銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
それとも、敗北を隠すのか。
──そのどちらでもありません。
本章では、同盟政治がかつてない変貌を遂げます。
それは、誠実なのか、策略なのか。
民主主義の光なのか、闇なのか。
ヤン・ウェンリーは逃げられるのか。
トリューニヒトは何を企んでいるのか。
ホーランドはなぜ、ここまでヤンに執着するのか。
彼らの思惑が交差し、同盟は新たな時代へと動き出します。
どうぞ、この奇妙で美しい混沌をお楽しみください。
自由惑星同盟 首都星ハイネセン
巨大なホログラムスクリーンが臨時ニュースを映し出している。
普段であれば、この種の放送は、軍歌が高らかに鳴り響き、アナウンサーが絶叫に近い声で「我が軍の大勝利!」を連呼する、いわゆる大本営発表の時間だ。しかし、今日の内容は少し様子が違う。
『……先のアスターテ星域会戦において、我が同盟軍は帝国軍遠征艦隊を撃退しました。敵軍は半壊し、撤退しています』
女性キャスターの声は落ち着いている。淡々とした口調だ。
『しかし、その代償は大きく、第4艦隊、第6艦隊が壊滅的な打撃を受けました。パストーレ中将、ムーア中将の両司令官も戦死を確認。これは「辛勝」であり、我々は多くの尊い命を失いました……』
画面には、戦没者のリストと、損傷した艦艇の映像が流れる。悲壮感が漂うが、そこには「事実」がある。「我々は勝ったが、被害も甚大だった」という、極めてまともな報道だ。
VIPルームのソファでは、ラザール・ロボス元帥が、大きなあくびをして目を覚ます。彼は、会議の半分以上を睡眠に費やすことで有名な、同盟軍の省エネ王だ。
「(昼寝から起きて)……ふわぁ。……おい、これでいいのか?」
ロボスは、リモコンで画面を指差す。
「いつものように、『大勝利! 帝国軍を粉砕! 民主主義の勝利!』と景気よくぶち上げた方が、支持率が上がるんじゃないか?国民は景気のいい話を求めているぞ。こんなお通夜みたいな放送をして、責任を問われるのは私なんだが」
彼の懸念はもっともだ。同盟政府、特に現在のトリューニヒト派は、支持率のためなら白を黒と言いくるめることも辞さない連中だ。それがなぜ、こんなに殊勝な態度を取っているのか。
「(国防委員会室から通信で)いいえ、元帥。今回は、これでいいのです」
モニターの向こうから、整った顔立ちの男が答える。ヨブ・トリューニヒト国防委員長だ。彼は、完璧に計算された角度でカメラに向かい、自信に満ちた笑みを浮かべている。
「ホーランド大将からの入れ知恵ですがね。『ヤン・ウェンリーという男は、過剰な賛美や嘘を何よりも嫌う』そうです」
トリューニヒトは、手元のタブレットを操作する。そこには、ヤンの行動分析レポートが表示されている。
「彼を『奇跡の魔術師』だの『民主主義の救世主』だのと祭り上げれば、彼は臍を曲げて、辞表を叩きつけるかもしれません。あるいは、皮肉の一つも言って、世間の反感を買う言動をするでしょう」
トリューニヒトの分析は鋭い。ヤンは、おだてられると木に登るタイプではなく、木の下に穴を掘って冬眠しようとするタイプだ。
「彼をこちらの陣営に取り込み、かつ国民の信頼を得るには、今回は『正直さ』を演出するのが最善です。政府は事実を隠蔽しない。犠牲を悼みつつ、ヤン提督の功績を正当に評価する。……この『誠実な政府』というポーズこそが、今の国民と、そしてヤン提督自身に一番効くのですよ」
策士だ。嘘をつくよりも、正直に話す方が得だと判断すれば、平気で正直者になれる。 それがトリューニヒトという政治家の恐ろしさだ。
「なるほど。毒を以て毒を制す……ではなく、正直を以て偏屈を制す、というわけか」
ロボスは、面倒くさそうに首を振る。
「ふむ。まあ、私の責任問題にならなければ何でもいいが。……よし、私はもうひと眠りする。何かあったら起こしてくれ」
「ええ、ごゆっくり。元帥閣下の健康こそが、同盟軍の要ですからね」
トリューニヒトは、心にもないお世辞を言って通信を切る。彼の目には、ロボスの姿など映っていない。見ているのは、次の選挙と、そして扱いづらいが利用価値の高い、黒髪の英雄の姿だけだ。
「さて、ヤン・ウェンリー。……君はこの『誠実な檻』から逃げ出せるかな?」
トリューニヒトは、手元のグラスを傾ける。その琥珀色の液体の中には、ヤンの憂鬱な未来が溶け込んでいるようだった。
◆
一方、その頃。 話題の中心人物であるヤン・ウェンリーの官舎。朝の光が差し込む寝室で、一つの攻防戦が繰り広げられていた。
ベッドの上には、蓑虫のように布団にくるまった物体がある。その中から、弱々しい、しかし明らかに演技がかった声が聞こえてくる。
「(布団を被って)……ゲホッ、ゲホッ。……うぅ、頭が痛い。寒気がする……」
「提督、朝ですよ。起きてください」
ベッドの脇で、14歳の少年ユリアン・ミンツが、呆れた顔で立っている。手には、洗濯したてのパリッとした軍服(礼服)が持たれている。
「……ユリアン。私は熱があるようだ。もしかしたら、アスターテ熱という新種のウイルスかもしれない。……今日の追悼式典は欠席すると伝えてくれ」
ヤンは、布団の隙間から目だけを出して訴える。その目は、「働きたくない」という強い意志で濁っている。
「提督、熱はありませんよ。さっき測ったら36度5分でした。平熱もいいところです」
ユリアンは容赦がない。彼はヤンの健康管理とスケジュール管理を完璧にこなす、スーパー被保護者だ。
「ただの『式典アレルギー』です。人が多いところに行くと蕁麻疹が出るという、精神的なものですね」
「それが一番重病なんだよ……。頼む、ユリアン。キャゼルヌ先輩に連絡してくれ。『ヤンは死にかけだ』って」
「嘘はいけません。それに、今日の式典は重要です。アスターテ会戦の戦没者慰霊祭ですよ。提督が出席しないと、皆さんが悲しみます」
「悲しむものか。どうせトリューニヒトが演説して、私が横で拍手をするだけの茶番劇だ。私がいなくても成立する」
ヤンは再び布団の中に潜り込む。絶対防御態勢だ。この布団は、同盟軍の装甲よりも堅い。
その時。平和な朝を打ち砕く轟音が響く。
バンッ!!
玄関のドアが、またしても物理的な限界に挑戦する勢いで開け放たれる。デジャヴだ。 この家は、ドアの修理費だけで破産するんじゃないだろうか。
「(ビクッ)ま、またか……!なぜ私の家の鍵は、意味をなさないんだ!」
ヤンが布団の中で震える。ドカドカという足音が近づいてくる。地震のような振動。
「いるな!ヤン!寝ている場合か!」
寝室のドアが開く。そこに立っていたのは、金髪の巨漢。第11艦隊司令官、ウィレム・ホーランド大将だ。彼は今日も今日とて、エネルギーの塊のようなオーラを放っている。
「(寝室に侵入し、布団を剥ぎ取る)起きろヤン!!追悼式典に出ないだと!?貴様、英雄としての自覚はあるのか!」
ホーランドは、問答無用で布団を剥ぎ取る。ヤンは、パジャマ姿で無防備に晒される。
「うわぁ!やめてください!寒い!心が寒い!」
ヤンは枕にしがみついて抵抗する。
「(抵抗しつつ)……敗軍の将ですよ?第4、第6艦隊は全滅したのに、私だけ生き残った。そんな人間がのこのこと出ていって、何がおめでたいんですか!」
「誰も『おめでたい』とは言っとらん!慰霊祭だと言っている!」
「それに、主役は戦没者です。私が雛壇に座って、トリューニヒト委員長の政治的ショーのダシに使われるなんてごめんです。私は家で、静かに紅茶を飲みながら彼らを悼みたいんです」
ヤンの言い分は、彼なりの誠実さだ。政治利用されることへの嫌悪感。そして、死者を悼む気持ちを、パフォーマンスにしたくないという思い。
だが、ホーランドはそれを許さない。彼は、ヤンの襟首を掴み、強引に立たせる。
「甘えるな!風邪だろうが何だろうが、這ってでも出てもらうぞ!」
ホーランドの顔が近づく。その瞳は、いつになく真剣だ。
「言っただろう、『政治から離れすぎると部下を守れん』と!」
ドスを利かせた声。ヤンがビクリとする。
「貴様、怪我一つしてないだろうに!第13艦隊はほぼ無傷で帰還した!それは貴様の手柄だが、同時に嫉妬の対象にもなる!」
ホーランドは説く。
「他の艦隊は全滅したんだぞ?遺族の感情を考えろ。『なぜヤン・ウェンリーだけ生き残ったのか』『自分だけ安全な場所にいたんじゃないか』……そんな陰口を叩かれるのがオチだ!」
「……それは……」
「だからこそ、出るんだ!公の場に出て、頭を下げろ!遺族の前に立ち、彼らの悲しみを受け止めろ!それが生き残った指揮官の義務だ!」
正論だ。ぐうの音も出ない正論だ。この筋肉ダルマ(失礼)が、ここまで繊細な政治的配慮と、指揮官としての責任論を語るとは。やはり、あのティアマトでの敗北と、その後が、彼を成長させたのか。あるいは、誰かの影響か。
「わかりました、わかりましたから……!引っ張らないでください、服が伸びる!パジャマが裂ける!」
ヤンは降参する。物理的にも論理的にも、勝てる相手ではない。
「着替える!着替えますよ!だから離してください!」
ホーランドは、満足げに手を離す。
「フン。分かればいい。……ユリアン君、制服を貸せ。俺が着替えさせてやる」
「いえ、自分で着ます!介護はいりません!」
ヤンは慌ててユリアンから礼服を受け取り、洗面所へ逃げ込もうとする。その背中越しに、小さな、しかし毒を含んだ声が漏れる。
「(小声で)……まったく……俗物め……。筋肉で思考しているんじゃないのか……」
ボソッと言ったつもりだった。だが、ホーランドの耳は地獄耳だ。
「あ?何か言ったか?」
ギロリと睨まれる。 野生の猛獣のような殺気。
ヤンは、コンマ一秒で振り返り、直立不動で敬礼した。
「(即答)いいえ!閣下!何も申し上げておりません!私は慰霊祭に喜んで出席いたします!民主主義万歳!」
「うむ!その意気だ!遅れるなよ!」
ホーランドはガハハと笑い、嵐のように去っていった。残されたのは、破れた布団と、疲労困憊のヤン、そして苦笑するユリアンだけだ。
「……はぁ」
ヤンはその場に座り込む。
「ユリアン。……ブランデーをくれ。ストレートで」
「ダメです。式典が終わるまでは我慢してください」
「……鬼」
◆
数万人の市民と兵士たちが、会場を埋め尽くしている。
その中心にある巨大な慰霊塔の前、特設ステージの上には、同盟の重要人物たちが並んでいた。
最前列、向かって右端。黒い礼服に身を包み、ベレー帽を目深に被っているのは、アスターテ会戦の生き残り英雄、ヤン・ウェンリーだ。
彼の表情は、一言で言えば「無」である。魂がどこか別の次元(おそらく自宅の紅茶の湯気の中)に飛んでおり、肉体だけがここに置かれている状態だ。彼は必死に耐えていた。湿気で服が張り付く不快感。無数のカメラの視線。そして何より、これから始まるであろう、退屈で欺瞞に満ちた演説への拒否反応に。
「(小声で)……また、いつもの『祖国のために死ね』という演説ですかね。聞きたくないな」
ヤンは、口を動かさずに隣の男に囁く。彼の隣で、まるで岩山のように堂々と立っているのは、ホーランドだ。彼は雨などものともせず、むしろ水を得た魚のように生き生きとしている。
「(小声で)黙って聞け。今日の委員長は一味違うぞ」
ホーランドが、ニヤリと口の端を吊り上げる。
「一味違う?……スパイスでも効かせたんですか?」
「ああ。激辛だ。お前の好みに合うかは知らんが、少なくとも退屈はしないはずだ」
ホーランドの自信ありげな態度は不気味だ。ヤンは訝しげに眉をひそめる。この筋肉ダルマが、政治的な駆け引きにおいて何やら一枚噛んでいるらしいことは、今朝の自宅襲撃事件で分かった。だが、相手はあのトリューニヒトだ。そう簡単に変わるとは思えない。
中央のマイクスタンドの前。ヨブ・トリューニヒト国防委員長が進み出る。仕立ての良い喪服。完璧に整えられた髪。そして、憂いを帯びた表情。役者だ。大根役者ばかりの同盟政界において、彼だけはアカデミー賞クラスの演技力を持っている。
「(静かな、しかし力強い声で)……お集まりの市民諸君、兵士諸君」
トリューニヒトの声が、スピーカーを通して会場に響き渡る。いつものような、鼓膜を破らんばかりの絶叫調ではない。静かで、語りかけるような、ベルベットのような声だ。
「今日、我々がこの場に馳せ参じた目的は何か?」
彼は、会場を見渡す。
「アスターテ星域で散華した130万の英霊を慰めるためである。……彼らは、良き父であり、良き夫であり、良き息子、良き恋人であった」
トリューニヒトは言葉を切る。雨音だけが聞こえる。
「彼らには、幸福な生活を送る権利があった。美味しい食事をし、愛する人と語らい、温かいベッドで眠る権利があった。だがあえて、彼らは死んだのだ」
ここまでは、想定内の演説だ。ここから「だからこそ、彼らの死を無駄にするな!帝国を倒せ!」と続くのが、いつものパターンだ。ヤンは、あくびを噛み殺す準備をする。
「市民諸君、あえて問う」
トリューニヒトの声のトーンが、わずかに変わる。
「130万人の将兵は、なぜ死んだのか!?」
ヤンの体内時計が、あくびのタイミングを告げる。はいはい。来た来た。
「(内心)『平和を乱す帝国軍のせいだ』と言うつもりだろ……。あるいは『非道な専制君主の欲望のせいだ』とか。聞き飽きたよ」
ヤンは、心の中で次のセリフを先読みする。どうせ、外部に敵を作って、自分たちの責任を胡麻化すのだ。政治家の常套手段だ。
だが。次の瞬間、トリューニヒトの口から飛び出した言葉は、ヤンの予想を、そして会場にいた全員の予想を、光速で裏切るものだった。
「その回答はただ一つ。……首脳部の作戦指示が、まずかったからだ」
「(目を見開き)??」
ヤンが固まる。あくびが喉の奥で引っ込み、変な音が出そうになる。え?今、なんて言った?
会場がざわめく。市民たちも、兵士たちも、耳を疑っている。
「ざわ……ざわ……」
「おい、聞いたか?」
「作戦がまずかったって……認めたのか?」
「帝国軍のせいじゃないのか?」
隣のホーランドを見る。彼は腕組みをしたまま、「どうだ、驚いたか」と言わんばかりのドヤ顔をしている。
◆
会場の動揺をよそに、トリューニヒトは続ける。その表情は、苦渋に満ちている。
「彼らは軍人だった。民主共和主義の軍隊の軍人だったのだ。命令に従い、信じて戦った。だが、その信頼に我々は応えられなかった」
トリューニヒトは、握り拳を胸に当てる。
「今回の犠牲は、我々が古い成功体験……150年前の『ダゴン会戦』の幻影にこだわり、思考停止に陥り、いたずらに犠牲を増やしたにすぎない。敵の進化を見誤り、漫然と包囲作戦などという古典的な手法を採った、我々の怠慢である!」
なんと。パストーレやムーア(故人)の作戦ミスを、はっきりと指摘した。しかも、「我々の怠慢」と、自分を含めた指導部全体の責任として認めたのだ。これは、今までの同盟政府にはあり得ないことだ。失敗は隠蔽するか、現場のせいにするのが鉄則だったはずだ。
「彼らの上司たる国防委員長として、ここに正式に謝罪する」
トリューニヒトが、マイクから一歩下がる。そして。
「済まなかった。……許してほしいとは言わない。ただ、本当に、済まなかった」
彼は、深々と頭を下げた。最敬礼。同盟の最高権力者の一人が、公衆の面前で頭を下げている。
会場が静まり返る。ざわめきすら消える。誰もが息を呑んで、その光景を見つめている。 政治家が謝った。言い訳もせず、他人のせいにもせず、ただ「済まなかった」と。
「(小声で)……おいおい、どうしたんだ?何か変なものでも食べたのか?それとも、誰かに脳を乗っ取られたのか?」
ヤンは混乱する。自分の知っているトリューニヒトではない。あいつは、もっとこう、ヌルヌルとした爬虫類のような男で、責任という言葉を最も嫌うはずだ。
「(ニヤリ)いいから聞け。ここからが本番だ」
ホーランドが囁く。
トリューニヒトが顔を上げる。その顔は濡れている。雨か、それとも涙か。演出だと分かっていても、見る者の心を揺さぶる「弱さ」を見せている。
「我ら政治家は、安全な後方にいて前線に出るものではない。ペンで書類にサインをし、口で命令を下すだけだ。……それ一つとっても、命を懸けた軍人の方々には、頭が下がる思いだ」
謙虚だ。あまりにも謙虚な姿勢。これにより、「政治家は特権階級だ」という市民の反感を、見事に和らげている。
「自分たちは無力だ」と認めることで、逆に信頼を得ようとしている。
ヤンは背筋が寒くなるのを感じた。これは、ただの謝罪ではない。もっと高度な、心理的な誘導だ。「正直なリーダー」という新しいブランドを確立しようとしているのだ。
◆
トリューニヒトの演説は、クライマックスへと向かう。 彼は謝罪のトーンから一転し、力強い、未来を語るリーダーの顔になる。
「諸君、我々はここに明記しなければならない。自由惑星同盟の『自由』とは、命を代償にしても守る価値があるものなのか?」
根源的な問い。通常なら、「ある!」と即答させて終わる問いだ。だが、今日のトリューニヒトは違う。
「それは、国家が決めることではない。……個人の自由意志が決めることである!」
彼は断言する。
「国父アーレ・ハイネセンが掲げた理想!それこそが我らの国是だ!帝国は侵攻してくる。専制政治という名の怪物が、我々のドアを叩く。守らねばならない。……しかし!」
彼は拳を振り上げる。
「その『守る』という意思は!強制されるものであってはならない!国民一人一人の、自由意志により後押しされるものでなければならないのだ!」
会場の空気が熱を帯び始める。強制ではない。自由意志。それは、同盟市民が最も好む甘い響きだ。
「偉大な祖国?いや違う!国家などというものは、所詮は道具に過ぎない!」
トリューニヒトが叫ぶ。過激な発言だ。国防委員長が「国家は道具」と言い切った。
「偉大な自由?それでもない!自由という概念のために死ぬのではない!我らは一人の市民!一人の人間として独立し、団結する!」
彼の視線が、ヤンの方へちらりと向けられる。ヤンはドキリとする。その言葉。その思想。それは、ヤン・ウェンリーが常々考えていること、そのものではないか。
「自由惑星同盟は、そのような強い国だ!個人の人権のために、国家が奉仕するのだ!国家のために個人があるのではない!」
トリューニヒトの言葉が、ヤンの胸に突き刺さる。正しい。論理的には正しい。だが、それをトリューニヒトが言うと、なぜこんなに胡散臭く、そして抗いがたい魅力を持ってしまうのか。
「個人は、自分を守る制度のためにではなく……自由のため、友人のため、家族のために銃を取るのだ!」
トリューニヒトは、会場の一人一人に語りかけるように、両手を広げる。
「隣にいる友人を守りたい。故郷にいる家族を守りたい。今夜飲む一杯のビールと、休日の昼寝を守りたい!……そのささやかな、しかし尊い幸福を守るために、我々は戦うのだ!」
ドッ……!会場から、拍手が湧き起こる。最初はまばらだった拍手が、波のように広がり、やがて万雷の喝采へと変わっていく。「そうだ!」「その通りだ!」「俺たちは家族のために戦うんだ!」市民たちの顔が輝いている。「国家」という重い十字架を下ろされ、「家族」や「自分」のために戦えばいいと言われ、彼らは解放された気分になっているのだ。
「……なんてことだ」
ヤンは呆然とする。トリューニヒトは、ヤンの思想(個人主義的民主主義)を盗んだ。盗んで、自分の権力維持のための道具に作り変えた。「国家のために死ぬな」と言うことで、逆説的に「この正直な政府のために戦おう」と思わせているのだ。
「個人主義を利用した、全体主義への誘導……か」
ヤンは戦慄する。これは、今までの「軍国主義的なトリューニヒト」よりも、遥かに厄介だ。なぜなら、ヤン自身がこの論理を否定できないからだ。否定すれば、自分の信念を否定することになる。
「どうだ、ヤン。感動したか?」
ホーランドが、してやったりという顔で囁く。
「……ええ。吐き気がするほど感動しましたよ。天才的な詐欺師だ」
「ハハハ!最高の褒め言葉だな!」
ホーランドは笑う。この男、分かっていてやっている。トリューニヒトを変節させたのは、間違いなくこの男の入れ知恵だ。
◆
トリューニヒトは、演台を両手で強く握りしめる。その指の関節が白くなるほどに。彼は、会場にいる一人一人の目を見るように、ゆっくりと視線を巡らせる。
「友よ!」
彼が叫ぶ。「国民」でも「諸君」でもなく、「友」と呼んだ。この距離感の詰め方。まるで、居酒屋で肩を組んでくる上司のような(鬱陶しいが親しみやすい)アプローチだ。
「死を恐れよ!」
会場がどよめく。軍の最高指導者が、兵士に向かって「死を恐れろ」と言ったのだ。普通なら「死を恐れるな、突撃せよ」と言う場面だ。
「命は尊い!君たちの命は、国家の備品ではない!唯一無二の、かけがえのない財産だ!だから恐れよ!生きることに執着せよ!」
トリューニヒトの言葉は、兵士たちの本音を鷲掴みにする。誰も死にたくはない。「死ぬな」と言ってくれる上司は、それだけで信頼に値する(ような気がしてしまう)
「帝国を憎むな!彼らもまた、専制政治というシステムに縛られた哀れな人々だ!憎むべきは人ではない!」
そして、トリューニヒトは、ドラマチックに自分の胸をドンドンと叩く。
「我らを憎め!無能なる上司(わたし)を憎め!」
え?会場の市民たちが、耳を疑う。自分を憎め?
「君たちを死地に送り込み、自分は安全な場所で数字をいじっている……そんな我々政治家を憎め!『あいつらのせいで酷い目にあった』と罵れ!呪え!その怒りを、生きるためのエネルギーに変えろ!」
自虐。究極の自虐パフォーマンス。「俺はダメな上司だ」と自ら認めることで、部下からの批判を先回りして封じる高等戦術だ。こう言われてしまっては、市民も「まあ、自覚があるなら……」と矛先を収めざるを得ない。
「だが!」
トリューニヒトが、天を指差す。ここからが、魔法のすり替えだ。
「私を憎んでもいい!政府を信じなくてもいい!……だが、戦おう!」
彼は叫ぶ。
「何のために?国家のためではない!私のためでもない!……隣にいる友を守るためだ!」
会場の兵士たちが、思わず隣の戦友の顔を見る。苦楽を共にした仲間。昨日の夜、一緒に安酒を飲んだアイツ。
「故郷の家族を守るため!恋人の笑顔を守るため!君たち自身の『自由な明日』を守るために、銃を取れ!」
トリューニヒトの声は、涙声に変わる。
「同盟万歳!共和国万歳!……そして、君たちの友情万歳!帝国を防げ!大切な人を守るために!」
ドワァァァァァッ!!
歓声が爆発する。地鳴りのような拍手。もはや、誰も「作戦ミス」のことなど覚えていない。あるのは、「俺たちは仲間のために戦うんだ」という、美しくラッピングされた使命感だけだ。
「同盟万歳!自由万歳!トリューニヒト万歳!」
「委員長!あんた男だ!」
「俺は戦うぞ!家族のために!」
市民や兵士たちが拳を突き上げる。その熱狂の渦の中で、壇上の端にいるヤンだけが、狐につままれたような顔をしていた。
「……」
ヤンは、瞬きを忘れていた。目の前で起きている集団催眠のような光景。これは、自分の知っている「腐敗した民主主義」ではない。もっとタチの悪い、「熱血民主主義」だ。
「……扇動政治家と思っていたのですが……」
ヤンは独りごちる。トリューニヒトを甘く見ていた。彼はただのポピュリストではない。
「『私を憎め、だが友のために戦え』と言われたら、兵士は戦わざるを得ないじゃないですか。……『政府への不満』と『戦う義務』を完全に切り離した。……巧妙だ。悪魔的に巧妙だ」
国家のために戦えと言われれば、「国家なんて知るか」と反論できる。
だが、友のために戦えと言われれば、人間として「嫌だ」とは言えない。
トリューニヒトは、愛国心ではなく、友情と家族愛を人質に取ったのだ。そして、自分自身を「サンドバッグ(憎まれ役)」として差し出すことで、批判の矢を無効化した。
「委員長閣下も、話が分からぬ人ではない……と思うぞ」
隣で、ホーランドがニヤリと笑う。彼は、この熱狂を予期していたかのように、満足げに腕を組んでいる。
「俺が少し『アドバイス』したからな」
「(ジト目)……貴官の入れ知恵ですか」
ヤンは、ジトっとした目で、隣の巨漢を見る。やはりか。
「ああ。『ヤンならどう考えるか』を逆算して、それを先回りして言わせたんだ。……どうだ?お前の持論である『個人のための戦い』を、公式見解にしてやったぞ。感謝しろ」
「感謝なんて……。私の理論を、戦争継続のプロパガンダに利用しただけでしょう。……著作権侵害で訴えたい気分ですよ」
ヤンは溜息をつく。自分の理想が、最悪の形で実現してしまった。「個人のための戦い」が、「終わらない泥沼の戦争」の燃料として注ぎ込まれたのだ。
◆
トリューニヒトの演説は、フィナーレを迎える。彼は、マイクを握りしめ、まるで殉教者のような顔で語りかける。
「私はどこにいるか……。皆が知っている通り、安全な後方だ」
正直だ。清々しいほどに認めた。
「ハイネセンの、空調の効いたオフィスで、コーヒーを飲みながら君たちの報告を待っている。……卑怯だろう?ずるいだろう?」
会場から、笑いとも怒りともつかないざわめきが起きる。
「だからこそ、皆は我々を恨む理由がある!『俺たちが血を流しているのに、あいつらは』と唾を吐きかける権利がある!」
トリューニヒトは両手を広げる。さあ、唾を吐け。私はそれを受け止めよう。
「しかし!忘れないでほしい!」
彼の声が、再び力強くなる。
「隣にまだいる戦友を!自分の前で盾となって戦う先輩を!自分の後ろで震えながら、自分を頼る後輩を!」
彼は、兵士たちの絆に訴えかける。
「恨みは私に捨てろ!罵倒は私にぶつけろ!その代わり、その手にある銃で、自由のために戦おう!私は責任を取る立場だ!どんなに罵られようと、私は君たちの生活を守るための予算を通し、補給を送り続ける!」
トリューニヒトは宣言する。私は前線には行かない。だが、後方支援(金と物資)は完璧にやる。それが私の戦いだ、と。ある意味、軍人が政治家に求める「理想の役割分担」を提示してみせたのだ。
「自由のために戦い、自由のために死地へ向かう者たちよ!我らを許すな!決して許すな!……そしてその尊い犠牲が、いつの日か戦争のない世界が実現することを祈る!」
トリューニヒトが敬礼する。その目には、本物の涙(に見える目薬かもしれないが)が光っている。
「起立!国歌斉唱!」
司会者が叫ぶ。数万人が一斉に立ち上がる。オーケストラの演奏が始まる。自由惑星同盟国歌『自由の旗、自由の民』のメロディが、ハイネセンの空に響き渡る。
大合唱だ。誰もが、隣の人の肩を抱き、涙を流しながら歌っている。そこには、強制された忠誠心ではない、奇妙な一体感があった。「俺たちは、俺たちのために戦うんだ」という、自己肯定感に満ちた熱狂。
ヤン・ウェンリーも、反射的に敬礼をする。だが、その心の中は冷え切っていた。
「(敬礼しながら)……やはり、気に入りませんね」
ヤンは、唇を動かさずに呟く。
「自分の安全圏を確保した上で、他人に『許すな、だが戦え』と言う。……『許すな』と言われると、逆に許したくなる心理を突いている。……最強の詭弁だ」
これは、詐欺師の手口だ。「この壺は偽物かもしれませんよ」と言って売ることで、「正直な人だ」と信用させて買わせる手口だ。トリューニヒトは、「自分は汚い政治家だ」と認めることで、「汚いなりに頑張っているリーダー」という免罪符を手に入れた。
「そう言うな、ヤン」
ホーランドも、直立不動で敬礼しながら、小声で返す。
「建前だとしても、それを守る政治家なら、専制主義よりマシというものだろう。今までの『私は偉い、お前らは死ね』という奴らに比べれば、よほど進歩したと思わんか?」
「……まあ、比較論で言えば、マシかもしれませんが」
「それに、建前も叫び続ければ、いつか信念に転じることもあるだろうさ。……人間は変われるもんだ」
ホーランドの言葉には、実感がこもっている。かつての彼は、猪突猛進しか能のない、ただの鉄砲玉だった。それが今では、政治的な裏回しをし、ヤンに説教をするまでになった。
「ヤン。俺も変わった。トリューニヒトも変わろうとしている(フリをしている)……お前も、変わる時かもしれんぞ?」
「……」
ヤンは、チラリと隣を見る。
「(ホーランドを見て)……貴官のように、ですか?筋肉ダルマから、知性派マッチョに?」
「おうよ!最高の進化形だろうが!文句あるか!」
ホーランドは、ニカっと白い歯を見せて笑う。その笑顔は、かつての暑苦しさの中に、頼もしさが混ざっていた。
国歌が終わる。拍手が鳴り止まない。トリューニヒトは、ヤンの手を取り、高々と掲げる。
「見よ!我らが英雄、ヤン・ウェンリーを!」
わぁぁぁぁっ!!歓声がヤンを包む。カメラのフラッシュが、彼を逃がさない。彼は、この瞬間、完全に「同盟軍のアイコン」として固定された。もはや、隠居など夢のまた夢。 死ぬまで「自由のために戦う英雄」を演じさせられる運命が確定した。
式典終了後。ヤンは、魂の抜けた足取りで楽屋裏へと向かった。早く帰りたい。ブランデー入りの紅茶を飲んで、歴史書を読んで、全てを忘れたい。
「さあ、帰るぞ、ヤン!」
ホーランドが、ヤンの背中をバシッと叩く。
「はい。帰ります。直帰します。寄り道せずに……」
「何言ってるんだ。帰るのは『職場』だぞ」
「え?」
ヤンが振り返る。ホーランドは、今日一番の輝く笑顔で言った。
「明日は、第13艦隊と第11艦隊の合同演習だ!我が艦隊の再建のために、貴様の手腕を貸してもらう!スケジュールは押さえてあるぞ!朝6時集合だ!」
「……は?」
「実戦形式の猛特訓だ!お前の『魔術』を、俺の部下たちに叩き込んでくれ!拒否権はないぞ、英雄殿!」
ホーランドは、ヤンの首根っこを掴み、問答無用で公用車へと引きずっていく。
「(ガックリ)……はいはい、閣下。……分かりましたよ……」
ヤンは抵抗を諦める。抵抗しても無駄だ。この国には、今や「逃げ場」はないのだから。
こうして。ヨブ・トリューニヒトは「正直で謙虚な指導者」という新たな、そして最強の仮面を手に入れ、支持率を爆上げした。一方、ヤン・ウェンリーは、逃げ場のない「英雄の座」と、ホーランドという名の「熱血コーチ」に縛り付けられ、過労死寸前の日々を送ることになった。
自由惑星同盟の未来は、奇妙な方向へと転がり始めた。
それが、帝国にとって吉と出るか凶と出るか。それはまだ、誰にも分からない。ただ一つ確かなことは、ヤン・ウェンリーの安眠時間は、当分訪れないということだけである。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回の章は、作者としても特に気合を入れた回でした。
トリューニヒトの演説は、書いている途中で何度も書き直し、
「本当にこう言えば大衆は動くのか?」
「ヤンの思想を利用するとはどういうことか?」
そんなことを考え続けながら構築したものです。
読んでいただいた皆さまの中で、
「ここが刺さった」
「トリューニヒトが怖すぎる」
「ホーランドを好きになってしまった」
「ヤンが不憫すぎて笑った」
「この政治描写どう思う?」
など、ご感想があれば、ぜひお聞かせください。
読者の反応が、物語の次の動きを決める大きな力になります。
帝国と同盟の内乱どちらから見たいですか?
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