目を開けて、私の部屋は二畳ほどの小さな空間だったことを思い出した。三方は壁に覆われて、残る一面は木でできた格子。座敷牢と呼ぶのだと察したのは連れてこられてすぐだったはず。伊達に転生者をやっていない。
目の前には養父がいた。瞳孔、牙、爪、見慣れてしまったそれらが、養父が鬼だと物語っている。
ああ、なんて、懐かしい。
「今日から君は僕の
かぞく、とな。
情が芽生えたりしないのだろうか、という疑念は座敷牢を見て氷解した。明らかに、私の前に何人もの子供が育てられた形跡があった。養父の、子供の面倒を見る手つきは明らかに手慣れていた。
「
そう呼べば、驚いたようにこちらを見て、それからあまりに優しく笑うのだから驚いた。それがいずれ喰うためのものだとしても、私はそれが好きだった。
そうだ、こういう顔をしていた、こういう眼だった、こういうふうに笑った。
何もかもが愛おしい。
当たり前のように幸福が続いて、それから、当たり前のように喰べられて世界が終わるのだと無邪気に信じていたあの頃。
人生で一番穏やかで幸福だった。
しかし、それはあっけなく崩れ落ちた。
そうだった。こんな優しい風が吹いている夜のことだった。
「明日はいろはの誕生日だね」
「ありがとう!」
「美味しいかい」
「うん」
養父は誕生日の前祝いとして軍鶏鍋を作ってくれた。歯応えのある肉、割下、山菜たち。お食べ、と差し出されたそれを口いっぱいに頬張る。
軍鶏が好きだ。
この世界に生まれ落ちて初めて、お腹いっぱいになるまで食べたものだから。
私と似ていると思うから。
こんな風になりたいという理想の形だから。
「
「なんだい、怖くなったのか?」
「ううん。私ね、やっぱり
誤魔化しながら、皿に入った肉を箸で突く。お行儀が悪い、と明日には喰ってしまう
この軍鶏は強かったのだという。なんども合わせては敵の鶏を撃ち倒し、やんや喝采を浴びたとか。私はその姿を知らない。家から一定範囲外に出られないよう足枷を付けられたこの身では、遠くには出られない。
養父はこの強く気高い軍鶏を慈しんで誇りとしていた。それでも、最後には締めて私の食事となった。
養父の私を見る目は、強く気高い軍鶏を見る目と同じだった。
この視線は、夢から覚めてしまえばもう二度と与えられることはない。喰われることを至上の喜びとして認識してしまった私の価値観にとって、この夢は甘美な麻薬そのものだった。
……いやはや全く、厄介な血鬼術だ。
私の望む全てがここにある。
この夢から醒めてしまえば、残るのは、希望のない現実のみ。果ての果て、空に光る微かな星あかりを頼りに進めるほど強い者はそういない。
でも、この夢は結局のところ、私にとって都合のいいように改変され、その癖決定的な場面だけは悲劇のままのお芝居でしかない。お芝居は時に人を夢見心地へと誘うが、最後に終幕が待っているのだと相場は決まっている。
幕引きをしなければならない。
私の日常を壊した、恩師の足音が迫っている。
「
「どうした、いろは」
「私、美味しそう?」
私の問いかけに、養父は笑顔でこくりと頷いた。
それが心から嬉しいのと同時に、この光景はあまりに異常であると理性が告げている。
転生前に培った倫理観と道徳感、人間としての自我がずっと、食料としての私の思考に客観的な結論を告げている。
人間にも、食料にもなりきれない。
なんともはや、救いようのない二律背反、中途半端な立ち位置をふらりふらりと彷徨っている。
それは結局、目の前のこの男が原因なわけで、この男がやったことは幼気な子供に対する洗脳で、そんなこと嫌というほど知っているわけでして。
それでも、それでも。
養父を愛して、心から感謝をしているのは、間違いようのない本心なのだ。
「
私のお腹と心を満たしてくれて。
夢の中の養父が何を言うよりも早く、手にしていた箸で喉を突き刺した。
+++++
「………………最悪だ」
目覚めてすぐに左手で頭を抱えた。
とんだ夢だ。表面だけは心を癒しているようで結局心身を傷つけ蝕んでいる。まさしく麻薬、こんなものに魅入られた後は破滅しか待っていない。
もし夢の中で喰べられたら……という思考を頭の中で打ち消した。喰われるなら夢の中より現実がいい。夢の中で喰われたと思ったら現実に帰還した時の言いようのない落胆と失望は散々味わってきたじゃないか。
そうだ。
先ほどから何かを“捕まえている”右手を、いい加減に処理しなければ。
「……君が現実を拒み夢に逃げたがる気持ちはわかるよ。でもやめておきなさい。あの男の望みを叶えて、対価に夢を望んだとて君の思うような結末には決してならない。手を引くつもりはあるのかな」
右手は一人の青年の首に腕を回して、指先で持った小刀の切先が喉にほんのわずかに刺さっている。今はまだ血管すら突き破れないほどしか触れていないが、何かの拍子に簡単に喉を突き破ることは目に見えている。
加えてここは列車。がたん、ごとんと常に空間が揺れている。恐怖もひとしおだろう。
「なんなんだよ、お前っ……」
「君を雇った者と多少因縁のある者です」
腕を解いておもむろに立ち上がる。二十代半ば程の、頬がこけて真っ黒な隈ができた青年だった。腰が抜けて立てないらしい。ならいいや、大人しくしていれば悪いようにはならないだろうし。
身なりを見るに、元はそれなりに良いところの出だろうか。
私の生まれとは大違いだ。
「夢を見すぎると、忘れてはならないものまで見落としますよ。何を求めていたのかは知りませんが」
悪夢の後遺症だろうか、態度がキツくなっているのを自覚するが、顧みている暇はない。
さて、どう動いたものか。乗客に被害は出したくない。が、この列車には鬼が乗っている。場所は先頭の機関部。
新人の私に選択肢は三つある。乗客を守ることを優先するか、柱を起こすか、異常事態の解決を最優先にして機関部に進むか。
柱としての経験を踏まえた通常の判断を下すなら、柱を起こすか元凶の首を取りに行くかの二択だ。しかし鬼の傀儡としての私は、乗客を守ってお茶を濁すべきだ。
思考に割ける時間は長くない。一秒程度の葛藤の末、第四の選択肢を選んだ。
すなわち、“すでに起きている”者を味方につけること。もちろん、足元で震えている青年ではない。
「禰豆子。ねずこちゃーん」
コンコンコン、と箱をノック。それから箱を開ければ、ころん、と転がり落ちてくる女の子。地面に激突する前に受け止める。
禰豆子が箱から出てくる前だったということは、かなり早い段階で目覚めたらしい。まあ私だけネタ割れてたからね。酷く狡い行為ではある。
さて、残りの面々はっと。目の前の義勇はすやすや寝こけている。というか、元々この青年が義勇を殺そうとしていて、それを私が無意識に止めたということらしい。
「過保護か、私は」
義勇とて現役の柱、原作杏寿郎くんのように容易く対処できるだろうに……と思って向いた横では杏寿郎くんが女の子の首を鷲掴んでいた。
うわ、怖っ。
おっと、禰豆子に頼み事をしないと。
「禰豆子、起きてる?」
「む!」
「この前、蜘蛛の山で沢山燃やしたよね。今も燃やし方、わかる?」
「むー!」
まかせろ!と言わんばかりに禰豆子が胸を張った。かわいい。そして頼りになる。
えらい子だ。思わず頭を撫で回してしまった。
「よし!じゃあ禰豆子、何をやるか確認しよう。まずは縄と切符を燃やす。次にお兄ちゃんを燃やして起こす。できるね?」
「む!」
縄は下手に壊せば人間を二度と目覚めさせなくする。加えて、血鬼術を人にかけるように誘導する。原作知識を踏まえての指示。
……かなり無理があるが、鬼側にも一応、弁明は立つか。
禰豆子は即座に、まずは縄を燃やしてみせた。仕事が早い。これならとりあえず任せて大丈夫か。
「私は頑張って車両の人たちを鬼から守るから───」
瞬間。
誰かがゆらり、と立ち上がった。金髪の髪の毛が揺れ、何かに耳を澄ませている。
起きたか善逸。寝てるけど。
「……相変わらずどうなってんのこの子の肉体構造」
「む?」
よく寝たまま動けるな。藤襲山の七日間で、気絶はもう仕方ないから鬼の気配が身近にある時は問答無用で動けるようにしろと扱いた結果、縄の支配から抜けて立ち上がったらしい。
……散々見てきたけど、やっぱ慣れないわこの子。
「禰豆子ちゃんのことは善逸が守ってくれるからね。私は後方の五つの車両を守ってくるから、彼らのことを起こしてあげて、禰豆子ちゃん」
「むー!」
早速、炭治郎のことを高火力で燃やし始めた禰豆子の背中を見送ってから、後方に足を踏み入れた。
「……さて」
正念場だ。
あの世の煉獄槇寿郎「お前なんで後方行った!前に行け前に!」