新世界なおるり、のつもりです。
タイトル通りの出オチで、何も起こりません。積ん読を正当化するためだけの話です。
色々捏造していますので、苦手な方はくれぐれもご注意ください。
人称揺れについては原作ノベライズ版っぽい感じを目指したのですが、素人が手を出すものではないとよくわかりました。読みにくくてすみません。
執筆にあたり、京極夏彦先生の下記のインタビュー記事を参照させて頂きました:
https://fujinkoron.jp/articles/-/14316
「
それが、
堅書
「えぇー……」
思わず困惑が声に出てしまう。
いきなり何を言い出すんだ、この人は。
彼女特有の意味深な気性も、さすがに交際三年目ともなると予測可能と思っていた。けど、甘かったと思い知らされる。
何かの閾値を超えてしまったんだろうか。なにしろ二人とも、今は疲労困憊の極みだ。今年の夏はとんでもない猛暑で、僕達は受験生で、七五分×五コマの夏期補習をようやく終えて高校の教室を出たところで……と、確かにストレスフルな要素は揃っているのかもだけど。
「それはどういう、意味でしょうか。堅書さん」
校舎の廊下を並んで歩きながら、彼女が尋ねる。
どういう意味って何が……いや、それ、むしろ僕が訊こうとしてた台詞そのものなんだけど。
もしかして僕達、入れ替わってます?
とかなんとか、疲れた頭ではろくな返事が思い浮かばない。
思案する直実に追い打ちが掛かった。
「えぇー……と仰いましたよね、今。心底嫌そうに」
周囲の気温が急降下した、ように感じた。
「あ、いえ、」やらかした、と気づいて焦る。「その、どこからそんな話が出てき」
悪手だった。
「どこから?」間髪を入れず、畳み掛けられる。「今、どこから、と?」
空気が凍り付く。熱力学の第二法則をたやすく破る彼女の力は絶大だ。
けれど意外にも、続く彼女の言葉に、冷ややかさは感じられなかった。
「発端は堅書さんではありませんか」
怒りというよりは、憐憫に近い響きだった。身体の緊張が、少しだけ緩む。
どこか諭すような調子で、話は続く。
「今年は
「ああ……はい」
ああ。
確かに先週の金曜、そんな会話をした。
高三に進級すると同時に、受験が終わるまで本は週に一冊と断腸の思いで決めた。年間二〇〇冊が五二冊になった。一文字も読めない日も多くて、地味にストレス溜まりますよね、みたいな話をした。
したけれど。
した、けれ、ど…………?
怪訝な顔を見かねたのか、彼女が口を開く。
「大変、悩んでおられるようでしたので……わ、」
「わ?」
「わた、私なりに、その…………とっ、とにかく、本は買うだけでいい、のです」
最後、なぜか吐き捨てるように言い放った。
ええと、つまり。
考えを巡らせる。彼女の言葉と言葉を脳内で結びつける。因と果が、ようやく繋がる。
買うだけでいい、というのは。
どうやら、本が読めなくてつらいという悩みに対するアンサーらしく。
論拠はともかく、そういう概念を、直実はよく知っていた。
励まし。いたわり。慰め。助言。
つまり彼女は、一行さんは……僕を。
励ましてくれた……ってことなのか?
先週ちらっと話しただけのことを、もしかして週末もずっと考えてくれて。
補習が終わって開口一番、僕を慰めようとしてくれたのか。
胡乱な結論はひとまず置いておくとして、その心意気が、無性に嬉しい。
そうだった。彼女は、何に対しても真剣に対峙する人で。
だから、今回も。
こんなにも真摯に取り合ってくれて。
僕の、為に。
彼女の不器用な言葉、少し怒ったような口調、謎めいた表現技法、斬新な思考、すべてを心の中で反芻する。口数の少ない言葉に込められた途方もない情報量を思う。
ああ、やっぱり、僕は。
一行さんの、そういうところが。
「好きすぎる……」
「え」
やばい。心の声が漏れ出てしまった。
本の話が、ってことにしようかと逃げ腰になる。
……いや、ええと、こういう時は素直に感謝を伝えるべきだ。
交際三年目にもなって、誤魔化してどうする。
「や、その、ありがとうっていうか」
心の中で自分を殴る。「ていうか」はさすがにないだろう。感謝すらろくに言えない幼い自分が、情けなくなる。
頭を軽く振って、照れを吹き飛ばす。小さく息を吸い込む。
テイク2。
「……うん、ありがとう、です、一行さん」
自分に言い聞かせるように言う。
「察しが悪くてごめん……えっと、こんなに心配してもらって。なんか一行さんには、いつも励まされてばっかりな気がして。こんな幸せで、ほんとにいいのかなって」
早口になる。完全に勢いだけで言い終わって、時間差で顔に火がつく。
おずおずと隣に目をやる。
返事はない。表情も見えない。
最近急に背が伸びた直実にとって、こうして寄り添って歩いていると、見えるのは彼女の頭頂部だけだ。若干寂しいような愛おしいような、いつもの景色。
そのツインテールの分け目が。
ごくわずかにうつむいた気がした。
顔は見えなくても、その微かな動きは、とても雄弁で。
綺麗に
落ち着け。
こういう時は、素数を数えるんだっけ。……いや、それより。
一行さんの言葉の意味を、ちゃんと考えるべきなんじゃないかな。
本は、買うだけでいい──正直、まだ意味を掴みかねている。どこかで聞いたような気もするけど、なにかで読んだんだろうか。
「あー……や、その、なんかごめん、ええと、それにしても」
無意識に頭を掻き無意味に謝りながら、直実は尋ねる。冷静さが少しずつ戻ってくる。
「買うだけでいい……なんですね。その、読むだけでいい、とかじゃなくて」
「本がなかなか読めない、に対して、読むだけでいい、が回答になるとお思いですか」
彼女の口調もいつもの調子を取り戻している。むしろ、まだわずかに根に持っているような気もする。
「なりませんね……」
歩調を合わせてゆっくりと階段を下りる。賑やかな女子生徒達の集団が二人を追い抜いていく。
「そもそも、読むだけでいい、というのは至極当然のことで、つまりは宇宙の真理です」
「それはまあ、そう……です」
「読まれることこそ、書物の本懐でしょう。読むだけでは駄目な本など、この世に存在するでしょうか」
「いえ、存在しません」
よろしい、とでも言いたげに彼女(の頭頂部)は微かに頷く。
そうはいっても、と直実は考える。そこまで読書好きな彼女が、買うだけでいい、とはどういう意味なんだろう。自分なんかよりずっとたくさん本を読んで来た彼女が、そんなことを言うだろうか。
読まれることが書物の本懐ならば、積ん読は本懐を遂げてないことになるのでは。
などと考えながら一階まで下りる。アトリウムに歩を進める。ガラス張りの図書室をちらりと見る。後輩の図書委員達が書架に本を運んでいる。
「まさか、買いさえすれば一切読まなくていいってことじゃ……ない、です、よね」
恐る恐る疑問を口にする。一蹴される類の質問だとは、わかってるけど。
「そんなことは言っていません。短絡化しすぎです」
「う、すみません」
やっぱり。
「読めるのでしたら、読んだほうが良いに決まっています。ですが、どうしても読めない時、せめて買うだけでも、ええと、その……」
アトリウムの中央で、彼女は歩みを止める。そのまま言葉を探し始める。
直実も立ち止まる。一歩引いて向き直り、長考に入った彼女が戻るのを待つ。
背景ではフーコーの振り子がゆっくりと揺れて、ここが非慣性系であることを証明し続けている。固有の時間が流れる、二人だけの小さな宇宙。真剣に悩む横顔に、しばし魅入られる。
「……いい、のです」
戻って来た彼女は、ぼそりと呟いた。適切な言葉が見つからなかったのか、ちょっと悔しそうだった。
けれど、彼女のこういう口調は、何度聞いても良いもので。
孤高の狼が自分だけに見せてくれる表情が、そこにあって。
ふふ、と思わず笑みが漏れてしまう。
「一行さんにそう言ってもらえると、積ん読の罪悪感、ちょっと薄まる気がしますね」
「罪悪感など、不要です。……まったく、そういうところは堅書さんらしいなとは思いますが」
「はは、そうですかね……」
くるりと彼女がこちらに向き直る。切れ長な琥珀色の瞳に、まっすぐに射抜かれる。
「いいですか堅書さん。
右手の人差し指を立てて、突き出す。
「
言いながら、今度は左手の人差し指も立てる。
え、なんですかこの……反則級のかわいいポーズは。
「比べてみれば、一目瞭然です」
「買わずに読む? ……あ、これって、立ち読みじゃないですか!」
素っ頓狂な声が出てしまった。周囲の生徒達が振り返る。
ええ、と彼女がしたり顔で頷く。
「あ、もしかしたら万引きも、買わずに読む、の一種になるのかな」
「慧眼です。立ち読み、万引き……買わずに読む行為はいずれも絶対悪、許されざる蛮行です」
「まあ、そうですね」
万引きは論外として、立ち読みはやってしまうこともあるけれど……でもさすがに、試し読み程度だ。
「立ち読みや万引きの対義語が、積ん読なのです」
「対義語……」
「つまり
ふんす、と鼻息も荒く彼女は人類の新概念を披露する。屁理屈と言われればそうかもしれないけど、その主張には妙な説得力があった。
それに、こういう他愛のない言葉遊びは、二人の会話の定番で。
大真面目なやり取りが、最高に楽しい。
「なるほど……」
納得させられてしまった。満足げに昇降口に向かって歩き出した彼女の後を追う。
「それなら堂々と積めますね」
「積めば積むほど善いのです」
「もはやなんか功徳……」
「いかに高く美しく積むかを極めるのも楽しいものです」
本をジェンガのように高く積み上げるべく、図書室の脚立に果敢に挑む彼女の像が脳内に浮かんだ。
「さすがにそれは、本末転倒、ってやつでは……」一瞬、なんかうまいこと言えたような気がしたけど、よく考えたら全然言えてなかった。歩みを再開する。「あ、いや、なんでもないです」
本を積むのにも技術が必要なんですよ、と彼女は口を尖らせる。うん、それは知っている。図書委員の書架整理で散々鍛えられたし、本屋さんの店頭に美しく積まれた本はプロの仕事だ。
「でも、まあ、一行さんの言うことは現実問題としても真理だと思いますよ」昇降口でスニーカーに履き替えながら、話を続ける。「下世話な話ですけど、本を買えば確実に作者の印税になるわけで」
「ええ、作者も出版社も本屋さんも、商売ではありますし」
「新刊は初動が大事だって言いますしね」
そこまで言ってから、はたと気づく。
「あれ、じゃあ、図書館や古本屋は……どう考えたらいいのかな」
買うだけでいい、とは言っても、バイトもしてない高校生が買える本には限度がある。自分の読書量の大半は図書室や図書館、古書店によって賄われている。そして何より自分達は図書委員で、古本市を主催したりしている身だ。
「それは……うまく使い分ければ良いのでは。買わねばならない、とは誰も言っていません」
まあ、それはそうだよな、と思う。
うまく使い分ける。よしなにやる。適宜。臨機応変。
「そう、ですよね。やっぱり」
野暮な質問をしてしまったことを恥じる。
現実とはとても複雑なもので。
すべてに適用可能なシンプルな理念なんてものは、そうそうなくて。
「最近は本もすぐに絶版になってしまいますし、それに私達、まだ高校生ですから」
きっとそうやって、現実との折り合いをスマートに付けていくのが、大人になるってことなのかもしれなくて。
「図書館にも古本にもちゃんと存在意義はあるってことですね」
「堅書さんには図書委員としての矜持はないのですか」
「うぐ……すいません」
重ね重ね、立つ瀬がない。顔を伏せる。
「……ですが」
逆接の、接続詞。
思わず顔を上げて、おずおずと彼女を見る。
「私は、こうも思うのです」
昇降口の外に広がる世界を見据えたまま、彼女は続ける。
壁一面のガラスから射し込む西日が、アトリウム全体を照らしている。
「購入した書物には、図書館の蔵書からは得られないものがあります。物語を所有する喜び、です」
逆光の中で、黒髪のシルエットがかすかに揺れる。
「すぐに読めなくても、いえ、読めないからこそ、手に取って質量を感じ、装丁を
どこか夢見るような調子の彼女の語り口には、聞き覚えがあった。
鴨川のベンチ。リヤカー。冒険小説が好きだという、彼女の吐露。
あの日と同じ、静謐な、けれどたしかな情熱。
無口で自己開示が苦手な彼女が、饒舌になる瞬間。そこにあるのは小さな勇気の発露で。根底にはいつも、寄り添おうとするベクトルがあって。
「それは、」
ゆっくりと彼女が、こちらを振り返る。
「極上の幸せだと思いませんか、堅書さん」
西日が眩しくて、顔がよく見えない。目を細める。
「わかります、すごく」
うまい返事ができない。でも本当にその通りだと直実は思う。
彼女は静かに続ける。
「たとえ未読でも、まだ知らない新しい世界が手元にある。ページを開きさえすれば、いつでもそこに飛び込める。そう思うだけで、とても嬉しくなります。書物を宝物のように愛でたくなります」
言いながら彼女は、校舎の外に一歩踏み出す。
後に続いて、直実も外に出る。じっとりとした熱気に、たちまち汗が噴き出す。
光の中で、彼女は宣言する。
「いつか心置きなく読める日を想像して、それまで頑張ろう、と思えるのです」
すべてが腑に落ちる。
彼女の言葉が示すのは、買うだけでいい、の論拠で。
かつては自分もよく知っていたはずの。
けれど日々の忙しさの中で、いつしか見失ってしまっていた感情で。
それまで頑張ろう、という言葉は、自分に投げかけられた併走の誘いでもあって。
「だから、買うだけでいい、と」
「はい」
「……やっぱり、凄い。凄いですよ、一行さんは」
素直に思ったことを口にしてみる。
「え?」
「積み本を見て、一人でネガティブな気分になっていた僕とは大違いです」
「そう、でしょうか」
「ですよ。……図書館や古本も好きなんですけど、大人になったらもっとちゃんと本を買いたくなりました」
「年間二〇〇冊、ですか」
「さすがに二〇〇冊全部は……。あ、でも、どうなんだろう……」
一冊千円としても総額二〇万円か……高校生の身には途方もない金額だけど、大人になればそうでもないんだろうか。正直よくわからない。
「むしろ置き場が問題かも。そんなスペース、うちのアパートにはないですし」
「よろしければ、祖父の蔵をお使いになられては」
「ああ、あの蔵……って、え!?」
「二万冊はゆうに納まります。私の読む分と併せても、この先五〇年は安泰でしょう」
「えっ」
それって、どういう。
もはや、一行さんの家で、ええと、一緒に……いやいや、いくらなんでも深読みしすぎだ、と思い直す。そんなの、遥か先の、遠い未来の話で。まるで月面都市にでも住むみたいな、現実感のない話で。
理性が妄想にブレーキを掛ける。それきり会話が途切れる。蝉の声と放課後のざわめきだけが聞こえる。
ごめん、一行さん。どう返事をしたものか。
情けなさに落ち込む。
けれど、久々に話が弾んだ今日は、この沈黙を打破したくなる。校門までは数十メートル。話を繋ぐのが無理なら、せめて新たな話題を。
歩きながら、会話の糸口を探す。
そうだ、買うだけでいい、という言葉、どこかで聞いたような気がするんだよな……とスマホで検索するとすぐにヒットした。トップに表示されたのは、五年前に読んだインタビュー記事だった。タイトルにはずばり「本は、買うだけでいい」という文字列。
「あのですね、一行さんと同じこと言ってる作家がいるんです。今、思い出しました」
「えっ」
「ほら、これです」
立ち止まって画面を見せる。覗き込んだ彼女が目を丸くする。
「え、
「でしょう、ちょっとすごくないですか。僕達と同じ結論に達してるなんて」
彼女は無言のままこくこくと頷く。
「見てくださいよここ。枕にも踏み台にもなるって」
「踏み台……。さすがに、それは」
「はは、本を踏むのは抵抗ありますよね。僕も子供の頃、うっかり本をまたいで叱られました」
彼女と顔を突き合わせて、小さな画面を最後まで読む。五年前、中一で読んだ時はピンと来なかったけれど、今となってはとても勇気づけられる記事だった。
校門に向かって歩き出す。とりとめない会話は続いていく。
「京極先生の作品、堅書さんは、読まれたことがありますか」
「いえ、実はまだ、一冊も……」
「そうですか。私もです」
「あ、ちょっと安心しました。あの厚み、結構勇気いりますよね。図書室では人気でしたから、気にはなってたんですけど。まあ、受験、終わってからですかね……」
校門が近づく。
いつもながら、名残惜しさが募る。話が盛り上がった今日は、なおさらだった。
こうやって彼女と本の話をする時間が、たまらなく好きで。付き合い始めの頃とはまた違う、じんわりした愛おしさがあって。
このまま大学生に、大人になっても、ずっとこんな風に彼女と本の話をして生きていけたら。
きっと最高だと思う。
けど、大学生になった自分なんてまったく想像がつかない。ましてや五年後、十年後、自分はどこで何をしているんだろう。そして……僕の隣には、彼女はいるんだろうか。
まるで、わからない。
蔵の話が、まだ引っかかっている。将来に対する漠然とした不安が、常に心の底にある。
かつて、十年後の自分に会ったことがある。その人のことは先生と呼んでいた。最近は鏡に映る自分に、どこか先生の面影を感じることがある。けど、似てきたのは背丈と顔だけだ。結局、僕は……先生とは違う生き方を選んでしまった。未来が記された最強マニュアルはもう、手元にはない。目の前には茫洋とした白紙が広がっているだけだ。
まあ、先のことを考えてもしょうがない。まずは受験を突破しないことには何も始まらない。もし今ここに先生がいたら、きっと同じことを言うだろう。迷いなく最短経路で進み続けた、あの人なら。
思い出すと、心の奥が少し痛んだ。
ともかく、雑談はさっさと切り上げて、早く帰って勉強の続きをするしかない。
のだけど。
見上げると夕空に、一筋の飛行機雲が光っている。夏の終わりの光が世界を満たしている。
やっぱり、なんていうか、こんな日は。
もう少しだけ一行さんと、本の話を──
そんなことを考えながら校門を出たところで、彼女が不意に立ち止まった。堀川
「一行、さん?」
一緒に立ち止まる。額に汗が浮かぶ。
車の音。部活の掛け声。蝉時雨。
「……京極先生までもが、本は、買うだけでいいと」
「うん、良い記事でしたよね」
「ですから……ですから堅書さん、あの、」
真剣な表情。彼女の華奢な両手が、背負った鞄の肩ベルトをぎゅっと握り締めている。
ああ、と理解する。
言いたいことを、理屈ではなく、感覚的に理解する。
きっと同じことを彼女は考えていて、けれど、さらに僕の先を、彼女は見ていて。
逡巡する僕に、手を伸ばしてくれている。
併走の誘い。
続く言葉はわかっている。けれど無言で、待つ。それを言う彼女の表情、彼女の口調を、どうしても味わいたい、と思ってしまう。
そんな卑怯な僕の魂胆はもう、とっくにバレてるだろうけど。
彼女の小さな口が何度か、探した言葉の輪郭を確かめるような動きを見せて。
やがて。
「今日、これから、本を買いに行き……」ぎこちなく、言葉を発した。「……ませんか」
成るべき会話が、成った。そう感じた。
伸ばされた手に向かって。
直実は、飛んだ。
「行きましょう。ぜひ」満を持して応じる。「買ってやりましょう、一行さん」
彼女は表情を崩さない。けれど瞳に踊る喜びの光は隠しきれない。最大限に嬉しい時の顔だと直実は知っている。
「ええ、買って、積んでやりましょう、堅書さん」
声が弾んでいる。やりましょうの応酬。何度でも繰り返す、二人だけの愛おしい符牒。
調子に乗って、少しからかってみたくなる。
「一行さん」
「はい」
「積ん読は、一人でもなし得るものですけど……二人で、やってみましょうか」
「…………!!」
思ったとおりに彼女は、顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせる。
「か、堅書さん!」ようやく出した声は裏返っている。「で、ですから、あの、そういうのはやめてくださいと何度」
「ふふふ、やってやりました」
「もう…………しつこいですよ」
頬を膨らませるその仕草も含めて、最高に可愛い、と思う。
このネタは確かに何度もやっていて、そのたびに同じ反応を返されている。けれど、いつも彼女に頭が上がらない側の人間としては定期的に見たくなるし、初心を思い出させてくれて、何度見ても良いものだった。
まあまあ、いいじゃないですか、といなしながら。
さらにもう一歩、飛んでみる。不思議と、今日はどこまでも飛べる気がした。
「本を積んで、受験が終わったら二人で一気読みする、っていうのはどう、ですかね」
むっ、としていた彼女の顔に軽い驚きの色が浮かんだ。
「…………今日の堅書さんは、随分と冴えていますね。悔しいくらいに、素敵なアイディアです」
本当に悔しそうだ。なんでだ。
「うへへ、そうですかね」
「ついにその日が来て、本を開く瞬間……きっと、とても気持ちが良いだろうと思います」
一転して彼女は、嬉しい時のあの顔をした。すかさず、心のシャッターを連写する。
こうして、小さな約束を僕達は交わした。
この先、受験が無事に終わって、その先も。
十年後も。
五十年後も。
ずっとずっと本の話をしながら僕達が生きていけますように。
そんな密かな願掛けを、今日これから買う本に、こっそり託してみてもいいかな。
なんてふわふわしたことを、僕は思った。
「ふふ。で、どこに行きます? 一行さんの行きやすいところでいいですよ」
彼女は小首を傾げて考える。
「……たとえばですが、
「いいですね。
「では、それで」
四条烏丸ならバスでも行ける。けど、ちょっと味気ないな、と思っていると彼女が言った。
「お疲れでなければ、歩いていきましょうか」
直実は頷く。シンクロしたのか、見透かされていたのか。どっちにしても嬉しいことに変わりはない。
バス停を背にして、堀川通を南へ歩き始める。残暑は厳しいけれど、ビルに囲まれた夕空にはもう初秋の気配がある。季節は容赦なく、先へ先へ進もうとしている。
相変わらず未来は遥か先にあって、杳として、まるで見えない。
けど、もしかしたらそれは、積ん読と同じで。まだ読んでない本と同じで。
誰にも読まれたことのないたくさんの物語が、開かれるのを待っているのかもしれない。
決してそれは、憂うべきことなんかではなくて。積まれた物語の数だけ、期待も積み上がって。
今日のささやかな約束がある限り、悩み迷いながらもきっと僕達は、その日まで頑張ろうと思える。
何の根拠もないけれど、そう、強く感じた。
だから、一行さん。
今日は、もうちょっとだけ。
二人で本の話をしよう。
なんて口に出す度胸はなくて、けれど抑えきれずに、歩きながらそっと彼女の手に触れた。繋いで軽く握ると、応えるように小さな圧が返される。そのまま無言で互いの物理量をまさぐり合い、情報量を交換する。情報が増殖し、ループして、溢れ始める。
時よ止まれ。
夏の光がわずかに残る京都の空を見上げると、堅書直実は名残惜しそうに、小さく呟いた。
コメント・感想・批評、ブクマ/すき、いいね、マシュマロ、SNSシェアなど、頂けるとうれしいです! 本当に励みになります。
簡単な無記名アンケート・感想フォーム作りました。全問任意なのでご協力頂けるとうれしいです。https://forms.gle/E3GM8VYDLGAJNznb8
Pixivにも同時投稿しています:
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=25958773
PDF・EPUBダウンロードはこちら:
https://a-out.booth.pm/items/8163330
本作ネタバレありの「あとがき」を以下に書きました。
https://fusetter.com/tw/59bMYWNz
他にも『HELLO WORLD』の二次創作を書いています。だいぶ毛色が違いますが、よろしければ読んで頂けると幸いです。
・2027年7月2日20時57分24秒(3周年記念)
・「一条」さん
・エキセントリシティ(4周年記念)
・今日くらいは
・アルタラセンター26時
・ミッドサマーナイト・レコード(5周年記念)
・二次小説(HELLO WORLD二次創作としても読める)