銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
その裏で、自由惑星同盟の若き提督ヤン・ウェンリーがどのような朝を迎えていたのか。
今回は、歴史書には残らない「官舎の地獄」を描いています。
数多の軍人、政治家、上司たちが押し寄せる中で、
ヤンはどのようにして冷静さを保ち、最悪の状況下で最善の判断へ至ったのか。
彼の胃痛気味の英雄譚を、どうぞお楽しみください。
ヤン・ウェンリーの憂鬱な千客万来
自由惑星同盟首都星 ハイネセン
早朝。まだ新聞配達も来ていないような時間帯である。フェザーン自治領からもたらされた「帝国軍、再侵攻」の急報を受け、同盟軍統合作戦本部は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。 迎撃のために選ばれたのは、パストーレ中将率いる第4艦隊、ムーア中将率いる第6艦隊、そして今回が初陣となる、ヤン・ウェンリー中将率いる新設第13艦隊の三個艦隊だ。
出動命令が下った直後。本来ならば、各司令官は旗艦に乗り込み、出港準備を急ぐべき時間だ。しかし、なぜかヤンの官舎には、同盟軍の将星たちがすし詰め状態になっていた。
「……あの、皆さん」
ヤン・ウェンリーは、パジャマの上に慌てて軍服の上着だけを羽織った姿で、ダイニングの隅に追いやられていた。手には愛用のマグカップ(中身はブランデー入り紅茶)が握られているが、飲む隙間すらない。
「ここは私の家であって、統合作戦本部の会議室ではないのですが……。なぜ、ここに集合しているのですか? 避難訓練ですか?」
彼の悲痛な問いかけは、喧騒にかき消される。
「諦めろ、ヤン。ここが一番、コーヒーが美味いからな」
キッチンを占拠しているのは、事務処理の鬼ことアレックス・キャゼルヌ少将だ。彼はエプロンこそ着けていないが、我が家の主のような顔でコーヒーメーカーを操っている。
「出征が決まったんだ。泣いても笑っても、お前は戦場へ行く。……ほら、これが出撃手当と、遺族年金の受取人確認書類だ。ここにサインしろ」
「縁起でもない書類を朝食前に出さないでください先輩……」
「事務手続きは迅速にな。あと、これはユリアン君へのお土産のケーキだ。冷蔵庫に入れておいたぞ」
「先輩、公私混同が激しいです……。あとでユリアンに請求されますよ」
キャゼルヌは「経費で落とすさ」と涼しい顔だ。彼にとってヤンの家は、サテライトオフィス兼託児所のような感覚らしい。
その時だった。
「ヤン提督ぅぅぅ!!」
大音声が、狭い廊下を衝撃波のように走り抜ける。現れたのは、金髪の巨漢。第11艦隊司令官、ウィレム・ホーランド大将だ。彼は今回、前回のティアマト会戦での消耗(主に予算とメンタル)が激しいため、留守番を命じられている。その鬱憤を晴らすかのように、彼は朝からトップギアだ。
「いよいよだな!貴様の艦隊戦デビューだ!待ちわびたぞ!」
ホーランドは土足でドカドカとリビングに侵入してくる。
「あの金髪の小僧(ラインハルト)が相手だと聞いたが、惜しい!俺が行けば、あの時の借りを倍にして返してやるものを!」
彼は悔しそうに拳を握るが、すぐにニカっと笑ってヤンの肩を叩く。
「だが安心しろ!俺の魂は貴様と共にある!貴様の第13艦隊と、俺の第11艦隊(の魂)の連携があれば、帝国軍が哀れでならんわ!ガハハハ!」
「物理的に連携してくれないと困るんですが……」
ヤンがよろける。ホーランドの後ろから、苦労人のオーラを纏った男がひょっこりと顔を出した。第11艦隊参謀長、ジャン・ロベール・ラップ大佐だ。
「あはは……すまんヤン。閣下がどうしても激励に行くと聞かなくて。……止めたんだけど、戦艦より止まらないんだ」
ラップは申し訳なさそうに眉を下げる。
「頑張れよ!ヤン提督!君ならやれるさ!君が作った最強の第13艦隊だ、負けるはずがない」
「ジャンまで……。ありがとう。でも、もう少し静かに……。近所迷惑で通報されたら、出撃前に警察のお世話になる」
ヤンは頭を抱える。玄関ホールには、脱ぎ捨てられた軍靴が山のように積まれている。 ユリアン・ミンツ少年が、必死にそれを整えながら、「いらっしゃいませー!コーヒーですか?紅茶ですか?それとも栄養ドリンクですか?」と走り回っている。健気だ。保護者として涙が出そうになる。
◆
「これこれ、ホーランド。若いのが騒ぐな。近所の犬が吠えておるぞ」
のっそりと現れたのは、白髪の老将。第5艦隊司令官、アレクサンドル・ビュコック中将だ。彼は杖をつきながら、まるで孫の運動会を見に来た祖父のような穏やかさで入ってくる。
「ビュコック提督まで……。こんな狭いところに……」
「構わんよ。……ヤン提督、無理はするなよ。生きて帰るんじゃぞ。年寄りを悲しませるな」
ビュコックは、ヤンの手を取り、力強く握る。その手の温かさと、掌の分厚さが、ヤンの胸に染みる。 この人だけは、本当に心配してくれているのだ。
「そうだぞ。艦隊戦のコツは……いや、ティアマトでの貴官の采配を見れば、釈迦に説法だな」
続いて現れたのは、第10艦隊のウランフ中将だ。彼もまた、頼れる先輩としてニコニコしている。
「武運を祈る。……あ、ユリアン君、私にはブラックコーヒーを頼む」
「はっ、恐縮です……(この二人は普通にありがたいな……。ユリアンへの注文も自然だし)」
ヤンは少しだけ救われた気分になる。だが、世の中には「ありがたくない客」というのも存在する。
「ヤン提督」
低い、説教臭い声。第12艦隊司令官、ボロディン中将だ。彼は常にしかめっ面をしており、融通が利かないことで有名だ。
「貴官は、トリューニヒト委員長のお気に入りだそうだな」
ボロディンは、ヤンを値踏みするように睨む。
「今回、新設艦隊を任されたのも、その政治的コネクションによるものだという噂だ。……軍人が政治家に阿るのは、あまり感心しないぞ」
「(全力で首を振り)誤解です!冤罪です!あっちが勝手に……!私はただ、年金をもらって楽隠居したいだけなんです!」
ヤンは必死に否定する。トリューニヒトが勝手に「ヤン・ウェンリーは民主主義の英雄だ!」と持ち上げているだけで、ヤン自身は彼を毛虫のごとく嫌っている。だが、真面目なボロディンには、その辺の事情が「若いくせに政治家と癒着して出世した生意気な奴」と映っているらしい。
「ふむ。……こんなところで油を売っていて良いのか?」
腕時計をトントンと叩きながら入ってきたのは、第8艦隊司令官、アップルトン中将だ。 彼は几帳面な性格で知られている。
「出港準備は整っているのかね?貴官の艦隊は寄せ集めだ。ただでさえ練度が低いのだから、指揮官が先頭に立って準備をすべきだろう」
「いえ、だから私は準備をしたいのですが、皆さんが帰ってくれないので……」
「言い訳は聞かん。時間は有限だ」
アップルトンはヤンの弁解を聞き流し、なぜかキャゼルヌの入れたコーヒーを受け取ってくつろぎ始めた。帰れよ。
リビングの人口密度が限界を超えようとしていた、その時。空気が変わった。重苦しい、権威の圧力が玄関から流れ込んでくる。
「おお、皆揃っておるな!賑やかで結構!」
恰幅の良い巨体。ふんぞり返った態度。統合作戦本部のトップ、ラザール・ロボス元帥だ。その後ろには、苦虫を噛み潰したような顔のシトレ本部長もいる。
「げっ……元帥閣下……」
その場にいた提督たちが、一斉に直立不動になる。ヤンの官舎が、一瞬にして軍の式典会場のような緊張感に包まれる。ユリアンがお盆を取り落としそうになる。
「ヤン提督!具合はどうだ!胃薬は足りているか!」
ロボスは、我が家のようにソファの真ん中(一番いい席)にドカッと座る。
「君には同盟軍の威信がかかっている!くれぐれも忘れないでくれたまえよ!今回の作戦が成功すれば、私の評価もさらに上がる!私の元帥杖の輝きを曇らせないようにな!」
自分の評価かよ。全員が心の中で突っ込むが、口には出せない。
「シトレ元帥も……」
ヤンが助けを求めるように視線を送る。だが、シトレ元帥もまた、別の意味で追い詰められていた。
「(苦い顔で)ヤンよ……。頼むぞ」
シトレは、ヤンの肩に重い手を置く。
「君の第13艦隊は、最新鋭艦ばかり集めたせいで、通常の三個艦隊分のコストがかかっているからな。フィッシャーやアッテンボローといった有能な人材も、君のところに集中させた」
シトレの声が低くなる。
「つまり、金がかかっているんだ。……負けたら、財務委員長のレベロにどやされるのは私だ。『シトレがエコヒイキして予算を無駄にした』とな。……私の老後のためにも、絶対に勝て」
「(白目)……」
ヤンは、魂が口から抜けていくのを感じた。威信。政治。予算。老後。ありとあらゆる「大人の事情」が、この狭いリビングに凝縮され、ヤン一人にのしかかっている。
「……元帥たちまで来たんですか……。なんで私の家なんですか……。宇宙港のVIPルームでやってくださいよ……」
ヤンの悲痛な叫びは、誰にも届かない。ホーランドが「よし!出陣式だ!乾杯するぞ!」と冷蔵庫から勝手にビールを取り出し、ロボスが「つまみはないのか」とユリアンを呼びつけ、ビュコックとウランフが将棋(のようなボードゲーム)を始めようとしている。
カオスだ。 これが、自由惑星同盟軍の精鋭(?)たちの姿だ。
「さあ! 行くぞヤン! 歴史を作るのは貴様だ!」
◆
今回の作戦を共に担う「同僚(という名の先輩)」たちが、ヤンの前に立ちはだかる。
「ふん」
鼻を鳴らす音と共に、大柄な男がヤンを見下ろす。第6艦隊司令官、ムーア中将だ。 彼は、いかにも「猪突猛進」といった風貌で、腕組みをして仁王立ちしている。その目は、明らかにヤンを敵視……というよりは、格下の若造が生意気にも同格の艦隊司令官になったことへの不満で濁っている。
「第13艦隊といえど、所詮は寄せ集めの新設部隊だ」
ムーアは、わざとらしく部屋の中を見回す。
「貴官は『エル・ファシルの英雄』だか何だか知らんが、艦隊戦の経験は浅い。現場では先任である俺(第6艦隊)の言うことを聞くように。いいか?スタンドプレーは許さんが、手柄は譲ってやるつもりもないぞ」
ジャイアンか。「お前の手柄は俺のもの、俺の失敗はお前のせい」と言わんばかりの態度だ。ヤンは、愛想笑いを浮かべて頷くしかない。
「はあ……。肝に銘じます。私の役目は、皆さんのサポートですから……(だから後ろで寝ていたい)」
「まったくだ」
横から口を挟んできたのは、少し神経質そうな顔つきの男。第4艦隊司令官、パストーレ中将だ。彼はムーアとは対照的に、どこか媚びたような、それでいて計算高い目をしている。
「うちからも優秀な幕僚を何人か引き抜かれたからな。フィッシャー准将を持っていかれたのは痛いよ。……あ、そうだヤン提督」
パストーレは、急に声を潜めてヤンに近づく。肩を組んでくる。馴れ馴れしい。
「君、ヨブ・トリューニヒト国防委員長と懇意なんだろう? 彼の肝煎りで第13艦隊ができたという噂だし」
「いえ、懇意というか、一方的に……」
「謙遜するなよ。そこで相談なんだが、今度、個人的な食事会を紹介してくれないか?私も、政治と軍事の連携が必要だと常々考えていてね」
ウィンクしてくる。要するに、「俺を出世させてくれ」ということだ。軍事作戦の直前に、政治家へのコネ作りを優先する指揮官。
「(内心)……ダメだこいつら。典型的なダメな上官だ」
ヤンは、マグカップの中の冷めた紅茶を見つめながら絶望する。ムーアは自分の武勲しか頭になく、パストーレは保身と出世しか頭にない。こんな人たちと連携して、あのラインハルト・フォン・ローエングラムに勝てるのか?無理だろ。奇跡が起きても無理だ。
その時だった。官舎の外が、にわかに騒がしくなる。軍用車のエキゾーストノートとは違う、もっと重厚で、高級なエンジンの音が近づいてくる。キキーッ、とタイヤが止まる音。続いて、多数の足音と、「警備確保!」「カメラ回せ!」という怒号が飛ぶ。
窓の外を見ると、黒塗りの高級リムジンが止まっている。その周りを、黒スーツの屈強なSPたちが取り囲み、一般市民(近所の主婦)を排除して道を開けている。まるで映画の撮影か、あるいは大統領のパレードだ。
「やあやあ!諸君!」
リムジンのドアが開き、一人の男が降り立つ。仕立ての良いスーツ。整えられた髪。そして、見る者を魅了する(と本人は信じている)完璧な営業スマイル。
現国防委員長にして、次期最高評議会議長の座を狙う野心家。ヨブ・トリューニヒトだ。
「(絶望)……うわぁ、一番来てほしくないのが来た……」
ヤンが呻く。軍人だけでもお腹いっぱいなのに、政治家という名の激辛スパイスが投入される。ここはヤンの自宅だ。なぜ、公人がプライベートな空間に、アポなしで、しかもマスコミを引き連れて土足で上がり込んでくるのか。
「ヤン提督!おお、ここにいたか!」
トリューニヒトは、SPをかき分け、カメラマンを引き連れて玄関に突入してくる。狭い玄関ホールにいたホーランドやビュコックたちも、さすがにギョッとして道を開ける。
「エル・ファシルの英雄、ティアマトの英雄!そして今回、アスターテの英雄となるわけだ!」
トリューニヒトは大声で叫ぶ。演説だ。これは会話ではない、カメラの向こうの有権者に向けたパフォーマンスだ。
「君の活躍に、国民は絶大な期待をしている!自由惑星同盟の未来は、君の双肩にかかっていると言っても過言ではない!」
「は、はあ……」
ヤンが後ずさる。だが、逃げ場はない。背後は壁だ。
「……何を隠そう、私も君のファンだ」
トリューニヒトは、ヤンの手を取る。両手で包み込むように、ねっとりと握る。体温が高い。そして、掌が少し湿っている気がする。
「頑張ってくれたまえ。民主主義の守護神よ!」
フラッシュが焚かれる。バシャバシャバシャ!眩しい。ヤンの引きつった顔と、トリューニヒトの満面の笑みが、明日の朝刊の一面を飾ることが確定した瞬間だ。
「(引きつった笑みで)は、はあ……。光栄です……」
ヤンは、魂の抜けた声で答える。
「(あとで消毒しよう。……いや、手首から切り落としたい)」
心の中で、過激な思考が渦巻く。パストーレ中将が、横から「委員長! 私もご一緒させてください!」と割り込もうとしているが、トリューニヒトは華麗にスルーして、ヤンだけを見つめている。これぞ、人気者(利用価値のある者)への露骨なエコヒイキだ。
◆
トリューニヒトの嵐が去った後(彼は写真を撮ると満足して、「公務がある」と言って風のように去っていった)、官舎には疲労感だけが残る。だが、時間は待ってくれない。 出撃時刻が迫っている。
「先輩!……いや提督!ぐずぐずしないでくださいよ!」
元気な声が響く。第13艦隊の幕僚たちが、ようやくヤンを回収しにやってきたのだ。彼らは、このカオスな状況を予期していたのか、手際よくヤンの私物をまとめ始めている。
「俺も行くんっすから、とりあえず死なずに返してくださいよ。まだ書きかけの手記があるんです。『革命戦争の回想録』っていうタイトルで」
ダスティ・アッテンボロー准将だ。ヤンの士官学校時代の後輩であり、今回は第13艦隊の分艦隊司令として同行する。彼は、ヤンの着替えをバッグに詰め込みながら、軽口を叩く。
「革命もいいが、まずは目の前の敵だぞ」
「分かってますよ。……でも、あのパレードみたいな騒ぎを見た後だと、戦場の方が静かでいいかもしれませんね」
「全くだ」
ヤンは深く同意する。
「提督!こんなところで怠けている暇はありません!」
怒声が飛ぶ。第13艦隊参謀長、ムライ准将だ。彼は、リビングで呆然としているヤンを見つけ、鬼の形相で急かす。
「準備を!全艦、出港態勢に入っております!司令官が遅刻など、前代未聞ですぞ!」
「いや、私は行こうとしたんだが、玄関が塞がれていて……」
「言い訳は無用!さあ、行きますぞ!」
ムライはヤンの背中を押す。堅物だが、頼りになる男だ。彼がいなければ、第13艦隊は事務処理能力ゼロで崩壊していただろう。
「なるほど……!これが英雄の家ですか。人が多いですねえ」
のんびりとした声で感心しているのは、巨漢のフョードル・パトリチェフ大佐だ。彼は、玄関に溢れる高級軍靴の山を見て、豪快に笑っている。
「これだけ人がいれば、泥棒も入る隙がありませんな。わっはっは!」
「泥棒の方がマシだよ。彼らは何も持っていかないどころか、ストレスと書類を置いていくんだから」
ヤンはぼやく。ようやく、身支度が整う。黒いベレー帽を被り、少しヨレた軍服の襟を正す。
「……ユリアン」
ヤンは、玄関で見送りに立つ被保護者を見る。14歳の少年、ユリアン・ミンツ。彼は、今日一番の輝く瞳で、ヤンを見つめている。
「提督、人気者ですね!すごいです!」
ユリアンは興奮している。
「元帥から委員長まで、全員集合じゃないですか!まるで歴史の教科書を見ているみたいでした!やっぱり提督は、みんなに期待されているんですね!」
純粋だ。あまりにも純粋な尊敬と憧れ。それが、今のヤンには一番痛い。
期待。人気。名声。それらは全て、ヤン・ウェンリーという「昼寝好きの歴史家志望」にとっては、重すぎる足枷でしかない。
ヤンは、ユリアンの頭をポンと撫でる。そして、自嘲気味に、しかし優しく諭すように呟いた。
「……………ユリアン。世の中にはな」
「はい?」
「『望まない人気』という不幸もあるんだよ……」
「え?」
ユリアンがキョトンとする。まだ彼には分からないだろう。自分の意志とは無関係に、神輿に乗せられ、英雄という虚像を演じさせられる苦痛が。そして、その虚像が大きくなればなるほど、降りられなくなる恐怖が。
「行ってくる。……留守番、頼んだよ。紅茶の葉がなくなりそうだから、注文しておいてくれ」
「はい!行ってらっしゃいませ、提督!ご武運を!」
ユリアンの元気な敬礼に見送られ、ヤン・ウェンリーは官舎を出る。外の空気は冷たい。だが、家の中の熱気よりはずっとマシだ。
リムジンに乗り込むと、アッテンボローがニヤリと笑った。
「さあ、行きましょうか。『民主主義の守護神』様」
「……その呼び方はやめろ。給料を下げるぞ」
「へいへい」
車が走り出す。目指すはハイネセン宇宙港。そしてその先にある、アスターテの星海。
ヤンは窓の外を見つめながら、ふと思う。敵将、ラインハルト・フォン・ローエングラム。彼もまた、こんな風に周囲の期待や雑音に悩まされているのだろうか。それとも、あの金髪の若者は、それら全てを燃料にして燃え上がるタイプなのだろうか。
「……会えば分かるか。会いたくはないが」
ヤンはベレー帽を目深に被り、束の間の睡眠を取るために目を閉じた。
◆
自由惑星同盟軍第13艦隊旗艦《ヒューベリオン》
ヤン・ウェンリー中将は、座り心地の良すぎる指揮官席で、モゾモゾと尻の位置を直している。
このシート、最新の人間工学に基づいて設計されており、座る人の体温や心拍数に合わせて硬さが自動調整されるらしい。おまけにマッサージ機能と、自動ドリンクホルダーまでついている。
正直、余計なお世話だ。 ヤンとしては、もっとこう、使い古された固い椅子の方が落ち着く。お尻が甘やかされると、脳みそまで溶けそうな気がするからだ。
「……落ち着かない」
ヤンがぼやく。
「この艦、綺麗すぎないか?埃ひとつ落ちていないぞ。まるでモデルルームだ。ここで紅茶をこぼしたら、艦のAIに怒られそうな気がする」
「大丈夫ですよ、提督。この床はナノコーティングされていますから、紅茶だろうが劇薬だろうが弾きます」
副官のフレデリカ・グリーンヒル少尉が、完璧な笑顔でメモを取っている。彼女もまた、この「過保護艦隊」のセットの一部だ。総参謀長グリーンヒル大将の娘であり、記憶力抜群の才媛。ヤンが「あー」と言えば書類が出てきて、「うー」と言えば紅茶が出てくる。便利すぎて怖い。人間がダメになる環境が整いすぎている。
「さて、そろそろ時間ですね」
第13艦隊参謀長、ムライ准将が時計を見る。彼は常に背筋が伸びており、見ているだけでこちらの姿勢まで矯正されそうだ。
「第4、第6艦隊との合同作戦会議です。通信回線、開きます」
「……はあ。気が重い」
ヤンはベレー帽をかぶり直し、モニターに向き直る。スイッチが入る。 メインスクリーンが三分割され、それぞれの艦隊司令官の顔が映し出される。
画面左、第4艦隊司令官パストーレ中将。画面右、第6艦隊司令官ムーア中将。
そして画面中央下、やる気のない顔をしたヤン・ウェンリー中将。
三者三様、というよりは、混ぜるな危険の化学反応が起きそうなメンツだ。
「諸君、定刻だ。作戦の確認を行う」
口火を切ったのは、ムーア中将だ。彼は今日も今日とて、筋肉が服を着て歩いているような圧力を画面越しに放っている。その背後には、いかにも「突撃!」と叫びたそうな幕僚たちが控えているのが見える。
「敵はラインハルト・フォン・ローエングラム上級大将率いる一個艦隊。数は約2万隻だ。対して我々は三個艦隊、総数約4万隻。数は倍だ」
ムーアは、拳を握りしめて力説する。算数の時間だ。4万は2万より多い。だから勝てる。彼の脳内シミュレーションは、そこで完結しているらしい。
「この圧倒的戦力差を活かさない手はない。そこでだ」
ムーアがホログラムを操作する。アスターテ星域の星図上に、三つの矢印が表示される。
「ここは、同盟軍の栄光ある歴史、『ダゴン会戦』の故事に習い、三方向から包囲して殲滅すべきですな」
パストーレ中将が、したり顔で相槌を打つ。ダゴン会戦。150年前、帝国軍を包囲殲滅し、同盟の存立を決定づけた伝説の戦い。同盟軍人にとっては聖書のような戦例だが、それを今の状況に当てはめるのは、少々無理がある。
「我々第4、第6艦隊で左右を固め、第13艦隊が正面を押さえる。巨大な『コの字』を作るわけだ。袋のネズミならぬ、袋の金髪小僧だ。ガハハハ!」
ムーアが豪快に笑う。パストーレも「うむ、完璧な作戦だ」と頷く。
ヤンは、眉間を揉みほぐしたい衝動をこらえる。教科書通り。あまりにも教科書通りすぎる。敵がカカシならそれでいいが、相手はあのラインハルトだ。そんな単純な罠にかかるはずがない。
「(控えめに)……お待ちください」
ヤンが手を挙げる。画面の向こうの二人が、「なんだ新入り」という顔をする。
「敵は、各個撃破を狙ってくる可能性があります」
ヤンは淡々と指摘する。
「アスターテ星域は広大です。三方向からの包囲を行うためには、我々の三個艦隊は広く散開しなければなりません。各艦隊の距離が開きすぎます」
指で距離を示す。
「もし、包囲網が完成する前に、敵に中央を突破されたらどうなりますか?敵は高速戦艦を主力としています。我々の連携が取れる前に、一つずつ食い破られる危険性が高い」
至極まっとうな意見だ。150年前とは、艦艇の機動力も通信速度も違う。それに、ダゴンの時の帝国軍は「無能」だったが、今回の敵は「天才」だ。前提条件が違う。
だが。ムーア中将は、鼻で笑った。
「(鼻で笑い)はっ!若き英雄殿は臆病風に吹かれたか?」
侮蔑の色が隠せない。
「倍の敵に包囲されて、中央突破などできるわけがない!それは自殺行為だ。貴官は敵を過大評価しすぎているのではないか?あの金髪は、まだ20歳の若造だぞ?」
「私も20代ですが……」
「貴官は別だ。……とにかく!敵が突っ込んでくれば、左右から十字砲火を浴びせて終わりだ。簡単な理屈だろう」
ムーアは聞く耳を持たない。彼は「数」という絶対正義を信じている。
「そうですな。それに、我々は先任です」
パストーレが、嫌味ったらしく付け加える。
「ヤン中将。貴官は確かにティアマトで功績を上げたが、艦隊指揮の経験は浅い。我々ベテランの判断を尊重したまえ。新米提督は、黙って従っていただければよろしい」
階級マウントだ。同じ中将でも、先任順位(先輩後輩)がある。軍隊という組織の面倒くさいところだ。
「(ため息)……ですが、リスクが高すぎます」
ヤンは食い下がる。ここで引いたら、部下が死ぬ。過保護な装備を与えられた第13艦隊の精鋭たちが、無能な作戦の巻き添えになるのは忍びない。
「せめて、各艦隊が相互に支援できる距離を保ちつつ、後方で待機して……。敵の出方を見てから包囲するのではどうでしょうか?あるいは、三個艦隊で密集陣形を組み、正面からすり潰すという手も……」
「却下だ!」
ムーアが叫ぶ。議論終了の合図だ。
「密集陣形など、敵に包囲してくださいと言っているようなものだ!我々は攻めるのだ!守りではない!」
彼は断言する。
「作戦は包囲殲滅戦で行く!第4艦隊は右翼、第6艦隊は左翼、第13艦隊は中央後方より進出せよ!遅れるなよ、ヤン中将!貴官の艦隊は足が速いのだからな!」
「……」
「以上だ!通信終了!」
プツン。画面が消える。一方的だ。こちらの言い分を聞く気など、最初からなかったのだ。
艦橋に、気まずい沈黙が流れる。幕僚たちが、ヤンの顔色を窺っている。怒るか?それとも、諦めるか?
「……どうします?提督」
口を開いたのは、ダスティ・アッテンボロー准将だ。彼は、被っていた帽子を目深にかぶり直し、皮肉な笑みを浮かべている。
「あの人たち、やる気満々ですよ。死亡フラグ建築士の資格でも持ってるんですかね?『倍の敵だから負けるわけがない』なんて、敗北する悪役のセリフそのまんまじゃないですか」
「全くだ。……脚本家がいるなら、もう少しひねりのあるセリフを言わせてほしいものだよ」
ヤンは肩をすくめる。
「フィッシャー提督。艦隊運用のプロとして、どう思いますか?」
副司令官のエドウィン・フィッシャー准将に話を振る。彼は、モニターの星図を見つめながら、渋い顔で首を振った。
「無理ですな」
即答だ。
「この広い星域で、三方向からの包囲を成功させるには、各艦隊が秒単位の完璧な連携を取り、かつ敵がこちらの想定通りに動いてくれるという奇跡が必要です。……彼らにそれができますかな?」
フィッシャーの評価は辛辣だ。第4、第6艦隊の練度は並だ。そして、指揮官同士の意思疎通も最悪だ(さっきの会議で証明された)そんな状態で高度な包囲作戦など、画餅に過ぎない。
「無理だろうね」
ヤンはベレー帽を被り直す。その瞳から、眠気が消える。
「敵の指揮官は、あのティアマトで我々を苦しめたラインハルトだ」
この隙を見逃すはずがない。分散した同盟軍。それは、彼にとって「ご馳走」以外の何物でもない。
「各個撃破される。……順番は、まず一番突出している第4艦隊(パストーレ)次に好戦的な第6艦隊(ムーア)そして最後に……我々だ」
未来予知のような正確さで、ヤンは敗北のシナリオを語る。幕僚たちが息を呑む。
「では、どうするのですか?無理にでも彼らを止めるか、あるいは……」
ムライ准将が問う。ヤンは、ふっと力を抜いた。
「止めようとして止まる人たちじゃないよ。……よし」
ヤンは決断する。
「第13艦隊は、最後方より、ゆっくりついていくことにしよう」
「……はい?」
「エンジン不調とか、通信システムの調整とか、適当な理由をつけてな。……全速力で進む彼らとは、距離を開ける」
サボタージュ。あるいは、敵前逃亡スレスレの行為だ。
「よろしいのですか?命令違反スレスレですが。後で軍法会議ものですよ?」
ムライが心配そうに言う。だが、ヤンは悪びれもせずに笑った。
「構わないさ。どうせ、前を行く二つの艦隊が壊滅したら、軍法会議どころじゃなくなる」
冷徹な計算。味方が負けることを前提とした行動。非情に見えるが、これこそが第13艦隊の、そして同盟軍の残存兵力を守るための唯一の手段だ。
「私たちが殿を務めることになる。……前衛が崩れた時、それを支え、敵を食い止める。それができるのは、過保護な装備を与えられた我々だけだ」
ヤンは、最新鋭のコンソールをポンと叩く。この無駄に豪華な戦艦たちも、敗走の盾としてなら役に立つだろう。
「今のうちに、体力を温存しておこう。……少尉、お茶の用意を頼むよ。ブランデーは多めでね」
「はい、提督」
ヤンは、再び指揮官席に深く沈み込む。モニターには、勇ましく先行していく第4、第6艦隊の光点が見える。それは、死地へと向かう灯火のように、儚く、そして愚かしく輝いていた。
「……やれやれ。私の初陣は、負け戦の処理係からスタートか」
ヤン・ウェンリーの憂鬱な初陣は、味方の無理解と慢心、そして自身の諦観の中で、静かに幕を開けようとしていた。アスターテの星々が、血の色に染まる時は近い。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます
皆さまの感想をお聞きしたいことがあります
誰の乱入が一番面白かったですか?
トリューニヒト握手シーンの破壊力はどれくらいでしたか?
ヤンの「望まない人気」というテーマ、どう感じましたか?
アスターテ前夜の緊張、伝わりましたでしょうか?
コメントいただけると、次回執筆の励みになります。
帝国と同盟の内乱どちらから見たいですか?
-
銀河帝国
-
自由惑星同盟