貴方は何処から来たの?」

「ここじゃない何処か、とだけ」

「……貴方は……そこに帰ってしまうの?」

「はい。多分、もう少しで」

「また、貴方に会えなくなるの?」

「はい」

「また、私たちは……貴方のことを忘れてしまうの?」

「……はい……」

 舞台上の光景に目を奪われている少女たちは動揺を隠せていなかった。

「………」

 唯一人。薄蒼色の髪を朝風に揺らす少女だけは心を揺らすことなく、その光景を目に焼き付けていた。

「……酷い人ね……私たちにこんな辱めを受けさせておいて、自分だけいなくなろうだなんて」

「辱め……?」

「私たちがまだ知らなかったものをたくさん押し付けて、約束を果たしたからと満足して消えていくつもりなのね。何の責任も果たさないで」

「責任……?」

「でもそんなの全てもういいの。その代わりに」

「私たちの願いを聞いてくれるかしら?」

「……聞かせてください」

「……私たちは、誰とも生きられない」

「世界のことも、きっと好きになれない」

「「けれど、貴方となら」」

 肩を寄せ合う妖精の四つの瞳の中には、ただ一人の少年だけが映っていた。

「一人ぼっちなんてありえない」

「二人きりでももう物足りない」

「「これからは、三人がいい」」

「貴方となら、この嫌いな世界の中でも生きていけると思えるの」

「貴方となら、二人きり以外を知ることを出来ると思えるの」

「だから行かないで欲しい」

「ここにいて欲しいわ」

 潤んだ瞳。縋るような眼差し。熱を帯びた声。

「っ……!」

 その全てが真摯なもので、何処にも嘘がない。

 女心の機微には変わらず疎くとも、そこだけは意地でも間違えなかった少年は、俯くばかりだった顔を上げた。

「ごめんなさい……」

 二人の妖精の間から、一人の男の子の掠れた声が聞こえた。

「……やっぱり、酷い人ね。私たちなんて目じゃないくらいに残酷だわ」

「誇り高い私たちにここまで言わせておいて、そんな安い言葉しか返してくれないだなんて」

 居心地悪そうに背中を丸くする少年を詰る二人の笑みは、晴れやかなものだった。

 その曇りなき笑顔はまるで、こうなることをわかっていたかのようで。

「ねえ道化師(ジェスター)?」

「貴方の本当の名前を教えて欲しい」

「聞かせてくれるかしら?」

「ベル。ベル……クラネル……」

 少年……ベル・クラネルは、躊躇わなかった。

道化師(ジェスター)でもない。アルでもない。これが僕の……貴方たちが(あい)した男の……本当の名前です……」

「ベル……」

「クラネル……」

 姉妹が呟く。

「ベル……クラネル……」

 アーディが三人を追い掛けるように囁く。

「その……どのツラ下げてって思われてしまうかもしれないんですけど……僕のお願いを聞いてください」

「お願い?」

「脱獄の直前に言ってくれましたよね? 僕のお願いを全て叶えてくださいってお願いしたら、叶える。約束する。二言はないとまで言ってくれました。まさか、忘れちゃってなんかいないですよね?」

 脱獄と言う名の茶番を始める直前。

 二人が幽閉されていた牢の前で彼は、二人の妖精から言質を取っていた。

「……私たちは誇り高い妖精だから、守るべきは守る」

「それでも、内容によっては、いくら貴方からのお願いでも聞いてあげられないわ」

「とにかく」

「先ずは聞かせて頂戴」

「……じゃあ…………まず一つ。この世界には僕じゃない僕が……今の僕よりもずっと幼い、ベル・クラネルがいます」

「……そんなことになっているのは、貴方がこの世界の人間ではないから?」

「はい」

「それで? この世界の幼い貴方には、私たちの目の前にいる貴方とのことは一切関係ないから手を出すな。そう言いたいのではなくて?」

「適応も理解も早くて助かります……」

「「無理ね」」

 姉妹は即断した。

「私たちはいずれ、この世界の貴方の前に姿を現すでしょう」

「だって会ってみたいもの。知りたいもの」

「幼い貴方が、今の貴方のようになるのか」

「それともまるで別人みたいなるのか」

「だから」

「貴方のお願いは聞けないわ」

「……そう……ですか……」

「「その代わりに」」

「この世界の貴方のことを、私たちは(あい)さない」

「…………」

(あい)さず、遠くから見ている」

「「これでいいかしら、道化師(ジェスター)?」」

「……充分です……ありがとうございます……」

 着実に傷が癒えていく中で少しは余裕が出来たのか、アルが小さく頭を下げた。

「それで?」

「次のお願いは何かしら?」

「……生きてください」

「「え?」」

「真っ直ぐには無理かもしれなくて……苦しい思いをしたり、辛い思いをしたりするかもしれないけれど……それでもどうか誰も殺すことなく……世界を壊すこともなく……生きて欲しいです……」

 アルの両手が、何かを掴んだ。

 ディナとヴェナ。それぞれの手だった。

「世界なんか壊さなくても、貴方たちは綺麗な妖精です。僕がそれを知っています。貴方たちが僕を忘れてしまっても、違う世界にいる僕は忘れません。そしてずっと言い続けます。誰に何を言われたって、ずっと」

 目を見開く姉妹と交互に視線を重ねながら、アルは笑う。笑い続ける。

「世界なんて壊さなくていい。貴方たちが壊すのは僕だけで充分。だからもう、何も壊さなくても……殺さなくても……貴方たちは誇り高い妖精のまま……生きていけます……」

 ぐっと、繋がれた誰かの手に力が込められた。

 それは、ディナの手だった。

 それは、ヴェナの手だった。

「こんなにも綺麗な貴方たちが血に塗れるなんて勿体無い……似合わないですよ……」

 まるで、あくまで優しく握り返すだけのアルの手が離れてしまうことを嫌がっているみたいだった。

「誰とも生きられないなんて言わないでください……世界を愛せないなんて言わないでください……そんな物語じゃ……誰も幸せになれやしないんだから……」

 二人の手を持ち上げ、重ね、そこに額を当てて。アルは目を閉じた。

「ぁ……!」

 その光景が。

 その言葉が。

 アーディの胸の奥に、暖かな何かを詰め込んだ。

「いつか。貴方たちが、世界を愛せるように」

 道化師(ジェスター)が語る。

「いつか。貴方たちが、誰かを愛せるように」

 アルが唄う。

「いつか。貴方たちのことを愛してくれる人に出会えますように」

 ベル・クラネルが笑う。

「生きてください」

 少年が願う。

「これが僕からの……最後のお願いです」

 稚拙な言葉群の羅列。

 それは願いであって、願いでない。

 祈りだった。

 天におわす神々に祈るように。

 少年は、二人の妖精に祈った。

「叶えてくれますよね?」

 二人の手から額を離して、姉妹の瞳を順番に見つめる少年。

 少年に見つめられる二人の妖精は、少年の頬が赤くなっていることにばかり意識が向いているから気付けない。

 自分たちの頬も。耳までも赤くなっていることを。

 自分たちの指を、少年の指に絡めてしまっていることも。

 自分たちの瞳が、微かに潤んでいることも。

 しかし。

「く、ぅ……!」

「あぁ……!」

 自分たちの心に、自分たちの知らなかった何かが、確かに根付いてしまったこと。

 心が緩慢にしか働いてくれない中。

 それだけは、気が付いていた。

「……ヴェナ」

「……ええ。お姉様」

「ぁ……」

 アルの手を振り解きながら、二人の妖精は立ち上がった。

「くっ……!」

 精神枯渇(マインドゼロ)目前でありながら、あくまで一人で立とうとするディナ。

「…………」

 誇り高い妖精の矜持を汲み取る為の言葉など要らず。ヴェナは、ディナの背中に手を添えるような無粋をせず、姉の隣に並んだ。

「私たちはもう行くわ」

「え……?」

「折角自由の身になったのだもの。あんな穴倉に戻るつもりはないわ」

「……なら……ここでお別れです」

「そうね」

「……そこの小娘たち」

 ディナとヴェナの目が初めて、アル以外の誰かに向けられた。

「何処迄も咲き渡りなさい」

「貴方たちには、その義務がある」

「何時迄も咲き誇りなさい」

「貴方たちには、その責任がある」

「「貴方たちは……」」

 彼の花なのだから。

 言えなかった。

 悔しくて、言えなかった。

 私たちは、彼の花にはなれなかった。

 ええ、これは嫉妬。

 私たちも、彼の花になってみたい。

 そう思ってしまっただなんて。

 死が三人を分つとしても、言えるものですか。

 今この瞬間、誰よりも一人の少年の心の近くで揺れている気高い二輪の花は、自身が彼に愛でられていると理解して尚、花であることを選ぼうとしなかった。

「ディナ! ヴェナ!」

 観客席から横槍が入った。

 アリーゼの声だった。

「私! 今の貴方たちとなら、お友達になれると思う!」

 その告白に驚いた様子も見せずに、アリーゼの家族たちもまた、二人の妖精を見つめていた。

「はっきり言うけれど、今のオラリオには、貴方たちの居場所はない……それでも! いつか!」

 アリーゼが叫ぶ。

「いつか! ねっ!?」

 嗚呼。眩しい。

 憎らしいほどに眩しい。

 悔しいけれど。

 この子たちを愛でたくなってしまう彼の気持ちが、理解出来てしまった。

 だから。

「いつか、何なのよ」

「いつかなんてないわ」

 私たちとは、ここまでだ。

「さようなら。正義の娘たち」

「さようなら。道化が愛した花々」

「「貴方たちのことが、心の底から大嫌いよ」」

 少女たちに笑みを見せることなく。二人の妖精はその場にいる全員に背を向け、歩き始めた。

「あ……」

 待って。

 掠れた声が、確かに聞こえた。

「ふふ……」

「うふ……」

 妖精たちは、こっそりと笑った。

 そういうところがダメなのよと。

 男らしさが足りていないのよと。

 それでも。そんな女々しくて頼りのない姿も。

 とっても貴方らしくて素敵。

 そんな貴方だから、私たちは。

 姉妹は足を止め、くるりと振り返った。

「さようなら。道化師(ジェスター)

 ヴェナが言う。

「さようなら。アル」

 ディナが言う。

「「貴方のことを心の底から愛しているわ。ベル・クラネル」」

 花のように笑う二人の妖精が、愛の宿った微笑みを、一人の少年に託した。

「行きましょう。ディナお姉様」

「生きましょう。ヴェナ」

 手を繋いだ二人の妖精は、森の奥へと消えて行った。

「ディナさん! ヴェナさん! 生きてください! ずっと……ここでっ!」

 女々しさすら感じる誰かの叫び声を聞いた二人の妖精。

「あはははは……!」

「うふふふふ……!」

 二人の目の下に刻まれた涙を模した刺青の上を、熱く、透明な滴が、滑り落ちて行った。

 

* * *

 

「ったく……何を見せられてたんだアタシらは……」

「普通に頭が痛い……」

「と言うか……逃してしまって良かったのですか……?」

「いいに決まっているじゃない! 手負いと言ったってあの姉妹は強い! 今の私たちじゃ勝てない勝てない! 無理無理の無理よ! だから仕方なしっ!」

「アリーゼぇ……」

 正義の女神の子供たちのやり取りが耳に染みる。いつの間にか、焼けたはずの右の耳は機能も形も取り戻していたらしい。

「っ、あ……!」

 少しずつ癒えていく中でもまだまだ痛みの抜けない身体に鞭を打って立ち上がり、振り返る。

「あ、アーディ……さん……みなさん……」

 本当は飛び出したかったろうに。それでも堪え続けていてくれた少女たちに感謝を告げようと、一歩前に踏み出す。

「あ、れ……?」

 かくんと、アルの膝が曲がった。

「っと……!」

 しかし彼が、地面にキスをすることはなかった。

「……ありがとう……ございます……」

「どういたしまして」

 アーディが、受け止めてくれたから。

「アル?」

「はい」

「頑張ったね」

「……はい……頑張りました……」

 自分に寄り掛かるアルの頬にアーディから頬を寄せ、女の自分よりもずっと大きな身体を抱き締めた。

「無理して動こうとしちゃダメだよ。今の君は間違いなく貧血。傷が塞がったって流した血は戻らないんだから。今は動かないの。いい?」

「……はい……すいません……迷惑掛けて……やっぱりボロボロになっちゃったし……」

「ううん」

 アーディが首を横に振る。遅れて踊った薄蒼色の髪が、アルの頬を撫でた。

「あ、ボロボロになったことはちゃんと怒ってるから。アルが元気になったらお説教だから」

「怖いなあ……」

「……救っちゃったね、あの二人のことも」

「そう……なんでしょうか……」

「救ったよ。アルは、あの二人が隠してた本当の笑顔を取り戻すことが出来たんだよ」

 こんこんと扉をノックするみたいに。アーディの右手が、アルの左胸を叩いた。

「やっぱり君には、喜劇が似合うね」

「……アーディさんには負けますよ」

「かな?」

「はい」

「イチャイチャしてるとこ悪いんだけどよー」

「どわぁ!?」

「ぐっは……!」

「流石に色々聞かせてもらうぜ、アル?」

 周囲で見ている方が気恥ずかしくなるような二人だけの雰囲気が熟成されつつある中に、ライラが突っ込んだ。不意打ちに驚いたアーディの肩が跳ねた際にアーディとアルの頬が衝突した。痛い。

「お前の言葉を鵜呑みにすんなら、お前はこの世界の人間じゃない。それでいいんだろ?」

「……はい……」

「馬鹿な……そんなことが……」

「リオンったら、相変わらず頭が硬いわね! こういうのはノリとふーんいきで適当にうんうん頷いておけばいいのよ! それが一番賢いんだから! ふっふーん!」

「それ以上喋らないでくださいアリーゼ……頭痛が許容量を越えたら頭が割れてしまいます……」

 アリーゼとリューがアルとアーディに負けじとイチャイチャする様に、アルは目を細めた。

「おい道化。私は忘れていないぞ。いつか、お前が私に寄越したくだらない質問を」

「輝夜さん……」

「この青二歳は何を言っているのか程度にしかあの時は思えなかった。けれど今は違う。全てが繋がった」

「繋がったとはどういうことですか?」

「この男は、未来からやって来た」

「なっ!?」

「はぁ!?」

「ほんとに!? すごい! すごいわアル!」

「五月蝿いぞ団長。そうだな、アル? いや……ベル・クラネル、と言ったか」

「…………その通りです」

 輝夜の眼差しから逃げず、アルと言う名の偽名を騙っていた少年、ベル・クラネルは、アーディの腕の中で頷いた。

「一体どういう絡繰だ?」

「それが……僕にもわからないんです……原因に当たるものは想像が付いているんですが……どうしてここに来ているのかとか、そういうのは全然で……」

「……つまり、再現性はないと?」

 平静を保つ輝夜が問うたのは。

 この世界からお前が弾かれたとして。

 お前はもう、この世界に二度と顔を出せないかもしれないのか?

 そういう話。

「……はい」

「そうか……」

 肯定を示す姿に輝夜の声も微かに弱る。

「この世界は……僕が見ている夢だから……大切な人の大切な人たちに生きていて欲しいって願った僕の……身勝手な夢なんです……」

「大切な人……」

 反響反語。リューが呟く。

「はい……大切な人です……」

 その様を見ながら、アルは微笑んだ。

 ディース姉妹の脱獄を幇助する以前。

 シルやアーディの前に姿を現す以前の調査に於いてアルは知っている。

 リューたちアストレア・ファミリアがダンジョンの下層にてルドラ・ファミリアの罠に掛かることなどなかったことを。

 以前に自分がこの世界に現れ、姿を消して間も無く。ロキ・ファミリアの手によって、ルドラ・ファミリアは完全に壊滅していたことを。

 だから。彼女たちが、あの黒い厄災に飲み込まれることはない。

 アルは泣いた。

 何も無駄じゃなかったんだと、一人で泣いた。

「それで? お節介なお前はあの姉妹を野に放ったし約束も果たせたし、目的達成ってか?」

「大体はそうですね」

「じゃあ……帰るのか?」

「……そう遠くなく、夢から醒めます」

「そう……そうなのね……」

 アルとディース姉妹の会話を全て聞いていた少女たちは理解している。

 アルがこの世界から消える。

 それ即ち。アルのことを、またも忘れてしまう。

「……ねえアル? 難しいことはわからないけれど、どうにかならないものなのかしら?」

「アリーゼさん……?」

「アルにはアルの人生があって、帰るべき場所があることもわかっているわ。それでも私たちはまだ」

「ダメだよ」

 何処か必死さを孕んだアリーゼの言葉に割り込んだ人物がいた。

「……アーディ?」

 アルの身体を抱いて離さない、アーディだった。

「アルは、自分の世界に帰らないとダメ」

 アーディは笑っていた。

「それで、二度と私たちの世界に来ちゃダメ」

 曇り一つ見えない笑顔で、そんな言葉を口にした。

「アーディ……さん……?」

「ずっと考えてたの。次にアルと会えたら何を話そう。何を伝えようって。伝えたいことも聞かせて欲しいこともたくさんあったから、いっぱい考えたの。それでね、わかったの」

 自分のことを抱き締め返してくれないアルの背中を撫でながら、傷と痣だらけになっているアルの顔に視線を固定したまま、アーディが言葉を繋げる。

「アルに、幸せになって欲しい」

「…………」

「それでね? この世界も私たちも、アルの見ている夢だって言うのなら……もっと違う夢を見て欲しいの。アルが傷付かなくていい。苦しまなくていい。そんな夢を……どんな喜劇よりも愉快な夢を見て欲しいんだ! 夢なんだからこれくらい欲張ったっていいよね!」

 目の前で困惑と動揺を隠せず、少しも笑えずにいる少年の分まで。

 にひーっと白い歯を見せ、アーディが笑う。

「だから、アルの夢はここまで」

「……って……」

「この夢の続きは何処にも存在しないの」

「ま、っ……」

「それでいいんだよ」

「待って……!」

 胸の奥に詰まった何かを退かしながら絞り出した声は、痛ましいくらいに弱々しいものだった。

「うん……やっぱ、これでいいの」

「何が……!?」

「アルが頑張らなきゃいけない場所はここじゃないんだから、これ以上アルが頑張らなくたっていいの」

「ぁ……!」

 アルの首に回した両手に力を込めて、アルがくれた壊れかけの首飾りが光る自らの胸元へと、アルを抱き寄せた。

「ありがとう」

 アーディが、アルの白髪に顎を乗せた。

「あの時も。あの時も。今回も」

 血と泥で汚れた白髪をくしゃっと掴み、そっと撫でる。

「私の命も。リオンたちの命も。たくさんの人の命と心を救ってくれた。本当にありがとう」

 白髪に額を乗せた。アーディから見える世界が真っ白に染まる。

「次は、アルが救われて欲しい。幸せになって欲しい。いつだって誰よりも頑張ったアルが救われない物語なんて、私は愛せないもん」

 小さな子供をあやすように身体を左右に揺らしながらアルの背中を叩く。アルの頭を撫でる。

「この世界はもう、アルが見せてくれた喜劇で溢れてる。だからもう大丈夫。明日の私たちは、アルの見せてくれた喜劇のお陰で、今日よりも強くなれるから」

「っ……!」

 歯を食いしばる音が聞こえた。鼻を啜る音が聞こえた。荒い呼吸をどうにか整えようと頑張っている息遣いが聞こえた。

 それは、アーディ以外の誰か。

 複数の誰かが発している音だった。

「アルがこれから見る夢が、アルが苦しまなくていいような、素敵な夢ばかりになりますように。それで……アルが、誰よりも幸せになれますように」

 地面を打つ水音が聞こえた。アーディとアルの足元から聞こえた。

「私はここで願っているから。祈っているから。アルのことを忘れちゃったとしても。もう二度とアルと会えないこの世界から。ずっと」

 水気を含んだ何がアーディの胸元を濡らし、彼女の身体を伝い落ちていった。

「君は笑うんだよ? 笑って、胸を張って、自分の世界に帰るんだよ?」

 だらりと垂れ下がっていたアルの腕が動いて、アーディの胸を押し除けるようにしながら、自分の顔を拭った。

 ゴシゴシと、何度も何度も。

「誰にも出来ないようなことばかりをやって見せたアルなら出来るよね?」

「…………はぃ……」

 アルの手がポンポンと二度、アーディの横腹を優しく叩いた。

「さっすが!」

 笑いながらアルの身体を解放するアーディ。

「……はは……!」

 顔を上げたアルもまた、笑った。

 真っ赤に染まった目元を隠さないで、笑っていた。

「でもその前に!」

「うん?」

「アルに渡さなきゃいけないものがあるんだ! えっと……これっ!」

 上着のポケットからアーディが取り出したのは、しっかりと封をされた手紙。

「これ……は……?」

「ヘルメス様からの預かり物。君に渡して欲しいって頼まれてたの」

「ヘルメス様から?」

「うん。この中には、君が会いたがっている人の所在が記されていると思う。多分」

「僕が会いたがっている人……まさか……!」

「そのまさかだと思うよ」

「ヘルメス様らしいなあ……」

「だね。あ! あの人のことなら誓って誰にも話していないよ! ヘルメス様はどうしてか知らないけど知ってたの! 本当だからね!?」

「ハナから疑ってなんかいませんよ」

 アーディに笑い掛けながら、アルの手が手紙を開封し始めた。

「…………」

 その様を黙って眺めながら、アーディは自らの左胸に手を当てた。

 本当は、渡したくなかった。

 少しでも長く、隣にいて欲しかったから。

 でも。アーディにとって大切なことは、彼の心の安寧。

 彼が幸せになることだから。

 彼の望みは、全て叶えてあげたい。

「こ、こは……僕の……? な、んで……!?」

 ヘルメスから受け取った情報……アルが会いたがっている人物の所在地を目にした途端、アルの顔色が変わった。いつの間にか、目元を濡らしていたものも全て引っ込んでいた。

「…………ま、さか…………まさかっ……!」

 ずっとわからなかった。

 どうしてあの人が僕を見る目はああだったんだろう。

 どうしてあの人を目の前にした時、僕の心は不思議な揺れ方をしたんだろう。

 どうしてあの人を目の前にした時、僕の血はザワ付いたんだろう。

 どうして僕を試すような。導くような。そんな振る舞いを見せたんだろう。

「そっ、か…………はは……そうなんだ……!」

 アルの中で、音がした。

 夢の中で見たもの。

 聞いたもの。

 あの人と話した言葉。

 あの人の表情。

「そうっ……なんだ……!」

 その全てが繋がる音が。

「アル……?」

「い、かなきゃ……行かなきゃ……!」

 アルは、泣いていた。

 折角引っ込んだばかりの物全てを再度引き摺り出して、涙を流していた。

 歳下の少年が涙を流す姿に驚くばかりで、アリーゼたちは何も言えないでいた。

「……行くんだね?」

「はい……時間がない……間に合うかな……」

「間に合うよ! 絶対間に合う!」

「アーディさん……」

 アルの頬に手を伸ばし、アルの目元を濡らす雫の全てを預かりながらアーディは笑う。

「いつだってアルは間に合ってくれたもん! だから大丈夫!」

「……はい……!」

「じゃあ、ここでお別れ……その前に!」

「わ!」

 涙の消えたアルの驚く声が響く。

「一つ、約束を破るね?」

 アーディが、アルの胸に飛び込んで来たから。

「約束……」

「私の好きな人を教える約束! 忘れちゃった?」

「……覚えてます」

「あれ、やっぱなし!」

 アーディの両腕がアルの背中に回される。

「私の好きな人なんて、教えない!」

 ぎゅっぎゅっと、アルの身体を引き寄せる。

「アルにだけは! ぜーったいに! 教えてあげないっ!」

 離すもんかと言わんばかりに強く強くアルを抱きしめながら。

「ざまーみろ!」

 華の笑みを、アルの胸に隠した。

「……そっ、か…………」

「モヤモヤしたままあるべき場所に帰るがいいさ!」

「……そう……ですね……そうします…………なんだか無性に悔しいですけど……」

「そーでしょそーでしょー!」

「……失礼します……!」

「ぁ……!」

 アルの両腕が、アーディの背中を思いっきり抱き寄せた。

「ぅ……!」

 アルの胸板に頬を埋めていたアーディの笑顔がくしゃりと歪んだ。

 しかしアルは、それを見られない。

 アーディの頭に顎を乗せ、笑っているから。

「ありがとう」

 アーディの目元がきらりと光る。

「ありがとう……!」

 アーディの踵が浮くくらい強く強く抱き寄せながら、感謝を重ねた。

「貴方に会えて……良かった……!」

「……私もだよ……!」

 アーディの声がくぐもって聞こえたのは、アルの胸元に隠れた口から発せられたからだろう。

「…………もう行きます」

「うん……!」

 身体を離した二人が笑顔を交わし合い、アルの目は、ずっと自分たちを見ていてくれた少女たちに向いた。

「アリーゼさん」

「ええ」

「輝夜さん」

「ああ」

「ライラさん」

「おぉ」

「リオンさん……いえ。リューさん」

「はい」

「……アーディさん」

「うん!」

「ありがとう……お元気で!」

 全員に笑い掛け、アルは北に足を向け、痛む身体を引き摺るように駆け出した。

「さようならーっ!」

 アーディの放った別れの言葉が、この世界から去り行く背中を追い掛けた。

「頑張れ……頑張れ! がんばれーっ! アルーっ!」

 アーディは右手を振った。振り続けた。

 自分が最後にしてあげられるのはこれだけだからと。

 愛しい背中が見えなくなっても。

 疲れて、立てなくなるまで。

「ったく……器じゃねーだろ、あいつは……一人で抱えやがって……」

「戯けが……喜劇を謳うなら……最後まで喜劇にしてみせろ……!」

「違うよ輝夜! ちゃんと喜劇だよ!」

「アーディ……?」

「だって! 彼に救われた私が! 笑ってる!」

 右手を振りながら。アルの背中も見えなくなった山道を見つめながら。

 アーディは、笑っていた。

「私が笑えば道化も笑うから! 笑顔で! 次の冒険に行けるんだから!」

「お前……」

「そうでなくたって私たちの英雄(アル)の門出なんだから! 笑って送り出してあげないと!」

「……次にアルが見る夢は、穏やかな夢になる」

 声量の抑えられたアリーゼの声。

「貴方が見せてあげるの」

 そのアリーゼの手が、右手を振り続けているアーディの肩を叩いた。

「貴方が……彼を救ったの」

「っ……!」

「胸を張ってください、アーディ」

 リューの声。

「アルが貴方の英雄であるように。貴方も、彼の心を救った。貴方は……彼の英雄になれたんです」

 強く強く握り込まれているアーディの左手を、リューの手が包んだ。

「だから……どうか……!」

 泣かないで。

 そんなこと、言えなかった。

「ぅっ……うぁ……あぁ……ぐすっ……えへへ……っ……!」

 スポットライトの下で、ヒロインが笑う。

 流れ続ける涙を晴れやかな笑みで上書きしようと踠き続ける姿を、心を通わせる友が見守る前で。

 止まらぬ涙。

 絶えない笑顔。

 拍手喝采など聞こえやしない。

 それでもヒロインは、舞台の真ん中で笑い続ける。

 なんてことのない物語を、とっておきの喜劇に変えてしまいたいその一心で。

 喜劇の最後にごめんなさいは御法度。

 喜劇の最後なら、やっぱり笑顔じゃないと。

「アル……あっ、あり……ありがと……ぅ……!」

 滂沱の涙ととびっきりの笑顔が、もう二度と会えない少年の花道を飾る。

「ぁ……あ、でぃさん……っ……!」

 笑顔の少女が作り、笑顔の少年が走る花道は、誰かと誰かの涙に濡れて、どんなに綺麗に舗装された道よりも、キラキラと輝いていた。

 

* * *

 

 魔石灯で作られたランタンを手に、女は夜道を歩いていた。

 誰かがいる。

 かつては覇者とまで呼ばれた彼女が、闖入者の気配を察知出来ないわけがなかった。

「…………」

 静かな世界を好む彼女は独り言も発することなく山道を歩いた。気配の源は近い。獣道から外れた何処かに身を潜めているのだろう。

 しかし、殺意はもちろん、敵意すら微塵も感じない。

 彼女の静かな日々を汚す誰かではなさそうだ。

 だったら、誰だ?

 そして。

 この胸のざわ付きは、一体どうしたことだ?

「…………」

 そうして、彼女は見た。

 人の通らない森の中。

 白く光っている何かを。

「…………!」

 彼女の足は、早まっていた。

 草木を蹴り分け掻き分け進む。

 今や遅しと鼓動が逸る。

「…………何をしている」

 白い輝きの正体は、人。ヒューマン。

 白い髪の。

 紅い瞳の。

 まるで誰かに見られることを避けているかのような場所に座り込んでいたのは、今にも息絶えそうな、男の子だった。

「間に……あった……」

 少年は、笑っていた。

「……私の質問に答えろ」

「聞かせてください……」

「質問をしているのは私。答えるのはお前の」

「会えましたか?」

「…………」

「大切に想っている人に……」

「…………」

「会えましたか……?」

「…………会えた」

「…………」

「今……共に暮らしている」

「……そう……ですか……」

 支えがなければ身を起こしていられないのか、大木に寄り掛かった少年は。

「良かったぁ……」

 緩みきった、なんともだらしのない笑顔を、その女に見せた。

「……お願いがあります……」

 女は何も答えない。

「少しでも……長生き……してください……」

 女は何も答えない。

「あ、なた……は……ぼくの……か……ぞ……」

 女の返事を聞かぬまま。

 最後まで伝えられぬまま。

 目も眩むような輝きを放ちながら。

 少年は、世界から姿を消してしまった。

「…………せっかちな子供め……」

 女が呟く。

「二度も……目の前から消え行く姿を見せるな……親不孝者め……!」

 女が嘆く。

「お、叔母さん……どこ……? ねえ! お義母さん! どこにいるの!? お義母さんっ!」

 女の耳に、声変わりもまだまだな甲高い声が飛び込んで来た。

「あ! いた! お義母さんっ!」

 灯りも手にしていないその小さな影は、心底慌てた様子で女が踏み荒らして多少は歩き易くなっている道を駆け降りて来た。

「……何をやっている?」

「僕のせりふだよ! いきなり何も言わないでいなくならないでよ……!」

 女の手にしたランタンが子供を照らす。

 灯りに照らされた子供の瞳は、潤んでいた。

「…………っ……!」

「ぇ?」

ランタンを放り捨てた女が、子供を抱き締めた。

「あ、の……アルフィアお義母さん……?」

「……なるな」

「え?」

「お前は……あんな風になるな……」

「あんな風? えっと……」

「お前は……ただ(・・)の英雄になれ……」

 女の頬が子供の頬と重なる。

「ただ世界を救うだけの、最後の英雄になれ」

「よ、くわかんない……けど…………うん!」

 女の頬に寄り添う柔らかな頬がくしゃっと歪んで、笑顔の形に変わった。

「お義母さんの願いは、ぼくが叶えるから!」

 女の首に腕を回しながら。

「ぼく、英雄になるから!」

 その子供は、夜の闇の中でも輝く無垢な笑顔で、その女を照らした。

「……帰ろう。今夜は冷える。暖かくして、一緒に眠ろう」

 ランタンを右手に、二人が歩む先行きを照らす。

「うんっ!」

 女の左手と子供の右手は、もう二度と離れないと唄うように強く強く、結ばれていた。

 

* * *

 

「ねえ君ー! 白い髪の君ーっ!」

「は、はいっ? 僕のこと……ですか?」

「うん! 兎みたいな君のことだよ! さっきからキョロキョロしているみたいだけれど、迷子かな? 迷子にしては大きいね。歳は幾つ?」

「十四歳です! え、っと……ギルド本部に行きたいんですけど……」

「ギルドに? ってことはもしかして……冒険者登録に行く、とか?」

「はい! そうなんです!」

「ってことは君も私と同業になるってことだね!」

「それじゃあ……お姉さんは冒険者さんなんですか!? わあ……! ほんもの……カッコいい……!」

「でしょでしょー!? よっし! 折角の縁だし、私が君を、ギルド本部にまで連れて行ってあげよう!」

「あ、ありがとうございますっ!

「その前に自己紹介しよっか! 私の名前は」

「いたーっ!」

「へ?」

「え?」

「とーうっ!」

「どわあっ!? な、なんですか!? なんでいきなり僕に抱き付いて……!?」

「やっと会えた! 私だけの伴侶(オーズ)!」

「へ?」

「細かいことはいいのでとりあえず私に身を委ねましょう! 彼にも負けない伴侶(オーズ)の中の伴侶(オーズ)! 伴侶王(オズキング)にしてあげますから!」

「はいいい!?」

「語呂悪っ!? じゃなくてっ! い、いきなり何やってるのかなあシルちゃん!?」

「あ、いらしたんですね、アーディさん。そんなことより行きましょ行きましょ! 彼との約束で貴方に無茶苦茶することは出来ませんけど、それでも唾を付けるなら早急に」

「さっきから何を言ってるの!?」

「あら? アーディじゃない! それにシルちゃんも! って……その子は…………まさか! ナンパ!? ナンパなのアーディ!? シルちゃんと一緒にナンパをしているのね!?」

「ちっがーう!」

「正義系女子の私としては見逃したいところだけど事案の匂いがプンプンしているからどうしようかしら!? とりあえずシャクティに報告ね!」

「違うって言ってるじゃん! あとやめてねそれ!? ほんとにやめてね!? 私だけじゃなくてこの子の首も飛んじゃうんだから!」

「ひ、ひえっ……!」

「ナンパとかじゃないの! 私、この子を道案内してあげようとして……!」

「さあ行きますよー! 先に言っておきますけど、私の伴侶(オーズ)検定は甘くありませんからね! それも全部彼の所為です! 恨むなら彼を恨んでくださいねー!」

「あ、あの!? あのあのっ!? だ、誰か助けてーっ!」

「あー! シルちゃんに連れてかれちゃった! 見てないで止めてよリオンも輝夜もライラも!」

「止めたいのですが……貴方たちの勢いが強くて……近寄り難い……」

「関わらない方が身の為な気しかしない」

「あのガキに関わったら酷い目に遭いそうな気がしてならねー」

「どんな予感なのそれ!? とにかく止ーまーるーのーシルちゃーんっ!」

「ああっ!? もうっ、アーディさんってば乱暴なんですからー」

「一から百まで横暴してたシルちゃんがそれ言うかなあ!? えっと……なんかごめんね? 騒々しくなっちゃって……!」

「お、おらりお……しゅごい……おらりおやばい……おかあさんのいうとおり……!」

「呆けてないでほら! 自己紹介してよ!」

「じゃ、じゃあ…………僕の名前……は……」

「君の名前は?」

「べ! ベル! ベル・クラネル! と言います!」

 花は散る。

「えっと……お、お義母さんの代わりに……」

 しかし、種を蒔く。

「世界を! 救いに来ました!」

 だから、出会いという名の花が枯れ果てることはない。

「あら! 素敵な名前!」

「あ、ありがとうございます……嬉しいっ……!」

「シルちゃんに褒められてデレデレしてるところ申し訳ないんだけど! 貴方、とっても素敵ね! 何より目標がいい! 貴方のこと気に入っちゃった! ねえベル! 私たちのファミリアに入らない!?」

「はぇ!?」

「あー! ずるいですよーアリーゼさん! 私が最初に声を掛けたのにー!」

「いやいやいやいや! 最初に声を掛けたのは私なんですけど!? この子には私のファミリアに入ってもらうんだから!」

「ダメよアーディ! この子からは正義の匂いがプンプンするもの! 私たちのファミリアに入ってもらうのが一番いいに決まってるわ!」

「アリーゼの所は男子禁制じゃん!」

「そんなことないですー! リオンが嫌がるから今日まで入れてないだけですー! なんだったらリオンを追い出すから問題ないんですーっ!」

「アリーゼぇ!?」

「おいおいそれはいいな……!」

「ようやく青臭いお子ちゃまに堅苦しいこと言われなくなるのか……実に喜ばしい……!」

「ライラぁ……輝夜ぁ……!」

「あの頭悪そうな方々と関わってもいいことないんで私の所にいらしてくださいな! とりあえず私の働いているお店に居候して、アルバイトをしながらファミリアを探す! なんて言うのはどうでしょう!? 実は私、とあるファミリアと縁が深くてですねー」

「あ!」

「抜け駆けしてるー!」

 道化は去った。

 彼の喜劇は終わった。

 再公演などあり得ない。

 この世界に現れることは二度とない。

 しかし、物語は止まらない。

 誰かの手によって、まだ誰も結末を知らない、新たな喜劇が紡がれる。

「いい加減落ち着いてくださいみなさん……彼がものすごい顔をして固まっています……」

「ほけーっ……」

「あらごめんなさい! でもどうしましょう? このままじゃ平行線ですねー」

「こんな時は……アレを使いましょう!」

「アレ?」

「私がアーディに伝授した、アーディの得意技よ!」

「アリーゼが私に伝授…………ま、まさか!」

「そのまさかよ! シルちゃんもやりましょ! そうして誰の所に行きたくなったかこの子に決めてもらうの! これなら公平でしょ!?」

「なかなかいい落とし所を用意してくれますねアリーゼさん……そういうことなら、私やります! アホ丸出しバカ丸出しを許容して生き恥晒してみせましょう!」

「おいどうすんだよ輝夜」

「手遅れだ。登場人物に阿呆と馬鹿しかおらんのだからな」

「違いねーや……!」

「頭が痛いです……」

「ほらほらやりましょ!」

「はーいっ!」

「ほ、ほんとにやるの!? ほんとに!? 私、得意技認定した覚えないんだけど!?」

「あの、僕の意思は……?」

 誰かが落としてしまった筆を、誰かが拾い上げた。

 走り疲れて落としてしまった誰かのバトンを、誰かが掴んでくれた。

 誰かが愛した喜劇を誰かが紡ぎ、まだ知らない誰かへと繋いでいく。

 正義が巡るように。

 バトンを託すように。

 巡り、託された先にあるのは、煌びやかな舞台。

 その舞台に。スポットライトの下に。

 次の喜劇を担う誰かが姿を現す。

 しかし、喜劇は一人じゃ描けない。

 笑わせる者がいて、笑う者がいなくてはならないから。

 けれど、この都市には。

 誰かが描いた喜劇に救われたこの都市には。

 喜劇を愛する者がいる。

 誰かが歌えば共に踊ってくれる者がたくさんいる。

 だから、喜劇は巡る。

 そうして今日もまた。

 とっておきの喜劇の第一幕が切って落とされた。

「いくわよ!」

「はーい!」

「ああもうっ……!」

「せーのっ!」

「「「大好きビーム!」」」

 道化に愛された喜劇のヒロインたちが、花のように舞い踊る街で。

 

* * *

 

 少し先。

 いや。遥か遠い未来に。

 子供たちの間で、とあるお伽話が語られた。

 それは、なんてことのない物語。

 貧困。飢餓。支配。略奪。

 人生のどん底の最中にある者たちに、気紛れに手を差し伸べる存在がいたらしい。

 それは正義を名乗らず。

 それはただの気紛れよと謳い。

 それは嗜虐的とも言える笑みを振り撒き、刃を振るった。

 しかしそれは、誰も殺さなかった。

 不殺を貫き、弱者を救うだの強者を挫くだの、堅苦しい大義名分を語らず。

 ただ、目の前に広がる悪意だけを刈り取って、笑うばかりだった。

 それは、特に子供たちには優しかったと言う。

 貴方たちは花。

 この世界の花。

 咲き誇る前に手折れてしまっては、勿体無いでしょう?

 それは、そんな言葉を残して、気紛れに救った者たちの前から姿を消す。

 噂は一人で歩くもの。しかし一人の噂も寄り集まれば、噂以上の何かになることもある。

 それは、妖精だったと言う。

 それは、二人の妖精だったと言う。

 それは、踊り子のような服装をしていて、目の下に、涙の形の刺青が掘られている妖精だったと言う。

 何だそれは。

 誇り高い妖精がそんな格好をするものか。

 そんな刺青を掘る妖精がいるものか。

 いやいや本当なんだ。俺はこの目で見た。その人たちに家族を救われたんだ。

 踊るように舞う、二人の妖精に。

 嘘か誠か。

 夢か幻か。

 そんな突飛な姿の二人の妖精の話はいつの間にか、世界の何処までも伝播していた。

 要約すると。

 見目麗しいが突飛な格好をした二人の妖精が気紛れに誰かを救う。

 たったそれだけの、奥行きのない物語。

 この物語の評価は高くない。

 記録媒体によって描かれ方は様々だけれど、まず第一に物語の起伏が少ない。

 そして、何処か嘘っぽい。

 だって、そんなふざけた格好のエルフがいるわけないじゃないか。

 後の世の大人たちはそう言って、鼻で笑った。

 ドラマ要素も少なく、ただの旅行記と変わらない物語の何が面白いんだと吐き捨てる者も少なくなかった。

 しかし。そんな物語でも、廃れることはなかった。

 大人たちにはウケが悪くとも、下界の未来を担う存在。

 どんな時勢の中に於いても子供たちに、広く愛でられたから。

 少々マイナーなお伽話ではあるし、作家によって書かれる内容が悉く違っていたけれど、主役の存在だけはどの作品でも殆ど相違ないものだった。

 その物語の主役は。

 世界を堪能するように気儘に旅をする、妖精の姉妹。

 奇抜な服装に奇抜な刺青を有し、見せ物の道化師のように舞い踊る、目を奪われるほどに美しい、二人の妖精。

 その妖精の物語は、下界の歴史が続く限り、ひっそりと語られ続けた。

 落ち込んだ誰かを花のような笑顔に変えてくれる、可愛らしい喜劇の一つとして。

 未来永劫。

 世界の何処かで。

 世界の誰かに。

 暗がりにそっと咲いた一輪の花のように。

 慎ましく。けれど優しく。

 二人の妖精は、愛され続けるのだった。

 

 


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