銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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今日は、帝国元帥ファルケンハインの屋敷で起きた
「笑えるほど平和な日常」と「笑えないほど不穏な兆候」
を併せてお届けします。

ローエングラム夫婦による居候攻撃
提督レビュー、元帥と上級大将の小学生喧嘩……
そして最後に訪れる、静かな赤い影。

銀河帝国の冬は、いつもと少し違う色をしていました。


ローエングラム夫婦、元帥邸を占領す

帝国歴486年11月20日 帝国歴帝都オーディン

 

 

窓の外では、鉛色の空から白い悪魔が舞い降り、庭の木々を凍てつかせている。だが、俺の家のサロンは、別世界の常春の楽園だ。マントルピースの中で赤々と燃える暖炉の炎。最高級の絨毯の感触。そして、鼻腔をくすぐる紅茶と焼き菓子の甘い香り。これぞ、銀河帝国元帥の特権であり、俺が愛してやまない「堕落した貴族の生活」そのものだ。

 

……と言いたいところだが、この完璧な絵画の中に、異物が混入している。

 

「……アスターテ??同盟領の?また出征かよ……?」

 

ソファーの特等席でふんぞり返りながら、呆れた声を出す。視線の先にいるのは、我が家の主人のように堂々と対面のソファーを占領している、金髪の蒼氷色の瞳を持つ青年。 ローエングラム伯ラインハルト上級大将だ。名前が長くなったせいで、呼ぶたびに舌を噛みそうになる。

 

「で、今回はラインハルト、お前だけで行くのか?俺は留守番でいいんだよな?寒いし」

 

「ああ、俺の艦隊だけで十分だ。年明けには出発する予定だ……。しかし、よりにもよってこの時期とは悪意を感じる!リヒテンラーデの老害め!」

 

ラインハルトは、不機嫌そうに鼻を鳴らす。その手には、なぜか果物ナイフと高級なリンゴが握られている。彼は器用に皮を剥きながら、憤慨している。シュルシュルと長く繋がった皮が、絨毯の上に垂れ下がっていく。おい、皮は皿の上に落とせ。あとで掃除するのはメイドたちなんだぞ。

 

「それもそうだ。1月の後半にはヒルダちゃんが出産予定日だからな。初めての子供が生まれるって時に、父親が戦場じゃあな。同情するよ」

 

暖炉の火を見つめながら同意する。リヒテンラーデ国務尚書の狙いは明白だ。ラインハルトを早く出世させたいのだ。彼が父親になり、マリーンドルフ家との結びつきを強め、さらに政治的基盤を固める。あの古狸め、考えることが陰湿だ。まあ、俺が同じ立場でもそうするが。

 

「全くだ。ヒルダの傍にいてやりたいというのに……。だが、勅命とあっては拒否できん。さっさと片付けて、産まれる前には戻れたらいいのだが」

 

ラインハルトは、剥いたリンゴを一切れ口に放り込み、残りを隣に座っている女性に差し出す。

 

「ほら、ヒルダ。ビタミンを摂れ」

 

「ありがとうございます、あなた」

 

ヒルデガルド・フォン・ローエングラム伯爵夫人――ヒルダちゃんが、微笑んで受け取る。彼女のお腹は、すでに大きく膨らんでいる。臨月も近い。ゆったりとしたマタニティドレスに身を包み、母性という名の聖なるオーラを放っている。その姿は、かつての「男装の麗人」のような鋭さを潜め、慈愛に満ちた女神のようだ。まあ、中身は相変わらず冷徹な策士なのだが。

 

平和な光景だ。若き英雄と、身重の妻。暖炉の前で果物を分け合う夫婦。絵になる。実に微笑ましい。

 

……ん?

 

ふと、違和感が脳裏をよぎる。思考の海に、小さな疑問の泡が浮かび上がる。

 

待て。ここ、俺の家だよな?ファルケンハイン侯爵邸だよな?なんでこいつら、こんなに馴染んでるんだ?まるで「我が家のリビング」みたいな顔をしてくつろいでいるが、ここはお前らの家じゃないぞ。

 

お前らの新居は、ここから徒歩数分のところにある豪邸だろうが。

 

「(ふと我に返り)……と言うか、待て」

 

上体を起こす。

 

「この夫婦(ラインハルトとヒルダ)、なんで当たり前のように俺の屋敷に入り浸ってるんだ?昨日もいたよな?一昨日もいたよな?いや、今朝起きたら、ダイニングで先に朝飯食ってたよな?」

 

記憶を巻き戻す。ここ一週間、こいつらの顔を見なかった日がない。朝、昼、晩。常に視界のどこかに金髪がいる。

 

「毎日来てるぞ?いや、帰ってるのか?実は帰ってないんじゃないか?」

 

疑念が確信に変わる。視線を、部屋の隅で紅茶を淹れている我が最強の婚約者、アナに向ける。

 

「アナ。……これはどういうことだ?俺の記憶違いか?それとも、俺の屋敷はいつの間にかローエングラム家の別荘になったのか?」

 

アナは、優雅な手つきでティーポットにお湯を注ぎながら、涼しい顔で答える。

 

「(紅茶を淹れながら)アル様。お気づきになるのが遅すぎますわ」

 

彼女はカップを盆に載せ、こちらへ歩いてくる。

 

「お二人は、一ヶ月の5分の4程を当屋敷にてお泊りされていますよ。客室の『青の間』と『緑の間』は、事実上、お二人の私室と化しています」

 

「……は?」

 

「クローゼットにはお二人の着替えが完備されていますし、洗面所には専用の歯ブラシもあります。……もはや『入り浸っている』のではなく、『住んでいる』と言った方が正確かと」

 

「(ガーン)……やっぱりか!」

 

頭を抱える。不法占拠だ。銀河帝国元帥の屋敷が、上級大将夫妻に乗っ取られている。 寄生虫(パラサイト)にしては図体がデカすぎるし、権力もありすぎる。

 

「新婚家庭はどうした!愛の巣は!キルヒアイスの隣に用意したあの豪邸は、ただの飾りか!?」

 

叫ぶ。せっかく用意させたのに。

 

すると、ヒルダが申し訳なさそうに、しかし悪びれもせずに口を開く。

 

「(お腹をさすりながら)申し訳ありません、閣下。……あちらの屋敷も素晴らしいのですが、少々広すぎて……。それに、使用人たちともまだ馴染めておりませんので」

 

彼女は、隣でリンゴをかじっている夫を見る。

 

「ラインハルトが、『兄上の屋敷の方が、政治の話もできるし、何より飯が美味い』と申しまして……」

 

「飯かよ!!」

 

食い扶持目当てか。帝国の覇者が、食費を浮かせるために居候しているのか。情けない。 泣けてくる。

 

「それに、ここならアナスタシア様もいらっしゃいますし、私が産気づいた時も安心だと言って……」

 

「託児所どころか、産婦人科代わりか!」

 

ラインハルトを見る。彼は「何か問題でも?」という顔で、平然としている。

 

「ファルケンハイン。貴様の家のシェフは優秀だ。特に、昨夜の鴨のローストは絶品だった。また作らせてくれ」

 

「……お前なぁ」

 

ため息が出る。この図太さ。この無神経さ。これが器量(厚かましさ)というやつか。

 

「(溜息)……まあいい。賑やかなのは嫌いじゃない」

 

結局、許してしまう。自分でも甘いと思う。だが、広い屋敷に俺とアナだけというのも、時として静かすぎる。それに、ヒルダの身体を考えれば、アナの近くにいた方が安心なのは事実だ。

 

アナは、政治だけでなく、医療や看護の知識も完璧だからな。万が一の時、帝都のどの医者よりも頼りになる。

 

「家賃は請求しないが、食費くらいは入れろよ。……あと、リンゴの皮は自分で片付けろ」

 

「分かっている。出世払いで頼む」

 

「出世払いって、お前、これ以上出世したら帝国宰相とかだぞ……」

 

「ふっ。その時は、貴様を『帝国軍最高顧問(名誉職)』にして、一生遊んで暮らせるようにしてやる」

 

「……悪くない提案だ」

 

交渉成立。俺はソファーに沈み込む。未来の宰相閣下に「家賃の対価として老後の安泰」を約束させたと思えば、安いものかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

場所を執務室に移し、改めて今回の遠征軍の編成リスト空中に展開する。

 

「で、今回の遠征軍の編成だが……」

 

ラインハルト率いる帝国軍遠征艦隊、総数2万隻。規模としては十分だ。問題は、その中身(人材)だ。

 

ラインハルト一人で全てを指揮できるわけではない。手足となって動く分艦隊司令官たちの質が、勝敗を分ける。

 

「麾下にキルヒアイスがいるのは良かったな。あいつがいれば、お前のブレーキ役にはなる。……まあ、最近は姉上(アンネローゼ様)のせいで骨抜きにされてるかもしれんが」

 

「フン。キルヒアイスの有能さは変わらん。あいつがいれば百人力だ」

 

ラインハルトが胸を張る。親友への信頼は揺るがない。そこは安心だ。

 

「問題は他だ。……上から順に見ていくぞ」

 

リストの一番上にある名前をタップする。

 

「……シュターデン?『理屈倒れ』のシュターデンか」

 

眉をひそめる。教官あがりの理論派。口を開けば「戦術の常道とは」と講釈を垂れるタイプだ。

 

「あいつの講義、聞いたことあるが、眠くなるんだよな。教科書通りのことしか言わんし、応用が利かない。……まあ、反面教師にはなるか。『ああはなるまい』という戒めとして連れて行け」

 

「……厳しすぎないか?一応、理論武装は完璧だと聞いているが」

 

「戦場は理論通りには動かん。お前が一番知っているはずだろ」

 

「違いない」

 

次。リストの中程にある、重厚な名前。

 

「で、メルカッツ提督……おお!良いじゃないか!これは当たりくじだ!」

 

思わず膝を打つ。ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ大将。ティアマト会戦でも、俺の無茶振りに耐え、見事な連携を見せてくれた帝国の良心だ。

 

「ベテラン中のベテランだ。ティアマトでも世話になった。あいつの使い方は俺が教えた通りにやればいい。無理に攻めさせず、守りの要として配置する。そうすれば、鉄壁の防御を敷いてくれる」

 

アドバイスを送る。ラインハルトのような「革新派」にとって、メルカッツのような「保守派」は扱いづらいかもしれない。だが、食わず嫌いは損だ。

 

「懐柔策は『尊敬してます』オーラを出すことだぞ。年長者を立てて、教えを請う姿勢を見せれば、あの人は悪いようにはしない。間違っても『古臭い』とか言うなよ。へそを曲げられたら、艦隊運用の教本を朗読されるぞ」

 

「……努力する。ティアマトでの借りは返さねばならんしな」

 

ラインハルトが神妙に頷く。よしよし。少しは大人になったか。

 

次。ここからは、俺が推進している「軍制改革」の目玉、貴族直轄軍からの編入組だ。 これまで、大貴族たちが私兵として囲い込んでいた艦隊を、国軍の指揮下に組み込む。 そのテストケースとして、数名の指揮官がラインハルトの麾下に入ることになっている。

 

「ファーレンハイト……こいつは貴族直轄軍で名前をよく見るな!」

 

アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト少将。水色(というか銀色?)の髪を持つ、鋭い目つきの男だ。

 

「海賊退治で名を上げた若手だ。食えない男だが、腕は立つ。少将とは出世したな。機動力と攻撃力に特化した、いい指揮官だぞ。お前の戦術スタイルとも相性がいいはずだ。……ただ、少し斜に構えたところがあるから、ナメられないようにしろ」

 

「フン。実力を見せつければ従うだろう」

 

「そうだな。そういうタイプだ」

 

次。

 

「エルラッハ?……ああ、貴族直轄軍でそこそこ頑張ってる奴だ。こいつも少将ね」

 

記憶を検索する。特に目立った戦果はないが、大ポカもしていない。貴族の縁者にしてはまともだが、独自の判断力には欠けるかもしれない。

 

「まあ、使える奴半分、お荷物半分ってとこか。エルラッハに関しては、過度な期待はするな。言われたことはやるが、それ以上はやらないタイプだ」

 

リストを閉じる。総じて見れば、悪くない布陣だ。ラインハルトの突破力、キルヒアイスの補佐、メルカッツの防御。バランスは取れている。

 

「今回は、俺の『貴族直轄軍と正規軍の合同任務』のテストケースでもあるからな。気合を入れろよ。ここで貴族出身の提督たちを上手く使いこなせれば、今後の軍政がスムーズに進む。逆にお前が彼らと揉めて空中分解すれば、リヒテンラーデ公に『ほら見たことか』と笑われるぞ」

 

「分かっている!俺の度量が試されているというわけだな」

 

ラインハルトが不敵に笑う。自信満々だ。だが、その自信が過信にならないよう、釘を刺しておく必要がある。

 

「メルカッツ提督とはティアマト以来か……。失礼のないようにな。彼は貴族社会の重鎮でもある。彼を味方につければ、他の貴族たちも黙る」

 

「分かっている!年長者を敬うくらいの礼儀は持ち合わせているつもりだ。……相手が尊敬に値する人物であればな」

 

「一言多いんだよ、お前は」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話題は、敵軍……自由惑星同盟軍へと移る。アスターテ星域。そこは、帝国の侵攻ルートの要衝であり、同盟軍にとっても譲れない防衛ラインだ。当然、向こうも主力を投入してくるだろう。

 

「まあ、敵がどう出るかによるが……。あの時の奴らに当たらないことを祈るんだな」

 

ティアマトでの悪夢を思い出す。ホーランドのドリル。ビュコックの粘り。

 

「ホーランドとか、ビュコックとか……。あと、ヤン・ウェンリーってのが、あの厄介な参謀だったんだな。一気に中将になって第13艦隊司令官とは……。出世早すぎだろ。同盟の人事課はどうなってるんだ」

 

ヤン・ウェンリー「魔術師」の異名を持つ男。あいつが司令官として一個艦隊を率いて出てきたら、正直、簡単には勝てる気がしない。いや、勝てたとしても、こちらの精神的ダメージが計り知れない。

 

「当たりたくないものだ。あいつと戦うと、寿命が縮む気がする」

 

本音を漏らす。すると、ラインハルトが鼻を鳴らした。

 

「(鼻を鳴らし)臆病者め!俺は強い敵とこそ戦いたい!ティアマトでは決着がつかなかったが、今度こそ白黒つけてやる!」

 

好戦的だ。やはり、こいつは根っからの戦闘狂だ。

 

「『魔術師』などとふざけた異名を持つ奴なら、尚更叩き潰してやる!奇策や小細工が通じないほどの、圧倒的な正攻法でな!」

 

「威勢がいいのは結構だがな。……強い敵と戦って、ヒルダちゃんを未亡人にするなと言っているんだ」

 

喉の奥がイガイガする。それとも喋りすぎたか?

 

「ゴホっ!ゴホっ!」

 

「(心配そうに)アル様?お風邪ですか?」

 

アナが、すっと水を差し出してくれる。優しい。女神だ。

 

「いや、喉がいがらっぽいだけだ。……あるいは、風邪でもひいたかもしれんな。最近、急に寒くなったし」

 

水を飲み干し、喉を潤す。

 

すると、ラインハルトがニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。

 

「(ニヤリ)ほう。『バカは風邪を引かない』という伝説は嘘だったのか……。それとも、貴様がバカではないという証明か?」

 

「……」

 

カチンとくる。こいつ、俺を心配するどころか、煽ってきやがった。

 

「いや、その伝説は合ってると思うぞ」

 

真顔で返す。

 

「お前はひかないだろ!見たことないぞ、お前が寝込んでるところなんて!」

 

「(ムッとして)どういう意味だ。俺がバカだと言いたいのか?」

 

「そういう意味さ!戦術バカ、戦闘バカ、姉上バカ!三拍子揃った完璧なバカだ!」

 

「貴様……ッ!言わせておけば!」

 

ラインハルトがソファの上で身を乗り出す。俺も応戦する。上級大将と元帥が、ソファの上で取っ組み合い……にはならず、なぜか小学生のような低レベルな攻撃の応酬になる。

 

「この野郎!えいっ!」

 

俺の手が、ラインハルトの太ももを抓る。

 

「痛っ!貴様、地味に痛いぞ!やり返す!」

 

ラインハルトの手が、俺の太ももを抓り返す。

 

「いってぇ!筋肉質だからって加減しろよ!」

 

「貴様こそ!脂肪が多いから掴みやすいぞ!」

 

「脂肪じゃない!豊潤な肉体だ!」

 

「ただの贅肉だ!」

 

グニグニ。つねつね。いい大人が、しかも帝国のトップ2が、ソファの上で太ももをつねり合っている。地獄絵図だ。威厳の欠片もない。

 

「(微笑ましく)……仲がよろしいですね」

 

ヒルダちゃんが、大きくなったお腹をさすりながら、クスクスと笑っている。彼女には、この光景が「兄弟喧嘩」に見えるらしい。いや、実際そうなのかもしれない。

 

「ええ。本当の兄弟のようです」

 

アナも、呆れながらも温かい目で見守っている。

 

「幼年学校で会ったときから、精神年齢は似たようなものでしたが……。成長しませんね、お二人とも」

 

「成長してるわ!俺は元帥だぞ!」

 

「俺も上級大将だ!伯爵だ!」

 

声を揃えて反論する俺たちを見て、女性陣二人が顔を見合わせて吹き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いてて!いてててて!降参!降参だ!俺の負けだ!」

 

ソファの上で、情けない悲鳴を上げる。ラインハルトの指先は、細いくせに万力のように強い。太ももの内側という、最も柔らかく、かつ防御力の低い部分を的確にピンポイントで攻めてくる。こいつ、戦術だけでなく、つねりの技術も天才的か。

 

これ以上やられたら、明日の歩行に支障が出る。元帥が筋肉痛(つねられ痛)で欠勤なんてことになったら、帝国の笑い者だ。

 

「……ふぅ。酷い目にあった」

 

両手を上げて降伏のポーズをとる。ラインハルトは「フン、口ほどにもない」と鼻を鳴らし、勝利の余韻に浸りながらリンゴの残りを齧っている。子供か。いや、まだ19歳の子供だったな。

 

「ちょっとトイレに行ってくるわ~。……生理現象には勝てん」

 

よっこらしょ、と立ち上がる。漢方の副作用で火照った体を冷やすためにも、少し顔を洗いたい。

 

ふと、悪戯心が湧く。

 

「なぁ、ラインハルト。お前も付き合うか?連れションしようぜ、連れション。仲直りの印に」

 

ニヤニヤしながら誘ってみる。小学生の修学旅行みたいなノリだ。

 

すると、予想通り、金髪の若き英雄は顔を真っ赤にして反応した。

 

「(顔を赤くして)勝手に行け!!誰が連れションなどするか!俺を貴様のような品性下劣な男と一緒にするな!」

 

「つれないなぁ。キルヒアイスとなら喜んで行くくせに」

 

「行くわけがあるか!とっとと消えろ!」

 

クッションが飛んでくる。それをひらりと避ける。完璧な回避行動だ。

 

「はいはい。行ってきまーす」

 

笑いながらサロンを出る。背後から、ヒルダちゃんとアナの「ふふふ」という忍び笑いが聞こえる。平和だ。この他愛のない日常こそが、俺が守りたかったものだ。

 

我が家のトイレ兼洗面所は、無駄に豪華だ。大理石の床、金メッキの蛇口、そして壁一面の巨大な鏡。貴族というのは、排泄する場所すら飾り立てないと気が済まない人種らしい。

 

中に入り、ドアを閉める。カチャリ。 鍵をかける。

 

顔を洗おうと、前屈みになった時だった。

 

「………ぐっ、おえっ!」

 

吐き気ではない。胃液が上がってくるような酸っぱい感覚ではない。ただ、喉の奥から、熱い塊がせり上がってくる感覚。鉄の味。錆びた鉄パイプを舐めたような、強烈な金属臭。

 

反射的に口元を手で覆う。咳き込む。掌の中に、生暖かい液体が広がる感触。

 

「げほっ……はぁ、はぁ……」

 

呼吸を整える。恐る恐る、口元を押さえた掌を離す。

 

そこには。

 

鮮血が、べっとりと付着していた。

 

真っ赤だ。動脈血のような鮮やかな赤。それが、俺の手のシワを伝って、大理石の洗面台にポタリ、ポタリと落ちる。白い陶器の上に、赤い花が咲く。

 

「(鏡の中の自分を見つめ)……………さて、また血か………」

 

独り言が漏れる。声が震えていないことに、自分でも驚く。慣れとは恐ろしいものだ。ここ数か月、これで何度目だ?5回目か?6回目か?

 

蛇口の水で手を洗う。赤い水が渦を巻いて排水溝に吸い込まれていく。

 

「……医者は『異常なし』『健康体そのもの』だと言うんだけどな」

 

前回の吐血(頬っぺた内側事件)の後、念入りに検査を受けた。CT、MRI、血液検査、腫瘍マーカー。結果はオールグリーン。「元帥閣下、貴方は健康すぎて医学の教科書に載せたいくらいです」と太鼓判を押された。唯一の指摘は「滋養強壮剤の飲み過ぎ」と「軽い喉の炎症」くらいだ。

 

「こうも頻繁に出ると気になるな……」

 

鏡の中の自分と目が合う。顔色は悪いが、死相が出ているわけではない(と思う)。

 

熱もない。体温計で測っても平熱だ。痛みもない。胸が苦しいとか、胃がキリキリするとか、そういう自覚症状は一切ない。

 

「ただ、喉の奥から鉄の味がするだけだ」

 

炎症反応はあるらしい。だけど、どこにもケガはしていない。ポリープもない。潰瘍もない。

 

「なぜだ??」

 

首を傾げる。原因不明。

 

毒か?いや、アナの目は誤魔化せない。俺の食事は全て彼女のチェックを通っている。 もし毒なら、俺より先に毒見役が死んでいるはずだ。

 

ストレス?いや、俺のメンタルは図太い。貴族社会の嫌がらせも、ラインハルトの癇癪も、適当に受け流してきた。今更ストレスで胃に穴が開くほど繊細な神経はしていない。

 

「まあ、俺は普通に動けるし、激しい運動をしたら出るわけでもない。完全にランダムだ」

 

そう。予兆がないのだ。リラックスしている時、仕事をしている時、食事中、あるいはトイレの中。忘れた頃にやってくる。いきなり玄関を開けてくる悪質な訪問販売のようなものだ。

 

「怖いな……」

 

本音が漏れる。死ぬのが怖いわけじゃない。いや、怖いけど。それ以上に、怖いことがある。

 

「未発見の不治の病とかではないだろうな??」

 

この広い宇宙には、まだ解明されていない病原体や風土病が山ほどある。どこかの辺境星域で拾ってしまったのか?それとも、遺伝的な何かか?

 

「……俺が死んだら、アナはどうなる?」

 

想像する。俺の葬式で、気丈に振る舞いながらも、人知れず涙を流すアナの姿を。彼女は強い。俺がいなくても生きていけるだろう。でも、悲しませたくはない。それに、俺がいなくなったら、誰が彼女の「教育的指導」を受け止めるんだ?

 

「ラインハルトは?帝国の改革は?」

 

まだ道半ばだ。あいつはまだ若い。俺という「防波堤」がいなくなれば、門閥貴族たちは一斉に牙を剥く。ブラウンシュヴァイク公もリッテンハイム侯も、俺がいるから大人しくしているだけだ。俺が死ねば、バランスが崩れる。内戦が始まるかもしれない。

 

せっかく積み上げてきた「俺の安泰な老後プラン」が、全て水泡に帰す。

 

「……責任重大だな、俺の体は」

 

苦笑いする。ただの怠け者が、いつの間にか銀河の命運を背負わされている。

 

コップに水を汲み、丁寧にうがいをする。ガラガラ、ペッ。吐き出した水に、もう赤色はない。 口の中を確認する。

 

「(舌をべーっと出して)……あー。……うん」

 

鏡に映る舌を見る。ピンク色で健康そうだ。頬の内側を見る。口内炎ひとつない。

 

「もちろん、口の中とか舌は噛んでない。傷ひとつない」

 

前回の「舌を噛んだ」という言い訳は、もう通用しない。出処不明の出血。体内からの警告信号。

 

「……呪いか?」

 

真剣に考える。これだけ順風満帆な人生だ。若くして元帥になり、美しい婚約者もいる。あまりにも恵まれすぎている。運を使い果たしたのか?それとも、俺の成功を妬む誰かの生霊か?

 

あるいは、「お前は幸せになりすぎた」という、神様からの徴税命令か?

 

「死神が近くにいるのか?……美女なら歓迎だが、骸骨はご免だぞ」

 

背後を振り返る。誰もいない。ただ、豪華なタイル張りの壁があるだけだ。寒気がする。 この屋敷の空調は完璧なはずなのに、芯から冷えるような感覚。

 

深呼吸をする。吸って、吐いて。肺に空気を入れる。酸素が巡る。思考を切り替える。

 

まだだ。まだ倒れるわけにはいかない。エリザベートちゃんか、サビーネちゃんが皇帝になるまで。アナと結婚式を挙げるまで。少なくとも、アナとの子供の顔を見るまでは、死んでも死にきれない。

 

鏡の前で、表情筋をマッサージする。口角を上げる。眉間のしわを伸ばす。目力を入れる。

 

よし。いつもの「不敵で怠惰な元帥」の顔だ。どこにも影はない。

 

 

「……アナには、まだ言えないな」

 

言えば、彼女は心配する。心配どころか、俺をICUに閉じ込めて、精密検査漬けにするだろう。そうなれば、アスターテ遠征のバックアップも、帝都の政治工作も滞る。今はまだ、その時ではない。

 

「……バレないように、あとでハンカチを焼却処分しておかないとな」

 

血のついたハンカチをポケットの奥深くに押し込み、俺は鍵を開けた。カチャリ。その音は、俺が一つ、大きな秘密を背負い込んだ合図のように聞こえた。

 

「おーい、ラインハルト!待たせたな!トイレが広すぎて迷子になってたわ!」

 

明るい声を張り上げて、俺は光の中へと戻っていった。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。

今回は、日常ギャグとシリアスの境界線を揺れながら進む回でした。
特に終盤の赤い伏線については、
読者の皆さまがどう受け取るか、ぜひ感想をいただけると嬉しいです。

・どのシーンが一番刺さったか?
・居候夫婦回、続きを読みたいか?
・元帥の不調について、どう思うか?

皆さまの一言一言が、作品の方向性を決める大きな力になります。
よろしければ、ぜひ感想をお寄せください。

帝国と同盟の内乱どちらから見たいですか?

  • 銀河帝国
  • 自由惑星同盟
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