サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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一歩

 シンゴと別れた後、カオルはまっすぐ寮にも会社にも戻る気になれなかった。

 

 夜はまだ浅い。

 コロニーロカA2の人工夜空は、天井スクリーンに映し出された群青色の光で穏やかに染まっていた。遠くでは航路管制塔の灯りが規則的に瞬き、空港周辺特有の低い駆動音がどこか絶えず響いている。

 

 会社の近くにある小さな公園は、その音から少しだけ離れていて、妙に静かだった。

 

 砂場。

 半円を描く遊歩道。

 ベンチが三つ。

 小さな滑り台と、ブランコが二つ。

 

 昼間なら親子連れや、休憩中の職員が少し座る程度の場所だ。

 今はもう人の姿はまばらで、遊具の色だけが夜の照明を受けてやけに鮮やかに浮いて見える。

 

 カオルはそのうちの一つ、街路樹の下にあるベンチへ腰を下ろした。

 

 背もたれへ身体を預ける。

 だが、力は抜けない。

 

 今日のことが、頭の中で何度も何度も巻き戻される。

 

 ユアンの怒声。

 ナミの張った声。

 キャットの静かな“降りる”。

 ククルの、本気で怒った顔。

 そして、ラスペランッァのシミュレーション映像。

 

「……」

 

 カオルは目を閉じた。

 

 同じ探索用シミュレーション。

 同じように複数のトラブル。

 同じように六人。

 

 それなのに、あそこまで違うものかと思った。

 

 自分たちは、何をしていたのだろう。

 ずっと“ちゃんとやっている”つもりだった。

 少なくとも、サボっていたわけじゃない。

 誰一人、ふざけてもいない。

 全員が真剣だった。

 

 なのに、気づけば毎回どこかで擦れて、言葉が刺さって、空気が悪くなり、最後には誰かが疲れて黙る。

 

 カオルは、それを思い出すたびに胸の奥がざらついた。

 

 リュウジなら、どうしただろう。

 

 そんな考えがよぎった瞬間、自分で嫌になる。

 また比べている。

 また、自分の外側に答えを探している。

 

 サヴァイヴの頃もそうだった。

 

 ルナがいた。

 リュウジがいた。

 ベルも、チャコも、シンゴも、ハワードも、シャアラも、メノリもいた。

 誰かが前へ出ると、誰かが自然にその背中を支えた。

 少なくとも、自分にはそう見えていた。

 

 今の自分には、それが出来ていない。

 

 ベンチの端を指先で軽く叩いた、その時だった。

 

「だーれだ」

 

 後ろから声がして、同時に両手で視界を隠された。

 

 柔らかい手のひら。

 わずかに温かい。

 けれど、突然のことに驚くほど、カオルの神経はもう軽くなかった。

 

 その一瞬のあと、カオルは小さく息を吐いた。

 

「……何をしてるんだ、ルナ」

 

 覆っていた手が、ぱっと離れる。

 

「正解!」

 後ろからひょいと顔を出したルナが、目を丸くして言った。

「よく分かったね!」

 

 カオルは振り返り、そこに立つルナを見た。

 

 相変わらず、柔らかな雰囲気を纏っている。

 夜風に揺れる髪。

 少し嬉しそうに細まった目。

 穏やかな微笑み。

 

 けれど、その穏やかさの奥に、サヴァイヴを生き抜いた強さが今も変わらずあることを、カオルは知っていた。

 

「分かる」

 カオルが言う。

「こういうことするの、ルナくらいだ」

 

「えー?」

 ルナが少し口を尖らせる。

「そんなことないと思うけどなぁ」

 

「少なくとも俺の知ってる範囲じゃ、ルナだ」

 

「それ、ちょっと嬉しいかも」

 

 ルナはそう言って、ベンチの横へ回った。

 だが、すぐには座らない。

 カオルの顔を覗き込むようにして、首を傾げる。

 

「こんなところで何をしてるんだ?」

 

 カオルが先に聞いた。

 

「私?」

 ルナは小さく笑った。

「来月から地球での活動が始まるからね。支援してもらってる企業と打ち合わせをしてたの」

 

「地球での活動……」

 カオルが繰り返す。

 

「うん」

 ルナは頷く。

「本格的に動き出すことになる。地球圏の受け入れ準備とか、施設の確認とか、色々。今日はその帰り」

 

 そう言って、やっとルナはベンチへ腰を下ろした。

 カオルのすぐ隣ではなく、少しだけ間を空けて。

 その距離感が、ルナらしいと思った。

 

「それで?」

 ルナが横目で見る。

「カオルは何してたの?」

 

「……」

 

 カオルはすぐには答えなかった。

 

 ルナは急かさない。

 問いを投げたまま、夜の公園へ視線を移す。

 ブランコが小さく風で揺れているのを見ながら、ただ待っている。

 

 その待ち方が、昔から変わらない。

 

「今日……」

 カオルがようやく口を開く。

「探索用シミュレーションの顔合わせの続きがあった」

 

「うん」

 

「正確には、もう何回かやってる。でも、上手くいかない。誰も間違ってるわけじゃない。なのに、噛み合わない。だんだん空気が悪くなって、今日……爆発しかけた」

 

 ルナが、わずかに視線を戻した。

 

「爆発しかけた?」

 

「ああ」

 カオルは、今日あった出来事を少しずつ話し始めた。

 

 ユアンが立ち上がったこと。

 ナミが降りると言ったこと。

 キャットまで続いたこと。

 ククルが止めたこと。

 そこへペルシアとエリンが来て、ラスペランッァのシミュレーション映像を見せたこと。

 

 話しながら、カオル自身の中でもそれがまだ整理しきれていないのが分かった。

 言葉が途切れる。

 同じところを少し言い直す。

 けれどルナは、一度も口を挟まずに聞いていた。

 

 最後まで聞いてから、ルナは静かに言った。

 

「そうだったんだ」

 

「……ああ」

 

「大変だったね」

 

 カオルは、その言葉に少しだけ目を細めた。

 

 “かわいそう”とも、“仕方ない”とも言わない。

 ただ、“大変だったね”とだけ言う。

 

 それだけで、妙に肩の力が抜けるのが嫌だった。

 

「サヴァイヴの時」

 カオルが言った。

「お前、俺たちを上手くまとめてくれただろ」

 

 ルナが一瞬だけ目を瞬いた。

 

「俺には向いてないみたいだ」

 

 吐き出したあと、自分でもその言い方は少しずるいと思った。

 向いていない、で切ってしまえば、そこで考えなくていい言い訳になる。

 

 けれど、今はそれ以外の言葉が出てこなかった。

 

 ルナはすぐには否定しなかった。

 小さく息を吸って、夜空を少し見上げる。

 

「そんなことないわよ」

 

 やがて、穏やかな声でそう言った。

 

「みんな、カオルのことを頼りにしてたわ」

 

「してた、じゃなくて、してる、だろ」

 カオルが言う。

 

「うん」

 ルナは笑う。

「今も、だね」

 

「でも」

 カオルは言葉を切る。

「頼られてることと、まとめられることは違う」

 

「そうかもしれない」

 ルナは素直に頷いた。

「でも、私ね。自分が“上手くまとめてた”なんて、思ったことないよ」

 

 カオルがそちらを見る。

 

 ルナは、照れたようでもなく、謙遜でもなく、本当にそう思っている顔で続けた。

 

「私は、みんなを信じていただけ、私に出来ないことがあるから、みんながいるって思ってたの」

 

「……信じる、か」

 

「うん」

 ルナは頷く。

「たとえば、私が怖くて動けない時に前へ出てくれる人がいた。私が気づけないことに気づいてくれる人がいた。私が言葉に出来ないことを代わりに言ってくれる人がいた。だから、“まとめる”っていうより、“この人ならここをやってくれる”って、先に信じてただけなの」

 

 カオルは、その言葉をすぐには飲み込めなかった。

 

「でも、信じてるだけじゃ、噛み合わない時もあるだろ」

 

「あるよ」

 ルナはあっさり言った。

「いっぱいあった。私だって、何回も怖かったし、失敗したし、空気を悪くしたこともある」

 

「……そんなふうには見えなかった」

 

「見せないようにしてたのかも」

 ルナは少しだけ笑う。

「でも、本当は全然完璧じゃなかったよ」

 

 少し沈黙が落ちる。

 

 夜の公園に、遠くの発着音がうっすら響く。

 植え込みの葉が風で擦れ、小さなざわめきになる。

 

 ルナが、ベンチの前の地面を見ながらゆっくり言った。

 

「カオル、リーダーとか、まとめ役って、全部正しく分かってて、全部先に見えてる人がなるものじゃないと思うの」

 

「じゃあ何だ」

 

「困った時に、困ったって顔を隠しすぎない人」

 ルナが言う。

「でも、そこで全部投げない人。たぶん、そういう人の方が周りは動きやすい」

 

 カオルは眉を寄せる。

 

「難しいこと言うな」

 

「難しいかな」

 ルナは首を傾げる。

「だって、カオル。今、一人でベンチに座って、ちゃんと困ってるじゃない」

 

「……」

 

「それって、悪いことじゃないよ。自分がうまく出来てないって分かってるから、ここに来たんでしょ?」

 

「まあ……そうだな」

 

「なら、まだ大丈夫」

 

 ルナはそう言って微笑んだ。

 

「本当に危ない時って、自分が何を壊してるかも分からなくなるもの。でもカオルは、ちゃんと見えてる……」

 

 カオルは、そこでようやくルナを正面から見た。

 

「全部、話したか?」

 

「全部は話してないよ」

 ルナは言う。

「でも、カオルの言い方で分かる。ちゃんと見てるんだなって」

 

 その“ちゃんと見てる”という言い方が、妙に胸に刺さった。

 

 見ている。

 見えている。

 それでも動かしきれなかった。

 

 それが苦しいのだ。

 

「見えてるだけじゃ、意味ない」

 カオルは言う。

 

「そんなことない」

 ルナはすぐに否定した。

「見えてなかったら、そこから先に進めないもん」

 

 ルナは、自分の膝の上へ両手を重ねた。

 

「ねえ、カオル。サヴァイヴの時、私がみんなを“信じてた”って言ったでしょ?」

 

「ああ」

 

「でも、それって、“何も言わずに信じてた”わけじゃないの。任せる時は任せたし、止める時は止めた。ただ、“この人はこういう時どう動くか”を、なるべく私の中で先に決めつけないようにしてた」

 

「決めつけない?」

 

「うん」

 ルナは頷く。

「たとえば、“この人はいつもこうだから、今回もこう”って見ちゃうと、その人が少し違う動きをした時に、受け取れなくなるでしょう?」

 

 カオルは、それを聞いて少しだけ息を止めた。

 

 ユアン。

 ナミ。

 シンゴ。

 キャット。

 カイエ。

 

 自分は、いつの間にか“この人はこう返してくる”と決めていたのかもしれない。

 だから、必要以上に先に切っていたのかもしれない。

 

「ラスペランッァの映像を見たんだよね」

 ルナが言う。

 

「ああ」

 

「どうだった?」

 

「……違った」

 カオルは正直に言う。

「同じ訓練なのに、別物みたいだった」

 

「うん」

 ルナは頷く。

「じゃあ、そこに答えが少しあるんじゃないかな」

 

「答え?」

 

「全部じゃなくて、少し」

 ルナは言う。

「だって、見て“違う”って思えたんでしょう?それって、何が違うか探せるってことだよ」

 

 カオルは、ベンチの前方を見た。

 

 遠くで小さな子どもが母親に手を引かれて歩いている。

 もう帰る時間なのだろう。

 その後ろ姿を見ながら、カオルは自分の中で映像を思い返す。

 

 短い言葉。

 でも切っていなかった。

 空いた穴を、誰か一人が背負うんじゃなく、みんなで薄く埋めていた。

 そして、その空気をエリンが整えていた。

 

「俺」

 カオルがぽつりと言う。

「たぶん、“短くする”ことと“渡す”ことを同じだと思ってた」

 

 ルナは何も言わずに聞いている。

 

「でも違った」

 カオルが続ける。

「俺は切ってた。短くした先で、相手に預けるんじゃなくて、“これで分かれ”って投げてたのかもしれない」

 

 ルナがそこで、やわらかく笑った。

 

「そこまで見えたなら、十分じゃない?」

 

「十分じゃない」

 カオルは即答した。

「見えただけだ」

 

「でもね」

 ルナは言う。

「見えたあとに、“じゃあどう変えるか”を考えるのって、すごく大事だよ。それに、カオルはさっき、自分には向いてない、って言ったでしょ?」

 

「ああ」

 

「私は、向いてないんじゃなくて、慣れてないだけだと思う」

 

 カオルが少しだけ目を細める。

 

「慣れてない?」

 

「うん」

 ルナが頷く。

「だって今までのカオルって、自分が一番前で飛んで、周りを引っ張ることは多かったけど、“違う役割の人同士を繋ぐ”みたいな経験って、そんなに多くなかったでしょう?」

 

「……そうかもしれない」

 

「だから、出来ないんじゃなくて、まだやり方を探してる途中なんだよ」

 ルナは言う。

「それを“向いてない”で終わらせちゃうのは、もったいない」

 

 風が少し強く吹いた。

 

 ルナの髪が頬にかかる。

 彼女はそれを耳へかけながら、少しだけ空を見た。

 

「私ね、来月から地球で活動を始めるって言ったけど、正直、まだ不安だよ」

 

「ルナが?」

 

「うん」

 ルナは笑った。

「だって、地球なんて広いし、支援してくれる企業だって色々だし、うまくいくかなって、今でも思う。でも、たぶん、私一人で何とかするものじゃないんだよね」

 

 そう言って、ルナは両手を少しだけ広げた。

 

「私が全部分かってなくてもいい。分からないところを、誰かに聞ける方が大事。私が全部まとめられなくてもいい、この人ならここを支えてくれるって、信じられる方が大事」

 

「……」

 

「だから、カオルも」

 ルナはまっすぐ彼を見る。

「“まとめる人”になろうとしなくていいんじゃない?」

 

「どういう意味だ」

 

「“みんなを信じて、流れを作る人”」

 ルナが言う。

「たぶん、そっち、それなら、カオルに向いてないって私は思わない」

 

 ベンチの木の背もたれが、夜気を含んで少し冷たい。

 カオルはその感触を背中で感じながら、ゆっくり息を吐いた。

 

「……お前、昔からそうだな」

 

「何が?」

 

「人に重いことを、さらっと言う」

 

「そうかな」

 ルナは首を傾げる。

 

「そうだ」

 カオルが言う。

「でも……少し楽になった」

 

 その言葉は、カオル自身の予想より素直に出た。

 

 ルナは、ふわっと笑った。

 

「ならよかった」

 

 少し沈黙。

 

 今度の沈黙は、さっきまでの苦しさとは違った。

 考えるための静けさだった。

 

「戻るの?」

 ルナが聞く。

 

「今日はもう戻らない」

 カオルが言う。

「会社にも、あのままの顔では行けない」

 

「そっか」

 

「でも」

 カオルは続けた。

「明日は行く」

 

 ルナが頷く。

 

「うん」

 

「ユアンとも、ナミとも、ちゃんと話す。シンゴにも、カイエにも……キャットにも」

 

 最後の名前だけ、少しだけ嫌そうな響きが混じった。

 ルナが思わず吹き出す。

 

「なにそれ」

 

「いや」

 カオルが少しだけ眉を寄せる。

「あいつ、調子が狂う」

 

「そういう人も必要なんじゃない?」

 ルナが笑う。

「きっと、今のチームには」

 

「お前、他人事だと思ってるだろ」

 

「少しだけ」

 

「少しか」

 

「少しだよ」

 ルナは楽しそうに言った。

 

 夜の公園に、久しぶりにほんの少しだけ笑いが混ざる。

 

 それは大きなものではない。

 でも、カオルにとっては十分だった。

 

「ルナ」

 

「なに?」

 

「来月から地球なんだろ」

 

「うん」

 

「無理するなよ」

 

 ルナは一瞬だけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。

 

「誰に言われてるの、それ」

 

「お前に言われたくない」

 

「ふふっ」

 ルナは肩を揺らして笑う。

「でも、ありがとう」

 

 そこでルナはベンチから立ち上がった。

 

「私、そろそろ帰るね。明日も朝からあるし」

 

「ああ」

 

 カオルも一緒に立ち上がる。

 

「送る」

 

「いいよ」

 ルナが首を振る。

「ここから近いし、カオルは、もう少しだけここにいてもいい顔してる」

 

「そんな顔してるか」

 

「してる」

 ルナは言う。

「でも、来た時よりずっといい」

 

 そう言って、数歩進んでから振り返る。

 

「カオル」

 

「何だ」

 

「向いてない、じゃなくて、まだこれから、って思ってみて」

 

 まっすぐな言葉だった。

 

 カオルは、その言葉を真正面から受け止める。

 そして、小さく頷いた。

 

「ああ」

 

 ルナはそれを見て、安心したように笑った。

 

「じゃあね」

 

「またな」

 

 ルナが公園の出口へ向かって歩いていく。

 その後ろ姿を見送りながら、カオルはもう一度ベンチへ座り直した。

 

 夜はまだ静かだった。

 けれど、さっきまでと違って、その静けさは息苦しくない。

 

 向いてないんじゃなくて、慣れてないだけ。

 まとめる人じゃなくて、みんなを信じて流れを作る人。

 短くすることと、渡すことは違う。

 

 ルナの言葉が、胸の中に残っている。

 

 すぐに全部が変わるわけじゃない。

 明日行って、ユアンもナミも、たぶんまだ刺々しい。

 カイエは疲れているだろうし、シンゴは気を遣うだろう。

 キャットは相変わらずだろう。

 

 それでも。

 

 今の自分が何も見えていないわけじゃないと、少しだけ思えた。

 

「……まだこれから、か」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 遠くで、管制塔の灯りが規則正しく点滅していた。

 公園のブランコが、風で小さく揺れる。

 

 カオルは、その音を聞きながら、今度は逃げるためではなく、明日戻るために考え始めていた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 宇宙管理局に戻ったナミは、真っ直ぐ統括官室へ向かっていた。

 

 向かっていた――はずだった。

 

 だが、足は早いのに、気持ちはまるで進んでいない。

 

 廊下の白い照明が一定の間隔で床に落ちている。

 夜の管理局は昼間よりも人の数が少なく、その分だけ端末の駆動音や、遠くで開閉する自動扉の機械音がよく響いた。

 

 ナミは自分の端末を抱えたまま、息を吐く。

 

「……何て言えばいいのよ」

 

 小さく零れたその声は、誰にも聞かれなかった。

 

 元々は、ペルシアに言われて入った。

 

 あの回転寿司で、半ば勢いで引きずり込まれるように。

 けれど、本当に嫌だったなら断れたはずだ。

 宇宙管理局の仕事だってある。

 ハワード財閥の旅行会社の探索用チームに、自分がわざわざ混ざる必要なんて、本当はどこにもなかった。

 

 それでも最終的に頷いたのは、自分だ。

 

 カイエの言葉。

 探索用に向くシステムエンジニアが欲しいという真っ直ぐな頼み方。

 ペルシアの、あの妙に乱暴なくせに要点だけは外さない押し。

 そして、自分自身もまた、あの場で「面白そうだ」と少しだけ思ってしまったこと。

 

 だから参加した。

 

 途中で抜けるなんて、筋が違う。

 そう分かっている。

 

 でも、今日のあの会議室の空気。

 自分の声。

 ユアンの顔。

 キャットの静かな「降りる」。

 ククルの、本気で怒った目。

 

 あそこまでいったら、もう「少し険悪」で済む話じゃない。

 

 ナミは奥歯を噛んだ。

 

「こんなことで……」

 

 こんなことで。

 

 その“こんなこと”が、今は自分の中で妙に重い。

 自分が入らなければ、少なくとも今ほど尖らなかったのではないか。

 いや、それは違う。

 違うはずなのに、そう思ってしまう。

 

 ペルシアに何て言えばいいのだろう。

 

 「無理でした」?

 「降ります」?

 「やっぱり向いてません」?

 

 どれも、言葉にした瞬間に、自分で自分を嫌いになりそうだった。

 

 気づけば、統括官室の扉の前まで来ていた。

 

 立ち止まる。

 

 扉の向こうから、話し声が聞こえてきた。

 

「統括官、まだ全然終わっていません」

 

 フレイの声だった。

 いつも通り、落ち着いていて、容赦のない言い方。

 

「分かってるわよ」

 

 こちらはペルシア。

 面倒くさそうで、でも投げ出してはいない声音だ。

 

「今夜は帰れないですね」

 フレイが淡々と言う。

 

「ええ!? なんでよ!?」

 ペルシアの声が一段高くなる。

「ちょっと待って、普通みたいな顔で言われたけど、私は帰る予定だったんだけど!?」

 

「今日締切の資料が沢山あるので」

 フレイはまったく揺れない。

 

「沢山って何よ、沢山って!」

 ペルシアが机でも叩いたのか、小さな音がした。

「言い方がざっくりしすぎでしょ!三件? 五件? 十件? 量の問題なの!? 質の問題なの!?」

 

「量も質もです」

 

「最悪じゃない」

 ペルシアが心底嫌そうに言う。

「帰りたい〜私は今、とても帰りたい」

 

「でしたら日中、わざわざロカA2にまで行くからです」

 フレイが言った。

「仕事を抜け出して」

 

「抜け出してないわよ! 視察よ、視察!」

 ペルシアが言い返す。

「部下の教育状況の確認っていう、立派な統括官業務!」

 

「寿司を食べていましたよね」

 

「食べたわよ! でもそれは会食!」

 

「回転寿司でした」

 

「会食の形に貴賤はないの!」

 

 ナミは、扉の前で一瞬だけ目を閉じた。

 

 こんな時まで、あの人はあの人だ。

 

 こっちは勝手に胃が痛くなるくらい悩んでいるのに、向こうでは帰れないだの回転寿司だの言っている。

 

 少しだけ、力が抜けそうになる。

 でも同時に、ますます扉を開けるタイミングが分からなくなった。

 

 どうしよう、とナミが本気で立ち尽くした、その時だった。

 

「ナミ?」

 

 後ろから静かな声がして、ナミは肩を跳ねさせた。

 

 振り返る。

 

「クリスタルさん……」

 

 そこに立っていたのはクリスタルだった。

 

 髪をきっちりまとめ、管理局の制服姿のまま、片手に薄い資料端末を持っている。

 顔立ちも、立ち姿も、相変わらず隙がない。

 だが、ナミを見る目は思っていたより柔らかかった。

 

「そんなところで突っ立って、どうしたの」

 クリスタルが聞く。

 

「……いえ」

 ナミは反射的に首を振る。

「ちょっと、統括官に用が」

 

 クリスタルは、ほんの数秒だけナミの顔を見た。

 表情の崩れ方。

 目の下の疲れ。

 抱えた端末を持つ指の力。

 

 その全部を見てから、小さく言う。

 

「今、入らない方がいいわ」

 

 扉の向こうから、ちょうどペルシアの声が聞こえた。

 

「フレイ、ちょっとだけ寝たら駄目?十五分だけ、本当に十五分で起きるから」

 

「駄目です」

 フレイが即答する。

 

 クリスタルは、少しだけ口元を緩めた。

 

「ほら」

 

 ナミは、思わず小さく笑いそうになって、でも笑いきれなかった。

 

「……そうですね」

 

「来なさい」

 クリスタルが言う。

「少し場所、移すわよ」

 

 

 クリスタルが連れて行ったのは、統括官室のあるフロアから一つ下の階にある、小さな休憩ラウンジだった。

 

 時間が遅いせいか、人はほとんどいない。

 壁際に自動販売機と給湯器。

 丸テーブルが三つ。

 大きめの窓の外には、管理局の管制棟に繋がる外廊下の明かりが見える。

 

 クリスタルは自販機の前で立ち止まった。

 

「何飲む?」

 

「え?」

 ナミが少し戸惑う。

 

「聞いてるの」

 クリスタルが言う。

「温かいものの方がいい顔してるけど」

 

 ナミは少しだけ目を瞬いた。

 

「……じゃあ、ホットのカフェオレで」

 

「分かった」

 クリスタルは迷わず二本のボタンを押した。

「私はコーヒー」

 

 缶が落ちる音。

 二人分を取り出し、丸テーブルの一つへ向かう。

 

 向かい合って座る。

 缶の熱が、指先へじんわり伝わった。

 

 しばらく、どちらもすぐには喋らなかった。

 

 ナミは、自分から話さなければいけないと分かっているのに、言葉がうまく出てこない。

 クリスタルは急かさない。

 

 やがて、クリスタルが先に口を開いた。

 

「チームの方、上手くいってないのね」

 

 あまりにもそのまま言われて、ナミは少し苦笑した。

 

「……顔に出てましたか」

 

「出てる」

 クリスタルは即答する。

「正確に言うと、“顔だけじゃない”さっき統括官室の前で立ち止まってた時点で、相当煮えてた」

 

 ナミは、缶を両手で包んだまま少し俯く。

 

「今日、ちょっと……というか、今日だけじゃなくて、ここ数日ずっと上手く噛み合わなくて」

 

「うん」

 

「で、とうとう爆発しました」

 

 クリスタルは、それを聞いても驚かなかった。

 

「そうでしょうね」

 ただ、淡々とそう言う。

 

 ナミは眉を上げる。

 

「驚かないんですか」

 

「驚かないわよ」

 クリスタルが缶のプルタブを開ける。

「ペルシアがロカA2まで行ったって聞いた時点で、“そろそろそこまで行ってるんだろうな”とは思ってたもの」

 

「そこまでって……」

 

「誰かが限界に近づいてるってこと」

 クリスタルは一口だけコーヒーを飲んだ。

「ペルシア、そういう時だけ妙に勘がいいから」

 

 ナミは、そこでやっと顔を上げた。

 

「統括官……いえ、ペルシアさんは私のこと、そんなに分かってたんですか」

 

 クリスタルは少しだけ肩をすくめる。

 

「分かってたと思う……少なくとも、見てた。あなたが管理局に戻ってくるたびに、顔が少しずつきつくなってるのも。言葉が一段階、早く切れるようになってたのも、全部」

 

 ナミは、胸のあたりが少しだけ苦しくなるのを感じた。

 

「だったら……何か言ってくれてもよかったのに」

 

「言わないのよ」

 クリスタルが静かに言う。

「ペルシアは、そういう時はあえて」

 

「どうしてですか」

 ナミは思わず強く聞いた。

「だって、知ってたんでしょう?私が煮えてるのも、限界が近いのもだったら、一言くらい――」

 

「言ったら、あなた、そこで一回楽になるでしょう」

 

 クリスタルの声は静かだった。

 

 けれど、その静けさにナミは言葉を止められた。

 

「楽になることが悪いって言ってるわけじゃない」

 クリスタルが続ける。

「でも、今あなたに必要なのは“すっきりすること”じゃない、“ちゃんと自分で掴むこと”だったんだと思う」

 

 ナミは、缶を握る指先に少しだけ力を入れた。

 

「……掴むこと」

 

「ええ」

 クリスタルが頷く。

「自分がどこで苛立ってるのか、誰に何が刺さってるのか。そして、自分自身がどんな言い方になってるのか。それを外から答えとして渡されたら、たぶんあなたは一回それに寄りかかる」

 

「……」

 

「でも、ペルシアはそうしない。しないくせに、見てる。腹立つでしょう?」

 

 最後の一言だけ少しだけ感情が混じっていて、ナミは思わずクリスタルの顔を見た。

 

 クリスタルは、ほんの少しだけ笑っていた。

 

「腹立つわよね必要な時にちゃんといて、必要以上には甘やかさない。でも、どうでもいい相手にはそこまでしない」

 

 ナミは、そこで小さく息を飲む。

 

「どうでもいい相手には……」

 

「しない」

 クリスタルは言い切った。

「ペルシア、面倒くさがりだから。本当に興味のない相手に、わざわざ仕事抜けてロカA2まで行かない。映像を持っていったりしない。やるのは、気にしてるから」

 

 ナミの喉が、少しだけ詰まる。

 

 あの映像を見せられた時、自分は腹が立った。

 悔しかった。

 見下されたように感じた。

 そして、その感情のまま“嫌がらせだ”と思いかけた。

 

 けれど今、クリスタルに“気にしてるからやる”と言われると、その見え方が少しだけ変わる。

 

「……でも」

 ナミが絞り出す。

「優しくないです」

 

「優しくはないわね」

 クリスタルは即座に同意した。

「でも、信頼はしてる」

 

「信頼……」

 

「そう」

 クリスタルが頷く。

「ペルシア、あなたのこと、かなり信頼してるわよ」

 

 ナミは、今度こそはっきりと困惑した顔をした。

 

「私を?」

 

「ええ」

 クリスタルはさらりと言う。

「むしろ、だからあのチームに入れたんでしょう」

 

「でも、最初は“あんた参加しなさい”って、あんな乱暴な言い方で」

 

「ペルシアの言い方が乱暴なのは今さらでしょ」

 クリスタルが淡々と言う。

「でも、その裏で何を見てたかは別」

 

 ナミは、何も返せない。

 

 クリスタルは、缶コーヒーを机へ置いてから言った。

 

「あなた、システムを見るだけじゃないでしょう」

 

「……」

 

「数字を読むだけなら、他にもいる。監視だけならもっと得意な人もいる。でも、あなたは“それが今どこへどう響くか”まで考える。しかも、嫌われても必要なことは言う。それを、ペルシアはちゃんと分かってる」

 

 ナミは、じっと缶の表面を見た。

 

 温かいはずなのに、手のひらが少し冷えている。

 

「嫌われても必要なことは言う……」

 小さく繰り返す。

 

「ええ」

 クリスタルが言う。

「今日だってそうだったんでしょう?たぶん、あなた、自分が刺さる言い方になってたのも分かってる。でも、その根っこにあったのは、“このままだとダメだ”っていう焦りでしょう」

 

 それは、図星だった。

 

 ナミは小さく息を吐く。

 

「……はい。分かってました。私、冷静なつもりでいたのに、途中から完全に余裕なくなってて、それでも止められなくて、むしろ、“自分がちゃんとしないと”って思えば思うほど、言葉がどんどん冷たくなって……」

 

「うん」

 クリスタルはただ頷いた。

 

「でも、ペルシアは、そこも含めて、あなたなら戻れるって思ってるのよ」

 

「戻れる?」

 

「ええ」

 クリスタルが言う。

「自分で気づいて、自分で掴み直せるって、そう思ってるから、あの映像を持っていった」

 

「……」

 

「本当に信用してない相手に、あんな渡し方しないわ。もっと直接言うか、最悪、放っておく」

 

 ナミは、目を閉じた。

 

 ククルの言葉がよみがえる。

 

 ――ペルシアさんはカイエとナミさんのためにこの映像を持ってきたんだよ。

 ――大事な人を守ってくれるんだよ。

 ――だけど簡単に答えを言わないのは、自分で答えを見つけられるって信じてるから。

 

 その時は、まだ半分しか受け取れなかった。

 けれど今、クリスタルから聞くと、その半分がゆっくり繋がっていく。

 

「私……」

 ナミが小さく言った。

「統括官室の前で、何て言えばいいか分からなくて立ってたんです」

 

「何て?」

 

「降りるって言うべきか、無理でしたって言うべきか、それとも、何も言わないで終わらせるべきか」

 

 クリスタルは少しだけ目を細めた。

 

「で、今は?」

 

「……」

 ナミはすぐには答えられなかった。

 

 けれど、自分の中で、少しだけ答えが変わってきているのが分かる。

 

「まだ……まだ、降りるって言いたいわけじゃないです」

 

 それは本音だった。

 

 悔しい。

 腹も立つ。

 ユアンにも、カオルにも、キャットにも、カイエにも。

 そして、自分にも。

 

 でも、それでも。

 

 まだ終わりにしたいわけじゃない。

 

 クリスタルは、その返事に小さく頷いた。

 

「なら、それで十分」

 

「十分、ですか」

 

「ええ」

 クリスタルが言う。

「今のあなたに必要なのは、“きれいな答え”じゃなくて“まだ投げない”っていう確認でしょう。だったら、もう十分よ」

 

 ナミは、そこで初めて少しだけ肩の力を抜いた。

 

 クリスタルは、向かいの席でそんなナミを見ていた。

 

「それに」

 少しだけ口元を緩めて続ける。

「ペルシア、あなたのこと、本当に気に入ってるもの」

 

 ナミが思わず顔を上げる。

 

「気に入ってる?」

 

「ええ」

 クリスタルが言う。

「“あの子はちゃんと見てる”って、前にも言ってたわ。“口は刺さるけど、あれくらい刺さらないと回らない時もある”って」

 

「……そんなこと」

 

「言うのよ」

 クリスタルは淡々としていた。

「それに、あなたがロカA2から戻るたびに、ペルシア、さりげなく機嫌悪かったわよ」

 

「え?」

 

「フレイが“今日の統括官、書類をめくる音が大きいですね”って言ってた」

 

 ナミは思わず吹き出しそうになった。

 

「それ、分かりにくすぎません?」

 

「分かりにくいわね」

 クリスタルも少しだけ笑う。

「でも、あれは心配してた時の顔。あなたが煮えてるのを見て、たぶん何回か声をかけるか迷ってたと思う」

 

 ナミは、その想像をしてしまった。

 

 ペルシアが書類を前にしながら、でも意識の半分はロカA2の自分のところへ飛んでいて、結局、直接の助け舟は出さずに映像だけを持ってくる。

 確かに、あの人ならやりそうだ。

 

「面倒くさい人ですね」

 ナミが思わず言った。

 

「面倒くさいわよ」

 クリスタルが即答する。

「でも、そういう人に気に入られるのも、案外悪くないでしょう?」

 

 ナミは缶を見つめたまま、小さく笑った。

 

「……そうですね」

 

 少しだけ、呼吸がしやすくなっていた。

 

 クリスタルは、その様子を見て、それ以上は追及しなかった。

 慰めるでもない。

 励ますでもない。

 ただ、必要なことだけを置いた感じだった。

 

 そこが、クリスタルらしい。

 

「で」

 クリスタルが言う。

「統括官室、行く?」

 

 ナミは少し考えたあと、首を横に振った。

 

「今じゃないです」

 

「そう」

 クリスタルは頷く。

「なら、今日は帰りなさい。顔も頭も、今のままじゃ書類一枚まともに読めないでしょう」

 

「……はい」

 

「明日、言えばいい」

 クリスタルが言う。

「“まだ降りません”でも、“もう一回やります”でも、あなたの言葉で」

 

 ナミは、その言葉を静かに受け取った。

 

「クリスタルさん」

 

「何?」

 

「ありがとうございます」

 

 クリスタルは、少しだけ肩をすくめる。

 

「私は何もしてないわ。ペルシアの代わりに、ちょっと喋っただけ」

 

「でも、助かりました」

 

「そう」

 クリスタルが言う。

「ならよかった」

 

 そこでふと、ナミは気になっていたことを聞いた。

 

「クリスタルさんはペルシアさんと長いんですか?」

 

「長いわね」

 クリスタルが言う。

「腐れ縁みたいなもの。軽い顔してるくせに、変なところで筋を通すから、こっちが付き合う羽目になる」

 

「それ、すごく想像できます」

 

「でしょう」

 クリスタルは少しだけ笑った。

「でも、信頼してるのよ。私も」

 

 その“私も”が、ナミには妙に沁みた。

 

 ペルシアは、面倒くさくて、雑で、軽くて、でも見ている。

 そして、クリスタルみたいな人間がその背中を信頼している。

 

 それだけで、少しだけ安心できた。

 

 休憩ラウンジの時計を見ると、もうかなり遅い時間だった。

 

 ナミは缶の残りを飲み干し、ゆっくり立ち上がる。

 

「じゃあ、今日は帰ります」

 

「ええ」

 クリスタルも立つ。

「私はもう少し上にいるけど」

 

「統括官、帰れないんでしたっけ」

 

「帰れないでしょうね」

 クリスタルが淡々と言う。

「フレイが見張ってるもの」

 

 ナミは、そこで少しだけ笑った。

 

「……ちょっとだけ、見に行きたくなりました」

 

「やめておきなさい」

 クリスタルが言う。

「今行くと、面倒よ」

 

「それは嫌ですね」

 

 二人で、ほんの少しだけ笑う。

 

 ラウンジを出る前、ナミは一度だけ立ち止まった。

 

「クリスタルさん」

 

「なに?」

 

「明日、もう一回、ちゃんと考えてみます。自分が何を見て、何を刺してたのか、それと……どう戻すかも」

 

 クリスタルは、その言葉に静かに頷いた。

 

「うん、それでいい」

 

 ナミは頭を下げて、ラウンジを後にした。

 

 廊下へ出る。

 夜の宇宙管理局は、まだ仕事の気配を残している。

 けれど、さっきまでより足取りは少しだけ軽かった。

 

 統括官室の前を通る時、扉の向こうからまたペルシアの声が聞こえた。

 

「だから、なんで今その資料が二部あるのよ!一部でよくない!?資料って増えると心が死ぬんだけど!」

 

 フレイの落ち着いた声が返る。

 

「統括官の確認用と、提出用です」

 

「確認したらそのまま提出にしてよ!」

 

 ナミは、そのやり取りを聞いて、今度はちゃんと小さく笑った。

 

「……面倒くさい人」

 

 でも、その面倒くさい人に、少しだけ信じられている。

 

 そう思えたことが、今夜のナミには思っていた以上に大きかった。

 

 明日、またロカA2へ行く。

 また顔を合わせる。

 また、うまくいかないかもしれない。

 

 それでも。

 

 今はもう、“降りる”よりも先に考えたいことがある。

 

 ナミは、そう思いながら夜の廊下を歩き出した。

 

 

ーーーー

 

 

 時間を置いてから、カイエはもう一度、シミュレーションルームへ戻ってきた。

 

 夜もかなり遅い。

 宇宙事業部のフロアは、もうほとんどの照明が落ちていて、廊下の足元灯と非常灯だけが静かに床を照らしている。

 人の気配はない。

 昼間はあれほど騒がしく、いくつもの声が飛び交っていたのに、今は自分の靴音だけがやけに大きく聞こえた。

 

 自動ドアの前で、カイエは一度だけ足を止めた。

 

 今日一日で、色んなことが起こりすぎた。

 

 チームの空気が爆発寸前まで張りつめたこと。

 ユアンが降りると言ったこと。

 ナミまで続いたこと。

 キャットが静かに手を引こうとしたこと。

 ククルが、本気で怒ったこと。

 ペルシアとエリンが現れて、ラスペランッァの映像を置いていったこと。

 そして、ククルに真正面から言われたこと。

 

 ――ペルシアさんはカイエとナミさんのためにこの映像を持ってきたんだよ。

 ――もし、本気で信じられないなら、シミュレーションなんてやる意味がないよ。

 

 あの言葉が、まだ胸の奥に残っている。

 

 カイエは、小さく息を吐いてからドアを開けた。

 

 薄暗い室内。

 モニターの光だけが、部屋の一角を青白く照らしている。

 ラスペランッァの映像は、誰かが途中からまた再生し直したのか、今も音を絞った状態で流れ続けていた。

 

 そして。

 

 机に伏して寝ているククルの姿があった。

 

 端末の横に頬を押しつけるようにして、片手はモニター側へ伸びたまま。

 疲れ切った子どもみたいに、その場で眠りに落ちてしまったのだろう。

 肩には、ふわりと毛布がかけられている。

 

 その毛布の端を、そっと整えていたのはエマだった。

 

 柔らかな光の中で、エマはククルを起こさないよう本当に静かに動いている。

 銀髪を耳にかけ、毛布が床に落ちないよう、丁寧にククルの肩へ沿わせていた。

 

 その横顔を見て、カイエの胸の中に溜まっていたものが、少しだけほどける。

 

「……エマ」

 

 小さな声で呼ぶと、エマがゆっくり振り返った。

 

「あ」

 エマは、声の大きさを抑えたまま微笑む。

「戻ってきたんだ」

 

「うん」

 カイエは頷いた。

「ククル、寝たの?」

 

「たぶん、映像を見ながらそのまま」

 エマが囁くように言う。

「何回か巻き戻してたみたい。見に来たら、こうなってた」

 

 カイエはククルの寝顔を見た。

 

 いつも元気で、声が大きくて、感情が表に出やすくて、よく笑って、よく転んで、でも立ち直りも早い。

 そんなククルが、さっきはあんな顔をしていた。

 

 怒っていた。

 真正面から。

 しかも、カイエに対して。

 

 カイエは、少しだけ視線を落としてから、小さく言った。

 

「初めてかもしれない。怒ったククルを見たのは」

 

 エマは、毛布を整える手を止めて、ククルを見下ろした。

 

「……話は聞いたよ」

 静かな声だった。

「ククルが本気で怒るの、ほとんど見たことない」

 

 その言葉に、カイエは隣の椅子をそっと引いて座る。

 エマも、ククルを挟んで反対側へ腰を下ろした。

 

 モニターの中では、ちょうど例のシーンが流れていた。

 左補助制御の異常。

 火花。

 ペルシアの仮の負傷。

 クリスタルがシステム側へ一歩入り、エリンが応急処置へ動き、サツキとマリが空いた穴を自然に埋めていく。

 

 さっきまで自分達がいた空気とは、あまりにも違う流れ。

 

 カイエは、その映像をぼんやり見つめながら言った。

 

「怒らせたの、私だよね」

 

 エマは、すぐには答えなかった。

 ククルの寝息を一度だけ確認してから、小さく頷く。

 

「たぶん、そう。でも、“怒らせた”っていうより、ククル、怖かったんじゃないかな」

 

「怖かった?」

 

「うん」

 エマは言う。

「誰かが本気で“もういい”って言い出したら、本当に終わっちゃうって思ったんじゃないかな」

 

 カイエは、何も言えなかった。

 

 終わる。

 その言葉が、妙に現実味を持って胸へ落ちる。

 

 さっきまで、自分達は本当にそこまで行っていたのだ。

 

「ククルってさ」

 エマが柔らかく続ける。

「人が離れていくの、すごく嫌うでしょう?」

 

「……うん」

 

 カイエには、すぐにその意味が分かった。

 

 十班応援の件。

 あの時ククルは、失敗そのものより“ここに居ちゃいけないのかもしれない”と思わされたことの方に傷ついていた。

 それを、ペルシアは知っていた。

 知っていて、十班へ乗り込んだ。

 

 ククルがあれほどまでにペルシアを信じている理由も、そこにある。

 

「だから」

 エマがククルを見ながら言う。

「今日のククル、たぶん、すごく悲しかったんだと思う。怒ってたけど、その前に悲しかった。カイエとナミさんが、“嫌がらせだと思う”って言った時、たぶん、ものすごく嫌だったんじゃないかな」

 

 カイエは、静かにモニターの光を見つめた。

 

「私、あの時、本当にそう見えたんだよね。嫌がらせ……っていうか、見せつけられてる感じがして」

 

「うん」

 エマは否定しない。

「そう感じるのも分かる。だって、すごく差があったもの」

 

 その“分かる”という一言で、カイエの喉が少し緩んだ。

 

「でも」

 エマは続ける。

「ククルには、そう見えなかった。たぶん、“ペルシアさんがそんなことするはずない”が先にあるから」

 

「信じてるんだね」

 

「うん」

 エマは頷く。

「信じてるし、守られた記憶があるから、だから、あの人が持ってきたものを“悪意”で見られるのが、たぶんすごく嫌だったんだと思う」

 

 しばらく二人とも黙った。

 

 モニターの中で、エリンがペルシアの腕へ応急処置をしながら、サツキへ一言だけ声を飛ばす。

 サツキの肩が落ちる。

 マリが通信だけではなく全体の詰まりまで拾う。

 クリスタルが副操縦士席を離れず、でもシステム側へ手を伸ばす。

 リュウジが短く渡し、誰もその言葉を“切られた”とは受け取らない。

 

 カイエは、その流れを見て、今度こそはっきりと認めるしかなかった。

 

「……すごい」

 

「うん」

 エマが素直に同意する。

 

「何回見ても、すごい」

 カイエは言う。

「しかも、ただ仲がいいから回ってるわけじゃない。誰が今どこに入るか、最初から見えてるみたい」

 

「見えてるんだと思う」

 エマが言った。

「たぶん、“次に何が起きても、誰かがそこを埋める”っていう信頼があるんだよね」

 

 カイエは、小さく息を吐いた。

 

「信頼か……」

 

「カイエ、あんまりその顔しない方がいいよ」

 

「どの顔」

 

「“信頼なんて簡単に言うな”って顔」

 エマが少し笑う。

 

 カイエは思わず眉を上げた。

 

「してた?」

 

「してた」

 エマは頷く。

「でも、分かるよ。今日の後に“信頼”って言われても、たしかに綺麗ごとに聞こえる」

 

「うん」

 カイエは素直に認めた。

「だって、こっちは信じてないわけじゃないのに、ぶつかってるんだから、信じるだけじゃ足りないんだよ」

 

「そうだね」

 エマが言う。

「たぶん、“信じる”だけじゃなくて、“渡す”こともいる」

 

 その言葉に、カイエの目がわずかに細まる。

 

「渡す……」

 

「うん」

 エマはモニターを見ながら言う。

「ほら、今の映像、誰かが情報を持っても、そのまま抱え込んでない。すぐに“この人に渡す”“この人が今受ける”ってなってる。だから、空いた穴も、誰が埋めるかで止まらない」

 

 カイエは、エリンの動きを目で追った。

 

 自分もずっと、繋がなきゃと思っていた。

 コックピットコンディションとして、空気を整え、役割の間を埋め、言葉を噛み砕いて戻し、散りそうな流れをどうにか拾う。

 

 でも今の映像のエリンは、自分のように“抱えて繋いでいる”感じがしない。

 

「エマ」

 

「なに?」

 

「私、勘違いしてたかも」

 

「どんなふうに?」

 

 カイエは、少し考えてから言った。

 

「コックピットコンディションって、誰かが崩れそうな時に全部拾う役だと思ってた。でも違うのかもしれない。エリンさん、全部拾ってない。拾うんじゃなくて、“今ここがずれてる”って一言入れて戻してるだけ、なのに、全体が整う」

 

 エマが、やわらかく笑う。

 

「うん。カイエ、そこ見えたなら大きいと思う」

 

「でも、今の私には出来てない」

 

「今はね」

 エマがすぐに言った。

「でも、出来てないって分かったなら、そこからじゃない?」

 

 カイエは、机に伏して眠るククルを見た。

 

 この子は、今日、怒った。

 それはきっと、カイエにとって必要な怒りだったのだろう。

 

 もしククルが、いつものように笑ってごまかしてくれていたら、自分は今も“嫌がらせにしか見えない”で止まっていたかもしれない。

 

「ククル、明日怒ってるかな」

 

 ぽつりとカイエが言うと、エマは少しだけ考えた。

 

「怒ってる、っていうか、ちゃんと覚えてると思う」

 

「それ一番きついやつ」

 

「うん」

 エマは少し笑った。

「でも、ククルって、怒ったまま引きずる子じゃないよ。ただ、ちゃんと向き合ってほしいだけ」

 

「……そうだよね」

 

「うん」

 

 また少し沈黙が落ちる。

 

 今度はさっきまでの重さではなく、考え込むための静けさだった。

 

 エマが、ふとククルの髪をそっと払ってやる。

 

「ククルね、この映像、最初から一人で見てたの」

 

「一人で?」

 

「うん」

 エマが頷く。

「何回か巻き戻して、たぶん、ククルなりに“どこが違うのか”を見てたんだと思う。差し入れの袋もそのままだったし、本当に集中してた」

 

 カイエは、胸の奥が少し痛くなった。

 

「……そんなに」

 

「たぶんね」

 エマは、ククルの寝顔を見て言う。

「怒ったあとに、そのまま放り出せないのがククルなんだよ。怒って、終わりじゃなくて、“じゃあどうしたらいいか”まで考えようとする」

 

「私より大人かも」

 

「そこはどうかな」

 エマが笑う。

「でも、真っ直ぐだよ。すごく」

 

 カイエは椅子へ深く座り直した。

 

「……エマ」

 

「なに?」

 

「私、明日、ちゃんと謝る」

 

「うん」

 

「ククルにも、ナミにも、カオルにも、シンゴにも。たぶん、ユアンにも、キャットにも……は、どう言えばいいのかまだ分からないけど」

 

 エマが、その言葉に静かに頷く。

 

「それでいいと思う。謝るって、負けることじゃないし」

 

「分かってる」

 カイエが言う。

「でも、ちょっと悔しい」

 

「悔しいよね」

 

「うん」

 

「でも、悔しいって思えるなら、まだ大丈夫」

 エマは言った。

「本当に終わってる時って、悔しいも出てこないもん」

 

 カイエは、その言葉に少しだけ目を細めた。

 

「エマって、たまにすごく刺すよね」

 

「そう?」

 エマが首を傾げる。

 

「優しい顔で言うから余計に」

 

「褒めてる?」

 

「半分」

 

「じゃあ受け取っとく」

 

 二人の間に、ほんの少しだけ笑いが生まれる。

 

 モニターの映像は、また最初の方へ戻っていた。

 火花。

 ペルシアの仮負傷。

 エリンの移動。

 クリスタルの切り替え。

 サツキとマリの役割の滑り方。

 

 カイエは、その場面を今度は少し違う目で見ていた。

 

 さっきまでは、“すごい”しか出てこなかった。

 今は、“何が違うか”を追い始めている。

 

「私、自分の役割も見直す。繋ぐんじゃなくて、整える。抱えるんじゃなくて、戻す。たぶん、そこを勘違いしてた」

 

 エマは、まっすぐカイエを見た。

 

「うん。それ、カイエに合ってると思う」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 エマは言う。

「カイエって、何でもかんでも背負うとすぐ顔に出るけど、ちょっと角度を戻すのは、昔から上手いよ。ククルが浮きすぎた時も、私が変に引っ込みすぎた時も、ちゃんと、ちょうどいいところまで戻してくれてた」

 

 カイエは、それを聞いて少しだけ驚いた。

 

「そんなこと、してた?」

 

「してたよ」

 エマは笑った。

「自覚ないんだ」

 

「……ないかも」

 

「だから、きっと出来る」

 エマが言う。

「今のチームでも」

 

 カイエは、そこでようやく小さく息を吐いた。

 

 まだ何一つ解決していない。

 追加一名も決まっていない。

 ユアンもナミも、今はまだ自分の中で整理している最中だろう。

 キャットが明日どういう顔で来るかも分からない。

 カオルはたぶん、一人で考え込んでいる。

 

 それでも。

 

 今は、“どうしよう”よりも“こうしてみよう”が少しだけ先に立っていた。

 

 それは大きな違いだった。

 

「……ありがとう」

 カイエが言う。

 

「うん?」

 エマが少し首を傾げる。

 

「いてくれて」

 カイエはククルの寝顔を見る。

「ククルだけだったら、たぶん私、今ここまで戻れなかった」

 

 エマは、少しだけ目を伏せて、それから微笑んだ。

 

「私もね。カイエが戻ってきてくれて、ちょっと安心した」

 

「戻らないと思った?」

 

「少しだけ」

 エマが正直に言う。

 

「ひどい」

 

「でも、戻ってきた」

 エマが言う。

「それで十分」

 

 会議室の外では、夜のフロアがしんと静まり返っている。

 モニターの淡い光。

 毛布にくるまったククル。

 優しい顔のエマ。

 そして、ようやく少しだけ前を向き始めた自分。

 

 夜はまだ長い。

 けれど、明日へ戻るための形は、やっと少しだけ見え始めていた。

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