銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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帝国には、外敵との戦争より厄介な戦がある。
――それは、兄弟喧嘩である。

本章で描かれるのは、ローエングラム元帥とファルケンハイン元帥、
二人の若者が理想と現実をぶつけ合い、
そして盛大に拗れる一幕です。

政治・軍事・経済という巨大な枠組みの中で語られる議論の応酬は、
本来ならば歴史書に収まるべき重厚なテーマを扱っています。

けれど彼らは若く、未熟で、そして誰よりも真っ直ぐだ。
だから話はやがて脱線し、怒り、涙、誤解、そして「兄上のバカ」という
銀河最高司令官の語彙力を心配したくなる結末へと転がります。

本作は、巨大帝国の骨格を支える政治ドラマであると同時に、
彼らの人間らしさを描く物語です。
どうか肩の力を抜いて、時に笑い、時に胸を痛めながらお楽しみください。


正義とパン、そして兄弟喧嘩

軍務省 尚書室

 

 

平和だ。少なくとも、ここ数時間は平和だった。

 

カストロプ動乱の事後処理も一段落し、山のような決裁書類との格闘も、アナの「愛の鞭(監視)」のおかげで、なんとか今日のノルマを達成しつつある。コーヒーの香りが漂う。アナが淹れてくれた、極上のブレンドだ。これを一口飲み、窓の外の景色を眺めながら、「ああ、今日も生きてるな」と実感する。それこそが、俺のささやかな幸せだ。

 

ズシン。

 

足音。いや、足音というにはあまりにも重く、そして速い。廊下を疾走してくる何者かの気配。このリズム。この振動。そして、この「俺の邪魔をする気満々」の殺気。心当たりは一人しかいない。

 

「……はぁ」

 

溜息が出る。カップをソーサーに戻す。来るぞ。台風が来る。

 

次の瞬間。

 

バンッ!!

 

爆音。もはや恒例行事となった、執務室の重厚なオーク材の扉が、物理的な限界を超えて悲鳴を上げ、蝶番ごと弾け飛ぶ音だ。可哀想な扉。今月に入って3枚目だぞ。軍務省の経費削減を叫んでいる本人が、一番備品を破壊しているという矛盾。いい加減、回転ドアにするか、あるいは暖簾にでも変えた方がいいかもしれない。

 

硝煙の匂いすら漂ってきそうな破壊された入り口から、一人の青年が飛び込んでくる。 黄金の髪が逆立ち、蒼氷色の瞳が燃え盛る炎のように揺らめいている。手には、俺が昨日承認したばかりの「カストロプ家資産処分に関する通達書」が握りしめられ、くしゃくしゃになっている。

 

「ファルケンハイン!!」

 

雷鳴のような怒号。第一声がそれか。元帥同士の挨拶としては、0点だ。

 

「説明しろ!!」

 

ローエングラム元帥・宇宙艦隊司令長官が、俺のデスクの前まで大股で歩み寄り、両手で机をダン!と叩く。ペン立てが倒れ、書類が舞う。

 

「(こめかみを押さえ)……声がでかい」

 

こめかみを人差し指でグリグリと揉む。頭痛が痛い、というやつだ。

 

「アレクが起きたらどうする。せっかく昼寝の時間だろうに」

 

「今はアレクサンデルの話ではない!いや、ある意味ではアレクサンデルの未来に関わる話だ!」

 

ラインハルトは聞く耳を持たない。完全に戦闘モードだ。アスターテでヤンと戦った時よりも、殺気立っている。

 

「これを見ろ!貴様が発行した通達書だ!」

 

彼が、くしゃくしゃになった紙切れを俺の目の前に突きつける。

 

「カストロプの財産を、国庫に没収するのではなく、大貴族に分配するだと!?正気か!?」

 

ラインハルトの怒りの矛先。それは、先日鎮圧したカストロプ動乱の「戦利品」の行方についてだ。

 

カストロプ家は、前財務尚書のオイゲン公が長年にわたって不正蓄財した莫大な資産を持っていた。金塊、宝石、美術品、有価証券、そしてフェザーンの隠し口座。総額で戦艦が1万隻は買えるほどの金額だ。

 

ラインハルトは、これを全て国庫に没収し、国家予算に組み込むべきだと主張していた。 至極まっとうな意見だ。正義の味方としては、100点満点の回答だ。

 

だが。俺は、その資産のすべてを、「動乱鎮圧への協力費」という名目で、ブラウンシュヴァイク公やリッテンハイム侯をはじめとする門閥貴族たちに分配することを決定した。

 

「正気か!?と聞いているのだ!」

 

「正気だとも」

 

「あれは貴族が収集した財産だ。法的には貴族社会の中で処理するのが筋だ。国庫に入れれば、それは『貴族の私有財産の強制没収』という前例になる」

 

淡々と説明する。

 

「そんなことをすれば、大貴族どもが『我々の権利を侵害した』『明日は我が身か』と騒ぎ出す。彼らがパニックを起こして、資産を国外(フェザーン)に逃避させたり、あるいは連合して俺たちに反旗を翻したりする前に、ブラウンシュヴァイク公とリッテンハイム侯に頼んで分配する。……それが一番丸く収まる」

 

手打ちだ。カストロプという「生贄」の肉を、他のハイエナたちに分け与えることで、群れ全体の不満を鎮める。汚いやり方だが、組織を運営する上では必要な措置だ。

 

「丸く収まるだと!?」

 

ラインハルトが叫ぶ。その美しい顔が、怒りで歪む。

 

「あれは、マクシミリアンが不当に住民から搾取したものだ!親のオイゲン公が横領した公金だぞ!そんなことは、帝国では3歳の子供でも知っているぞ!!」

 

「3歳の子供は知らんだろうが、まあ、公然の秘密ではあるな」

 

「盗まれたものを、持ち主に返す。それが正義だろう!なぜ、盗人(カストロプ)から取り上げたものを、別の盗人(門閥貴族)にくれてやる必要がある!」

 

ラインハルトの論理は正しい。純粋培養された正義感。クリスタルのように透明で、そして硬い。

 

「だから、それを経済に回すんだ」

 

立ち上がり、窓際へ歩く。外の景色を見る。平和な街並み。だが、その下にはドブ川が流れている。

 

「大貴族に渡せば、彼らはそれを使って贅沢をする。新しい屋敷を建て、愛人に宝石を買い、毎晩のように豪華な宴を開く」

 

「それがどうした!腐敗の極みではないか!」

 

「そうか?彼らが屋敷を建てれば、大工や左官が潤う。宝石を買えば、宝石商や鉱山労働者に金が入る。宴を開けば、料理人や給仕、食材を納入する農民に金が落ちる」

 

振り返る。

 

「そうすれば、職人や商人、下働きに金が落ちる。回り回って平民たちにも恩恵がいく。……トリクルダウンってやつだ」

 

トリクルダウン。富める者が富めば、貧しい者にも滴り落ちるという経済理論。まあ、実際には滴り落ちる前に中抜きされることが多いが、建前としては有効だ。

 

「詭弁だ!!」

 

ラインハルトが一喝する。見抜かれている。こいつ、昔よりも賢くなっている。

 

「盗んだ金を山分けして、何が経済だ!それは『共犯者の宴』に過ぎん!」

 

彼は俺に詰め寄る。

 

「綱紀を粛清し、不正を正してこそ、我らの『義』が立つではないか!民は、我々にそれを期待しているのだ!腐った貴族政治を終わらせてくれると!」

 

彼の瞳は真剣だ。アスターテで多くの兵士が死んだ。その犠牲の上に立っている自分たちが、不正な金で私腹を肥やす(ように見える)行為を許せないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

ラインハルトの真っ直ぐな瞳を見つめる。眩しい。あまりにも眩しくて、直視できないほどだ。

 

かつての俺も、そんな瞳を持っていた時期があっただろうか。いや、ないな。俺は生まれた時から、どこか冷めたガキだった気がする。

 

「……ラインハルト」

 

声を落とす。

 

「(冷たく言い放つ)……義によって飯が食えるか」

 

突き放すような言葉。ラインハルトが息を呑む。

 

「理想を語るな。政治は、詩の朗読会ではない。現実の利害調整だ」

 

「理想を語るな、だと……?」

 

ラインハルトの声が震える。怒りではない。失望の色が混じっている。

 

「理想を語るさ!俺は……俺は人の親になった!」

 

彼が叫ぶ。その言葉に、ハッとする。親。そうか。今のこいつは、ただの野心家ではない。

 

「アレクサンデルに誇れる国を作るため……あの子が生きる未来を、少しでも綺麗なものにするために!俺は前以上に理想を語らねばならない立場になったのだ!!」

 

ラインハルトの目が潤んでいる。息子への愛。それが、彼の正義感をより強固なものにしている。汚い世界を見せたくない。あの子には、光の中を歩いてほしい。その親心が、俺の胸に痛いほど突き刺さる。

 

(……痛いな)

 

俺だって、サビーネちゃんやエリザベートちゃん、そしてこれから生まれるかもしれない自分とアナスタシアの子供のために、いい国を作りたいと思っている。だが、やり方が違うのだ。急進的な改革は、血を呼ぶ。

 

「……とにかく!これは軍務尚書としての決定だ!」

 

自分の弱さを隠すように声を張り上げる。

 

「もう決定事項だ!ブラウンシュヴァイク公たちには話をつけた!今さら撤回すれば、俺の面子が潰れるだけでなく、貴族社会との全面戦争になる!」

 

「ならば戦えばいい!俺の艦隊なら……!」

 

「また戦争か!お前の頭の中はビーム砲でできているのか!貴族直轄軍の維持費も、そこから捻出するんだ!」

 

机の上の書類の山を指差す。

 

「お前が動かす艦隊の燃料費も、兵士の給料も、全部金がかかる!綺麗事だけじゃ、戦艦一隻動かせんのだぞ!」

 

「考え直せ!ファルケンハイン!」

 

ラインハルトが食い下がる。

 

「帝国は門閥貴族の私物ではないぞ!!なのに、なぜ一部の特権階級だけが甘い汁を吸う!」

 

正論。どこまで行っても正論。だからこそ、腹が立つ。お前の正論が通じるなら、俺だって苦労はしない。

 

「(机を叩いて立ち上がり)……いいや、違うな」

 

ラインハルトを睨みつける。もう、遠慮はしない。ここで甘い顔を見せれば、こいつは暴走する。貴族社会と正面衝突し、自滅するまで止まらないだろう。

 

「帝国は、我ら門閥貴族のものだ!!」

 

断言する。部屋の空気が凍りつく。後ろで控えていたアナが、悲しげに目を伏せるのが視界の端に見える。

 

「なっ……!」

 

ラインハルトが絶句する。信じられないものを見る目で俺を見ている。兄と慕った男の口から、最も聞きたくない言葉が出たのだから。

 

「陛下であっても、そうそう手出しはできん!!神聖にして不可侵のルドルフ大帝の御世ならいざ知らず!」

 

「今、この帝国を回しているのは誰だ!!官僚か?軍人か?違う!貴族たちだ!俺たちだ!!」

 

自分の胸を叩く。

 

「領地を持ち、民を支配し、税を集め、軍を養っているのは誰だ!俺たち貴族だ!この国のシステムそのものが、貴族というOSで動いているんだ!」

 

「ファルケンハイン!!貴様、魂まで腐ったか!!」

 

ラインハルトが怒鳴る。その手は、腰のブラスターに伸びかかっている。

 

「腐っているのではない!現実を見ているだけだ!」

 

怒鳴り返す。

 

「この帝国は、豊かにしてやらなければならない。民を食わせてやらなければならない。……だがな、急激に貴族が倒れれば、社会が崩壊する!」

 

説明しても無駄かもしれない。だが、言わずにはいられない。

 

「明日から貴族がいなくなってみろ。誰が領地を管理する?誰が治安を守る?誰が経済を回す?役人がすぐに代わりを務められるか?無理だ!」

 

「それは……!」

 

「不満がたまりすぎれば、内乱で民が死ぬんだよ!貴族同士の殺し合いに、平民が巻き込まれる!それがどうしてわからん!」

 

机に両手をつき、身を乗り出す。

 

「軟着陸させるには、飴と鞭が必要なんだ!お前のようにメスで切り裂けば、患者(国家)は出血多量で死ぬぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それにラインハルト!お前は今は門閥貴族の一員だろうが!」

 

デスクを叩く。可哀想なデスクがミシミシと悲鳴を上げるが、知ったことか。

 

「俺がそこまで盛り立てて、ローエングラム伯にしてやったのはどうしてだと思う!!飾りか?伊達か?違うだろう!」

 

一歩、前に踏み出す。ラインハルトも退かない。睨み合っている。

 

「外から石を投げるだけじゃ、城壁は崩せん!だから中に入れてやったんだ!内側から変えるためだろうが!貴族の論理を使い、貴族の金と力を利用して、貴族社会そのものを変質させる……それが戦略だったはずだ!」

 

そうだ。 それが未来図だ。そのための「妥協」だ。そのための「分配」だ。なぜ、それが分からない。

 

「わからん!わかりたくもない!」

 

ラインハルトが叫ぶ。駄々っ子のような、しかし鋭利な刃物のような拒絶。

 

「貴様がそんな腐敗の擁護者だとは思わなかった!『内側から変える』?笑わせるな!貴様がやっていることは、彼らに餌を与え、肥え太らせているだけではないか!」

 

「餌を与えなきゃ、獣は暴れるんだよ!」

 

「ならば暴れさせて、撃ち殺せばいい!なぜそれをしない!なぜ手心を加える!」

 

「それが政治だと言っている!」

 

「違う!それは保身だ!堕落だ!」

 

ラインハルトが、俺の胸倉を掴まんばかりの勢いで腕を伸ばす。指先が俺の襟元をかすめる。

 

「やはり貴様も同じか!!俺は信じていたのに……。貴様だけは、違うと信じていたのに!」

 

彼の目から、光が消える。軽蔑。純粋な、100%の軽蔑。

 

「私腹を肥やし、特権に胡座をかき、民の血を吸って生きる……腐った門閥貴族め!!」

 

「(ブチ切れ)……取り消せ」

 

低い声が出る。 地獄の底から響くような声だ。

 

「取り消せラインハルト!!俺を豚どもと一緒にするな!!」

 

俺は、ラインハルトに掴みかかる。元帥同士の取っ組み合い。前代未聞の不祥事だ。だが、そんなことはどうでもいい。こいつを殴る。一発殴って、その腐った根性を叩き直してやる。

 

「やるか!貴様ごときに負けはせん!」

 

ラインハルトも応戦の構えだ。腰の重心を落とし、拳を固めている。

 

二人が、物理的衝突まであと数センチという距離まで接近した、その瞬間。

 

「キルヒアイス!何とか言ってやれ!!こいつの目を覚まさせろ!」

 

俺の言葉は届かない。なら、お前の親友の言葉なら届くだろう。

 

「(必死に割って入り)ラインハルト様!おやめください!言い過ぎです!」

 

赤毛の大男が、素晴らしい反射神経で二人の間に滑り込む。彼は、ラインハルトの身体を両腕で抱え込み、必死に引き剥がそうとする。

 

「閣下には閣下のお考えがあるのです!それを一方的に断罪するのは……!」

 

「離せキルヒアイス!こいつは魂まで売ったのだ!目を覚ますべきはこいつの方だ!」

 

「落ち着いてください!ここは軍務省です!兵が見ています!」

 

一方、俺の方にもストッパーがかかる。背後から、強烈な力で締め上げられる感覚。ヘッドロックか?いや、フルネルソンか?プロレス技だ。

 

「(アルブレヒトを後ろから羽交い締めにして)アル様!落ち着いて!暴力はいけません!」

 

アナだ。彼女は、俺の背中に密着し、両腕で俺の上半身をガッチリとロックしている。 力が強い。ゴリラか。いや、失礼。アマゾネスか。

 

「ラインハルト様のお気持ちも考えてください!!彼はまだ若いのです!純粋なのです!正論と感情論がぶつかっているだけです!貴方が大人にならなくてどうするのですか!」

 

「離せアナ!この金髪の孺子、一度ぶん殴ってやらんと気が済まん!」

 

「ダメです!殴ったら貴方の負けです!元帥が部下を殴ったらパワハラです!」

 

「パワハラ上等だ!それにこいつも元帥だ!俺は今日付で辞表を出す!辞めてただの兄貴として教育的指導をしてやる!」

 

暴れる。足をバタつかせる。だが、アナスタシアのホールドは岩のように揺るがない。 関節極まってるんじゃないかこれ。

 

「この分からず屋!」

 

「この俗物!」

 

「シスコン!」

 

「守銭奴!」

 

子供の喧嘩だ。銀河の命運を握る男たちが、レベル1の罵倒合戦を繰り広げている。

 

 

 

 

 

 

 

 

数分後。あるいは数十分後か。お互いの体力が切れ、息が上がった頃、決定的な言葉が放たれた。

 

「もういい!」

 

ラインハルトが、キルヒアイスの腕を振りほどき、叫んだ。乱れた金髪。紅潮した頬。 そして、氷のように冷たい拒絶の眼差し。

 

「貴様とは絶交だ!顔も見たくない!今後は、ただの同僚として振る舞う!個人的な付き合いは一切お断りだ!」

 

絶交。いい年した大人が使う言葉ではない。

 

「……そうかよ」

 

俺も、アナの拘束から逃れ(解放され)、息を整える。襟元を直す。

 

ここで「悪かった」と言えれば、何かが変わったかもしれない。だが、俺も貴族だ。ファルケンハインの当主だ。売り言葉に買い言葉というやつだ。

 

「こっちの台詞だ!出て行け!二度と俺の家の敷居を跨ぐな!」

 

指をドア(破壊済み)に向ける。

 

「今後、貴様の艦隊への補給は事務的に行う!ケーキの差し入れも、アレクへの玩具もなしだ!自分で買え!」

 

「結構だ!貴様からの施しなど受けん!」

 

ラインハルトは、マントを翻す。

 

「行くぞ、キルヒアイス!ここは空気が悪い!俗物の瘴気に当てられる!」

 

「あ、ラインハルト様……!お待ちください!」

 

キルヒアイスが、俺に一瞬だけ申し訳なさそうな、悲しげな視線を送る。「すみません」と口パクで言い、慌てて主君の後を追う。

 

ラインハルトは、出口に向かって大股で歩き……そして、すでに壊れて蝶番が外れかけているドアを、ダメ押しとばかりに思い切り蹴り飛ばした。

 

ガシャーン!!

 

可哀想なドアが、完全に枠から外れ、廊下へと吹き飛んでいく。

 

彼らの足音が遠ざかっていく。怒りと殺気を撒き散らしながら。

 

シーン……。

 

静寂が戻る。嵐が去った後のような、耳鳴りがするほどの静けさ。床には書類が散乱し、椅子が転がり、高級な絨毯にはブーツの跡がついている。惨状だ。

 

俺は、ふらりとよろめき、近くのソファ(無事だった)に倒れ込むように座った。

 

「……はぁ」

 

深く、重い溜息が出る。肺の中の空気が全部抜け出たようだ。

 

「……わからず屋め……」

 

「俺がどれだけ苦労して、貴族どもを宥めていると思ってるんだ。カストロプの件だって、奴らの不満を抑えるために、泥を被って調整したんだぞ」

 

独り言が漏れる。誰に対する言い訳でもない。自分自身への慰めだ。

 

「全部、あいつが将来やりやすいように……貴族たちが邪魔しないように、地均ししてたってのに……」

 

そう。貴族たちに恩を売り、借りを、がんじがらめに縛り付けておく。 そうすれば、いざラインハルトが権力を握った時、彼らは動けない。

 

「……バカな弟を持ったもんだ」

 

目頭が熱い。殴られたわけでもないのに、痛い。

 

その時。静かに、しかし温かい手が、俺の頬に触れた。

 

「……伝わりにくい愛ですね、アル様」

 

アナ。彼女は、散らかった部屋など気にも留めず、俺の傍らに膝をつき、子供をあやすように俺を見つめている。

 

「優しく」

 

その声が、心の傷に染みる。

 

「貴方のやり方は、正しすぎて、そして不器用すぎます。……ラインハルト様には、まだ『清濁併せ呑む』なんて芸当はできませんよ。彼は太陽なのですから」

 

「太陽、か……」

 

「ええ。貴方は、その太陽が焼き尽くさないように、雲となって雨を降らせている。……でも、太陽から見れば、雲は邪魔なだけかもしれませんね」

 

「……辛辣だな」

 

「事実ですもの」

 

アナスタシアが微笑む。 その笑顔に、救われる。

 

「でも、私は知っています。その雨がなければ、大地(帝国)は干上がってしまうことを」

 

彼女は、俺の手を握りしめる。

 

「今は、嫌われ役でいいではありませんか。……いつか、彼も大人になります。アレクサンデル様が育てば、親の苦労も分かるでしょう」

 

「……そうだな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、と。……あいつら、今頃どうしてるかな」

 

「気になりますか?」

 

アナが、悪魔的な微笑みを浮かべて近づいてくる。その手には、小型の端末が握られている。

 

「……なんだそれは」

 

「ふふふ。……実はですね、アル様」

 

彼女は声を潜める。まるで、国家機密を漏らすスパイのように。

 

「念のため、ラインハルト様がお乗りになった車に、最新鋭の超指向性集音マイクと、GPS発信機を仕掛けておきました」

 

「……は?」

 

耳を疑う。今、なんて言った?盗聴器?発信機?

 

「お、お前……いつの間に?」

 

「先ほど、お二人が到着された時です。車の運転手に『あら、素敵な服ですね』と話しかけている隙に、車体の下にピタッと」

 

アナスタシアが、指で「ピタッ」というジェスチャーをする。鮮やかな手口だ。さすがは完璧軍人。工作活動もお手の物か。

 

「……趣味が悪くないか?」

 

ドン引きする。弟の会話を盗聴する兄。ストーカーだ。犯罪だ。憲兵隊に突き出されても文句は言えない。

 

「これは『情報収集』です。リスクマネジメントです」

 

アナは涼しい顔だ。

 

「ラインハルト様が、怒りのあまり『今すぐ軍務省を爆破しろ!』とか『兄上の屋敷にミサイルを撃ち込め!』とか、危険な命令を出すかもしれません。それを事前に察知するための、正当な防衛措置です」

 

「……理屈は通ってるような気もするが」

 

あいつならやりかねない、という信頼(?)があるだけに、否定しきれない。

 

「どうしますか?聞きますか?それとも、武士の情けで聞かなかったことにしますか?」

 

アナが、端末のスイッチに指をかける。悪魔の誘惑だ。「聞くべきではない」という理性と、「悪口を言われていたら言い返してやりたい」という好奇心が、俺の中で激しく格闘する。

 

3秒後。欲望が勝った。

 

「……スイッチオン」

 

厳かに命じた。プライドよりも、ネタが欲しい。いや、真実が知りたい。

 

「イエス・マイ・ロード」

 

アナがウィンクし、スイッチを入れる。端末から、ザザッというノイズが流れ、やがてクリアな音声が執務室に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……ザッ、ザッ、ヒヒーン……』

 

 

『……ラインハルト様。よろしかったのですか?』

 

キルヒアイスの声だ。穏やかで、心配そうな声色。よし、よく聞こえる。感度は良好だ。

 

『……あそこまで仰って』

 

『フン!』

 

鼻を鳴らす音。ラインハルトだ。不機嫌モード全開だ。目に浮かぶようだ。腕を組んで、窓の外を睨みつけて、頬を膨らませている姿が。

 

『あいつが悪いのだ!あんな……あんな物分かりのいい、大人ぶったことを言いおって!』

 

ラインハルトの声が震えている。怒りというより、癇癪に近い。

 

『「義によって飯が食えるか」だと?ふざけるな!ならば、パンのために義を捨てろと言うのか!豚になるくらいなら、餓死した方がマシだ!』

 

「……極端だな、あいつは」

 

端末に向かってツッコミを入れる。別に餓死しろとは言っていない。美味いパンを食うために、少しだけ泥を被れと言っているだけだ。トリュフ入りのパンを食いたければ、豚を使ってトリュフを探す必要があるのと同じだ。

 

『それに、あの言い草は何だ!「帝国は門閥貴族のものだ」などと!よくもまあ、ヌケヌケと言えたものだ!俺は吐き気がしたぞ!』

 

『……ですが、ラインハルト様』

 

キルヒアイスが、静かに諭すように口を挟む。

 

『ファルケンハイン閣下は、本心であのようなことを仰ったのでしょうか?』

 

おお、キルヒアイス。さすがはお前だ。やはり、持つべきものは賢い弟分の親友だ。

 

『何だと?』

 

『閣下は、現実主義者です。……カストロプの件にしても、もし全額没収すれば、他の大貴族たちがパニックを起こし、内乱に発展するリスクがありました。そうなれば、多くの兵士や民が血を流すことになります』

 

キルヒアイス、お前いい奴だな。今度、最高級の赤ワインを贈ろう。

 

『閣下は、それを避けるために、あえてご自身が悪役となって、貴族たちに金を配ったのではないでしょうか。……「泥を被る」というやり方で』

 

『……』

 

沈黙。ラインハルトが考え込んでいる気配がする。図星を突かれて、言葉に詰まっているのだろう。

 

『……知るか!』

 

逆ギレだ。思考放棄だ。

 

『例えそうだとしても、やり方が気に入らん!俺には俺のやり方がある!あんな……裏でコソコソと根回しをして、ニコニコと笑顔で毒を盛るような真似は、俺の美学に反する!』

 

「毒は盛ってないぞ。ただの下剤くらいだ」

 

『俺は間違っていない!不正は正すべきだ!悪い奴は罰せられるべきだ!シンプルな話ではないか!』

 

『ええ、その通りです。ラインハルト様のお考えは、正しいです』

 

キルヒアイスは否定しない。優しいな。

 

『だが、あいつは……あいつは……!』

 

ラインハルトの声が、急に湿り気を帯びる。怒りのボルテージが下がり、代わりに何か別の感情が混ざってくる。

 

『……俺のことを、ガキ扱いしやがって……』

 

ボソッと呟く。

 

『「理想を語るな」だと?……俺が、どんな思いで……アレクサンデルのために……』

 

鼻をすする音がする。泣いてるのか?天下の元帥が、車の中で泣いてるのか?

 

『……兄上のバカ!!』

 

「ぶっ!!」

 

吹き出した。アナも、「あらま」と口元を押さえている。

 

バカ。兄上のバカ。小学生か。いや、幼稚園児か。銀河帝国の最高司令官が、絶交宣言をした相手に対して放った最後の捨て台詞が「バカ」だと?語彙力はどうした。

 

ゲーテやシラーを引用して、もっと高尚な罵倒をするんじゃないのか。

 

『……キルヒアイス!何がおかしい!』

 

ラインハルトが怒る。どうやら、キルヒアイスも吹き出したらしい。

 

『(吹き出しそうになり)……ふふっ。……いえ、失礼しました』

 

『笑うな!俺は真剣だぞ!絶交だと言っただろう!二度と口をきかんぞ!』

 

『はい、はい。分かりました。……ですが、ラインハルト様』

 

キルヒアイスの声には、隠しきれない笑意が含まれている。

 

『「バカ」というのは、本当に嫌いな相手には使わない言葉ですよ』

 

『なっ……!?』

 

『本当に嫌いなら、「あの方」とか「あの男」とか、もっと冷たい呼び方をするはずです。……「兄上」と呼んでいる時点で、まだ心の中では慕っていらっしゃる証拠です』

 

鋭い。名探偵キルヒアイスだ。

 

『う、うるさい!習慣だ!ただの口癖だ!明日からは「ファルケンハイン元帥」と呼ぶ! ……いや、「あのハゲ」と呼んでやる!』

 

「ハゲてないわ!!」

 

端末に向かって叫ぶ。フサフサだぞ。アナが毎日ヘアトニックでマッサージしてくれてるから、毛根は死んでないぞ。

 

『……喧嘩するほど仲が良い、とはこのことですね』

 

キルヒアイスがまとめる。

 

『黙れ!仲良くなどない!俺は怒っているんだ!……だいたい、あいつはいつもそうだ!自分だけ大人ぶって、俺を子供扱いして、美味しいところ(事態の収拾)だけ持っていく!』

 

『ええ、ええ』

 

『アスターテの時もそうだ!俺が苦労して戦ったのに、最後はあいつが「よくやった」とか言って頭を撫でてきやがった!俺は犬じゃない!』

 

『でも、嬉しそうでしたよ?』

 

『嬉しくない!屈辱だ!』

 

ツンデレが炸裂している。この会話、録音して全軍に放送してやりたい。「これが宇宙艦隊司令長官の素顔です」って。帝国の士気が上がるか下がるか、賭けになるが。

 

『……はぁ。腹が減ったな』

 

急に話題が変わる。情緒不安定か。

 

『そうですね。お屋敷に戻ったら、ヒルダ様が夕食を用意して待っておられますよ』

 

『今日は何だ?』

 

『確か、フリカッセ(クリーム煮)だと伺っております』

 

『……そうか。なら、急ごう』

 

『はい。……デザートには、ファルケンハイン閣下から頂いた、特製のアップルパイがあるそうですが』

 

『……フン。捨ててしまえ』

 

『もったいないですよ。』

 

『……むぅ。……仕方ない。……毒見をしてから食べる』

 

『ふふ。承知いたしました』

 

『笑うなと言っているだろう!』

 

プツッ。そこで、アナスタシアが端末のスイッチを切った。




ここまで読んでくださり、誠にありがとうございます。

今回のテーマは
「正義の太陽」と「現実の雲」
そしてその狭間で振り回される周囲の人々、でした。

特に読者の皆さまにお聞きしたいのは――

アルの現実主義と、ラインハルトの純粋な正義

二人の喧嘩が低レベルでありつつも切実に思える点

キルヒアイスの立ち回りと、アナスタシアの怪物的万能ぶり

盗聴シーンのテンポと落ち

ラインハルトの「兄上のバカ」に感じたもの

このあたりが、どう読めたかという点です。

帝国と同盟の内乱どちらから見たいですか?

  • 銀河帝国
  • 自由惑星同盟
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