銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
同盟ではトリューニヒト政権が全盛期を迎える。
その間に投げ込まれる劇薬リンチ。
静かに銀河の未来が狂い始める過程を、どうぞお楽しみください。
イゼルローン要塞 司令官室
現在、帝国軍ではなく、もっと恐ろしい敵によって包囲されている。書類だ。白い紙の束が、雪崩のように司令官室を埋め尽くしている。その中心で、一人の男がデスクに突っ伏し、死体のように動かない。ヤン・ウェンリー元帥。30歳にして元帥杖を手にした、同盟軍史上最年少の最高位軍人である。
「……死にたい」
「死因は、決済印の押しすぎによる腱鞘炎だ。……これなら戦死の方がマシかもしれない」
彼の手には、インクの切れた万年筆が握られている。元帥になったことで、彼の権限は飛躍的に拡大した。イゼルローン方面軍司令官として、軍事だけでなく、要塞都市の行政、人事、予算、さらには「要塞内のパン屋の開店許可」に至るまで、あらゆる決裁が彼の下に回ってくるのだ。
「ぼやかないでください、閣下。……まだ午前の分も終わっていませんよ」
フレデリカが、新たな書類のタワーを運んでくる。
「大尉、お願いだ。……この書類を全部シュレッダーにかけてくれないか?『事故でした』と言えば済む」
「ダメです。……それは『要塞内託児所の予算申請書』です。却下すれば、保母さんたちがプラカードを持ってデモ行進に来ます」
「……ううっ」
「捕虜交換ですって??」
そこへ、騒々しい男たちが乱入してくる。アッテンボローと、シェーンコップ。彼らは、ヤンの苦悩などどこ吹く風で、コーヒーの香りを漂わせながら入ってくる。
「先輩!見ましたかこのニュース!帝国からの正式な申し入れですよ!」
「……ああ。知っているよ」
「さっき、トリューニヒト議長から直通回線で連絡があった。『素晴らしい人道的提案だ』と、満面の笑みで言っていたよ」
「帝国からの申し入れだ。……新皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世の即位に伴う恩赦だそうだ」
ヤンは、むくりと起き上がる。その髪はボサボサで、目の下にはクマができている。とても元帥には見えない。
「まあ、それだけじゃないだろうけどね。……タダより高いものはない」
「どういうことですか?提督……いえ、元帥」
ユリアンが、絶妙なタイミングで紅茶を差し出す。彼はまだ「元帥」という呼び名に慣れていない。
「ありがとう、ユリアン」
「簡単なことさ。……帝国は今、ファルケンハイン元帥とローエングラム元帥の冷戦状態にある。……睨み合いだ」
で二つの勢力を示す。
「内戦に突入するのは時間の問題だ。……火薬庫の周りで、双方がマッチを持ってウロウロしている状態さ。そんな時に、なぜわざわざ敵国に塩を送るような真似をする?」
「塩?」
「捕虜だよ。……二百万人の将兵を返還すれば、同盟軍の戦力は回復する。……アムリッツァで消耗した人的資源を、敵が親切にも補填してくれるんだ。おかしいと思わないか?」
ラインハルトという男は、確かに騎士道精神を持っているかもしれない。だが…。
「確かに。……常識で考えればありえませんな。敵を利する行為です」
シェーンコップが、ブランデーの瓶を勝手に開けてグラスに注ぐ。
「ですが、人道的見地と言われれば断れません。……同盟政府は、支持率アップのために飛びつくでしょうな」
「だからこそ、罠がある」
「二百万人の捕虜の中に……ウイルスを混ぜるのさ」
「ウイルス?生物兵器ですか?」
「いや、もっとタチが悪い。……『思想』という名のウイルスだ」
ヤンは、こめかみを指差す。
「工作員を送り込んでクーデターを起こす。……そんなところだろう。捕虜の中に、こちらの不満分子を扇動する者を紛れ込ませるんだ」
「クーデター……!」
ユリアンが息を呑む。
「同盟国内を混乱させ、その隙に帝国の内戦を終わらせる気だ。……ラインハルト君は、背中の安全を確保してから、お兄さんと喧嘩をするつもりなんだよ」
「そこまでお分かりなら、トリューニヒト議長にお知らせしては?」
ユリアンが提案する。危機が分かっているなら、防げばいい。
「提督は……元帥は、議長と親しいでしょう?」
「親しいとか言わないでくれ。……寒気がする」
ヤンは、本気で嫌そうな顔をする。あの男の顔を思い出すだけで、紅茶の味が落ちる。あの日、高級料亭で交わした「悪魔の契約」以来、ヤンは彼に対して生理的な嫌悪感と、逃れられない共犯意識を抱いている。
「くっくっく。……では、『癒着した不良軍人仲間』と呼びましょうか?史上最年少元帥閣下」
シェーンコップが、楽しそうに茶化す。
「世間ではもっぱらの噂ですよ。……『ヤン元帥はトリューニヒト議長の懐刀だ』『いや、実はヤン元帥が裏で議長を操っている黒幕だ』とね」
「……口が減らないな」
彼の意図とは裏腹に、世間での評価は「清廉潔白な英雄」から「政界とも太いパイプを持つ実力者」へとシフトしつつある。これでは退役の道が遠のくばかりだ。
「もちろん話したよ。……トリューニヒト議長にね」
◆
時は少し遡る。場所は同盟首都ハイネセンの高級料亭「憂国」。
テーブルには、帝国からの密使がもたらした「捕虜交換の提案書」が無造作に置かれている。トリューニヒトは最高級の赤ワインをグラスの中で揺らしながら、その書類をパラパラと捲る。
「ふむ……。では、交換に応じよう」
彼は今日のデザートを決めるような軽さで即決する。
「なっ……なぜですか!?」
ヤンの声が裏返る。
「今言った通り、これは『内乱の輸出』です!ローエングラム元帥の狙いは明白ですよ。捕虜の中に工作員を混ぜ、同盟国内でクーデターを誘発させるつもりです!みすみすトロイの木馬を招き入れるようなものじゃないですか!」
軍事的な常識で考えれば、敵の意図が見え透いている提案に乗る必要なんてない。
「ヤン元帥。……君は軍人としては天才だが、政治家としては落第だな」
「……どういう意味でしょう」
「二百万人の帰還兵だぞ?二百万人の有権者が帰ってくるのだ」
「彼らには家族がいる。親兄弟、配偶者、子供……。合わせれば数百万、いや一千万近い票が動く。……その彼らを『敵の罠かもしれないから』という理由で見捨てるのかね?そんな冷たいことをすれば、次の選挙で私は落選だ」
「し、しかし、国家の安全保障が……」
「安全保障?そんなものより、私の議席の方が大事だよ」
あまりにも正直すぎて、逆に感動すら覚える。この男、自分が悪党であることを隠そうともしない。
「彼らを暖かく迎え入れ、涙の再会を演出し、『私が彼らを救った』とアピールする。……そのチャンスを逃す政治家はいないよ。感動ポルノは票になるんだ」
「……」
正論ではない。だが、民主主義というシステムのバグを突きまくった、最強の暴論だ。
「しかし議長、クーデターとなると……」
横で、黙々とフカヒレの姿煮を掃除機のように吸い込んでいたロボスが口を挟む。
「私の昼寝が妨害されるのは困る。……執務室が占拠されたり、ドンパチやられたりしては、安眠枕の効果が半減するからな」
この男の心配事は常に自分の睡眠環境だ。国家の存亡よりも枕の硬さの方が重要らしい。
「ガハハ!心配無用でしょう!」
ホーランドが、ビールジョッキをテーブルに叩きつける。彼は全身から溢れ出る「陽気な暴力性」で、場の空気を支配している。
「現在の同盟に、そのような余地があるとは思えんがな!クーデター?誰がやるんだ?今の我々は無敵だぞ!」
「ホーランド元帥、楽観的すぎます」
「不満分子は地下に潜っています。……彼らは『救国』の名の下に結束し、今の腐敗した現状を憂いているはずです。真面目な彼らは、今の政治が許せないんですよ」
「事実だぞ、ヤン。……今のトリューニヒト政権の支持率を見ろ。爆上がりだ」
ホーランドはタブレット端末をヤンの鼻先に突きつける。そこには異常なほど高い支持率のグラフが表示されている。
「なぜだか分かるか?国民はな……『隠れてコソコソ悪いことをする政治家』は大嫌いだが、『堂々と悪いことをして、しかも結果を出す正直な悪徳政治家』は大好きなんだよ!」
「……う」
痛いところを突かれた。アムリッツァ会戦での「ロボス元帥の男泣き」と「主力艦隊の生還」は、国民に強烈なカタルシスを与えた。
さらに、トリューニヒトが「私は自分の利益のために戦争に反対した!」と公言したことで、逆に「あいつは嘘をつかない」という奇妙な信頼感が生まれているのだ。
「ホーランド元帥の言う通りだ」
「私は『自分と選挙が第一』だと公言している。……それでも国民は私を選んだ。つまり、国民も共犯者なのだよ。今さら『政治が腐敗している』などという大義名分でクーデターを起こしても、誰もついてこないさ」
腐敗が極まると、逆に安定する。清廉潔白な正義よりも、欲望に忠実な悪の方が、大衆の支持を得やすいという皮肉な現実。
「ですが……狂信的な集団というのは、理屈では動きません。……彼らは自分たちこそが正義だと信じ込んでいます。自分たちの脳内世界で生きていますから、空気なんて読みませんよ」
「確かに一理あるな。……万が一、暴発されても面倒だ」
「よし、ヤン元帥。……頼んだよ」
「……え?」
「私が、ですか?」
椅子ごと後ろに下がりたい気分だ。
「イゼルローン要塞は最前線だ。……捕虜交換の式典はそこで行われる。君がホストとして、捕虜を受け取ることになるからな」
「君のその『魔術』で、毒を抜いてくれたまえ。……工作員を見つけ出すなり、懐柔するなり、好きにしていい」
「無茶を言わないでください!私は一軍人に過ぎませんよ!国内の治安維持や防諜活動なんて専門外です!そんな暇があったら歴史の研究をしたいんです!」
ヤンは全力で拒否する。ただでさえ元帥の仕事で忙殺されているのだ。これ以上、専門外の仕事を押し付けられては過労死する。年金をもらう前に墓に入ることになる。
「不服かな?……ヤン元帥」
トリューニヒトは懐から一枚のリストを取り出す。それは軍事機密でも何でもない、ただの古びた目録のようだ。
「実は君のために……個人的なプレゼントを用意していてね」
「プレゼント?」
「ああ。……最高級の紅茶葉。市場には出回らない100年物のビンテージ・ブランデー。……そして」
「帝国領の奥深く、古い貴族の書庫から発見された……『地球時代の貴重な歴史書』を用意して送ろうと思っていたのだが……」
「…………」
心臓が跳ねる。瞳孔が開く。歴史書。それも、地球時代の原典。歴史家志望の彼にとっては、国家予算に匹敵する価値がある代物だ。いや、彼の中では国家予算以上の価値がある。
「いやあ、実に貴重な資料でね。……20世紀から21世紀にかけての、失われた歴史の記述があるらしい。『インターネットの黎明期』とか『AIの反乱』とか、君がよだれを垂らしそうな記述が満載だと聞くよ」
トリューニヒトはヤンの顔色を観察しながら、リストをヒラヒラとさせる。ヤンの反応を楽しんでいる。
「君が断るなら……残念だが、博物館に寄贈するしかないかなあ。……あるいは、焚き付けにするか。冬は寒いからねえ」
「……」
悪魔だ。この男は人の弱みにつけ込むことにかけては天才だ。仕事の負担か。それとも知的好奇心の充足か。国家の正義か。それとも一冊の古書か。
ヤンは数秒の葛藤の末、深いため息をついた。彼は自分の欲望に勝てなかった。
「……その歴史書、保存状態は?」
「最高だよ。……真空パックで保存されている。虫食い一つない」
「…………」
ヤンは天を仰ぐ。同盟の未来と、一冊の本。彼の中で天秤が傾く。ガシャンと音を立てて。
「引き受けましょう」
彼は魂を売った。いや、レンタルした。
「ハハハ!交渉成立だ!」
◆
「……先輩」
アッテンボローがジト目でヤンを見る。
「買収されたんですか。……本一冊で。安っ」
「人聞きが悪いな!政治的妥協と言ってくれ!」
ヤンは机の上のリストを愛おしそうに撫でる。もう手遅れだ。彼は悪魔の契約書にサインをしてしまったのだ。心の中では「早く読みたい」という欲望が渦巻いている。
「それに、あの歴史書はずっと探していたんだ。……これがあれば、私の『ヤン・ウェンリー回顧録』の第一章が充実する。老後の楽しみが増えるんだぞ」
「そんなもの書いてるんですか。……まだ30歳でしょう。どんだけ老後を楽しみにしているんですか」
「安い元帥ですな」
シェーンコップが肩をすくめる。
「一国の軍隊の最高責任者が、古本屋の特売品のような扱いとは。……トリューニヒト議長もいい買い物をしましたな。こんなチョロい元帥は他にいませんよ」
「うるさいな」
「……で、どうなさるおつもりで?」
「二百万人の中から工作員を見つけ出すなど、砂漠でダイヤモンドを探すようなものですぞ。……身体検査や尋問で炙り出せるようなアマチュアではないでしょう」
「……流石に工作員が誰か?なんて分からないから、雲をつかむような話だがね」
ヤンはブランデーの香りを楽しみながら、思考を巡らせる。相手はあのオーベルシュタインだ。普通の工作員を送ってくるはずがない。
「だが、向こうが送ってくる工作員だ。……オーベルシュタインあたりが選んだとすれば、ただ情報を盗むだけのスパイではない」
カップを置く。
「恐ろしく有能か、あるいは恐ろしく『劇薬』になる男だろう。……組織を内側から腐らせ、崩壊させるような、毒性の強い男だ」
「劇薬、ですか?」
「ああ。……不満分子を扇動し、彼らに『自分たちは正しい』と思い込ませ、破滅の道へと走らせる扇動者。……そんな男が一人いれば、組織は簡単に壊れる。正義中毒の人間ほど操りやすいものはないからね」
ヤンの予感は的中している。アーサー・リンチ少将。彼はまさにそのための「毒」だ。かつて味方を見捨てて逃げた男が、今度は味方を地獄へ道連れにするために帰ってくるのだ。
「まあ、まずは受け入れてみよう。……毒を食らわば皿までだ。拒否すれば、人道上の問題でこちらが非難される。トリューニヒトの顔が潰れるのも面白いが、選挙で負けてもっと変な奴が議長になるのも困る」
敵の策に乗るしかない。だが、ただ乗せられるつもりもない。
「いざとなったら……」
ハイネセンの方角、あの腐敗した政治家たちが巣食う場所を見つめる。
「トリューニヒト議長と、ホーランド元帥に、なんとかしてもらおう」
「は?」
アッテンボローが耳を疑う。あの二人に?毒をもって毒を制すどころか、核廃棄物をもって毒を制すようなものではないか?
「あの二人の『悪運』と『突破力』なら……クーデター部隊くらい、素手で捻り潰すかもしれない」
通常の政府ならクーデターは脅威だ。だが、今の同盟政府は「異常」だ。トリューニヒトの支持基盤は宗教的なまでに強固であり、ホーランドの武力は理不尽なまでに圧倒的だ。
「クーデター部隊が『正義』を掲げて決起しても、トリューニヒトは『それがどうした、私は選挙で勝った』と笑い飛ばし、ホーランドは『うるさい!俺のランチタイムだ!』と物理的に殴り飛ばすだろう」
ヤンの脳内シミュレーションでは、クーデター勢力が哀れな末路を辿っている。可哀想なのは真面目に国を憂いている彼らの方かもしれない。
「……それはそれで、同盟の末期って感じがしますね」
アッテンボローが呟く。正論が通じない国。暴力と詭弁が支配する国。それを守るために戦う自分たち。なんと虚しいことか。
「提督……。紅茶のおかわり、いりますか?」
「ああ、頼む。……ブランデーを多めでね。……酔わないとやってられないよ、この国は」
イゼルローン要塞にて、史上最大規模の捕虜交換が行われることとなった。その中には、帝国の「劇薬」リンチが、不敵な笑みを浮かべて混ざり込んでいる。
彼は同盟に混乱をもたらす悪意に満ちていた。
「俺がこの国を引っ掻き回してやる」…………と。
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帝国と同盟の内乱どちらから見たいですか?
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銀河帝国
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自由惑星同盟