銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
ラインハルトは父としての試練に直面し、ヒルダは家庭と政治を支え、
マルガレータは相変わらず宇宙規模の仕事を一人で抱え込み、
そしてオーベルシュタインは今日も常識から逸脱しています。
この章では、帝国陣営の日常と狂気と愛情が入り混じり、
そして銀河に激震を走らせるある艦隊が誕生します。
どうか肩の力を抜いて、
ローエングラム陣営の素顔を楽しんでいただければ幸いです。
帝都オーディン ローエングラム元帥府(仮) 執務室
執務室の中央、書類の塔によって要塞化された巨大デスクの隙間から、プラチナブロンドのツインテールが遭難信号のように揺れていた。
「ええい!次じゃ!次の書類を持ってまいれ!遅いぞ!ルッツ艦隊の再建用資材、発注完了!……チタン合金の相場が上がっておるな。圧力をかけて値下げさせよ!」
マルガレータの手には、純金のグリップがついた特注の万年筆と、電子承認用のスタイラスペンが握られている。その動きは千手観音も裸足で逃げ出すマルチタスクぶりだ。右手が物理書類に決裁印を押し、同時に左手がタブレット端末で「承認」ボタンを連打する。
「ワーレン艦隊の兵員補充リスト、承認!メンテナンス予算も倍増しておけ!アウグストは頑張っておるんじゃ、ケチケチするな!次!……む?なんじゃこれは。『シュワルツ・ランツェンレイター(黒色槍騎兵)艦隊、艦艇塗装費用請求書』……だと?」
彼女の手が止まる。一枚の請求書を手に取り、眉間に深い皺を寄せる。その表情は、可憐な美少女のものではなく、赤字決算にブチ切れる経理部長のそれだった。
「……却下!却下じゃ!ビッテンフェルトの黒ペンキ請求書……却下!あやつはアホか!?『黒い塗装は特注の耐ビームコーティングが必要で……』とか書いてあるが、嘘をつけ!どうせあやつらのことじゃ、戦闘で擦り傷を作るたびに『美しくない!』とか言って全塗装しておるんじゃろう!黒マジックで塗っておけと伝えよ!もしくは自分で買え!」
請求書は丸められ、ゴミ箱へとスリーポイントシュートで投げ込まれる。彼女は呼吸をするように仕事をこなしていく。
「次!……捕虜交換式典の挨拶文、校正よし!……少し堅苦しいのう。『感動の再会』を演出するために、もっと情緒的な表現を入れよ。『涙で明日が見えない』とか適当に盛っておけ!新皇帝戴冠式の警備配置、穴がないか再チェックじゃ!……ここ、厨房の搬入口が手薄じゃぞ!毒を盛られたらどうする!試食係を配置しておけ!あと、平民出身士官の昇進名簿……。これも私がやる!貴族どもの横槍が入らんよう、私が直接目を通す!」
本来なら各省庁が分担すべき業務を、彼女は一人で代行している。ラインハルト陣営の圧倒的な「事務方不足」のしわ寄せが、全てこの16歳の少女に来ているのだ。
そこへ、書類の山の影から冷ややかな声が掛かる。
「……閣下」
「なんじゃ、オーベルシュタイン。……忙しいんじゃ。陰謀の話なら後にしてくれ。『誰かを粛清したい』という提案なら、申請書を出せ。審査してやる」
「いえ。……働き過ぎでは?と申し上げに来たのです。貴官の稼働時間は、すでに労働基準法を3倍ほど超過しています。……過労死されては、キルヒアイス上級大将が悲しみます。それは、我が軍の精神的安定にとってマイナスです」
「ふふん。……何を言うか、オーベルシュタイン。これは労働ではない。ジークのためじゃ!……我が愛しのジークフリード・キルヒアイス様のためなんじゃ!ジークがラインハルトを支えるなら、私はその足元の地ならしをする!彼らがつまずかないよう、邪魔な小石を全て粉砕し、舗装道路を作ってやるのじゃ!……これが愛じゃ!過労は喜びじゃ……!」
オーベルシュタインの心配は合理的だが、マルガレータの原動力は純度100%の恋心だ。恋する乙女は、時に核融合炉よりも高いエネルギーを生み出す。
「……そうですか。では、引き続き励んでください。……栄養ドリンクを置いておきます」
「うむ。……気が利くのう」
オーベルシュタインは議論を放棄し、業務用の胃薬を置いて音もなく去っていく。マルガレータはそれを一気飲みして、再び書類に向かうが、ふと机に突っ伏した。
「よし、次は……退役軍人年金の改定案じゃ!……ん?……だが、少し疲れたのう。……甘いものが食べたい。くっ……!あっちの陣営は福利厚生が良すぎるんじゃ!こっちは野戦食とコーヒーしかないというのに!いつか……いつかファルケンハインのパティシエを引き抜いてやる……!それを目標に、あと1000枚、決済するぞー!」
◆
ローエングラム侯爵邸 リビング
「オギャアアアアアア!!オギャアアアアアア!!」
泣き叫んでいるのは、ラインハルトとヒルダの長男、アレクサンデル。そして、その「小さな皇帝」を抱きかかえ、途方に暮れているのが「現在の覇王」ラインハルトだ。彼は戦場での天才的な采配とは裏腹に、たった一人の赤ん坊を前に完全敗北していた。
「アレク……!泣くな!男だろう!ローエングラム家の長男が、これしきのことで涙を見せるな!不満があるなら言ってみろ!ミルクか?オムツか?それとも、戦略的撤退を希望するのか!言葉で説明せよ!」
「ウワァァァァァン!!」
「痛い!髪を引っ張るな!これは俺だぞ!ヒルダ!ヒルダはどこだ!参謀長!状況報告と対処案を求む!」
部屋の隅では、ヒルダとアンネローゼがお茶を飲んでいる。ヒルダは哺乳瓶の温度を確認しながら、冷静に夫を見た。
「あなた。……落ち着いてください。1歳の子供は泣くものです。……それは『不満』や『反乱』ではなく、『仕事』です。赤ん坊は泣くことで肺を鍛え、不快感を訴え、親の注意を引くのです。……つまり、彼は今、全力で任務を遂行中なのです。褒めてあげるべきですよ」
「なんだと!……仕事……?そ、そうだったのか……。てっきり、どこか具合が悪いのか、あるいは私の抱き方が戦術的に間違っているのかと……」
「ふふ。……すいません、ヒルダさん。弟はご迷惑をおかけしていますね。弟は……『銀河の覇権』とか『1000光年の遠征』とか、そういう大きな話には詳しいのですが……1光年以下の事象……特に、家庭内の半径1メートルの出来事には、からきし疎くて……。昔から、足元の靴紐を結ぶのも苦手でしたから」
「ええ。存じております、お義姉様。……彼は、地図の上で艦隊を動かすのは得意ですが、ベッドの上で赤ん坊をあやすのは、アスターテ会戦よりも難しいようですわ。ほら、アレク。……パパを見てごらんなさい。パパはね、宇宙のことは分かるけど、貴方のオムツの替え方は分からないの。……大きいことしか分からない、不器用なパパなのよ~」
「むぅ……」
反論したいが、先ほどオムツを前後逆につけようとした事実は消えない。
「ラインハルト。アレクを、もっと優しく抱いてあげて。……兵士を指揮する時のように、力を入れてはいけません。……貴方が愛する星々を眺める時のような、優しい気持ちで」
姉のアドバイスを受け、ラインハルトは深呼吸をして腕の力を抜く。目の前の、自分によく似た小さな生命体を見つめる。
「はい、姉上。……よしよし。……任務ご苦労だった、アレクサンデル一等兵」
不器用ながらも優しく背中をトントンと叩くと、アレクサンデルは奇跡的に泣き止み、キャッキャと笑った。
「おお!笑ったぞ!ヒルダ、姉上!見たか!俺の指揮に従ったぞ!」
「はいはい。……お見事です、閣下」
「ふふ。……よかったですね」
「アレク……。お前のためにも、私は勝つ。……兄上にも、門閥貴族にも」
彼は息子の柔らかな頬に誓う。帝国の内乱はすぐそこまで迫っている。この平穏を守るため、彼は間もなく修羅の道へと戻らねばならない。
◆
軍港 ドック
「塗れ!塗るのだ!気合が足りんぞ貴様ら!再編された我が艦隊を、漆黒に塗りつぶせ! 黒だ!もっと深い黒だ!宇宙の闇よりも深く、敵の絶望よりも暗い黒だ!」
帝国軍が誇る猛将ビッテンフェルト中将は、軍服の上に黒いツナギを羽織り、タオルを顔に巻いてスプレーガンを乱射していた。アムリッツァ会戦後の修理と塗装。彼は業者の仕事に満足できず、自ら現場に乗り込んできたのだ。
「俺も塗る!黒こそが最強の色だ!黒こそが男の色だ!見てみろ、この光を吸い込むような艶消しブラックを!これぞ『シュワルツ・ランツェンレイター』の魂よ!そこだ!そこのフェンダー部分が甘い!俺がやる!」
リズムに乗ったビッテンフェルトは、足場の端まで移動する。そこには隣のドックとの仕切りがあったが、彼の視界には「塗るべき白い壁」しか映っていない。
「ここもだ!この白い部分が目障りだ!全部黒くしてやる!ふははは!どうだ!これで貴様も黒色槍騎兵の仲間入りだ!」
プシュアアアア!隣のドックに停泊中の純白の戦艦に、漆黒のラインが一直線に吹き付けられる。
「か、閣下ーっ!!お待ちください!ダメです!そっちは違います!!」
全速力で走ってきたオイゲン少佐が、ビッテンフェルトからスプレーガンを取り上げる。
「ん?何を言うオイゲン。戦艦はすべからく黒くあるべきだ。……隣の艦も、白くて弱そうだったからな。俺が親切心で強そうにしてやったのだ。感謝されこそすれ、止められる筋合いはないぞ」
「違います!そういう問題ではありません!あれは……あの艦は、我が艦隊の所属ではありません!ヘルクスハイマー閣下の艦隊の戦艦です! 修理のために一時的に第14ドックに入庫しているだけの……『クリームヒルト』の随伴艦です!」
「……え?」
その名を聞いた瞬間、ビッテンフェルトの動きが止まった。マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマー。予算の権限を握る、あの恐怖の16歳。
「……しまった!!あ、あのピンク色の悪魔にバレたら……殺される……」
純白の船体に残された、毒々しいほど鮮やかな黒いライン。それはどう見ても不良の落書きだ。彼女がこれを知ったら、次の補給物資がドッグフードになる未来しか見えない。
「閣下……どうしますか?」
「……オイゲン。……今すぐ白のペンキを持ってこい。上から塗るんだ。……白で塗りつぶして、証拠を隠滅するんだ。誰も見ていない。そうだ、今の時間は休憩時間だ。誰も見ていないはずだ」
「見られてますよ!作業員全員が見てます!」
「くそっ!俺のキャリアもここまでか!……いや、待てよ。これは『迷彩実験』だったと言い張れば……。あるいは、『敵の特殊工作員が侵入して落書きをした』ということにすれば……」
「無理です。閣下の指紋がべったりついたスプレー缶が残ります」
「ええい!うるさい!とにかく隠すんだ!オイゲン、お前がやったことにしろ!」
「嫌ですよ!なんで私が!」
ドックに情けない怒号が響く。黒色槍騎兵の勇名は、ペンキの匂いと共に地に落ちようとしていた。
◆
場所は変わって、ローエングラム元帥府の奥深く。オーベルシュタインの執務室。
照明は薄暗く、無数のモニターが埋め込まれた壁の中央で、オーベルシュタインは無表情で端末に向かっている。
部下の士官が、震える手でタブレット端末を持ちながら恐る恐る尋ねた。
「……参謀長。……確認ですが、本当に宜しいのですか?この発注書の内容です。ヘルクスハイマー艦隊の塗装です。……旗艦『クリームヒルト』だけでなく、全艦隊……1万5千隻余りを、ショッキングピンクに塗るというのは……」
「構わん。マルガレータ様のお好きな色だ。……彼女は常々、身の回りのものをピンク色で統一したがっている。キルヒアイス上級大将への『愛』の表現らしい」
部下は言葉に詰まる。ショッキングピンクの軍用艦艇など、視認性が高すぎて「撃ってください」と言っているようなものだ。
「彼女は、アムリッツァ以降、休む間もなく働いている。……その功績は多大だ。よって、報いる必要がある。……日頃の激務への慰労を兼ねて、サプライズで喜ばせて差し上げるのだ」
「……はあ。し、しかし……戦術的に問題が……」
「問題ない。……どうせ彼女の戦い方は、常識の枠外だ。色が何色だろうと、彼女は勝つ。……むしろ、敵の度肝を抜く心理的効果が見込める」
オーベルシュタインはデータを信じ切っている。「女性はサプライズを好む」「好きな色はストレスを軽減する」その論理の飛躍が、とんでもない結論を導き出していた。
「…………喜ぶかなぁ?(小声)」
「聞こえているぞ。喜ぶはずだ。この艦隊は、黒色槍騎兵に対抗して……『桃色竜騎兵(ピンク・ドラグーン)』艦隊と名付けるのだ。……公式文書を用意せよ。部隊章も、私が作った。これだ」
彼が取り出したのは、夜なべしてデザインしたらしいワッペンだった。伝統的なドラゴンの目が少女漫画のようにキラキラしており、瞳の中にハートマーク、口からは星屑エフェクトが吐き出されている。
「……ドラゴンの目に、ハートマークを入れておいた。……可愛らしさを演出したつもりだ。どうした。……可愛いだろう?」
「(この人……疲れてるのかな……)は、はい!とても……キュートです!マルガレータ閣下も、きっと……腰を抜かすほど喜ばれると思います!」
「うむ。……では、直ちに取り掛かれ。……工廠に急がせろ。内戦が始まる前に、彼女を笑顔にするのだ」
◆
宇宙港 待合室
「……メルカッツ提督。やはり……行かれるのですか? 貴族連合軍に」
声をかけたのは、水色の髪を持つ気鋭の猛将、ファーレンハイト中将だ。
「うむ。……ファルケンハイン閣下に、『ぜひに』と言われてはな。儂は……あの俗物を装った王者に賭けることにするよ」
メルカッツは懐からアルブレヒトの手紙を取り出し、愛おしそうに撫でる。『私は寝ていたいから実務は丸投げする』という内容を、彼は「指揮官として最大級の敬意」であり「動かざること山の如し」という宣言だと超解釈していた。
「貴官も、呼ばれたはずでは? ……ファルケンハイン閣下は、貴官の攻撃力を高く評価しておられたぞ」
「ええ。……ですが、私はローエングラム侯の下が性に合っておりますので。貧乏貴族の出ですから。……格式ばったリップシュタットの森よりも、あのギラギラした若造の方が気楽です。あそこなら、『思う存分暴れてこい』と言ってくれそうですからね。……報酬も弾みますし」
「そうか……。皮肉だな。……だが、それもまた人生か」
生粋の貴族軍人だったファーレンハイトが革新派に残り、叩き上げのメルカッツが保守派につく。運命の皮肉を噛み締めながら、二人は最後の敬礼を交わす。
「ご武運を。……メルカッツ提督」
「お互いにな。……ファーレンハイト中将。戦場で会わぬことを祈るよ。……貴官の機動力は、敵に回すと厄介だからな」
「はっ。……閣下の堅陣こそ、突破できる気がしませんよ」
二人は笑みを交わし、それぞれの選んだ道へと戻っていく。次に会う時は、ビームの雨の中だ。
◆
元帥府 休憩室
過労死ラインを突破し続けているマルガレータは、ソファの上でスライムのように溶けていた。
「……うう……。……ジーク……。ジーク成分が足りぬ……」
そこへ、ガチャリとドアが開く。入ってきたのは、赤毛の青年、キルヒアイス上級大将だ。
「マルガレータ様。……お疲れではありませんか?」
「ジーク!!『様』はよせと言うておろう!……我らは同じ上級大将じゃ!それに、もっと深い絆で結ばれているはずじゃろう!?他人行儀な!」
「では……マルガレータ……ちゃん?」
「うう……。16歳の乙女に『ちゃん』付けか。……悪くはない。悪くはないが、微妙じゃ。……近所の幼女か、あるいは親戚の子供扱いされている気がする」
「では、なんと?」
「……そうじゃな。『マイ・エンジェル』とかどうじゃ?あるいは『ハニー』でもよいぞ?『愛しの君』でも可じゃ。……さあ、選べ。ジーク」
「……アイスをお持ちしました。バニラです」
「むっ!逃げたな!……まあよい。アイスには罪はない」
キルヒアイスは最強の回避スキルを発動し、銀色のお盆をテーブルに置いた。マルガレータはソファに座り直し、口を少し開けて待機する。
「……手が。書類の書きすぎで、手が痺れて動かぬのじゃ。……箸より重いものが持てぬ。スプーンなど論外じゃ」
「それは大変ですね。……では、私が」
「食べさせるのじゃ!……『あーん』をするのじゃ!ジーク!」
キルヒアイスは少し赤面したが、彼女の献身的な働きを知っているため拒否はしなかった。スプーンですくったアイスを彼女の口元へ運ぶ。
「……わかりました。では、失礼します。あーん」
「あーん……ぱくっ!ん~っ♡……美味しい!最高じゃ!世界一のアイスじゃ!」
◆
音楽室
「……良いですか?閣下。芸術というものは、そもそも魂の解放であり……。譜面をなぞるだけではなく、内なる感情を指先に込めて、宇宙との調和を……」
「……俺には芸術はわからなくてな。姉上にもよく言われるのだ。『ラインハルト、あなたは音符を敵兵だと思っているでしょう?』とな。……図星だから困る」
「芸術家提督」メックリンガー中将の指導の下、ラインハルトはピアノの鍵盤を睨みつけている。彼にとって音階は艦隊の序列にしか見えない。
「で、では、理屈より実践です!習うより慣れろ、です!ピアノからやってみましょう!」
「うむ。……やってみよう」
ラインハルトは恐る恐る鍵盤を叩く。ポロン、ポロン。そのリズムは一定で強弱がない。まるで正確無比な軍用通信のモールス信号のようだ。
「これは……なかなか難しいが、法則性があるな。右に行けば音が高くなる。左に行けば低くなる。……つまり、これは一次方程式のグラフのようなものか。ならば、この和音はベクトルの合成……」
ブツブツと独り言を言いながら、彼は両手で鍵盤を叩き始める。タラララ、タラララ。正確だ。あまりにも正確すぎる。
「……こうか?」
最後の和音をジャン!と叩く。計算通り、1ミリの狂いもない着地だ。
「なんと……!教本を一度見ただけで……?譜面を完全に暗記し、それを指先の運動に変換したのですか!?感情を一切排して!?」
「ああ。……楽譜というのは、作戦命令書と同じだろう?書いてある通りに実行すればいいのではないか?」
メックリンガーが戦慄していると、そこへワーレン中将が入ってきて拍手をした。
「素晴らしいですな!閣下!いやはや、ドアの外まで聞こえておりましたぞ!正確無比!一糸乱れぬ旋律!まるで閲兵式を見ているかのような、規律正しい演奏でした!閣下、うちの息子を連れてきますので教えてください!この『規律』を学ばせたい!」
「そうです!閣下は詩人です!……ただし、言葉ではなく、その人生そのもので詩を表現する詩人なのです!ピアノですら、閣下にかかれば軍事演習になる!」
「???(何を言っているんだコイツは。なぜワーレンまで泣いている?)」
芸術とはかくも難解なものか。ラインハルトは困惑しつつ、やはり自分には戦争の方が向いていると再確認した。
◆
休日。戦いがない日のラインハルトはリビングのソファで沈殿している。暇だ。死ぬほど暇だ。アルブレヒトのように、ゴロゴロすることに才能があればいいのだが、ラインハルトは「何かしていないと死ぬ病」に罹患している。
「……閣下。ため息をつかないでください。幸せが逃げますよ」
ヒルダが紅茶を淹れながら苦言を呈する。彼女は、公務も育児もこなしながら、この手のかかる夫のメンタルケアまで担当している。
「たまには趣味にも精を出してください。……オンとオフの切り替えは大切です。ずっと張り詰めていては、ゴムが切れてしまいますわ」
「わかった……が」
「何をすればいい?……戦争以外の趣味など知らん。キルヒアイスとチェスをするくらいだが、あいつも今は忙しいしな(マルガレータの相手で)」
彼の人生は、姉上を取り戻すための戦い一色だった。遊び方を知らない子供のまま、大人になってしまったのだ。
「いっそ、同盟領にもう一度攻め込むか?……あれなら暇つぶしになる」
「却下です。……国家予算を暇つぶしに使わないでください」
危ない。この夫、放置するとすぐに銀河を燃やそうとする。
「乗馬はどうですか?……閣下は馬がお好きでしょう?」
「うむ。だが、帝都の乗馬クラブは狭すぎる。……やはり、草原を駆け抜けたいな。」
「あとキャンプ!そうですね~、キャンプはいいですわよ!焚き火を囲んで、星空を見上げて……。釣りや探検はどうでしょう??川で魚を捕まえて、その場で焼いて食べるのです!」
彼女は活動的な「アウトドア派」だ。サバイバル能力も高い。
「……ヒルダ」
ソファの向かい側で、優雅に新聞を読んでいたマリーンドルフ伯が、ボソリと突っ込む。
「それはお前の趣味だろう。……ラインハルト殿下に、川で魚を捕まえさせるつもりか?元帥閣下が、ズボンの裾を捲り上げて、網を持って?」
想像する。川に入って「魚だ!包囲殲滅する!」とか叫んでいる姿を。……シュールすぎる。
「うう……痛いところを。……確かに、閣下には似合いませんわね」
「では……もっとインドアで、かつ建設的な趣味を……」
彼女は少し頬を染める。小悪魔的な笑みを浮かべ、ラインハルトの隣に座り直す。
「夜の生活をもっと充実させるのは……いかがでしょう?」
「(赤面)なっ、それは……!」
彼は、こういう話題にめっぽう弱い。顔がトマトのように赤くなる。
「ま、まあ。……その、つまり……二人目が欲しいと??」
彼にとって、それは「快楽」というよりは、「王朝の存続」という重大なミッションだ。
「ええ。……ローエングラム王朝の繁栄のためです。アレクも、弟か妹がいた方が楽しいでしょうし」
「むぅ……。繁栄のためか」
戦略的に考えれば、後継者は多い方がリスク分散になる。一理ある。
「よし。……作戦立案に入ろう。補給(精力剤)の手配と、スケジュール調整を……」
「もう。……そういうところですよ、あなた」
ヒルダは、呆れながらも夫の肩に頭を乗せる。
◆
「ブツブツ……。だいたい、働いてるの妾とジークしかいないのでは??どうなっておるんじゃこの陣営は!」
「ラインハルトは『家族サービス』とか言って週3日は抜けるし!今日は『二人目を作る作戦会議』とか言って直帰したぞ!赤面しながら!」
「……お若いことは良いことです」
「他の提督もじゃ!メックリンガーはピアノ、ワーレンは息子とスポーツ、ビッテンフェルトに至っては『黒ペンキの在庫が足りん』と騒いでおる!趣味に没頭しすぎじゃ!」
16歳の少女に、帝国の行政と兵站のすべてがのしかかっている。これは児童虐待ではないか。
「ああもう!ストレスが溜まる!何か破壊したい!あるいは甘いものが食べたい!」
「閣下。……破壊する前に、ご覧ください」
彼らは、巨大な第14ドックの前に着いていた。そこは、マルガレータの直轄艦隊、1万5千隻が停泊している場所だ。アムリッツァの戦いで損傷した艦艇の修理と、再塗装が終わったという報告を受けて、検分に来たのだ。
「ん?なんじゃ。……修理は終わったのか?」
「ええ。……閣下への、ささやかなサプライズを用意しました」
「サプライズ?貴様が?」
嫌な予感しかしない。あの冷徹なサイボーグが用意するサプライズなど、ロクなものではないはずだ。「全艦に自爆装置を付けました」とか言われたらどうしよう。
「照明、点灯」
バチンッ!
ドックの照明が一斉に点灯する。暗闇が払拭され、そこに鎮座する1万5千隻の巨体が、白日の下に晒される。
「………………、。」
マルガレータの思考が停止する。呼吸も停止する。瞳孔が開く。
ピンク。それも、ただのピンクではない。目に突き刺さるような、蛍光色のショッキングピンクだ。1万5千隻、すべてが。旗艦《クリームヒルト》から、末端の輸送艦に至るまで、全てが毒々しいほどの桃色に染め上げられている。ドック全体が、巨大なお花畑か、あるいは狂ったファンシーショップのようだ。
さらに。艦の側面に描かれた部隊章。伝統的なドラゴンのエンブレムなのだが……。その目は、少女漫画のようにキラキラと輝き、瞳の中にはハートマークが描かれている。口からは、炎ではなく星屑が吐き出されている。
(ほら……怒ってるぞ??やっぱりな。……俺たち処刑されるんだ。遺書は書いてきたか?)
背後に控える部下たちが、ガタガタと震え出す。終わった。上級大将の逆鱗に触れた。このピンク色の艦隊と共に、俺たちは宇宙の塵になるんだ。
マルガレータの肩が、わなわなと震える。握りしめた拳が、白くなっている。彼女は、ゆっくりと、恐ろしいほどの低音で名前を呼ぶ。
「オーベルシュタイン!!!!!」
「はっ」
参謀長は、眉一つ動かさない。自信満々だ。
次の瞬間。
「良くやった!!!でかしたぞオーベルシュタイン!!!」
「ええええええ!?(喜んだ!?)」
全員がズッコケる。マルガレータは、目を輝かせてオーベルシュタインの肩を掴む。
「最高じゃ!これじゃ!私が求めていたのはこれじゃー!!なんて可愛いんじゃ!これぞ乙女の艦隊!戦場に愛の花を咲かせるのじゃ!」
彼女は、ピンク色の巨体を見上げてうっとりとする。彼女の美意識は、オーベルシュタインの壊れたセンスと奇跡的なシンクロ(共鳴)を果たしていたのだ。類は友を呼ぶ。変人は変人を呼ぶ。
「はっ!……お気に召すと思いました。データ通りです」
「褒めてつかわす!オーベルシュタイン、貴様は天才じゃ!やはり話がわかるのは貴様だけじゃ!」
「……もしも妾がジークと結ばれなかったら、貴様を夫にしてやるぞ!いや、結ばれても愛人にしてやってもよい!私のサイドビジネス(ファンシーグッズ販売)のCEOに任命する!」
とんでもないプロポーズだ。愛人兼CEO。普通なら激怒するか困惑するところだ。
だが、オーベルシュタインは、義眼を怪しく光らせ、真顔で答えた。
「光栄の極み。……検討させていただきます」
「………光栄なんだ……(ドン引き)」
部下たちは、この二人の間に流れる、常人には理解不能な絆に戦慄した。この陣営、トップ(ラインハルト)は天然で、ナンバー2(キルヒアイス)は苦労人で、実務部隊(この二人)は変人だ。よくこれで宇宙が獲れるな。
かくて銀河帝国の歴史に、新たな伝説が刻まれた。「桃色竜騎兵(ピンク・ドラグーン)」艦隊の誕生である。
その悪趣味な……いや、個性的な威容は、やがて全宇宙の敵を恐怖(と困惑と精神的ダメージ)の底に叩き落とすことになる。想像してほしい。漆黒の宇宙空間に、突如として1万5千隻のショッキングピンクの大群が現れる光景を。敵のレーダー手は「機器の故障か?」と疑い、司令官は「目が腐ったか?」と叫ぶだろう。
精神攻撃(メンタルアタック)それが、この艦隊の最大の武器であった。そして、このピンクの悪魔たちが、リップシュタット連合軍の「引きこもり要塞」に襲いかかる日は、そう遠くはない。
帝都オーディンでは、戦争の合間にも日常が流れています。
ラインハルトは父としての試練に直面し、ヒルダは家庭と政治を支え、
マルガレータは相変わらず宇宙規模の仕事を一人で抱え込み、
そしてオーベルシュタインは今日も常識から逸脱しています。
この章では、帝国陣営の日常と狂気と愛情が入り混じり、
そして銀河に激震を走らせるある艦隊が誕生します。
どうか肩の力を抜いて、
ローエングラム陣営の素顔を楽しんでいただければ幸いです。
宇宙を統一するのは誰だと思いますか?
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アルブレヒト
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ラインハルト
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ヤン・ウェンリー
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マルガレータ
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ロイエンタール
-
ルビンスキー