銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
妻は泣き、夫はしゅんとし、親友は巻き込まれ、姉上は銀河を統べました。
どうぞ気楽に、笑い飛ばしながらお読みください。
帝都オーディン
今日の朝は、今日も無駄に爽やかだ。ラインハルトのドタバタ求婚劇も終わり、ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ嬢――通称ヒルダちゃん――の妊娠という銀河級の大事件も、一応の落ち着きを見せている。
結婚式については、「安定期に入ってから盛大にやる」ということで話がまとまった。もちろん、その準備や段取り、招待客のリストアップから引き出物の選定に至るまで、全て俺が――正確には有能すぎる婚約者のアナが――考えてやっている。
あいつら、軍事作戦なら一瞬で立案するくせに、席次表ひとつ決められないから困る。
まあいい。おかげで、ここ数日は大きなトラブルもなく、平和だ。久しぶりに、ファルケンハイン侯爵邸で、アナと一緒に優雅な朝食を楽しむ時間が取れている。目の前には、湯気を立てる極上のコーヒーと、アナのお手製オムレツ。窓の外では小鳥がさえずり、庭師が手入れしたバラが咲き誇っている。完璧だ。この平穏が永遠に続けばいい。そう、心から願う。
◆
バーンッ!!
その願いは、もはや恒例行事となった「扉の破壊音」によって粉砕される。屋敷の玄関ホールから、ドタドタという足音が近づいてくる。またか。 またなのか。この屋敷の防音性能とセキュリティは、一体どうなっているんだ。
いや、入ってくる人間が非常識すぎるだけか。
「ファルケンハイン閣下!!いらっしゃいますか!!」
悲痛な叫びと共に、ダイニングルームの扉が開かれる。そこに立っていたのは、いつもの冷静沈着な才媛、ヒルダちゃんではない。
髪は乱れ、服の裾もしわくちゃ、顔色は幽霊のように青白く、その瞳には絶望の炎が揺らめいている。まるで、亡国の危機を知らせに来た使者のようだ。
「(コーヒーを置き)………次は妻か………」
深くため息をつく。
先週は夫(ラインハルト)が来た。そして今度は妻だ。
コンプリートだ。スタンプラリーなら景品がもらえるレベルだ。
「(ため息)……我が家は、ミューゼル家の駆け込み寺のようですね」
アナスタシアも、呆れたようにトーストを皿に戻す。彼女の表情には諦観が浮かんでいる。
「どうしたのかな?フロイライン……いや、ミューゼル夫人。朝からそんなに青ざめて」
努めて優しく声をかける。彼女は妊婦だ。精神的に不安定になることもあるだろう。夫の帰りが遅いとか、靴下を脱ぎっぱなしにするとか、そういう些細なことで悩んでいるに違いない。
「つわりか?酸っぱいものが食べたくなったか?だったら、極上のピクルスを取り寄せてあるぞ」
気遣いを見せる。だが、ヒルダは首を激しく横に振る。
「違います!つわりではありません!体調の問題ではないのです!」
彼女は、テーブルの端を掴み、身を乗り出す。その鬼気迫る形相に、思わずのけぞる。
「夫が……ラインハルトが、浮気をしています!!」
「…………………なにーーーーー!!」
椅子から転げ落ちそうになる。浮気?あのラインハルトが?人類史上、最も色恋沙汰に疎く、禁欲的で、潔癖症のあの金髪が?ありえない。天地がひっくり返っても、それだけはありえない。
「まさか……そんな破廉恥な。あのラインハルト様に限って……」
アナも絶句している。彼女の情報網にも、そんな兆候は引っかかっていないはずだ。
「そうだぞ。あいつはそんな暇があれば、軍隊と結婚するような男だぞ。『戦術こそ我が妻』『補給こそ我が母』とか言い出しかねん。浮気相手がいるとしたら、新しい戦艦か要塞くらいだ」
ラインハルトの頭の中は、「姉上」「キルヒアイス」「軍隊」で占められており、そこに「愛人」が入る隙間など1ミクロンもない。
「いいえ!相手は軍隊ではありません!……聞いてください、閣下!ホーテン様!私の目がおかしいのでなければ、これは由々しき事態なのです!」
ヒルダが叫ぶ。その目には涙が溜まっている。これはただ事ではない。あの理知的な彼女がここまで取り乱すとは、よほどの決定的な証拠を見たのか。
「わかった、落ち着け。……とりあえず座れ。ハーブティーでも飲んで、順を追って話してくれ」
アナスタシアが彼女を椅子に座らせ、背中をさする。俺たちは、覚悟を決めて「証言」を聞く体勢に入る。
◆
ヒルダは、震える手でハーブティーを一口飲むと、ポツリポツリと語り始めた。それは、新婚生活の甘いエピソードなど微塵もない、あまりにも残酷な「すれ違い」の記録だった。
① 朝起きた時
「まず、朝のことです」
ヒルダの声が震える。
「私たちは、まだ例の下宿に住んでおります。ベッドは狭いですが、二人で寝るには十分です。……今朝、私が先に目を覚まし、彼を起こそうとしました」
(回想)朝の光が差し込む寝室。隣で眠るラインハルトの寝顔は、天使のように美しい。 ヒルダは、愛おしさを込めて彼を揺り起こす。
「あなた、ラインハルト。起きてください。朝ですよ。公務の時間ですわ」
すると、ラインハルトはまどろみの中で、ふにゃりとした顔をして呟いた。
「(寝ぼけて)ん〜。キルヒアイス、まだ眠い……。あと5分……」
「(ピキッ)……私です。妻のヒルダです」
ヒルダのこめかみに青筋が浮かぶ。なぜ一番にその名前が出るのか。
「(ガバッと起き)!!……キルヒアイス!……いや、失礼した、フロイライン・マリーンドルフ」
ラインハルトは飛び起き、慌てて居住まいを正す。そして、あろうことか「フロイライン(お嬢さん)」と呼んだのだ。
(回想終了)
「(心の声)………結婚しましたよ?妊娠もしてますよ?なぜ他人行儀なのですか?そしてなぜ寝ぼけた無意識の状態で、一番にあの赤毛の親友の名が出るのですか?私は誰ですか?家政婦ですか?」
ヒルダが頭を抱える。確かに、それは傷つく。新妻に対して「お嬢さん」呼びは、距離がありすぎる。
「ま、まあ、寝ぼけていたんだろう。あいつにとって、長年朝を起こしてくれていたのはキルヒアイスだからな。習慣というのは恐ろしいものだ」
必死にフォローする。だが、ヒルダの目は死んでいる。
② 出勤時
「それだけなら、まだ我慢できました。……問題は、出勤の時です」
ヒルダが続ける。
「私たちは、一緒にここへ向かうために外に出ました。そこには、迎えの車が待っていました」
(回想)下宿の前。黒塗りの公用車が停まっている。運転席から降りてきたのは、新しい家で少し肌艶が良くなったジークフリード・キルヒアイスだ。
「お迎えにあがりました。ラインハルト様、ヒルデガルド様」
キルヒアイスが丁寧にドアを開ける。すると、ラインハルトの表情が、一瞬にして満開の花のように輝いた。
「(満面の笑みで駆け寄り)キルヒアイス!待っていたぞ!おはよう!昨日一晩会えなくて寂しかったぞ!昨夜はよく眠れたか?新しい家の住み心地はどうだ?」
ラインハルトは、ヒルダを置き去りにしてキルヒアイスに駆け寄り、その肩を叩き、顔を近づけて話しかける。尻尾が見える。ブンブンと振られている尻尾が見える。ヒルダには見せたことのない、無防備で全開の笑顔だ。
「(後ろで)………私が隣にいるのに……?私は空気ですか?昨夜、同じベッドで寝ていた妻よりも、一晩会えなかった親友の方が大事なのですか?」
(回想終了)
「……あの時の彼の笑顔。私に向けられたものとは、明らかに熱量が違いました。……あれは、恋する乙女の顔です」
ヒルダが断言する。「恋する乙女」彼に対する評価としては、いささか滑稽だが、的確すぎる。
「あー……。まあ、あいつらニコイチだからな……」
言葉を濁す。否定できない。ラインハルトにとって、キルヒアイスは半身だ。会えたら嬉しいのは分かるが、妻の前では自重しろよ。
③ 手料理
「料理についてもです」
ヒルダが、悔しそうに拳を握る。
「私は、料理が得意ではありません。ですが、妻として、彼の体調を気遣い、少しでも喜んでもらおうと、昨晩はスープを作りました。メイドに教わりながら、指を切って、それでも頑張って……」
(回想)夕食のテーブル。少し形がいびつな野菜が入ったスープが並ぶ。ヒルダは、緊張した面持ちでラインハルトの反応を待つ。
「……どうでしょう?お口に合いますか?薄味にしてみたのですが」
ラインハルトは、スプーンで一口すする。そして、素直に、あまりにも素直に感想を述べた。
「(一口飲んで)うむ。……姉上(アンネローゼ)のほうが美味しかった」
ピキーン。ヒルダの手の中で、スプーンが曲がる音がした。
「だ、だが、見事な腕だ。初めてにしては上出来だ。……フロイライン・マリーンドルフ」
ラインハルトは、悪気なく、そしてまたしても他人行儀に褒めたつもりでいる。
「………………………(また名前!そして姉上と比較!)」
(回想終了)
「……新妻の手料理を食べて、『姉のほうが美味い』と言う。これ、離婚事由になりませんか?精神的虐待ではありませんか?」
ヒルダの目が座っている。なる。完全になる。世の夫たちが絶対に言ってはいけないセリフのナンバーワンだ。
「あいつ……。シスコンも極まれりだな。姉上の料理は神の領域だから比較対象にするのが間違ってるんだが、それを口に出す神経が信じられん」
頭を抱える。ラインハルトのデリカシーは、宇宙の彼方に置き去りにされているらしい。
④ 結婚式の衣装合わせ
「そして、先日の衣装合わせです」
ヒルダのため息が深くなる。
「式の準備のために、衣装を選んでいました。私は、純白のウェディングドレスを試着しました。人生で一番綺麗な姿を、彼に見てもらいたくて」
(回想)ドレスルーム。カーテンが開き、ドレス姿のヒルダが現れる。彼女は、照れくさそうに、しかし期待を込めてラインハルトを見る。
「あなた、私のウェディングドレスはこれでいかがでしょうか?少し派手すぎませんか?」
ラインハルトは、書類を見ながらチラリと一瞥しただけだった。
「(一瞥して)うん、まあ良いんじゃないか。似合ってるぞ。サイズも問題なさそうだ」
軽い。反応が軽すぎる。「ああ、天気いいね」くらいのテンションだ。
「(軽い!『美しい』とか『見惚れた』とかないのですか!?)」
ヒルダが絶句していると、ラインハルトは熱心にカタログを指差した。
「それより、フロイライン・マリーンドルフ。そんなことより、介添人としてキルヒアイスに着てもらう衣装だが、この青の礼服がいいか、黒の燕尾服がいいか、どちらが男前だろう?」
「………………」
「俺は青がいいと思うのだが、黒も捨てがたい。あいつは背が高いから、ロングコートタイプも似合うはずだ。……どう思う?」
ラインハルトは真剣だ。花嫁のドレスよりも、親友の衣装選びに命を懸けている。
「…………………(怒りで震えながら)青で。赤毛には補色が映えますから」
「そうか!やはりそう思うか!さすがはフロイライン、色彩感覚も優れている!あいつは赤毛だから青が映える!絶対に似合うだろうな!ああ、並ぶのが楽しみだ!(頬を染めてウットリ)」
(回想終了)
「……私のドレスには5秒しか興味を示さなかったのに、キルヒアイス中将の服には30分も悩んでいました。そして、あんなに嬉しそうな顔をして……」
ヒルダがハンカチで目元を拭う。可哀想すぎる。新郎が、新婦よりもベストマン(介添人)に見惚れている結婚式なんて、前代未聞だ。
「あのバカ……。結婚式の主役が誰か分かってないのか」
アナが、殺気を放ち始めている。彼女の手元で、スプーンが飴細工のように捻じ切れている。
⑤ 決定的な瞬間(浮気現場?)
「そして極めつけが、昨日の執務室での出来事です」
ヒルダの声が低くなる。これが、決定打となった「浮気現場」の目撃証言だ。
「私は、書類を届けるために、彼の執務室に向かいました。ノックをしようとした時、中から話し声が聞こえたのです」
(回想)少し開いたドアの隙間。ラインハルトが、デスクに座るキルヒアイス(なぜか彼が座っていた)に詰め寄っている。
「くそ!リヒテンラーデのクソジジイめ!また俺の提案を却下しおって!予算の無駄遣いだと!?俺が必要だと言っているのだぞ!」
ラインハルトは不機嫌そうだ。それを、キルヒアイスが宥めている。
「ラインハルト様、落ち着いてください。国務尚書閣下も、国の財政を思ってのことかと。今は我慢の時です」
「(甘い声で)……キルヒアイスは優しいな。いつも俺を慰めてくれる」
ラインハルトの声色が、急に変わる。甘ったるい、粘着質な声だ。
「しかしな、お前は俺と姉上にだけ優しければいい。他の誰にも、その優しさを見せるなよ?」
ラインハルトは、キルヒアイスの頬に手を添える。そして、その赤い髪を指でクルクルと巻き、顔を極限まで近づける。キスをする直前のような距離。
「お前は俺のものだ。……そうだろ?キルヒアイス」
甘えるように、そして独占欲を露わにして笑う。
「………………」
(回想終了)
「(陰から見ていて)……私には一度もしてくれたことないのに!!あんな甘い声、聞いたことありません!髪を触られたこともありません!『お前は俺のものだ』なんて言われたこともありません!!」
ヒルダが叫ぶ。嫉妬。純粋な嫉妬だ。しかも相手は、絶世の美女でもなんでもない、190センチの大男だ。
「あれは浮気です!心の浮気です!いえ、もう肉体関係があるのかもしれません!だってあんな……あんな距離感、おかしいですもの!」
◆
「(涙目で)……というわけです!もう!私ではなく、キルヒアイス中将と結婚すればいいのよ!!あの二人なら、お似合いのカップルになれるわ!!」
ヒルダの悲痛な叫びが、ダイニングルームの天井に反響し、吸い込まれていく。
彼女はテーブルに突っ伏し、肩を震わせて泣いている。
理知的で、常に冷静な彼女がここまで取り乱すとは。よほど腹に据えかねたのだろう。 新妻に「親友と結婚すればいい」と言わせる夫。最低だ。ギネス記録に載るレベルだ。
俺とアナスタシアは、顔を見合わせる。沈黙。重苦しい、鉛のような沈黙が流れる。
「…………………………」
「…………………………」
言葉が出ない。あまりにも状況がカオスすぎる。ラインハルトの「無自覚な親友優先主義」が、ここまで深刻化していたとは。
「(深く頷き)……なるほど。これは重罪だ。浮気ではないが、浮気よりタチが悪い」
腕を組み、裁判官のように宣告する。浮気なら、まだマシだ。「魔が差した」と言い訳ができる。だが、これは違う。ラインハルトにとって、キルヒアイスを優先することは「呼吸をするように自然なこと」なのだ。悪気がない。だからこそ、治らない。
「無自覚なのが救いようがありませんね」
アナが、冷めた紅茶を見つめながら呟く。
「新婚の奥様を『フロイライン(お嬢さん)』と呼び続け、キルヒアイス様には甘い声で囁く。……これでは、ヒルダちゃんが自信を喪失するのも無理はありません」
「全くだ。俺がヒルダの立場なら、とっくに実家に帰ってるか、キルヒアイスを刺してるかもしれん」
このままでは、帝国の未来を担う最強カップルが、スピード離婚という結末を迎えてしまう。それはマズい。俺の安眠のためにも、帝国の安定のためにも。
「わかった。俺がなんとかする」
立ち上がる。だが、どうする?俺がラインハルトに説教したところで、「兄上の戯言」あるいは「自分も女にだらしないくせに」と一蹴されるのがオチだ。あいつは俺のことを舐めている(愛すべき兄貴分としてだが)
ここは、劇薬が必要だ。毒をもって毒を制す。猛獣には、猛獣使いのさらに上の存在をぶつけるしかない。
「アナ。……最終兵器を起動するぞ」
「最終兵器?」
「ああ。陛下にお願いして、面会の許可をもらう。……アンネローゼ様に叱ってもらおう」
アナが息を呑む。グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼ。ラインハルトの姉であり、彼が全宇宙で唯一、頭が上がらない絶対神。彼女の聖母のような微笑みの裏には、弟を躾けるための絶対的な権威がある。
「シュワルツェンの館へ行くぞ!ヒルダちゃん、泣いてる場合じゃない!お義姉さんに言いつけに行くんだ!それが一番効く!」
「えっ?アンネローゼ様に……ですか?」
ヒルダが顔を上げる。
「そうだ!あのブラコン……いや、弟想いの方なら、必ず味方になってくれる!嫁姑問題の心配はない!むしろ、弟をボコボコにしてくれるはずだ!」
拳を握る。これが、ファルケンハイン流・家庭内トラブル解決法(他力本願)だ。
「アナ、リムジンの手配だ!今度は花屋じゃない!処刑場への直行便だ!」
「御意!」
俺たちは、泣き腫らしたヒルダを連れ、帝都の奥深く、皇帝の寵姫が住まう静寂の館へと向かった。
◆
シュワルツェンの館(アンネローゼの住まい)
絨毯の上には、二人の男が正座させられていた。一人は、金髪の若き覇者、ラインハルト・フォン・ミューゼル上級大将。もう一人は、赤毛の長身、ジークフリード・キルヒアイス中将。銀河を揺るがす英雄二人が、小さくなって縮こまっている。
その正面。優雅なソファに座っているのは、この世のものとは思えない美貌を持つ女性。 アンネローゼ・フォン・グリューネワルト伯爵夫人だ。彼女の隣には、ヒルダが座らされている。ヒルダは、アンネローゼに手を握られ、守られるように寄り添っている。
俺とアナスタシアは、証人席(部屋の隅)でその様子を見守る。
「……事情は、ファルケンハイン元帥から聞きました」
アンネローゼが口を開く。その声は、春の小川のように穏やかで、優しい。だが、室温が一気に5度下がった気がする。絶対零度の微笑みだ。
「ラインハルト。……貴方は、結婚したのですね?」
「は、はい!姉上!ご報告が遅れて申し訳ありません!しかし、これには深い事情が……!」
ラインハルトが冷や汗を流しながら弁解しようとする。姉の前では、彼はただの「弟」に戻ってしまう。
「ヒルダさんから、お話は伺いました。……貴方が、新妻を放置して、ジークとばかり仲良くしていると」
アンネローゼの視線が、ラインハルトを射抜く。
「あ、姉上!これは陰謀です!俺はヒルダを愛しています!彼女の知性も、人格も尊敬しています!」
「では、なぜ名前で呼ばないのですか?なぜ朝一番にジークの名を呼ぶのですか?」
「そ、それは……習慣で……つい……」
「習慣」 一番言ってはいけない言い訳だ。
アンネローゼは、ふぅ、と小さくため息をつく。その仕草だけで、ラインハルトがビクッと震える。
「ラインハルト。……貴方が、そこまでジークを好きだとは思いませんでした」
彼女は、少し悲しげに、そして意味深に言う。
「幼い頃から仲が良いとは思っていましたが……まさか、結婚してからも、奥様よりジークを優先するなんて。……そこまで『深い仲』だったのですか?」
「(真っ赤になって)ち、違います!!あ、姉上!誤解です!とんでもない誤解です!」
ラインハルトが絶叫する。顔から火が出そうだ。姉にBL疑惑を持たれる弟。地獄絵図だ。
「キルヒアイスは友人として!半身として!共に覇道を歩む同志として大事なだけで!決して、そのような不純な、いや、恋愛感情的な意味では……!」
「……(静かに、しかし威圧的に)お黙りなさい」
アンネローゼの声が、少し低くなる。ピシャリ、と鞭が打たれたような衝撃。
「ひっ……!」
ラインハルトとキルヒアイスが同時に縮み上がる。最強の帝国軍人二人が、一人の女性の一言でカエルのように固まる。これが、真の「銀河の支配者」の姿か。
「身重の奥様を不安にさせるなど、言語道断です。貴方たちは、自分たちが何をしたか分かっているのですか? 一人の女性の心を、ないがしろにしたのですよ?」
アンネローゼは、ヒルダの肩を優しく抱く。
「ヒルダさんは、貴方の子を宿しているのですよ?貴方の未来を、その身に宿してくれているのです。それなのに……」
彼女の瞳が、怒りに燃える。
「いいですか、ラインハルト。貴方は天才かもしれませんが、人の心に関しては落第生です。……再教育が必要です」
「は、はい……。仰せのままに……」
ラインハルトが項垂れる。完全敗北だ。
「罰として」
アンネローゼが判決を下す。
「今後、結婚式までの間、軍務以外のジークとの会話を一切禁じます」
「え?」
ラインハルトが顔を上げる。
「プライベートでの接触、食事、雑談。全て禁止です。ジークは、ラインハルトの家への出入りも禁止。お互い、目を見合わせるのも必要最低限にしなさい」
「な、なんですと!?」
「そして、その時間は全て、ヒルデガルドさんとの対話に使いなさい。彼女の名前を呼び、彼女の手料理を食べ、彼女のドレスを選びなさい。……いいですね?」
「(絶望)……………あ、姉上~~!!そんな殺生な!!」
ラインハルトが悲鳴を上げる。キルヒアイス禁止令。彼にとっては、空気を取り上げられるに等しい刑罰だ。
「ジークと話せないなんて!俺はどうやって息抜きをすればいいのですか!?」
「妻としなさい」
バッサリ。
「分かりましたか? ジーク」
「は、はい!謹んでお受けいたします!ラインハルト様のため、心を鬼にして距離を置きます!」
キルヒアイスは、むしろホッとしたような顔をしている。彼も、ラインハルトの依存度に危機感を持っていたのかもしれない。あるいは、これで毎朝の送迎(邪魔者扱い)から解放されることに安堵しているのか。
「ヒルデガルドさん。もし彼が約束を破ったら、すぐに私に言いつけてくださいね?次は、お尻ペンペンの刑にしますから」
「ふふ……はい、お義姉様。ありがとうございます」
ヒルダが、涙を拭いて微笑む。勝った。嫁の勝利だ。最強の後ろ盾を得た彼女は、今や無敵だ。
俺は、部屋の隅でアナスタシアと頷き合う。
「(小声で)……恐ろしいな、アンネローゼ様」
「ええ。怒らせてはいけない方ナンバーワンですね」
「だが、これで一件落着だ。ラインハルトも、少しは妻の大切さを知るだろう」
◆
「それから、ジーク」
アンネローゼの声が、キルヒアイスに向けられる。その瞬間、キルヒアイスの背筋が、電気を通されたように伸びる。
「は、はい!アンネローゼ様!」
直立不動。いや、正座不動だ。190センチの巨漢が、借りてきた猫……いや、叱られた大型犬のように小さくなっている。
「貴方もです。ラインハルトが甘えてくるからといって、無条件に受け入れてはいけません。貴方の優しさは美徳ですが、時として相手をダメにします」
正論だ。ぐうの音も出ない正論だ。キルヒアイスの献身は、時にラインハルトの「幼児性」を助長している。
「ジークも、ラインハルトを甘やかさないで。……少し、距離を置きなさい」
「申し訳ありません……。肝に銘じます」
キルヒアイスが深々と頭を下げる。反省しているようだ。これで、二人の共依存関係も解消に向かうだろう。めでたし、めでたし。
……と、俺たちが安堵した、次の瞬間だった。
アンネローゼは、ふわりと立ち上がり、正座しているキルヒアイスのそばへと歩み寄った。その動きは優雅で、足音ひとつ立てない。彼女は、ゆっくりとしゃがみ込み、キルヒアイスの顔を覗き込む。
そして、そっと彼の手を取った。白い、陶磁器のような手が、赤毛の青年の大きな手を包み込む。
「……ジーク」
声色が、変わる。さっきまでの「厳格な姉」の声ではない。もっと甘く、湿度を帯びた、とろけるような響き。
「貴方は……私にだけ、優しければいいのです」
「……え?」
キルヒアイスが、呆然と顔を上げる。
アンネローゼは、微笑んでいる。だが、その笑顔は聖母のものではない。もっと独占欲に満ちた、蠱惑的な女性の笑顔だ。
彼女の細い指が、キルヒアイスの赤い髪に伸びる。そして。クルクルと。指先で、その赤い房を弄ぶように巻き付けた。
デジャヴ。猛烈な既視感。
その角度。その手つき。その上目遣いの甘え方。そして、「私にだけ優しければいい」という独占欲丸出しのセリフ。
これ、昨日ラインハルトが執務室でやっていたことと、完全に一致している。一ミリの狂いもなく、同じ構図だ。鏡写しか?いや、これは「血」だ。
「ジーク……」
アンネローゼが、耳元で囁くように名前を呼ぶ。
「貴方は、誰のものかしら?」
「(ボンッ!と顔を真っ赤にして)は、はい、アンネローゼ様……///」
キルヒアイスが爆発した。物理的に湯気が出ている。顔色が髪の色と同じくらい真っ赤だ。思考回路がショートし、ただひたすらに頷くことしかできない自動人形と化している。
「うむ!その通りだ!」
そこで、空気の読めない男が一人、力強く頷いた。ラインハルトだ。彼は、姉が親友を誘惑(?)しているこの決定的瞬間を目の当たりにしても、何の疑問も抱いていない。
「…………」
俺とアナスタシア、そしてヒルダは、同時に天を仰いだ。ダメだこいつ。シスコンが極まりすぎて、「姉上がキルヒアイスを独占する」=「正しいこと」という図式しか成立していない。自分が浮気を疑われた行動と、姉の今の行動が全く同じであるという皮肉に、1ミクロンも気づいていない。
アンネローゼは、そんな弟の反応に満足げに微笑み、再びキルヒアイスに向き直る。
「ふふ。……いい子ね、ジーク。約束ですよ?」
「は、はい……!」
キルヒアイスは、もう魂ごと抜かれている。彼にとって、この姉弟は抗えない「運命(呪い)」そのものなのだろう。
◆
「(小声で)………………やはり、姉弟………」
俺は呻く。ラインハルトとアンネローゼ。性格は正反対に見える。一方は炎のように激しく、一方は水のように静かだ。だが、根っこは同じだ。「欲しいものは絶対に手放さない」「身内に対する愛が重すぎる」「キルヒアイスへの執着が異常」この三点において、彼らは完全に一致している。
「(小声で)独占欲の示し方が、DNAレベルで同じですね」
アナも、引きつった笑みを浮かべている。
「髪をいじる手つき、甘える角度、そしてあの瞳の奥の『絶対零度の独占欲』。……恐ろしい類似性です。ミューゼル家の血筋には、とんでもない遺伝子が組み込まれていますわ」
「ああ。キルヒアイスは前世でどんな大罪を犯したんだ。この姉弟に同時に愛されるなんて、幸福なのか地獄なのか分からん」
真っ赤になって固まっている赤毛の青年を見つめる。彼は今、宇宙で一番安全で、かつ一番危険な場所にいる。
「……ところでアル様」
アナが、ふと声を潜める。
「ん?」
「陛下は……このことを?」
鋭い質問だ。フリードリヒ4世。銀河帝国の現皇帝であり、アンネローゼを寵姫として召し上げている老人。彼にとって、アンネローゼは「自分の女」だ。その彼女が、若い士官(キルヒアイス)に対して、明らかに「男」として見ているような態度を取り、あまつさえ指を絡ませて誘惑している。これがバレたら、ただの不敬罪では済まない。粛清だ。血の雨が降る。
「(冷や汗)……た、多分、ご存知とは思うが……あえて言うまい……」
視線を逸らす。皇帝陛下は、枯れているようでいて、実は鋭い観察眼を持っている。ラインハルトとキルヒアイスの台頭を許しているのも、アンネローゼへの愛ゆえか、あるいは自身の退屈しのぎか。おそらく、気づいてはいるのだろう。アンネローゼの心が、自分にはないことを。彼女の視線の先に、いつもあの赤毛の若者がいることを。
「陛下も、そこまで野暮ではない……と、信じたい。あるいは、『若い燕を囲うのも甲斐性』くらいに思って、見て見ぬふりをしているのかもな」
「だと良いのですが。……もしバレたら、アル様が全力で揉み消してくださいね?」
「無茶言うな。俺の首が飛ぶわ」
そんなヒソヒソ話をしている間にも、アンネローゼによる「キルヒアイス再教育(調教)」は続いている。ラインハルトはそれをニコニコと見守り、ヒルダは「私の夫、本当に大丈夫かしら」と不安げに見つめている。
こうして。ラインハルトの重篤な「キルヒアイス依存症」は、姉上による強制隔離措置と、姉上自身による「キルヒアイス独占宣言」によって、多少は緩和されることになった。
……たぶんな。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
もしよろしければ皆さまの
「ここが好き!」
「ここで窒息した!」
「この夫ひどい!」
といった感想を教えていただけると嬉しいです。
ヒルダ派、キルヒアイス派、アンネローゼ派、ラインハルト反省しろ派――
それぞれの視点からの反応をぜひ読ませてください。
皆さまの声ひとつひとつが、作品の推進力になります。
次回も楽しんでもらえるよう精一杯書きますので、よろしくお願いいたします。
そろそろ長期連載になってきたので章ごとに簡単なあらすじ(ネタばれあり)をつけるべき?
-
つけるべき
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いらない