神社を守る狛犬って、本来は二匹で一組なんですよね。
神社を守る狛犬は一匹だけじゃない
そこには、滅多に人の寄り付かぬ道場があった。流派の名を素流と言い、素手を得物として戦う武術だ。
侍の住居と見紛うほど広大で立派な敷地と道場。街からもさほど離れておらず立地も悪くない。なのになぜ門下生が集まらないのか?
理由は隣接していた剣術道場にあった。
彼らは土地を我が物にしたく画策していたが、そこに素流道場が建ってしまったため、陰湿な嫌がらせを仕掛け立ち退かせようとしていた。この剣術道場からの嫌がらせの影響はモロに響き、素流道場には門下生が増えなかった。
現土地の主であり、素流の師範であった男…「慶蔵」はほとほと困り果てていた。慶蔵には病弱な娘の「恋雪」がいるのだが、恋雪は体が弱く、平時は床から起き上がれないほどであった。
妻は看病疲れで入水自殺してしまい、娘を養うためにも慶蔵は日雇いをして稼がねばならなかった。
限り限りの生活を続けていた慶蔵は精神をすり減らし続け、表には出さずともすっかり参っていた。
ついこの間までは。
というのも、今では僅かながらも素流の門下に入った弟子が現れたのだ。
名を狛治と言った。
この少年は江戸から所払いの刑を食らい、この地まで流れてきた帰る場所を喪った罪人である。大人7人を伸した所を慶蔵に見込まれ拾われた。素流道場に拾われて以来は、門下生として慶蔵から稽古をつけてもらう傍ら、恋雪の看病をしている。
今日も今日とて、狛治は稽古と看病を卒なくこなす。
暖かい日差しが照りつける縁側を、水が入った桶と手拭いを持ちながら穏やかに進む。
頭の中には、恋雪の看病をした後にやる事がぐるぐると渦巻いている。
(寝巻きを変えた後は額に乗せる手拭いを変えて、水も飲ませて、それから…)
「よォ狛治。それは恋雪ちゃんのデコにのっける手拭いか?」
呼び掛けられ、意識が引き戻される。足を止めて前の方を見ると、おはじきを弄びながら縁側に座って足をぶらぶらさせている白髪の少年が1人。
彼は数少ない素流道場門下生のもう1人。名を「獅子黒」と言う。
幼い時に両親が死んで身寄りがなくなり、スリや盗みでなんとか食いつないでいた。幾度も追手を差し向けられたが、なまじ喧嘩が強いだけに手のつけようがなく、いよいよ街を追い出されそうになった所を、狛治を拾った帰りにたまたま慶蔵が見つけて一緒に拾ってきたのだ。
最初は互いに距離感を測りかねてぎくしゃくしていたが、境遇と歳が近いという事もあり、1週間もすれば兄弟のように近しい関係を築いていた。
「そうだ。ところで稽古はどうしたんだ?」
「もう終わったよ。んで、恋雪ちゃんの様子でもってな。うひ〜、やっぱ師範の稽古きちィわ…」
くつろぐ猫のように床にゴロンと身を投げ出す獅子黒。元来、彼の性格は短絡的で飽きっぽく、口より先に手が出るやんちゃ坊主だった。
稽古も最初の内は身が入らず、時折放り出して道場の屋根や縁側で昼寝をしている有様だったが、慶蔵から「もたもたしてると狛治に抜かされるぞ」と発破を掛けられて以降は渋々ではあるが、真面目に取り組むようになった。
「お前よく涼しい顔してついていけるよな。稽古に加えて鍛錬、そして恋雪ちゃんの看病と来た。お前すげェよな」
「別に、辛いと思ったことはないしな。俺は師範に拾われて、素流道場に来てよかったと思ってるよ」
慶蔵から恋雪の看病は2人で分担するように言われているが、獅子黒は女の子を相手にすると緊張で固まるのでほぼ狛治に任せっきりである。それを狛治も黙認しているが、流石に良心の呵責があるのか、気が向いたら時々手伝いには来る。
「ま、そりゃそうか。俺にしてみても、あのままじゃ街を追い出されて野垂れ死んでただろうしな。今ではここが俺の居場所だ。狛治とも会えたし、俺もここに来てよかったと思ってる。」
そう言って獅子黒は、漆黒の瞳を狛治から空へと向けた。
狛治はくつろぐ獅子黒から視線を外すと、再び恋雪の元へと歩みを進めた。部屋の前まで来ると一言「入ります」と声をかけ、部屋へ足を踏み入れる。
「ん…?」
入った瞬間、ほのかに漂う甘い匂いが鼻を包んだ。匂いの元を辿ってみると、恋雪の側でお香が焚かれているのが目に入る。
「これは…」
桶を床に置き、ちらりと恋雪を横目で見ると安心したような、穏やかな顔色ですやすやと寝息を立てていた。
(……まさか。)
ここに来るまでにすれ違ったのは獅子黒ただ一人。このお香を炊いたのは彼だと推測するのは容易かった。
そして、このお香の匂いを狛治は以前に一度嗅いだことがある。師範の客人が手土産にと持ち込んできたお香。確か名は…
「…孤峰の雪」
「…んぅ?」
「あ、すみません。起こしてしまいましたか?」
眠りから起きた少女と介添えをする少年の声が、暖かな昼下がりの道場に響いた。
■□■
それからしばらくは何事も無く平和な日々を過ごしていた。狛治は稽古と恋雪の看病を。獅子黒は稽古と昼寝を。
一度獅子黒が狛治のお手玉に入っていた小豆を食って揉めたが、それ以外はそれぞれが幸せな日常を過ごしていた。
しかし、とある事件が状況を一変させた。
「剣術道場の連中と試合ィ?」
驚きとうんざりとした含みを持たせた声が上がった。
いつもより鋭さを増した目つきの狛治は確かな意思を持って肯首した。
事の発端は、剣術道場の跡取り息子が恋雪ちゃんを強引に外へ連れ出したことからだった。体の弱い恋雪ちゃんは喘息の発作で動けなくなり、跡取り息子は無責任にも放置して逃げ出したそうだ。狛治が見つけていなかったら、今ごろ恋雪ちゃんは死んでいたくらいには重症だったようだ。
もちろん師範は一歩も引かず、結果的に素流道場と剣術道場は試合をすることになったのだ。
経緯を全て聞いた獅子黒は先ほどまでの気怠さが嘘のように引き、変わりに狛治同様、戦う者の鋭い目つきへと変わった。
試合当日、剣術道場の連中は全員木刀を持って臨んでいた。皆一様にこちらを侮蔑の意を込めた目線を投げかけており、中には思わず眉を顰めてしまうような挑発を仕掛けてくる者もいた。
しかし、それは試合が始まると一転する。
先鋒を務める狛治が破竹の勢いで勝ち進み、たった1人で9人を伸したのだ。9人目を倒した所で、狛治は冷静に今後素流道場と恋雪ちゃんに関わらないと約束するよう促したが、跡取り息子は聞く耳を持たず真剣を持ち出してきた。
それを狛治の得意な技の鈴割りで殴り折ったことでようやく決着がつき、道場主が謝罪と約束をした事で今回の騒動は幕を下ろした。
「はァ〜、俺の出番無しかよ。やっとあいつらブン殴れるかと思ったのによォ」
「いやぁ、にしても狛治の強さには驚いた!まさか9人も伸した挙句、真剣叩き折っちまうたぁ稽古の成果が出たな!ハッハッハッ!」
剣術道場を後にし、退屈そうに両腕を後頭部に回す獅子黒。対照的に慶蔵は、自分の弟子が稽古の成果を目に見えて出している事が嬉しい様子。狛治は照れくさそうに頬をポリポリと掻いて頬を赤らめた。
これより数年、再び安寧の日々が訪れ、狛治と獅子黒は同じ18歳となった。恋雪ちゃんは16歳となり、臥せる事もほとんど無くなり、普通に暮らせるようになった。
どうやら恋雪ちゃんは狛治の事が好きらしく、熱心にお出かけへと誘ったり、不慣れながら秋波を送ってみたり、家事を一緒にして夫婦みたいだねと言ったり…色々と努力しているが、あの朴念仁は恋雪ちゃんが元気になった事を喜ぶだけでそれ以上踏み込んでいかないようだ。
「なぁ獅子黒。最近やたら恋雪さんがくっついてくるような気がするんだが…元気になってくれたのは本当に嬉しいんだが、あまりに近づかれすぎるとどうにも気恥ずかしくてやりずらい。この間なんか、『一緒のお布団で寝ましょう』と言われ、『そういうのは好きな人と…』と宥めたら泣かれてしまった。俺はどうすればいいんだ?」
「娶ればいんじゃねェのォオ゛オ゛!?」
「え」
それから数日後、いつものように屋根の上でくつろいでいるとこのような会話が聞こえてきた。
「この道場継いでくれないか狛治。恋雪もお前のことが好きだと言っているし」
「は?」
あまりの素っ気ない返しに思わず屋根からずり落ちそうになる。可能なら今すぐにでも引っぱたきに行きたい所だ。
永遠とも思える静寂の後に、師範と恋雪ちゃんの喜ぶ声を聞き届け、俺も安心して再び眠りについた。
「それじゃあ行ってくる」
「おー」
肩から荷物を提げた狛治は意気揚々といった様子で道場を出ていった。どうやら死んだ親父の墓参りに行くようで、祝言を挙げると報告したいんだと。
「いいなァ、嫁を報告できる親がいて。俺にはいねェからなァ」
羨ましい限りだぜ、と口の中で唱え、遠ざかる背中を屋根の上から眺めていたのだった。
「狛治さんは往かれましたか?」
「ああ。親父に報告するんだとよ。改めておめでとうなァ恋雪ちゃん」
「ありがとうございます。それと…獅子黒さん」
「ん?どうした?」
恋雪ちゃんは胸の前で手を握りしめ、こちらを思い遣るような視線で見上げてきた。
「獅子黒さんにも、良いところをわかってくれる人が必ず現れますよ。獅子黒さんの幸福を、祈っています。」
穏やかな微笑みを浮かべ、そう締めた。
その祈りに俺も微笑みで返し「お幸せになァ」と目を瞑った。
「…早くしろ、見つかったら面倒だ」
「わかってる」
「…ん?」
何やら怪しい話し声が聞こえ、意識が覚醒する。瞼を擦りながら声のする方を見てみると、そこには剣術道場の跡取り息子と門下生の姿が見えた。
途轍もない不安を抱きながら、俺は慎重に屋根を降りた。
■□■
なんとか夕暮れ前には戻ってこられた。
安堵感と心が弾むのとで、身が浮き立つような感覚に気分が高揚する。自分はこれから真っ当な人生をやり直すことができるのだ。その事実にどうしようもない幸福感が湧き出てくる。
─しかし、その熱せられた鉄の如き感覚は、冷水に掛けられたかのように一瞬にして冷まされることになる。
「……え」
待ち受けていたのは、残酷な現実と焦燥感だった。
素流道場の門前。そこには奉行所の人と近所の人達が集まっているのが見て取れる。
─そんな、まさか。
いくつも頭によぎる最悪の可能性。
そのたびに胃から込み上げてくるものを必死に抑え、フラフラと歩みを進める。
─やめろ、やめてくれ
─きっと、きっと何かの間違いだ
こちらに気づいた近所の人が駆けつけ、焦ったように口を開く。悪寒が止まらず、動悸が収まらない─
「獅子黒が剣術道場の奴らを半殺しにした!」
「………え??」
頭が理解する前に体が脱力し、膝から崩れ落ちる。絶望からではない。予想外の言葉に頭が情報を処理しきれず真っ白になったのだ。
「お前や慶蔵さんと直接やりあっても勝てないから、井戸に毒を入れようとしたのを獅子黒が止めたんだ!」
─井戸?毒?獅子黒が止めた?
点となった情報が結ばれ、徐々に実を結んでいった。
理解できたのは、剣術道場の連中が2人を殺そうとしたこと。獅子黒がそれを止めた事だけであった。
「……獅子黒は、師範は、恋雪さんは、今、どこに?」
ようやく絞り出した言葉を声に出す。
近所の人の案内で道場まで入ると、そこには師範が奉行所の人に事情を説明している姿があった。傍らには全身痣だらけで、包帯をぐるぐると巻かれている獅子黒の姿と、それを手当てしている恋雪の姿があった。
「ッ師範!獅子黒、恋雪さんッ!!」
「ん?おお、狛治!おかえり!」
「あ、おかえりなさい、狛治さん」
草履をぶっ飛ばして慌てて駆け寄ると、バツの悪そうな顔で獅子黒がそっぽを向いた。
「獅子黒…」
「………」
言うべきことはたくさんあるはずなのに言葉が出てこず、全てが堂々巡りとなってしまい、結局出てきたのは単純な言葉であった。
「…ありがとう。恋雪さんを、師範を、俺の大切な人をっ、守って、くれて…ありがとう…!!」
獅子黒の前で両膝をつき、頭を垂れて泣きじゃくりながらひたすらに謝意を述べ続けた。
「よかった…みんなが無事で…よかった…!!」
泣きじゃくる狛治を恋雪は黙って抱きしめ、慶蔵もまた無言で狛治の側にしゃがみこんだ。
■□■
その事件の詳細は、史上稀に見る「大喧嘩」として奉行所に記録が残されている。
素流道場の父娘への毒殺が失敗した後、門下生の1人が隣接する剣術道場を襲撃、67名を病院送りにした。
そして剣術道場は殺人未遂で解体・所払いを受けることになった。後に、主犯は剣術道場の現当主である跡取り息子であった事が発覚し、当主自ら殺人へ加担した事実と、剣術道場の度を超えた過去の嫌がらせを踏まえ、叙情酌量の余地ありと判断され、素流道場への責は不問とされた。
■□■
狛治と恋雪が結ばれてから早くも2年が過ぎようとしていた。2人は子供をもうけ、近所では有名なおしどり夫婦となっていた。
剣術道場が解体されてからというもの、素流道場には門下生が増え、今では20人を抱えるほどまで成長した。
素流道場の師範を素山恋雪の夫、素山狛治が務め、師範代を獅子黒が務めている。
今日も道場からは、稽古に励む門下生達の元気な声が響いている。
【獅子黒くんの見た目】
・白髪
・黒目
・慎重は狛治と同じ
・目つきは鋭い方
「なんで狛犬なのに『獅子』なんだ?」と思われた方も多い事でしょう。実は本来、お社を守る狛犬は阿形と吽形とで別れており、阿形が獅子、吽形が狛犬なのです。
ここからは蛇足にはなりますが、自分の解釈としては「犬は外へ出てしまうが、猫は住処に留まりたがるので犬が不在の間にお社を守った」となります。正直これをやりたかったが為にこの小説を書いたまであります。
以上、長々とお付き合い頂きありがとうございました。