伸び放題の雑草。タイヤの跡が残る荒れ地。
じりじりと熱気が立ち昇り始めた泥道を、デンジとレゼはのんびり徒歩で自宅へ戻っていた。
――日本を脱出してから約二ヶ月。
二人をとりまく状況はまるっきり変わった。
生活は質素ながら穏やかで心地よい。それまでの呪縛から解き放たれ、夢にさえ見なかった安寧の地へと辿り着くことができたのは奇跡だったのかもしれない。
少年と少女は今日もマイペースに歩みを進めていく。
「これから先、やりたいことある?」
「大体叶っちまったからな~。大したもんはねえよ?」
「それでもいいから」
「ん~……。隣の村にサッカーで勝ちたい。車欲しい。ピザ食いたい。あとはぁ……あ~」
「なに?」
「式、挙げたい?」
「式? それって結婚式?」
「そう」
「なんで疑問形?」
「だってよお」
よっ、とデンジは大きな水溜まりを飛び越える。
対岸から手を伸ばし、レゼを引っ張った。
「俺、親いないし。レゼもそうだろ? 知り合いは……いなくもないけど流石に呼べねえ。それで式やるのってどうなん?」
「村の人たち呼ぼうよ」
「あ、昨日のレゼの友達は来れっかな?」
「死んでも来ないと思う。あと友達じゃないから」
「あ、そう」
村の家々が見えてきた。
申し訳程度に立てられた木の杭が村の入り口を示しており、その一歩奥にバスの待合所のような小屋が一軒建っている。デンジが建てたものだ。村人たちが余所へ出かけるときに待ち合わせ場として役に立っている。
そこからひょいと顔をだす男がいた。
村では見ない顔だ。
黒髪で、このクソ暑いのにワイシャツを着ている。観光客が迷いこんだのだろうか。よく見れば後頭部に髪をくくって侍のチョンマゲに似た形になっている。
お~よく似てるなぁ、とデンジは思った。
男は待合所の中へ声をかけ、こちらへ指を差す。
今度は中から女が現れる。
その女は長髪で、二本の角が生えた魔人だった。
子どもみたいに両手をぶんぶん振っている。
うわぁ凄ぇよく似てるなぁ、とデンジは思った。
まさか本物とは思わなかったのだ。
「――え? マジのアキ? 本物のパワー?」
「……こっちの台詞だ。お前、こんなところで何やってんだ?」
邂逅はあっけなかった。
抱き合うこともなければ泣きだすこともない。
デンジは奇妙な巡り合わせに感心するしかなく、アキも現実を飲みこめず言葉を選ぶ。
パワーだけが素のままだった。
土産はどこだと頓珍漢なことを言いだして、そのブランクを感じさせない物言いで三人の時間が繋がった。思えば早川家での暮らしから二ヶ月間しか経っていない。すぐに馴染むのも当然だろう。
「こんなことあるんだな。俺ぁまた変な悪魔に精神攻撃されてんのかと思ったぜ」
「なんだそれ」
「ちょっと前にそういうのがあったんだよ」
「そうか。まあ無事ならいい」
デンジはレゼに二人を紹介しようとしたが、レゼは「知ってるよ」と応えた。
以前、任務の下調べで早川家周りを調査したときに把握していたのだ。
アキのほうも、レゼの顔には見覚えがあった。
かつて対魔2課を壊滅状態に陥れた武器人間。
サメの魔人が『ボム』と呼び、デンジと怪獣バトルを繰り広げたソ連のエージェント――
「なあ~、この小娘は誰じゃ?」
パワーはどことなく輪に入れていない空気を感じて唇を尖らせる。
アキは少し迷い、ちらりとデンジたちの顔を窺った。
「パワー、お前が居なかったときの話だ。マキマさんに血を抜いてもらっていたときに……」
「ああ~、思いだした! ワシが倒して日本から追い出した奴じゃった!」
「はあ?」
「は、はい?」
「そういえばまだ礼を聞いておらんなあ……? ウヌがこうして生き延びてデンジと居られるのはワシのおかげじゃというのに」
「え? えっ? どういうこと?」
レゼはにわかに焦りだす。
デンジとの逃避行が成功したのは彼女のおかげ……?
今まで追手がかからなかったこと、故国では接触禁止令が出されているらしいこと……それら疑念の答えがいきなり現れた、と思ったのだ。
目の前の魔人の正体は一体――?
デンジと一緒に早川家に居候していただけの魔人と思っていたが、もしや日本においてはマキマをも上回る発言力を持った有力者だったのか……!?
と身構えるも、
「いや、気にしなくていい。コイツはいつもこうなんだ」
「病気なんだよ、ビョーキ」
「何じゃとぉ? デンジ~、誰がウヌを助けたと思ってる? この恩知らずがァ!」
「…………あ、はい」
レゼは察した。
理性のある魔人は珍しい。頭がおめでたいこともあるだろう。
ひとまず立ち話もなんだから、ということでデンジたちの家に移動した。
二人が本当に一緒に住んでいると聞かされたアキは微妙な顔をした。
男と女、どんな意識の転換があったかは想像に難くない。だがすんなり受け入れるのも無理がある。
「デンジ。この二ヶ月の間何をやってたんだ」
「そりゃ旅よ。色んな国を渡って、無人島生活もやったなあ」
「今はここに住んでるんだよな?」
「お~。俺、結婚したんだよ」
「けっこん……?」
レゼはここぞとばかりにえいっとデンジの腕に飛びついた。デンジも。
「妻で~す!」
「夫で~す!」
アキは一瞬たじろいだ。が、デンジの照れ混じりの喜び顔を見てそこに嘘はないのだろうと思った。レゼの方も演技とは思えない。見抜けていないだけと言われればそれまでだが。
「……ひとまず、事情は分かった。はあー……。言いたいことは色々あるが……お前がいいなら俺から言えることはない」
「そう? おめでとうぐらいは言ってくれよな」
「後でな」
「お~い~。この家は茶も出んのか~?」
「はいはい、お待ち下さいね~」
レゼは立ち上がりエプロンを身につける。
するとアキも「手伝わせてくれ」と後を追ってきた。
「あ、いいですよ、お客様は」
「――――」
「……ん~、やっぱり手伝ってもらおっかな~」
レゼとアキ、二人で奥の部屋へ――キッチンへ向かう。
レゼは湯を沸かしにかかり、アキは言われた棚を開けて菓子の材料を取り出した。
コップと皿をトレイに並べ、ちらりとリビングを確認する。
「見ろデンジー! 大物が釣れたぞ~!?」
「いでえででで!? 釣り針俺に引っ掛かってんだよ!」
デンジとパワーは釣り竿を振り回して大騒ぎしていた。
「……それで早川さんは何を聞きたいんでしょう?」
キッチンの二人は声を潜めながら言葉を交わしていく。
「……二ヵ月だ。それでまだデンジが無事ってことはそういうことなんだろう。でもちゃんとアンタの口から聞きたい」
「証明できるものはありませんけど……」
レゼは米粉とニラに似た植物の汁を混ぜていく。手元で指輪が鈍く光った。
「私は本気です」
「……そう、か。ならいい」
「ソ連では」
「ん?」
「ソ連では、監視員はけして監視対象に情をかけません。自分が粛清されてしまうからです」
「何の話だ?」
「日本の監視員は甘いですね、って話です。バックれた元部下を気にかけている」
「……日本人は責任感が強いんだ」
「早川さんみたいな人と暮らせてデンジ君は良かったと思います」
「…………。次は何をすればいいんだ?」
「えっと、その生地をよくこねて下さい。耳たぶぐらいの固さになったら完成です」
「こうか?」
「あ~上手~! さすがは早川家の大黒柱ですね!」
「アイツらの世話をしてりゃ嫌でも家事が上手くなる」
アキはこね終えた生地をゴルフボール程度の大きさにちぎり、中に餡子のようなものを詰めこんだ。できたものを鍋に沸かしたお湯に放りこむ。
その間にレゼは飲み物の用意にかかる。
「コピでいいです?」
「コーヒーに近いやつだったか?」
「甘いですけど」
「それでいい」
茹でたゴルフボールもどきをザルにあけ、ココナッツフレークをまぶしたら完成だ。
緑色の白玉のようなもの。通称オンデ・オンデ。マレーシア定番のおやつだ。
トレイに乗せ、リビングへ運ぼうとする前にアキはぽつりと零した。
「公安には黙っとく」
「……ありがとうございます」
夜、村の広場でアキは一人星空を見上げていた。
異国の地は何もかもが違った。
気温も、環境も、飲食物の味付けも、国民性も。
どちらがいいという話ではない。その変化にアキは少し疲れてしまっていた。
ふとアキは煙草を吸いたいと思った。いつもの調子に戻りたい。
「俺も随分長いこと銃の悪魔を追いかけていたな……」
デンジはあの少女と逃避行にでた。今では新たな生活を手に入れている。
その是非はともかく、新しい道を恐れず突き進んでいく姿にアキは眩しいものを覚えた。
寿命残り二年。
自分の道はどこだろう――
「おうい。そこの兄ちゃん」
振り向けば老婆が一人佇んでいる。
「どちら様ですか?」
「この村の村長だ。アキってのはお前さんかい?」
「はい、そうですが」
「政府の役人から電話だ。来い」
踵を返す老人にアキは問いかける。
「用件は? 名前は言っていましたか?」
「マキマといえば分かる、と言ってたよ」
村長の家で保留中の電話を前にして、アキは自分がひどく緊張していることに気がついた。
受話器に耳をつける。
無音のノイズ。その向こう側に居るであろう者の気配に襟を正さずにいられない。
「もしもし。マキマさん……ですか?」
『早川君、元気だった?』
「どうして俺がここに居るって分かったんですか?」
『政府の車が立ち往生しているって連絡があってね。近くの村に確認をとってみたの』
「そう、ですか。俺は無事です。パワーも元気ですよ」
『なら良かった。これからどうしよっか。必要なら応援を送るよ』
「……あの、マキマさん。もしかして、俺がマレーシアに派遣されたのは……最初から……。いえ、」
アキは一度言葉を区切る。
「マキマさん。デンジだけは……いえ、彼女もどうにかなりませんか」
『何の話?』
「マキマさん!」
『何を言ってるか分からないな』
「あなたが何も知らないわけがないでしょう」
『……あのね、早川君?』
声色が上司のそれになる。
『公安は忙しいの。銃の悪魔の討伐も近い。居なくなった人を探すのに人員を割いている余裕はありません』
「……ええと?」
『キミにはキミの仕事をしてほしいということです』
「俺の仕事って?」
『マレーシア政府が、銃の悪魔の情報とその他幾らかの支援を提供する代わりに腕利きのデビルハンターを常駐させてほしいと言っています。これに私はキミとパワーちゃんを推薦することにしました』
「それって……俺たちにこの国に残れって話ですか?」
『断っても構いません。別の人を派遣します』
「…………期間は?」
『最低二年間。その場合、キミたちは銃の悪魔の討伐には参加できなくなります』
「マキマさん……? もしかして、全部、分かってて……?」
『今、決めて下さい。どちらを選びますか?』
「……この国に来てから変なことばかり起こります。どうすればいいか俺には分かりません」
『私は皆にできるだけ幸福な道を進んでほしいと願っています。キミと同じです』
「そう、ですか。信じます」
「……」
レゼは村長の家の裏手に潜んでいた。
何か政府関係の連絡が入るならここだろうと予め仕掛けていた盗聴器から音声を傍受していたのだ。
彼女はもちろんアキたちの来訪がただの偶然などと信じていない。
彼ら自体にその意図はない。様子を見れば分かる。何も知らないまま送りこまれたのだろう。
じゃあ誰が? そんなのは決まっていて、予想通りだった。
けれど、どうして? という話になるとやはり分からなかった。
「う~ん?」
しかしマキマの意図がどうにも分からない。
冷たいように見えて実は情に篤い頼れる上司だった、というふうに見せているが、あのマキマに限ってそれはないだろうとレゼは訝しんだ。だがそう演じる意味も無いように思える。
「マキマも私たちに手を出せない? 少なくとも今はまだ……」
ソ連は自分たちを静観することにしたらしい。
日本も同じなのかもしれない。
レゼは首を傾げ、誰が圧力をかけているのだろうと思考を巡らせる。
そんなことができるのはやはりアメリカくらいしか思いつかなかった。
しかしあの国がそうする理由もまた見つからない。
ならば、何かとてつもなく壮大な、あるいはくだらなすぎて考慮にも値しない理由が潜んでいるのだろうとレゼは保留することにした。
分からないものは分からない。
釈然とはしないが多少の謎を抱えるぐらいは必要経費だろうと彼女は考える。
油断はしない。けど浮かれはする。そうできるだけでも望外の幸福なのだから。
「それにしても……早川さんはホントに人の好いお兄ちゃんだね」
早川アキは公安一の悪魔嫌いで誰にも心を開かない堅物……そんな自分の調査結果はどうやら盛大に間違っていたらしい。
レゼは苦笑し、デンジたちの待つ我が家に戻ることにした。
***
「マキマ。何かした?」
「したと言えばしましたね」
日本にあるデビルハンター東京本部。その執務室。
マキマは何度目かになる死の悪魔の来訪を受けていた。
オーク材のデスクを挟んで二人でコーヒーを啜る。
どちらも平然とした顔で悪意も敵意もないのだが、その存在感の余波だけで空気が張りつめていくようだ。仮に蝿が横切ればころりと死に落ちてしまうだろう。
マキマはあくまで淡々と、悪びれもせず自らの見解を告げていく。
「私は公安の中で生きています。仕事をすれば彼らに関わることもあるでしょう」
「……」
「何もしなければ却って不自然です。それこそが余計な干渉だと私は考えます」
「マキマがそう言うなら……そうなのかもね」
「そこは妹を信じてもらうしかありません」
「いいよ。……うん。私はお姉ちゃんだからね」
「で、どうでしょうか」
「何が?」
「彼らの物語は一区切りがついたと思います。まだ興味はありますか」
「……」
死の悪魔はコーヒーカップの淵を指でなぞる。
「人間の人生に……区切りなんてない。死でようやく完結する」
「では老衰までずっと見ているつもりですか?」
「一度興味を引かれたなら最終回まで観るべきと思う」
「そうですか……」
マキマは落胆を隠せない。
武器人間は老いることがない。
彼らの安寧はいつまでも続くだろう。
それはマキマにとっては真のチェンソーマンに永遠に会えないことを意味する。
死の悪魔は立ち上がり、無感動にマキマを見下ろした。
「マキマの困った顔も……楽しいからね。ずっと観ている」
踵を返し、去っていく。
ぱたん、とドアが閉められた。
マキマは誰もいなくなった執務室で静かにカップを傾ける。
「……」
マキマには支配の力がある。
人間を、自分未満の者たちを操れる。
だからといって情勢をコントロールするのが楽なわけではない。
今日この時に至るまでに費やした労力は並大抵のものではなかった。それを本来の仕事と別に並行して進めることができたのは全て憧れのヒーローに出逢うため。
なのに全てが無駄になった。
「彼に手が届くのに何もしない……?」
チェンソーマンのファンとしては到底受け入れられない選択肢だった。
マキマはゆっくりと椅子の背もたれに寄りかかる。
天井を見上げて思考のロジックを組み立てていく。
「死の悪魔は飽きなかった。プランBは破棄するしかない。となると次はさしずめプランC……」
死の悪魔がどうしても立ちはだかるというのなら排除するしか道は無い。
死を倒し、死を殺す。
だが彼女より強い悪魔は現状存在しない。
ならば。
死よりも恐ろしい概念を作り育て上げるしかないだろう。
「人間が死よりも恐れる大災厄……」
マキマの脳裏に浮かんだ概念は――
爆撃。粉砕。銃殺。拘束。処刑。制圧。尋問。恐慌。暴動。強奪。凌辱。徴兵。虐殺。
それら全てを内包する地獄の顕現。
第二次世界大戦。
「戦争の悪魔。今度は彼女を導き育てることにしましょうか」
背もたれから身を起こす。
引き出しを開け、一枚の資料を取り出した。
そこには顔立ちが整っている以外にさして特徴のない一人の女子高生の写真が貼りつけてあった。
「まず手始めに三鷹アサ」
目を細め、飲みかけのカップを持ち上げた。
「それと並行して、戦争の悪魔を成長させるために第三次世界大戦の種でも蒔きますか」
突如、執務室のドアが激しい衝突音とともに開け放たれた。
分厚い木扉が壁にぶつかって鈍く鳴る。
マキマが顔を向けるよりも早く、一人の女子高生が踏みこんでくる。
デスクの前で立ち止まり、乱れた髪の隙間から光る双眸が鋭くマキマを捉えた。
「あのっ、突然ですが……! 私、人間の皆さんを救いに来ました……!」
マキマの鼻奥にくゆる匂い。
知っている。とても嫌な匂いだった。
「ヴウウウ~!」
低く掠れた声だった。
謎の制服姿の少女は自らの人差し指を嚙みながらただ唸る。
「貴女は? ここに来た目的は何でしょうか?」
「ウヴウ~!」
「お名前は?」
「……私は! 人と悪魔から恐れられる4騎士が1人……飢餓の悪魔! キガちゃんって呼んでください!」
マキマは優雅にコーヒーを啜る。
芳しい豆の香りを堪能し、ゆっくりと、ゆっくりと息をついた。
「何をしに来たのでしょうか」
「救済! 救済!」
「貴女は、いったい、何をしに来たのでしょうか」
「私は特別な力を以てして皆さんを救えるんです! 人間をメチャクチャにするなんて悪魔になら誰でもできる仕事を……私のような能力の高い悪魔がやるのは勿体ないと思います……! 救済! 救済!」
はあ~、と。地獄の底まで届きそうな溜め息をマキマは吐いた。
椅子の背もたれに寄りかかり、眉間に皺ができていないかを確かめる。
全身に疲労感を覚えながら思い浮かべたのは憧れのヒーローの姿だった。
この世の不条理をメチャクチャにぶち壊してくれるその勇ましくも爽快な暴れぶりに想いを馳せる。
死。戦争。飢餓。この世には居なくなったほうが幸せになれる馬鹿姉が三人も居る。
助けてチェンソーマン。
「プランDを……考えますか……」