青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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2.記録のできない心の、温度に触れる

 

 三月三日

 

 家に帰った頃には、外はすっかり暗くなっていた。

 

 上着を脱いで、鞄を床に置く。

 

 部屋の電気をつけると、机の上に置いたままの封筒が目に入った。

 

 新江ノ島水族館のチケット。

 

 昨日よりも少しだけ、白く見えた。

 

 「……」

 

 七里ヶ浜の海。

 

 波打ち際で笑っていた少女。

 

 見覚えのある顔。

 

 夢の中で見たはずの、けれど夢だけでは片づけられない顔。

 

 考えないようにしていたはずなのに、部屋に戻った途端、頭の奥でまたその輪郭が浮かび上がる。

 

 「……やめろ」

 

 小さく声に出す。

 

 考えたところで、答えなんて出ない。

 

 そう思ってスマホを机に置いた瞬間、画面が震えた。

 

 着信。

 

 表示された名前を見て、少しだけ息が止まる。

 

 豊浜のどか。

 

 「……」

 

 一拍だけ置いてから、通話ボタンを押した。

 

 「もしもし」

 

 「あ、出た」

 

 電話の向こうから、少し弾んだ声が聞こえた。

 

 その声を聞いた瞬間、胸の奥にあった冷たいものが、少しだけ溶ける。

 

 「どうした?」

 

 「どうしたって。別に用がないとかけちゃダメなの?」

 

 「いや、そういうわけじゃないけど」

 

 「ならいいじゃん」

 

 少しだけ拗ねたような声。

 

 けれど、機嫌が悪いわけではない。

 

 声の向こうに、外の音が混じっている。車の音。人の声。駅前のざわめき。

 

 「今、外か?」

 

 「うん。ライブの練習帰り」

 

 「遅くまで大変だな」

 

 「まあね。日曜日ライブあるし」

 

 そう言ってから、のどかは少しだけ間を空けた。

 

 「……来るよね?」

 

 「日曜日のやつ?」

 

 「そう」

 

 「行くよ。卯月からチケットもらった」

 

 「知ってる」

 

 即答だった。

 

 「知ってるのかよ」

 

 「卯月が、蓮真に押しつけたって言ってた」

 

 「押しつけた自覚あるんだな、あいつ」

 

 「あるんじゃない? 悪気はなさそうだったけど」

 

 「そこが一番厄介なんだよ」

 

 電話の向こうで、のどかが小さく笑った。

 

 その笑い方が、妙に近く聞こえる。

 

 「あと、古賀さんも来るんでしょ?」

 

 「……それも知ってるのか」

 

 「知ってる。卯月から聞いた」

 

 「情報網が完全に卯月だな」

 

 「卯月、言わなくていいことも普通に言うから」

 

 「否定できない」

 

 「でも、古賀さん来るんだ」

 

 声の調子が、ほんの少しだけ変わった。

 

 不満というほどではない。

 

 けれど、何も思っていないわけでもなさそうだった。

 

 「……まぁ流れでな」

 

 「ふーん」

 

 「何だよ、その声」

 

 「別に」

 

 そう言う時の別には、大抵別にではない。

 

 「のどか」

 

 「なに」

 

 「ちゃんと見るよ」

 

 少しだけ、電話の向こうが静かになる。

 

 「日曜日も。来週の土曜日も」

 

 「……来週の土曜日、バースデーライブだろ」

 

 言うと、のどかの息遣いがほんの少しだけ変わった。

 

 「……チケット、持ってるの?」

 

 「買ってある」

 

 「ほんとに?」

 

 「嘘ついてどうするんだよ」

 

 「いや……別に疑ってないけど」

 

 声が少しだけ柔らかくなる。

 

 「そっか。来るんだ」

 

 「行くよ。必ず」

 

 自分で言ってから、その言葉の重さに少しだけ気づく。

 

 必ず。

 

 未来の予定を、言葉にして固定する。

 

 そのことが、なぜか少しだけ怖かった。

 

 でも、言わない方がもっと違う気がした。

 

 「……ありがと」

 

 小さな声だった。

 

 帰りの雑踏の中で、その声だけが妙にはっきり聞こえた。

 

 「誕生日ライブだしな」

 

 「うん」

 

 「ちゃんと見に行く」

 

 「……うん」

 

 そこで会話が一度途切れる。

 

 沈黙。

 

 けれど、嫌な沈黙ではなかった。

 

 電話の向こうで、のどかが歩いている音がする。

 

 たぶん家までの道を歩いている。

 

 その姿を想像する。

 

 金色の髪を揺らして、少し疲れた顔で、それでもスマホを耳に当てているのどか。

 

 それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 

 「それでさ」

 

 「ん?」

 

 のどかの声が、少しだけ硬くなった。

 

 「デートだけど」

 

 「……ああ」

 

 机の上の封筒を見る。

 

 新江ノ島水族館。

 

 麻衣先輩から渡されたチケット。

 

 「十四日」

 

 「十四日?」

 

 「うん」

 

 少しだけ間が空く。

 

 「あたし、一日空けてあるから」

 

 「……」

 

 一瞬、言葉が出なかった。

 

 三月十四日。

 

 のどかの誕生日。

 

 「……いいのか?」

 

 「何が」

 

 「誕生日だろ」

 

 「だからでしょ」

 

 のどかは、少しだけ強がるように言った。

 

 「誕生日だから、空けてあるの」

 

 「……」

 

 「別に、無理にとは言ってないけど」

 

 その声は、全然、無理にとは言ってない声ではなかった。

 

 「行くよ」

 

 短く答える。

 

 電話の向こうで、のどかが黙る。

 

 「十四日、空けておく」

 

 「……ほんとに?」

 

 「ほんとに」

 

 「一日?」

 

 「一日」

 

 「途中でバイトとか入れない?」

 

 「入れない」

 

 「塾も?」

 

 「入れない」

 

 「卯月に呼ばれても?」

 

 「行くわけないだろ」

 

 「……ふーん」

 

 少しだけ満足そうな声。

 

 「なんだよ」

 

 「別に」

 

 またその別にだった。

 

 けれど、今度の別には、少しだけ嬉しそうだった。

 

 「じゃあ、十四日」

 

 「ああ」

 

 「あたしの誕生日、ちゃんと空けといてね」

 

 「分かった」

 

 「忘れたら怒るから」

 

 「忘れるわけないだろ」

 

 言ってから、少しだけ息が止まる。

 

 忘れる。

 

 その言葉が、妙に引っかかった。

 

 忘れるわけがない。そう言いたい。

 

 でも俺は、知っている。

 

 人は忘れる。忘れたくなくても、記憶は欠ける。

 

 時間の中で、心の温度だけが剥がれ落ちることがある。

 

 「……」

 

 「蓮真?」

 

 のどかの声で、意識が戻る。

 

 「……悪い。ちょっとぼーっとしてた」

 

 「疲れてる?」

 

 「少しだけな」

 

 「ちゃんと寝なよ」

 

 「のどかもな。練習帰りだろ」

 

 「あたしは大丈夫」

 

 「そう言うやつほど大丈夫じゃない」

 

 「それ、蓮真に言われたくないんだけど」

 

 「お互い様だな」

 

 電話の向こうで、のどかが小さく笑った。

 

 その声を聞いて、ようやく少しだけ呼吸が戻る。

 

 「じゃあ、日曜日」

 

 「ああ。ライブ、楽しみにしてる」

 

 「ちゃんと見ててよ」

 

 「見てる」

 

 「あたしのこと」

 

 「……見るよ」

 

 少しだけ間が空いた。

 

 「……うん」

 

 それだけ言って、のどかは少しだけ照れたように息を吐いた。

 

 「じゃあね、蓮真」

 

 「ああ。気をつけて帰れよ、のどか」

 

 通話が切れる。

 

 画面が暗くなる。部屋の中が、急に静かになった。

 

 「……」

 

 スマホを机に置く。

 

 水族館のチケット。

 

 日曜日のライブ。

 

 来週土曜日のバースデーライブ。

 

 そして、三月十四日のデート。

 

 予定が増えていく。

 

 未来が、少しずつ形を持っていく。

 

 それは本来、嬉しいことのはずだった。

 

 実際、嬉しい。

 

 のどかが自分の誕生日を一日空けてくれたことも。

 

 その日に会いたいと言ってくれたことも。

 

 全部、ちゃんと嬉しかった。

 

 なのに。

 

 「……」

 

 胸の奥で、また小さく軋む音がした。

 

 幸福な予定が増えるたびに、何かが重くなる。

 

 失いたくないものが増えるたびに、世界の輪郭が少しずつ揺らぐ。

 

 机の上のチケットを、指先でそっと押さえる。

 

 紙は、ちゃんとそこにあった。

 

 十四日。

 

 のどかの誕生日。

 

 その日が、ちゃんと来ると信じたい。

 

 来てほしいと、思った。

 

 けれど。七里ヶ浜の波音が、まだ耳の奥に残っていた。

 

 三月五日

 

 日曜日の昼過ぎ。

 

 俺は小田急線の車内で、向かい側に座る古賀と花楓ちゃんを見ていた。

 

 休日の新宿方面行きは、それなりに混んでいる。

 

 買い物帰りらしい人、遊びに行くらしい学生、ライブTシャツを着たままのやつ。

 

 その中で、古賀が窓の外を見ながら小さく息を吐いた。

 

 「いやぁ……やっぱ新宿って緊張するんだよね」

 

 「なんでだよ?」

 

 「だって迷うじゃん、あそこ」

 

 「それ、分かります」

 

 花楓ちゃんが静かに頷く。

 

 「私も高校が新宿なのに、未だに時々迷います」

 

 「あー、分かる!」

 

 古賀がすぐに食いついた。

 

 「地下とかほんとヤバくない!? 気づいたら全然違う出口いるし!」

 

 「あります……」

 

 花楓ちゃんも真剣に頷いている。

 

 通信制高校のキャンパスが新宿にあるから、都内へ出ることも多いのだろう。

 

 それでも、新宿だけは別らしい。

 

 「きっしー先輩は普通に歩いてそうだよね」

 

 古賀がこちらを見る。

 

 「東京出身だし、やっぱ慣れてる感じ?」

 

 「……まぁ、それなりにはな」

 

 そう返す。

 

 小さい頃から都内を電車で移動していた感覚は残っている。

 

 新宿も、渋谷も、池袋も、巨大な駅として認識している。

 

 好きかと言われると別だが。

 

 「いいなぁ東京育ち」

 

 古賀がぼやく。

 

 「福岡だと、あんなダンジョンみたいな駅ないし」

 

 「朋絵さん、福岡なんですよね」

 

 花楓ちゃんが少し興味深そうに言った。

 

 「うん。中学までは福岡」

 

 花楓ちゃんは少しだけ目を丸くする。

 

 「私、福岡行ったことないので、いつか行ってみたいです」

 

 「あ、ほんと?」

 

 古賀が少し嬉しそうに笑う。

 

 「屋台とか有名ですし」

 

 「あとラーメンね!」

 

 「食べてみたいです」

 

 「絶対おいしいよ。今度おすすめ教えるね」

 

 「お願いします」

 

 二人の会話を聞きながら、少しだけ息を抜く。

 

 古賀と花楓ちゃんは、性格そのものはそこまで似ていない。

 

 でも、相手との距離の詰め方が急すぎないところは噛み合っている。

 

 古賀は空気を読む。

 

 花楓ちゃんは無理に踏み込まない。

 

 だから、変にぶつからない。

 

 「ていうかさ」

 

 古賀がこちらを見た。

 

 「今日のきっしー先輩、普通に案内係だよね」

 

 「勝手に決めるな」

 

 「でも道分かるんでしょ?」

 

 「分かるけど」

 

 「じゃあ案内係じゃん」

 

 「雑だな……」

 

 そんな話をしているうちに、新宿駅へ到着するアナウンスが流れた。

 

 電車が減速する。

 

 窓の外に、高層ビル群が見え始める。

 

 花楓ちゃんが少しだけ姿勢を正した。

 

 「……やっぱり新宿って大きいですね」

 

 「人も多いしねぇ」

 

 古賀が苦笑する。

 

 「絶対一人だったら迷う」

 

 「それは俺も否定しない」

 

 「え、きっしー先輩でも?」

 

 「新宿は油断すると普通に迷う」

 

 「安心した」

 

 何に安心したのかは分からない。

 

 改札を抜け、人の流れに合わせて歩く。

 

 日曜日の新宿は騒がしかった。

 

 大型ビジョンの音。客引きの声。観光客の会話。

 

 歌舞伎町方面へ向かうと、さらに空気が変わる。

 

 花楓ちゃんが少しだけこちらへ近づいた。

 

 「……この辺、ちょっと怖いですね」

 

 「まあ、歌舞伎町だからな」

 

 「昼なのに派手だよねぇ」

 

 古賀も周囲を見回している。

 

 そのまま歌舞伎町タワーへ入る。

 

 ガラス張りのエントランスを抜け、エスカレーターで上へ。

 

 ライブフロア付近には、すでにスイートバレット目当てらしい人たちが集まり始めていた。

 

 「わ、本当にライブハウスだ」

 

 古賀が少しテンションを上げる。

 

 花楓ちゃんも周囲を見回していた。

 

 「思ったより広いですね」

 

 「Zeppだからな」

 

 そう返したところで、

 

 「あれ、蓮真くん?」

 

 聞き覚えのある声がした。

 

 振り向く。

 

 そこにいたのは、卯月のお母さんだった。

 

 「こんにちは」

 

 花楓ちゃんが自然に頭を下げる。

 

 「こんにちは、花楓ちゃん」

 

 卯月のお母さんも慣れた様子で返した。

 

 二人は以前から面識がある。

 

 「こちら、私のアルバイト先の先輩で」

 

 花楓ちゃんが古賀を見る。

 

 「古賀朋絵さんです」

 

 「あ、初めまして!」

 

 古賀が慌てて頭を下げた。

 

 「古賀朋絵です」

 

 「初めまして、卯月の母です」

 

 柔らかく笑ってから、少し肩をすくめる。

 

 「卯月が強引に誘っちゃったみたいで、ごめんね?」

 

 「いえ!」

 

 古賀はすぐに首を振った。

 

 「花楓ちゃんから、前からスイートバレットのライブ誘われてたので、すごく楽しみです!」

 

 「あら、なら良かった」

 

 卯月のお母さんは、安心したように笑った。

 

 その横で、俺は少しだけ言葉を探していた。

 

 卯月を振った。しかも、そのあとにのどかを選んでいる。

 

 この人が気にしていないわけがない……

 

 そう思っていた。

 

 「……あの」

 

 気づけば、自分から口を開いていた。

 

 「卯月のこと、その……」

 

 言葉を選びかけたところで、

 

 「そんな気にしなくていいのに」

 

 卯月のお母さんが、あっさり言った。

 

 「え?」

 

 「蓮真くんが決めたことでしょ?」

 

 その口調は、本当に自然だった。

 

 責める感じが、まるでない。

 

 「卯月も、吹っ切れてそうだし」

 

 「……」

 

 むしろ、こっちの方が整理しきれていないみたいだった。

 

 「それより」

 

 卯月のお母さんが少しだけ真面目な顔になる。

 

 「のどかちゃん、大事にするのよ?」

 

 「……はい」

 

 自然とそう返していた。

 

 「あと、何か困ったら普通に頼ってね」

 

 「え?」

 

 「車も出せるし」

 

 さらっと続ける。

 

 「私、スイートバレットのマネージャーさんとも仲いいから、話通しやすいし」

 

 「……ありがとうございます」

 

 一瞬だけ言葉に詰まる。

 

 芸能界側の大人だった。

 

 感情だけで動いていない。

 

 誰が誰を選んで、どう折り合いをつけたのかを理解した上で話している。

 

 だから余計に、少しだけ救われる。

 

 「青春って大変ねぇ」

 

 卯月のお母さんが笑う。

 

 「他人事みたいに言わないでくださいよ」

 

 「だってもう当事者じゃないもの」

 

 あっさり返される。

 

 その空気に、古賀が少しだけ笑った。

 

 花楓ちゃんも、どこか安心したように小さく息を吐いていた。

 

 ライブ開場のアナウンスが流れる。

 

 周囲の空気が少しずつ動き始める。

 

 その中で俺は、小さく息を吐いた。

 

 少なくとも今は、まだちゃんと日常の中にいる。

 

 そう思いたかった。

 

 ライブが始まる直前、フロアの熱気はすでにかなりのものだった。

 

 薄暗い会場。

 

 人の声と、スピーカーの低音が床を震わせている。

 

 古賀は少し落ち着かない様子で周囲を見回していた。

 

 「うわ……ライブハウスってこんな感じなんだ」

 

 「今日も人、多いですね……」

 

 花楓ちゃんも、少しだけ緊張した様子でステージを見ている。

 

 俺はそんな二人の少し前、人混みの端に立っていた。

 

 ステージの照明が落ちる。

 

 一瞬、会場が暗闇に沈む。

 

 その直後。歓声。

 

 ライトが一気に点灯した。

 

 ステージ中央に、五人の姿が浮かび上がる。

 

 センターは卯月。

 

 その隣に、のどかと安濃さん。

 

 後方には、岡崎ほたると中郷蘭子。

 

 五人が光の中に並ぶ。

 

 イントロが流れた。

 

 電子音とドラムが重なり、会場の空気が一気に跳ねる。

 

 タイトルは、『ミューズになっちゃう』

 

 >元気ないじゃん ほらだんだん

 

 >ミューズになっちゃう Da Da Da Da Dance!

 

 観客の歓声が一斉に上がる。

 

 床が揺れた気がした。

 

 卯月がマイクを握り、明るい笑顔で前へ出る。

 

 「いくよー!!」

 

 その声に、客席が応える。

 

 卯月はセンターで軽やかにステップを踏みながら、観客を巻き込むように手を振る。

 

 自然と目を引く。

 

 センターとして立つことに、もう完全に慣れている動きだった。

 

 中郷さんは、後方から柔らかな笑顔で全体を支えている。

 

 派手すぎない。

 

 でも、視線を向けると安心するような存在感があった。

 

 安濃さんは逆に、クールな目線でカメラへ視線を流す。

 

 曲のリズムに合わせて、少し挑発的にウィンクを飛ばすたび、客席のあちこちから歓声が飛ぶ。

 

 そして岡崎さん。

 

 五人の中で一番小柄で、動きもどこか子供っぽい。

 

 ぴょこぴょこと跳ねるようなステップで、全身を使って楽しそうに踊っている。

 

 振り付けの一つ一つが大きくて、感情がそのまま身体に出ている感じだった。

 

 観客へ向ける笑顔も、どこか無邪気で。

 

 たぶん本人は計算していない。

 

 そしてのどか。

 

 ライトを浴びて踊るその姿に、視線が止まる。

 

 金色の髪が照明を反射して揺れる。

 

 細い身体。

 

 けれど、ただ細いだけじゃない。

 

 芯がある。

 

 ターンするたび、ステージの光が髪に流れていく。

 

 そのまま、笑う。

 

 アイドルとして作った笑顔。

 

 なのに、その奥に、普段俺に見せる表情が時々混ざる気がした。

 

 「……」

 

 胸の奥が少しだけ熱くなる。

 

 客席から見れば、ただのアイドルだ。

 

 でも俺は知っている。

 

 強がるところも。自信が揺らぐところも。姉と比べられて傷ついていたことも。

 

 それでも前に立ち続けていることも。

 

 だから……

 

 「……何考えてんだよ、俺」

 

 小さく呟く。

 

 ステージの上で踊るのどかを見ながら、見惚れている自分に気づいてしまった。

 

 曲が進む。

 

 照明が切り替わり、五人の立ち位置が変わる。

 

 卯月がセンターで回る。

 

 のどかがその横へ滑り込み、観客へ向けて笑う。

 

 歓声が上がる。

 

 その声に応えるみたいに、のどかはさらに強くステージを踏み込んだ。

 

 間奏。ドラムが抜け、照明が少し落ちる。MCに入る空気へ変わる。

 

 卯月が前へ出て、マイクを握り、満面の笑みで叫ぶ。

 

 「今日はZepp Shinjuku、最後まで盛り上がっていくよー!!」

 

 歓声が返る。その熱気の中で、卯月は横を見た。

 

 「ねえねえ、今日どかちゃんさー」

 

 「ちょ、なによ」

 

 「開演前からずっとソワソワしてたよね?」

 

 「してないし」

 

 「してたってー。なんか、来るかな……みたいな顔で入口の方めっちゃ見てたし」

 

 客席がざわつく。のどかの顔が一気に険しくなった。

 

 「卯月」

 

 「え?」

 

 「それ以上言うな」

 

 「えー?でもだって」

 

 卯月は悪びれもせず、客席を見回す。

 

 「今日、き」

 

 「はいストーップ」

 

 その瞬間、安濃さんがすっと前に出た。

 

 マイクを持ったまま、卯月の肩を軽く引く。

 

 「そこから先は色々危ないからねー?」

 

 客席から笑いが起きる。卯月は本気で不思議そうな顔をした。

 

 「え、なんで?」

 

 「なんでじゃないつうの」

 

 のどかが即座にツッコむ。

 

 「普通にダメだから!」

 

 「でも来てくれてるんでしょ?」

 

 「そういう問題じゃない!」

 

 「えー?」

 

 卯月は納得していない顔だった。

 

 その空気を見て、中郷さんがふっと笑う。

 

 「まあまあ。でも今日は、どかちゃんのお姉ちゃん来る日だもんね〜?」

 

 その瞬間。会場の空気が、目に見えて揺れた。

 

 「えっ」

 

 「マジ?」

 

 「桜島麻衣来てんの!?」

 

 ざわめきが一気に広がる。

 

 後方の観客たちまで振り返り始め、客席が妙な熱を持ち始めた。

 

 「天下の桜島麻衣さんだもんねぇ」

 

 中郷さんが笑いながら続けると、さらにどよめきが広がる。

 

 「うわ、本当に!?」

 

 「どこ!?」

 

 「関係者席!?」

 

 客席の視線が一斉に周囲へ流れ始める。

 

 その様子を見て、少し後ろにいた古賀が驚いた顔でこちらを見た。

 

 「え、きっしー先輩」

 

 「ん?」

 

 「今日って桜島先輩も来てるの?」

 

 「……いや、違うぞ」

 

 小さく返す。古賀がきょとんとした。

 

 「違うの?」

 

 「たぶん、中郷さんが空気読んで誤魔化しただけ」

 

 「あー……」

 

 古賀は納得したように頷く。

 

 「確かにあれ以上言ったらヤバそうだったもんね」

 

 「まあな」

 

 実際、安濃さんが止めていなければ、卯月は普通に名前を出していた気がする。

 

 悪意なんて、一切なく。

 

 ステージの上では、中郷さんがさらに笑いながら続けていた。

 

 「ほらほら、みんな探さないの〜」

 

 「えー!」

 

 「いたら普通に怖いからね?」

 

 客席からまた笑いが起きる。

 

 のどかは顔を赤くしたまま、片手で額を押さえていた。

 

 「ほんと勘弁して……」

 

 卯月はまだ納得していない顔だった。

 

 「えー、でも別によくない?」

 

 「よくないの!」

 

 「なんで?」

 

 「なんでじゃない!」

 

 安濃さんが苦笑する。

 

 「ほら、卯月はその辺ほんとナチュラルに地雷踏むから」

 

 「地雷?」

 

 「うん。しかも笑顔で踏むタイプ」

 

 客席がまた笑う。

 

 その様子を見ながら、客席の端で小さく息を止める。

 

 今、確かに出かけた。

 

 自分の名前が。ステージの上で。

 

 ライトの下で笑う卯月の口から。

 

 「……」

 

 妙な感覚だった。

 

 自分はずっと、少し離れた場所から見ている側のつもりだった。

 

 麻衣先輩の時も。咲太たちの時も。

 

 観測者でいるつもりだった。

 

 なのに今は、そのステージの内側に、自分の名前だけが触れかけていた。

 

 「……ほんと、卯月らしい」

 

 小さく呟く。

 

 でも同時に。名前を出されかけた瞬間、心臓が少しだけ跳ねた理由を、まだうまく整理できなかった。

 

 ライブ後、まだ耳の奥に低音の余韻が残っていた。

 

 フロアから出ると、卯月のお母さんがこちらへ手招きしていた。

 

 「三人ともせっかくだし、少し顔出していく?」

 

 「え、いいんですか?」

 

 古賀が驚いたように聞く。

 

 「大丈夫大丈夫。話は通してあるから」

 

 卯月のお母さんは、そう言ってさらっと歩き出す。

 

 さすがに慣れている。

 

 俺たちは顔を見合わせてから、その後を追った。

 

 関係者用の通路を抜けると、控室前の廊下に出る。

 

 スタッフが行き来していて、さっきまでステージにいた熱気とは少し違う、裏側の空気があった。

 

 扉が開く。中から最初に顔を出したのは、卯月だった。

 

 「あ、きっしー!」

 

 見つけた瞬間、ぱっと笑う。

 

 「やっぱりちゃんと来てた!」

 

 「そりゃ、チケット押し付けられたからな」

 

 「押し付けてないよ。渡しただけだよ」

 

 「言い方変えただけだろ」

 

 卯月は気にした様子もなく笑った。

 

 それから、俺の後ろにいる二人に目を向ける。

 

 「花楓ちゃん!それに朋絵ちゃんも、ありがとう来てくれて!」

 

 「はい。すごく楽しかったです」

 

 花楓ちゃんが少し緊張しながらも、きちんと頭を下げる。

 

 古賀もぱっと笑った。

 

 「づっきーのパフォーマンス、すごく良かった!」

 

 「あ、ほんと!?」

 

 「はい。皆さんも、すごくかっこよかったです」

 

 古賀が少し慌てて付け加えると、控室にいたメンバーたちが笑う。

 

 「ありがとー」

 

 岡崎さんが明るく返した。中郷さんも、柔らかく頷く。

 

 「初ライブハウスでそれ言えるの偉いね〜」

 

 「いや、ほんとにすごかったので」

 

 古賀は少し照れたように言った。

 

 その横で、のどかが軽く腕を組んでいた。

 

 「古賀さん」

 

 「はい?」

 

 「卯月のペースにあんまり飲み込まれないでね」

 

 「え?」

 

 「気づいたら勝手に巻き込まれてるから」

 

 「え、のどかひどい!」

 

 卯月が不満そうに声を上げる。

 

 その瞬間、岡崎さんが笑いながら手を挙げた。

 

 「でもづっきー、ほんとに悪気なく巻き込むよね」

 

 「ほたるまで!?」

 

 「そうそう」

 

 中郷さんも乗る。

 

 「あと、きっしーくんの名前はステージで出さないようにね〜」

 

 「はーい」

 

 卯月が素直に返事をする。あまりにも軽い。

 

 すると、卯月のお母さんが少しだけ声を低くした。

 

 「卯月」

 

 「何?お母さん」

 

 「そこは本当に気をつけなさい。のどかちゃんにも、蓮真くんにも迷惑がかかるから」

 

 「……はい」

 

 今度はちゃんと真面目な返事だった。

 

 のどかが小さく息を吐く。

 

 「ほんと、頼むからね」

 

 「分かってるってー」

 

 「その返事が一番信用ならない」

 

 控室に笑いが広がる。

 

 その空気の中で、俺は少しだけ壁際に立っていた。

 

 メンバーたちはタオルで汗を拭いたり、水を飲んだりしながら、花楓ちゃんや古賀と話している。

 

 のどかも、さっきまでステージで見せていた表情とは違う、少し気の抜けた顔をしていた。

 

 その姿を見て、少しだけ安心する。

 

 けれど。

 

 「……」

 

 不意に、安濃さんと目が合った。

 

 思わず、視線を逸らしかける。

 

 以前、彼女に言われた言葉が頭をよぎった。

 

 ——どっちか泣かせたら、サブリの私が許さないけど。

 

 あの時は、冗談半分のようでいて、目は笑っていなかった。

 

 卯月を振った。のどかを選んだ。

 

 逃げずに話したつもりではある。

 

 それでも、後ろめたさが完全に消えるわけではなかった。

 

 「きっしーくん、どうしたの?」

 

 安濃さんが近づいてくる。

 

 「もしかしてさ、私のこと怖がってんの?」

 

 「……いや」

 

 「いやって顔じゃないけど」

 

 「まあ……そりゃあ」

 

 言い淀むと、安濃さんは少しだけ肩をすくめた。

 

 「私、前に言ったでしょ」

 

 「……」

 

 「中途半端に距離を取らない。中途半端に優しくしない」

 

 その言葉に、自然と背筋が伸びる。

 

 安濃さんは、控室の奥で古賀と話している卯月の方へ視線を向けた。

 

 「逃げないなら、味方するって」

 

 「……」

 

 「卯月も、多分傷つかなかったわけじゃないと思うよ」

 

 その声は、いつもより少しだけ低かった。

 

 「多分、まだ強がってるのも分かる」

 

 「……ああ」

 

 「でも、岸和田くんが逃げなかったなら」

 

 安濃さんがこちらを見る。

 

 「ちゃんと二人と話をつけたなら、それでいい」

 

 責める口調ではなかった。ただ、確認するような言い方だった。

 

 「まあ、みんながなんかバラバラになりそうになったら支えるのが、サブリの私にできることだから」

 

 そう言って、安濃さんは少しだけ笑った。

 

 しっかり者で、少し怖くて。でも、本当に見ているところは外さない。

 

 安濃さんらしい言葉だった。

 

 「……悪いな、ほんとに」

 

 思わずそう言うと、安濃さんは眉を上げた。

 

 「別に謝ってほしいわけじゃないから」

 

 「……」

 

 少しだけ言葉を直す。

 

 「ありがとう、安濃さん」

 

 「うん。それでいい」

 

 安濃さんは満足したように頷いて、それから、少しだけ声を柔らかくする。

 

 「ちゃんとのどかを大事にするんだよ」

 

 「……分かってる」

 

 そう答えると、安濃さんは小さく笑った。

 

 「ならよし」

 

 控室の向こうでは、卯月が古賀に何かを熱心に話していて、花楓ちゃんがその横で控えめに笑っていた。

 

 のどかはそんな三人を見て、呆れたようにしながらも、どこか安心した顔をしている。

 

 その光景を見ながら、俺はもう一度だけ小さく息を吐いた。

 

 まだ、全部が綺麗に片づいたわけじゃない。

 

 けれど少なくとも、今ここにあるものは壊れていない。

 

 そう思えた。

 

 三月七日

 

 夕方五時からの授業に間に合うように、俺は塾へ入った。

 

 受付の奥では、いつもより少しだけ慌ただしい空気が流れていた。

 

 電話を取る先生に、パソコンの画面を見ながら、何かをメモしている先生。奥の教室からは、いつものように生徒の声が聞こえてくる。

 

 けれど、どこか空気が硬い。

 

 「今日、発表多いんですっけ」

 

 小さく呟くと、近くにいた先生が頷いた。

 

 「ええ。何人か連絡待ちです」

 

 「ああ……」

 

 そういえば、そういう時期だった。

 

 ちょうど一年前。

 

 俺も、横浜市立大学の合格発表を見た。

 

 場所は、新宿のカフェ。

 

 向かいには、のどかがいた。

 

 スマホの画面を開いて、受験番号を探して。

 

 あの時、のどかは俺よりも少しだけ緊張した顔をしていた気がする。

 

 そして、画面に合格の文字が出た瞬間。

 

 「……よかった」

 

 そう呟いた俺の前で、のどかが「やった!受かった!」と声を弾ませ、すぐにスマホをこちらに突き出して、それからふっと笑った。

 

 その顔を、今でも覚えている。

 

 そのあとだった。

 

 なぜか通信制高校の制服を着た卯月が、どこからともなく現れた。

 

 「じゃーん!」

 

 いつもの調子で、スマホの画面をこちらに突きつけてきた。

 

 「受かった!」

 

 意味が分からなかった。

 

 そもそも、なぜ制服なのかも最初は分からなかった。

 

 けれど、画面に映っていた結果は確かに合格で。

 

 のどかが呆れた顔で「休日だよ卯月?」と言い、卯月が「今日ぐらいは“現役感”大事にしたくて!」と答えていた。

 

 あの日の空気を思い出して、少しだけ口元が緩む。

 

 四月になれば、俺も大学二年生になる。

 

 のどかも、卯月も。

 

 咲太も、麻衣先輩も。

 

 普通なら、ただ次の一年へ進むだけの時期だった。

 

 「……」

 

 けれど、そう簡単には思えない。

 

 クリスマスイブに、咲太と赤城が見たという夢。

 

 それから、SNSに次々と書き込まれていた、#夢見るの投稿。

 

 沢山の人が同じものを見たという、おかしな夢。

 

 やたらとリアルだったという夢。

 

 四月一日。

 

 横浜赤レンガ倉庫で行われる音楽フェスのステージで、麻衣先輩がこう告げる。

 

 ——私が、霧島透子なんです

 

 そんな夢。

 

 それだけなら、奇妙な集団幻覚で終わったかもしれない。

 

 けれどそれだけじゃない。

 

 可能性の世界から、赤城に届いたメッセージ。

 

 ——霧島透子を探せ。

 

 ——麻衣さんが危ない。

 

 二月四日。

 

 麻衣先輩の一日警察署長イベントは、どうにか乗り越えた。

 

 それでも、引っかかりは残っている。

 

 霧島透子。

 

 その名前が出るたびに、胸の奥が妙にざわつく。

 

 理由は分からない。理屈もない。

 

 けれど、完全に他人の名前として流せない。

 

 まるで、思い出せない記憶だけが、舌の奥に引っかかっているみたいだった。

 

 もし麻衣先輩にまた何かあったら。

 

 のどかは、きっと心配する。

 

 麻衣先輩は、のどかにとって姉で。そして、のどかがずっと追いかけてきた人でもある。

 

 「……」

 

 それに、もう一つ。

 

 ほとんどの人間がクリスマスイブに夢を見た。

 

 咲太も、麻衣先輩も、のどかも、卯月も。

 

 けれど、俺は見ていない。

 

 その理由は、まだ分からないままだった。

 

 夢を見なかったのか。それとも、見たことを忘れているのか。

 

 そこを考えようとすると、頭の奥が少しだけ重くなる。

 

 「岸和田」

 

 声をかけられて顔を上げる。

 

 双葉だった。

 

 いつの間に来ていたのか、鞄を肩にかけたまま、こちらを見ている。

 

 「ぼーっとしてるけど、授業前じゃないの」

 

 「……ああ」

 

 時計を見る。

 

 五時前。授業までは、まだ少しある。

 

 「双葉」

 

 「なに」

 

 「授業終わった後、時間あるか?」

 

 双葉は一瞬だけ目を細めた。

 

 「内容によるけど」

 

 「霧島透子のことを、少し整理したい」

 

 その名前を出した瞬間、双葉の表情が少しだけ変わった。

 

 驚きではない。

 

 興味と警戒が混ざった顔だった。

 

 「……いいけど」

 

 「助かる。感情論じゃなくて理屈で話してもらえるとありがたい」

 

 「わかった」

 

 双葉は小さく息を吐いた。

 

 「なら、授業後で」

 

 そう言って、彼女は教室の方へ歩いていった。

 

 その背中を見ながら、俺はもう一度、胸の奥に引っかかっている名前を思い浮かべる。

 

 霧島透子。

 

 なぜ、その名前がこんなにも気になるのか。

 

 まだ分からない。分からないまま、授業開始のチャイムが鳴った。

 

 授業が終わった頃には、外はすっかり暗くなっていた。

 

 塾を出て、駅前のファミレスへ入る。

 

 店内は夕食時で、それなりに混んでいた。

 

 「いらっしゃいませ」

 

 聞き覚えのある声に顔を上げる。

 

 「……あ」

 

 そこにいたのは、姫路紗良だった。

 

 制服姿のまま、ぱちぱちと目を瞬かせる。

 

 「あ、蓮真先生。理央先生」

 

 「姫路さん、ここでバイトしてたんだ」

 

 双葉が少し意外そうに言う。

 

 「はい!」

 

 姫路さんは嬉しそうに頷いた。

 

 「似合ってますか?この制服」

 

 「似合ってるよ」

 

 双葉が即答すると、姫路さんはぱっと顔を明るくした。

 

 「やった」

 

 それから、急にこちらを見る。

 

 「それより蓮真先生、こんな時間に理央先生と、もしかして浮気ですか?」

 

 「語弊があるからやめろ。それに俺にはもう、のど」

 

 言いかけたところで、姫路さんが吹き出した。

 

 「冗談ですよ、蓮真先生」

 

 「お前な……」

 

 「じゃあこちらへどうぞ」

 

 完全に楽しんでいた。

 

 席へ案内され、双葉と向かい合って座る。

 

 同じようにパスタを注文して、料理が来るまで水だけが置かれたテーブルを挟む。

 

 「それで」

 

 双葉が先に口を開いた。

 

 「霧島透子について整理したいって?」

 

 「ああ」

 

 少しだけ息を吐く。

 

 「双葉は、霧島透子ってどんな人物だと思う?」

 

 双葉は少し考えてから答えた。

 

 「少なくとも、何かになりたい人間ではないんだろうね」

 

 「……というと?」

 

 「人気者になりたいとか、表舞台に立ちたいとか、そういう欲があるなら」

 

 双葉はストローを指先で回す。

 

 「もうとっくに正体を明かして出てきてると思わない?」

 

 「……確かにな」

 

 人前に出て。正体を明かして。称賛を浴びて。喝采の中心に立つ。

 

 もし、何者かになることが目的なら、そうしているはずだった。

 

 「二月四日の件も、つまりそういうことだったしな」

 

 沢山のサンタクロース。

 

 何者かになりたくて。特別でいたくて。霧島透子へ自分を投影した人間たち。

 

 岩見沢先輩も、その一人だった。

 

 「でも」

 

 俺は小さく続ける。

 

 「だったら、霧島透子は何のために曲を作って、歌って、動画を公開してるんだと思う?」

 

 「私に分かるわけない」

 

 双葉はあっさり言った。

 

 そして、そのままこちらを見る。

 

 「それこそ、岸和田はなんでそんなに霧島透子が気になるの」

 

 「……そりゃあ、のどかが心配するからだよ」

 

 そう答えると、双葉は少しだけ目を細めた。

 

 「そんなに付き合い始めた彼女が大事なんだ」

 

 「お前、なんでそのこと知ってんだよ」

 

 「さっきの姫路さんへの反応で分かった」

 

 「………」

 

 言い返せない。双葉は小さく肩をすくめる。

 

 「まあ、それもあるけど」

 

 「あるけど?」

 

 水を一口飲む。

 

 「でも、それ以上になんか引っかかるんだよ」

 

 岩見沢先輩が、自分を霧島透子だと名乗っていた時から。

 

 俺は直感的に思っていた。

 

 岩見沢寧々は、霧島透子じゃない。

 

 理屈はない。説明もできない。

 

 でも、そう感じていた。

 

 「それこそ」

 

 双葉が静かに言う。

 

 「岸和田が中学時代に経験した思春期症候群。その影響じゃないの?」

 

 「……俺も、それは関係してるとは思う」

 

 小さく頷く。

 

 「でも、中学の時に記録してたノートがあるんだけど」

 

 「ノート?」

 

 「ループの記録用」

 

 双葉の視線が少し鋭くなる。

 

 「どんなことが記録できたの」

 

 少しだけ、昔を思い出す。

 

 「……記録しても、客観しか残らなかった」

 

 「客観?」

 

 「未来へ持ち出せるのは、出来事としての事実だけだった」

 

 双葉が黙って聞いている。

 

 「心の温度は、どうやっても残らない」

 

 言葉を探しながら続ける。

 

 「例えば、試しに『今日の空は少し寂しい』って書いて寝たことがある」

 

 「……」

 

 「でも、次のループで見返したら、薄曇りとしか残ってなかった」

 

 双葉が小さく息を止める。

 

 「感情が消えるんだ」

 

 「……」

 

 「だから、詳細な感情は書けない。でも、事実を並べれば、そこにあった感情を、思い出すことはできた」

 

 授業より先の内容。まだ習わない英語構文。教科書の巻末にある統計資料。未来の出来事。

 

 「冷たい事実だけ。それなら、せめて未来の俺の武器にしてやろうと思った」

 

 双葉はしばらく黙っていた。

 

 やがて、小さく口を開く。

 

 「……記録媒体が、感情情報を保持できてない」

 

 「?」

 

 「量子的な観測結果だけが固定されて、主観情報が落ちてる」

 

 「なんだその説明」

 

 「岸和田の症候群、可能性の収束に近いんじゃない?」

 

 双葉は真面目な顔で続ける。

 

 「だから、未来へ持ち込めるのは、確定情報だけ。感情みたいな曖昧な情報は、毎回ノイズとして削ぎ落とされる」

 

 「……」

 

 「でも、その中で霧島透子だけが引っかかるなら」

 

 双葉は少しだけ眉を寄せた。

 

 「逆に、感情側に近い存在なのかもしれない」

 

 「感情側?」

 

 「岸和田自身が忘れてる領域」

 

 そこまで言ってから、双葉は首を振った。

 

 「……まあ、推測だけど」

 

 結局、霧島透子が何なのか。そこまでは辿り着けなかった。

 

 店を出る。夜風が少し冷たかった。

 

 駅までの道を歩きながら、頭の奥が少しだけ重い。

 

 断片的に、景色が浮かぶ。

 

 母親の声。

 

 明るい部屋。

 

 転校の決まっていない世界。

 

 普通に教室へ通っていた自分。

 

 未来を、怖がっていない自分。

 

 「……」

 

 だからこそ。

 

 もう限界だったんだよな、とぼんやり思う。

 

 やっと辿り着いた世界だった。失いたくなかった。

 

 次のループで全部消えるのが、怖かった。

 

 幸福を失うことが、何より怖かった。

 

 だから、全部を投げようとした。

 

 そこから先のことは……思い出したくもない。

 

 夜道を歩きながら、もう一つだけ引っかかる。

 

 「……」

 

 (俺は、どうしてあの記録ノートを使ったんだ……)

 

 あんな異常な状況で。

 

 どうして、あれだけは手放さなかったんだ。

 

 理由を思い出そうとしても、そこだけ綺麗に霧がかかったみたいに曖昧だった。

 

 ただ、不思議と。あのノートだけは、捨てちゃいけない気がしていた。




物語解説

今回の話は、「記録」と「感情」が、静かにすれ違っていく回でした。

岸和田蓮真は、中学時代の思春期症候群によって、事実だけを未来へ持ち越していました。

起きた出来事。数字。言葉。結果。そういう冷たい情報だけは残る。

けれど、その時に何を感じていたのか。どんな空気だったのか。誰を大切に思っていたのか。そういう心の温度だけは、綺麗に零れ落ちていく。今回、双葉との会話で描きたかったのは、その歪さでした。

記録は残る。でも、感情だけが残らない。だからこそ蓮真は、事実を積み上げ続けることでしか、自分の人生を繋ぎ止められなかったのだと思います。けれど同時に、この回で描きたかったのは、記録できないものの方でした。

のどかとの電話。ライブで見た笑顔。卯月が無邪気に名前を呼びかけた瞬間。八重の気遣い。どれも記録に残せるほど特別な事件ではありません。けれど、そういう小さな温度こそが、人を「今」に繋ぎ止めている。蓮真はそれを、どこかで理解し始めています。

だからこそ、“必ず行く”という約束が怖い。失いたくないものが増えるほど、世界が揺らいで見えてしまう。それが、今の彼の不安定さでもあります。

そしてもう一つ、今回の話では、霧島透子という存在が、少しだけ別の輪郭を持ち始めました。

何者かになりたい人間なら、きっともっと違う形で現れていた。なのに彼女は、姿を見せないまま、歌だけを残し続けている。

その違和感が、少しずつ蓮真の中に積み重なっていき、そして最後に残ったのが、どうして自分はあのノートを使っていたのかという疑問でした。

理由は思い出せない。でも、捨ててはいけない気だけはしていた。忘れているはずなのに、どこかで繋がっている。今回は、そんな「思い出せない記憶」の入口を書いていた回でもあり、まだ、何も解決してはいません。

霧島透子の正体も。夢の意味も。蓮真のループの本質も、全部、まだ途中です。それでも確かに、少しずつ何かは動き始めています。

記録には残らないはずだった心の温度が、もう一度、彼の中へ戻り始めている。それが、この章で起きていた小さな変化でした。

次回以降、物語はさらに核心へ近づいていきます。

霧島透子とは何者なのか。そして、蓮真が本当に忘れているものは何なのか。

日常は変わらないように見えながら、少しずつ形を変えていきます。

次回も、ぜひお付き合いください。
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