銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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政治とは時に、戦争以上に人間の愚かしさと滑稽さが露わになる舞台です。
本章では、ひとりの軍人が思いもよらぬ形で偶像として祭り上げられ、
誤解と熱狂が連鎖反応を起こす様を描いています。

本来、英雄譚というものは「本人の意思」とは関係なく進むものですが──
今回ほど主人公が迷惑そうな英雄物語も、そう多くはないでしょう。

どうぞ、ヤン・ウェンリーの受難を、温かく見守りつつお楽しみください。


民意は笑顔で独裁者をつくる

イゼルローン要塞 司令室

 

今日も今日とて、平和という名の倦怠と、紅茶という名の精神安定剤の香りが漂っていた。

 

ヤン・ウェンリー元帥。30歳にして同盟軍の頂点に近い階級にありながら、その実態は「給料泥棒」と「昼寝の達人」のハーフ&ハーフである。

 

彼は今、湯気の立つティーカップを両手で包み込み、至福の表情で天井のシミを眺めていた。カップの中身は、厳密には紅茶ではない。紅茶の香りがするブランデーのお湯割り、あるいは、ブランデーの風味がする紅茶割りである。

 

比率はブランデーが7、紅茶が3。ユリアンに見つかったら即座に没収される配合だが、今のユリアンは学校の課題で忙しい。鬼の居ぬ間の洗濯ならぬ、従卒の居ぬ間の飲酒である。

 

トリューニヒト議長が不倫スキャンダルで支持率を上げるという、物理法則を無視した怪奇現象がハイネセンで起きているらしいが、ここイゼルローンには関係ない。予算は潤沢、部下は優秀、そして何より、帝国軍は「ピンク色の艦隊」を自慢し合っているという情報が入っている。

 

敵も味方も正気を失っている今、まともなのは自分だけだ。ヤンはそう確信していた。このまま定年まで、いや、年金受給資格を得るまで、この椅子で茶を啜っていたい。それが彼のささやかな、しかし切実な野望であった。

 

その時である。司令官室の静寂を、無粋な電子音が切り裂いたのは。

 

ビーッ!ビーッ!ビーッ!

 

緊急通信の警告音だ。しかも、最高レベルの「全艦隊・全要塞一斉放送」を知らせるアラートである。

 

せっかくのティータイムが台無しだ。帝国の襲来か?いや、レーダーに反応はない。ならば、トリューニヒトの「不倫釈明会見パート2」か?それなら見る価値はない。

 

「閣下、ハイネセンからの緊急放送です!全チャンネルジャックされています!」

 

副官のグリーンヒル大尉が、緊迫した声で告げる。彼女の手元で操作されたリモコンにより、壁面の巨大スクリーンが起動する。

 

砂嵐のようなノイズが走り、やがて一人の軍人の姿が映し出された。そこにいたのは、ヤンも見覚えのある男だった。救国軍事会議のメンバーの一人、エベンス大佐だ。

 

『……市民諸君!そして全宇宙の同志諸君!』

 

『我々は……同盟の未来を憂いて立ち上がった壮士である!ここにハイネセンの主要施設を占拠したことを表明する!』

 

クーデターだ。ついに、あの地下室の陰謀家たちが、地上に出てきてしまったのだ。ヤンは、カップを持ったまま、小さくため息をつく。

 

「ふん……。随分と乱暴な手を使うね。民主共和制を守るために、武力で政府を倒す……。ルドルフの真似事をしようなどと、悪い冗談だ。歴史の教科書を読んでいないのか、それとも読んだ上でそのページを破り捨てたのか」

 

武力による現状変更は、短期的には劇薬になるかもしれないが、長期的には必ず副作用を生む。それを分かっていない軍人が多すぎる。

 

『しかし!安心してほしい!市民諸君に危害が加わることはない!』

 

『これは……トリューニヒト政権の腐敗を取り除くための、外科手術的な時限的処置であるのだ!腐った患部を切除すれば、同盟は再び健康な体を取り戻す!痛みは一瞬だ!』

 

外科手術。聞こえはいいが、無免許医による開腹手術のようなものだ。麻酔なしで。

 

『我々は自由惑星同盟の軍人だ!よって、誰かがその自由を壊そうとしているのを見ることに耐えられなかった!金権政治、衆愚政治、そして不倫!今の政府は、同盟の誇りをドブに捨てている!』

 

正論と言えば正論だ。だが、その正論を叫ぶために、銃を持っていることが最大の間違いなのだ。

 

さて、どうするか。ハイネセンが制圧されたとなると、補給が止まる。イゼルローンは独立国家並みの生産力があるとはいえ、本国との分断は痛い。鎮圧に向かうべきか、それとも静観して自壊を待つか。

 

『そして!我々の理念に賛同して、この決起のために策を授けてくれた方がいる!!』

 

「……ん?」

 

策を授けた?誰だ?帝国から送り込まれた工作員か?

過激派の元提督か?それとも、財界のフィクサーか?

 

『我々救国軍事会議の議長であり、精神的支柱であり、そしてこの革命の父である方を紹介しよう!!』

 

「誰だ??」

 

「彼らに手を貸すような愚か者がいるとは思えないが……。正規軍の将官クラスで、彼らに同調する者はいないはずだ。……まさか、ロボス元帥か?いや、あの人は今頃ステーキを食べているはずだ」

 

隣にいるドワイト・グリーンヒル大将も、厳しい表情で腕を組んでいる。グリーンヒルの分析は的確だ。今の同盟軍上層部は、トリューニヒトによる「予算バラマキ」で骨抜きにされている。クーデターに加担するメリットがない。

 

『その方とは……!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『同盟の英雄!不敗の魔術師!ミラクル・ヤン!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……は?」

 

ヤンの思考が停止する。ミラクル?ヤン?今、私の名前を言ったか?

 

 

 

 

 

 

 

『……ヤン・ウェンリー元帥です!!!!』

 

 

 

 

 

 

ドーーーン!!

 

 

 

 

ブーッ!!

 

盛大な噴霧音。それは、霧吹きなどという生易しいものではない。高圧洗浄機のような勢いで、琥珀色の液体が前方に飛び散る。犠牲になったのは、デスクの上に積み上げられた決裁書類の山だ。

 

「極秘」のハンコが押された書類が、一瞬にして茶色く染まり、甘い香りを放つ紙屑へと変わる。

 

「げほっ!ごほっ!うぇっ!?」

 

気管支にブランデーが入った。痛い。苦しい。だが、それ以上に、脳みそが状況を処理しきれずにエラーを起こしている。

 

画面の中のエベンスは、そんなヤンのパニックなど知る由もなく、勝手に演説を続けている。

 

『彼は、遠くイゼルローンにありながら、我々に政治の腐敗を正す策を与えてくれた!「毒を持って毒を制す」と!トリューニヒトの暴走を止めるには、軍部が立ち上がるしかないと、密かに示唆してくれたのだ!』

 

「してない!!一度もしてない!!夢でも見てるのか君は!!」

 

示唆どころか、クーデターなんて面倒なことは、ヤンが一番嫌う行為だ。

 

『ここに感謝を表明し、全同盟軍の将兵たちに、我々に合流することを望むものである!!ヤン元帥の旗の下に集え!彼こそが、腐敗した同盟を救うメシアである!』

 

『自由惑星同盟万歳!救国軍事会議万歳!そして……』

 

『ヤン・ウェンリー総統閣下!万歳!!』

 

「なにーーーーーーー!!!!!!」

 

総統。フューラー。民主主義国家の軍人が、最も呼ばれてはいけない肩書き。

 

それを、よりによって全国放送で、テロリストの親玉からプレゼントされたのだ。これは、ただの誤解ではない。政治的な自爆テロだ。ヤン・ウェンリーという人間を、社会的に抹殺するための、高度な嫌がらせに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

放送が終わる。画面がブラックアウトし、司令官室に静寂が戻る……はずだった。だが、そこには、なぜか「納得の空気」が流れていた。

 

温かく、そして生温かい、受容の空気が。最初に動いたのは、ワルター・フォン・シェーンコップ中将だ。要塞防御指揮官であり、不良中年代表である彼は、ニヤリと口角を歪め、わざとらしいほど大げさな動作で、ヤンに向かって敬礼をした。

 

「閣下……。いや、総統閣下。閣下もお人が悪い。……こんな壮大な悪だくみをしておられるのであれば、なぜ小官に教えて頂けなかったのですかな?水臭いではありませんか」

 

「ち、違う!私は知らん!無関係だ!あいつが勝手に言ってるだけだ!」

 

その声は、悪戯を楽しむ子供のように弾んでいる。

 

「なるほど……。『敵を騙すにはまず味方から』と……いうことですかな?さすがは魔術師、深謀遠慮ですな。以前から申し上げていたでしょう?『権力を握ってしまえばいい』と。……ようやくその気になられたようで、部下として嬉しい限りです。……さて、まずはどの政治家から粛清しますか?リストなら頭に入っていますが?」

 

「粛清なんてしない!私は年金が欲しいだけだ!」

 

シェーンコップは「謙虚ですな」と笑うだけだ。会話が成立しない。

 

次に口を開いたのは、アレックス・キャゼルヌ中将だ。

 

「確かに……あのトリューニヒトを倒すには、正面からの選挙では無理だ。……こういう『非常手段』も、選択肢としては有効かもしれんが……。まあ、お前なら上手くやるだろう。……独裁政権になれば、議会の承認プロセスが省けるから、予算執行がスムーズになる。……無駄な公共事業をカットして、軍人の給与ベースを上げることも可能だな」

 

「先輩!あなたまで何を言っている!正気に戻れ!」

 

彼は、すでに「ヤン政権下での国家予算」をシミュレートしている。順応が早すぎる。

 

「予算の計算は任せておけ、総統閣下。……とりあえず、お前の銅像を建てる予算は計上しておくな。……ポーズはどうする?紅茶を飲んでいる姿か?それとも昼寝をしている姿か?」

 

「銅像はいらん!今すぐその電卓を捨てろ!」

 

この男、数字が合えば独裁でも民主主義でもどっちでもいいタイプだったのか。そして、最も厄介な反応を示したのが、フレデリカだ。彼女は、潤んだ瞳でヤンを見つめている。

 

その眼差しは、上官を見る目ではない。「運命の人」を見つけた乙女の目だ。しかも、少し危ない方向の。

 

「ヤン提督……。いいえ、閣下。感動しました。……ついに、自らの足で立つ決意をなさったのですね!腐敗した同盟を、貴方の手で浄化する……。なんて素晴らしい、なんて勇気ある決断でしょう!」

 

「いや、大尉、違うんだ。これは誤解で……」

 

「私、一生ついていきます!……たとえ世界中が敵に回っても、私だけは閣下の味方です!独裁者の秘書……悪くありません。いえ、むしろ望むところです!」

 

彼女は、胸の前で両手を組む。彼女の背景に、ピンク色の花が咲いている。「独裁者と禁断の恋」というシチュエーションに、彼女のロマンチシズムが着火してしまったようだ。こうなると、彼女の記憶力と事務処理能力は、全て「ヤンの覇道」を支えるためにフル回転することになる。

 

「お父さん止めてくれ!娘さんが暴走している!」

 

「……うむ」

 

ヤンは助けを求めるように、ドワイト・グリーンヒル大将を見る。この部屋で唯一の良識派、厳格な軍人である彼なら、この狂った状況を一喝してくれるはずだ。グリーンヒル大将は、腕を組んだまま、重々しく頷いた。そして、低い声で言った。

 

「総参謀長!言ってやってください!こんな馬鹿げたことはない、と!」

 

「トリューニヒトの専横には……私も心を痛めていた。軍人が政治に介入するのは本来あるべき姿ではない。……だが、毒が全身に回る前に、誰かが解毒剤を打たねばならんのも事実だ」

 

雲行きが怪しい。彼は、ヤンを直視する。その目は、父親のような慈愛と、軍人としての信頼に満ちている。

 

「それでも……他の誰かがやるより、君が立つならマシになるだろう。……君は欲がない。権力に固執しない。だからこそ、君にならば同盟を任せられる」

 

「ええっ!?」

 

「総統閣下。……この老骨、微力を尽くしてお仕えしましょう。私の娘も、君になら喜んで差し出す」

 

「お父様!」

 

一番の常識人だと思っていた人物が、一番重い「承認」を与えてしまった。フレデリカが顔を赤らめる。外堀が埋まった。いや、内堀も埋め立てられ、天守閣に「ヤン総統府」の看板が掲げられた瞬間だ。

 

「違う……違うんだ……。ユリアン……。ユリアンなら分かってくれるはずだ……」

 

もはや、否定する気力も削がれていく。最後の希望。被保護者であり、一番の理解者である少年、ユリアン・ミンツ。

 

彼は、ヤンの後ろで拳を握りしめ、震えている。怒っているのか?そうだ、怒ってくれ。「提督がそんなことするわけないでしょう!」と叫んでくれ。ユリアンは、顔を上げた。その目は、キラキラと輝いている。少年漫画の主人公が、最終決戦に挑む時の目だ。

 

「総統閣下!!」

 

「ユリアン!?」

 

「僕は……僕はヤン提督……いえ、総統にどこまでもついていきます!!僕が親衛隊長をやります!提督の敵は、僕がすべて排除します!僕が『ヤン親衛隊』を結成して、提督の昼寝を妨害する不届き者を、片っ端から収容所送りにします!まずはあの救国軍事会議から血祭りに……!」

 

「ユリアンまで!?教育を間違えたか!?私はそんな子に育てた覚えはないぞ!」

 

キレがいい。殺る気満々だ。いつの間に、こんな過激思想に染まってしまったのか。歴史の勉強をさせすぎたのか。それとも、シェーンコップの影響か。

 

「いや……私がそんな馬鹿なことをするわけがないだろう!誰も信じてくれないのか!?私は民主主義者だぞ!選挙に行かないと罪悪感を感じる小心者だぞ!反論だ!全国放送で直ちに『私は無関係だ』と反論放送を流すんだ!!今すぐだ!!カメラを用意しろ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

常識的に考えてみろ。いくら何でも、現職の国家元首であるヨブ・トリューニヒト議長が、武装クーデターを黙認するはずがない。ましてや、自分が任命した軍司令官に「総統」などという、民主主義の敵のような称号を名乗られて、ニコニコしているはずがないのだ。

 

彼は権力の亡者だ。自分の椅子を奪おうとする者には、容赦なく牙を剥くはずだ。そう、彼が「ふざけるな!ヤンは反逆者だ!全軍、彼を討て!」と命令してくれれば、ヤンは「ほら見ろ、私は嫌われているんだ」と証明できる。そうすれば、この「総統」という悪夢のレッテルも剥がれ落ちるはずだ。

 

「ハイネセンより緊急割り込み放送!全回線、強制接続されます!発信源は、政府の地下シェルター!トリューニヒト最高評議会議長です!」

 

「よし!議長だ!彼ならやってくれる!彼が全否定してくれるはずだ!『卑劣なテロリストの妄言には屈しない』と!『ヤン・ウェンリーは民主主義の裏切り者だ』と罵ってくれ!頼むから私をクビにしてくれ!」

 

オペレーターの悲鳴に近い報告が響く。ヤンは、思わず膝を叩いて立ち上がった。待ちに待った反撃だ。ヤンは、これほど他人に悪口を言われることを願ったことはない。

 

罵倒こそが救い。解任こそが祝福。今の彼にとって、トリューニヒトの怒りは福音そのものだった。メインスクリーンにノイズが走る。そして、鮮明な映像が映し出された。そこは、政府要人用の極秘地下シェルターの一室だった。

 

だが、避難所特有の悲壮感や、切迫した空気は微塵もない。背景には、美しくアイロンがけされた同盟国旗が掲げられ、照明は完璧に調整されている。そして、その中央に座るヨブ・トリューニヒト議長は、まるで高級ホテルのラウンジでくつろぐかのような、優雅で、そして慈愛に満ちた表情をしていた。

 

『……親愛なる市民諸君。そして、憂国の志に燃える軍人の皆さん。私、最高評議会議長、ヨブ・トリューニヒトである。……今、ハイネセンで起きている事態について、私の見解を述べさせてもらおう。私、ヨブ・トリューニヒトは……今回のヤン・ウェンリー元帥の義挙を、全面的に支持するものである』

 

 

「なんだとーーーーーー!!!!!」

 

 

 

支持する?クーデターを?自分が倒されることを?

 

『驚くにはあたらない。……市民諸君、思い出してほしい。私が彼に……ヤン元帥に、一介の軍人としては異例の、強大な権限と予算を渡していたことを。……イゼルローンを「独立国家」のように扱っていたことを。あれは……今日この日のために用意しておいた、私の深謀遠慮だったのだよ』

 

彼は、過去の自分の行動を、伏線として回収し始めた。嘘だ。絶対に嘘だ。ただの人気取りと、責任転嫁のためだったはずだ。だが、トリューニヒトの話術にかかると、それが「壮大な国家戦略」に聞こえてくるから恐ろしい。

 

『人間は弱い生き物だ。……私とて例外ではない。長く権力の座にあれば、腐敗し、暴走することもあるだろう。……だからこそ、私は恐れた。自分が「怪物」になることを。だから、私は「安全装置」を用意した。……私が権力に溺れ、道を踏み外した際に、私を力ずくでも止めてくれる、清廉潔白な「正義の味方」を育てておいたのだ。……それこそが、ヤン・ウェンリー元帥だ!』

 

ヤンは、口を開けたまま固まっている。なんという論理の飛躍。なんという後付け設定。「俺が腐ったら殴ってくれ」と頼まれた覚えはないし、「殴るためのグローブ」を渡された覚えもない。だが、外形的な事実は一致してしまっている。

 

『その彼が……私の育てた彼が、こうして動いた以上、それは民意だ!彼が「今の政治は間違っている」と判断し、私に剣を向けた。……それはつまり、私の政治に至らぬ点があったという証明だ!私は彼を責めない!むしろ、よくぞ成長してくれたと、師のような気持ちで彼を誇りに思う!』

 

トリューニヒトは、ハンカチで目頭を押さえる。狂っている。だが、その狂気こそが、彼の最強の武器だ。

 

『私は潔く身を引こう。……権力にしがみつく醜態は晒さない。私の役目は終わったのだ。そして……ヤン・ウェンリー総統の就任を、心から歓迎する!!全市民、全将兵に通達する!今日から同盟のリーダーは彼だ!私のことは忘れ、彼に従ってくれ!彼こそが、私が遺した最後の希望なのだから!』

 

彼は、カメラに向かって深々と頭を下げる。その姿は、敗者ではない。「次世代にバトンを託す偉大な指導者」の姿だ。放送が終わる。トリューニヒトの満足げな笑顔が、フェードアウトしていく。

 

「……勝てない。あの男には……勝てない……。腐っても政治家、いや、腐っているからこそ最強なのか……。……ユリアン。……荷物をまとめてくれ。……もう、どこか遠い星へ逃げよう……」

 

 

 

 

 

 

さて、この前代未聞の「総統誕生」と「議長の公認」というニュースは、瞬く間に全宇宙を駆け巡った。それぞれの場所で、それぞれの勘違いと、それぞれの打算が交錯する。

 

まずは、宇宙艦隊司令部。現在、救国軍事会議の部隊によって包囲・占拠されているはずの場所だが、ホーランド元帥はすでに脱出して宇宙にいる。机をバンバン叩いて大爆笑している。

 

「ガハハハ!ヤンの奴!やりやがったな!最高だぜ!俺はアイツがこうなることをずっと待っていた!!陰気な顔して腹黒いとは思っていたが、ここまでとはな!クーデター?上等じゃねえか!男なら一度は天下を狙うもんだ!宇宙艦隊は、ヤン・ウェンリー総統を支持する!!!全艦、ミサイルの安全装置を解除しろ!総統閣下の命令があれば、いつでもハイネセンを火の海にできるように準備だ!宴の始まりだあ!」

 

ホーランドの脳内では、ヤンは「慎重な知将」ではなく、「爪を隠していた猛獣」に変換されている。自分と同じ匂いを感じて、シンパシーが爆発しているのだ。

 

 

一方、第5艦隊。老将アレクサンドル・ビュコック提督は、艦橋のスクリーンを見つめながら、渋い顔で髭を撫でていた。彼は、ヤンの性格をよく知っている数少ない理解者だ。だからこそ、この事態がヤンの本意ではないことも察している。

 

「むう……ここまでのことになるとは……。ヤンの坊主……いや、総統閣下か。……貧乏くじを引きおったな。あの性格で独裁者など、胃に穴が空くだけじゃろうに。しかし、ヤンならば成し遂げてくれるじゃろう。……別に主君とかではないしな。わしは民主主義者だが、トリューニヒトの顔を見るよりは、ヤンの困った顔を見ている方が精神衛生上よろしい。全艦隊に通達。……とりあえず、事態を静観する。だが、ヤン元帥から『助けてくれ』という泣き言が来たら、すぐに駆けつけるぞ。……老人介護ならぬ、若者介護じゃな」

 

ビュコックは、ため息をつく。彼は、ヤンに同情する。だが、同時に、こうも思っている。彼は、消去法でヤンを選んだ。トリューニヒトよりマシ。その一点において、ヤンは圧倒的な支持を得ているのだ。第5艦隊は、ヤンの「保護者」として動くことを決めた。

 

 

 

続いて、第10艦隊。ウランフ提督は、部下たちと作戦会議を開いていた。といっても、議題は「どちらにつくか」ではない。

 

「ヤン・ウェンリー総統……か。トリューニヒト議長が公認したということは、予算の流れは変わらないということだ。……イゼルローン方面軍とのパイプがあれば、補給物資も優先的に回ってくる。まあ、給料も保証されるだろうし、退職金も出るなら、文句はないな!ヤン元帥なら、無茶な突撃命令も出さんだろうし、残業も少ないはずだ」

 

「ですね。ホワイトな職場環境が期待できます」

 

彼は、極めて現実的だ。軍隊を維持するには金がかかる。誰がトップでもいいが、給料を払ってくれる奴が正義だ。部下たちも同意する。第10艦隊は、「労働条件の改善」を求めてヤン支持に回った。

 

 

そして最後に、統合作戦本部。本来なら、救国軍事会議によって真っ先に制圧され、トップであるラザール・ロボス元帥は人質として監禁されているはずだ。

 

しかし、彼もまたとっくに脱出しくつろいでいた。

 

「もぐもぐ……。うむ、この焼き加減、悪くない。儂は……昼寝できて、ステーキが食えれば誰が総統でも構わんよ。ヤンか。……あいつなら、儂の睡眠時間を削るようなことはせんだろう。……トリューニヒト議長より話が早くていい。……ところで、君。今日のデザートは?……儂はモンブランが食べたいんだが」

 

「えっと……確認してきます!」

 

「頼むよ。……革命もいいが、糖分補給は忘れるなよ」

 

ロボス元帥は、執務机に広げたナプキンの上で、極厚のステーキを切り分けていた。

 

ロボスにとっての判断基準は、「安眠」と「食欲」のみ。政治体制が変わろうが、宇宙がひっくり返ろうが、彼の生活リズムが変わらなければ、それは「平和」なのだ。この老人は、ボケているのか、大物なのか、それともただの食いしん坊なのか。誰もその正体を知らないまま、彼はステーキを平らげていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イゼルローン要塞 宇宙港

 

 

 

 

広大なドックには、数万人の将兵が整列している。彼らの軍服は、昨夜のうちに徹夜でアイロンがけされたのか、刃物のように鋭い折り目をつけている。ブーツは鏡のように磨き上げられ、天井の照明を反射してキラキラと輝いている。そして、その視線の先にあるのは、一人の男だ。これから、自由惑星同盟の歴史を塗り替えようとしている男。ヤン・ウェンリー元帥である。

 

彼は今、タラップの前で立ち尽くしている。その表情は、これから銀河の覇権を握ろうとする英雄の顔ではない。

 

魂が抜けている。目が死んでいる。ベレー帽の下から覗く黒髪は、いつも以上に乱れており、その乱れ具合さえもが「国を憂う苦悩の表れ」として、周囲には好意的に解釈されている。

 

「……悪夢だ。……これは悪夢だ。目が覚めたら、私は士官学校の図書館にいるはずだ。……歴史の年号を間違えて、先生にチョークを投げられるんだ。……そうであってくれ」

 

現実逃避。IQの高い彼の脳は、今の状況を「現実」として処理することを拒否している。なぜなら、現実にしてはあまりにも馬鹿げているからだ。

 

「先輩、諦めてください。……頬をつねっても無駄ですよ。痛いだけです。とにかくハイネセンには向かいませんと!シャトルが待っていますよ!その先には、トリューニヒト議長の『引退式』と、市民からの歓呼の声が待っています。『混乱を鎮めないと』!英雄の仕事は山積みですよ!」

 

能天気な声が聞こえる。アッテンボローだ。彼は、ヤンの背中をグイグイと押している。彼は、楽しんでいる。隠そうともしていない。彼の顔には、「面白いことになってきたぞ」という野次馬根性と、「俺たちが歴史を動かしているんだ」という革命家の血が混ざり合った、極めてタチの悪い笑みが張り付いている。

 

「笑いながら言うな!アッテンボロー!!!お前、これを楽しんでるだろう!お前はいつもそうだ!『伊達と酔狂』とか言って、面倒なことは全部私に押し付ける!今回だって、お前が『やりましょう!』とか煽ったせいじゃないのか!?」

 

「人聞きが悪いですねえ。……私はただ、時代の流れに乗っただけですよ。それに、これが『伊達と酔狂』の極致でしょう?……民主主義を守るために、民主主義的に選ばれた独裁者になる。……こんなパラドックス、歴史上でもそうそうお目にかかれませんよ。さあ、歴史の1ページですよ!めくりに行きましょう!」

 

「めくりたくない!私はそのページを破り捨てたいんだ!」

 

その時だ。宇宙港を埋め尽くす数万の兵士と市民が、一斉に動いた。ザッ!という、空気を切り裂く音が響く。全員が、直立不動の姿勢をとったのだ。

 

その先頭に立つ男。ワルター・フォン・シェーンコップ中将。

彼は、特注の、無駄に装飾の多い軍服に身を包んでいる。マントを羽織っている。その姿は、同盟軍人というよりは、帝国軍の元帥か、あるいは悪の帝国の親衛隊長そのものだ。

 

シェーンコップは、不敵な笑みを浮かべ、ヤンを見上げる。

 

「閣下……。いや、我が君。……まだ早すぎましたな。では、改めまして。閣下の覇道に、栄光あれ!!ハイル・フューラー!!!」

 

「やめろ、その呼び方は!」

 

「ハイル・フューラー!!!!!!!ハイル・ヤン!!!!!!!」

 

その瞬間。世界が震えた。数万人の喉から放たれた絶叫が、物理的な衝撃波となってヤンを襲う。鼓膜が破れそうだ。いや、鼓膜の前に、ヤンの民主主義者としての精神が粉砕される。

 

彼らは本気だ。冗談でやっているのではない。トリューニヒトの放送と、救国軍事会議の宣伝、そして日頃のヤンの「奇跡」を目の当たりにしてきた彼らは、本気でヤンを「神」として崇めているのだ。「この人についていけば間違いない」「給料も上がるし、戦争も終わる」という、極めて現世利益的な信仰心が、この狂熱を生んでいる。

 

ジャーン!ジャジャジャジャーン!

 

大音量で音楽が流れる。自由惑星同盟国歌だ。本来なら、自由と平等を謳う崇高な曲のはずだ。

 

だが、今のこの状況で流れると、なぜか「侵略のテーマ」か「悪の帝国マーチ」にしか聞こえない。重低音が強調され、テンポが少し遅くなっている気がする。誰だ、編曲したのは。

 

(※注:メックリンガーに対抗心を燃やした同盟軍楽隊が、徹夜でアレンジした「荘厳バージョン」である)

 

眼下に広がるのは、右手を掲げる数万の群衆。誰も彼もが、目をキラキラさせている。ヤンを見ている。救世主を見ている。

 

「やめろぉぉぉ……!その敬礼はやめろぉぉぉ!私は民主主義者だぁぁぁ!選挙権が欲しいだけの、しがない公務員なんだぁぁぁ!」

 

彼の悲痛な叫びさえも、群衆には「謙虚な英雄の、照れ隠しの言葉」として変換されて届いている。誤解が誤解を呼び、それがコンクリートのように固まっていく。

 

ヤン・ウェンリーという人間が死に、ヤン・ウェンリーという偶像が完成していく瞬間だ。ヤンは、助けを求めて視線を彷徨わせる。誰か。誰か、この狂気を止めてくれる常識人はいないのか。

 

「ご立派です……提督……!ついに、ついに歴史が動いたんですね!僕は……僕は信じていました!いつか提督が、その才能に見合った場所に立つことを!もう『ごくつぶし』なんて言わせません!これからは『宇宙の支配者』です!安心してください。……ハイネセンに着いたら、まずは官邸のベッドを最高級のものに買い替えましょう。……紅茶の茶葉も、帝国から接収した最高級品を用意します。……独裁者になれば、朝寝坊しても誰も文句は言いませんよ?」

 

「ユリアン!?言ってない!誰もそんなこと言ってない!私はごくつぶしでいいんだ!そういう問題じゃない!!」

 

ユリアンは、完全に「独裁者の従卒」としてのキャリアパスを描いている。彼の教育係として、ヤンは完全に敗北したことを悟った。歴史よりも、帝王学を教えるべきだったのか。なぜこうなった。

 

「総統閣下!閣下がどこへ行こうとも、地獄の果てでも、独裁の玉座でも、私はお供します。……スケジュール管理は完璧です。明日の『即位式』の原稿も、すでに用意してあります。ふふ。……辞める時は、宇宙を手に入れてからになさってください。……今の閣下は、誰よりも輝いていますわ」

 

「大尉……君まで……。即位しない!私は軍人を辞めたいだけなんだ!」

 

彼女には、ヤンの「困り顔」が「憂いを帯びたセクシーな表情」に見えているらしい。恋は盲目と言うが、ここでは恋は「現実改変能力」を持っている。

 

「…………。……乗るしかないのか。……この、悪魔のシャトルに」

 

逃げ場はない。前には「総統」の椅子。後ろには「熱狂」の壁。横には「勘違い」した部下たち。ヤンは、ガックリと項垂れる。その姿を見て、群衆はさらにヒートアップする。ヤンは、アッテンボローに背中を押され、泣く泣くタラップを登り切る。エアロックが閉まる音。プシューッ。それは、自由惑星同盟の民主主義が、一時的に(あるいは永久に)窒息した音でもあった。




誤解が誤解を呼び、そしてその誤解が政治の形を変えていく──
銀河英雄伝説が持つテーマを、今回はギャグと悲劇の狭間で描きました。

ヤンは望まずして旗を掲げ、
トリューニヒトは本心か偶然か、その旗をさらに高く掲げる。

政治とは、論理だけでなく空気と物語で動くものだと痛感させられる章でした。
次回、ヤンがどれほど全力で逃げようとも、歴史の方が彼を追いかけます。
ぜひ、続きを楽しみにしていただければ幸いです。

感想もぜひお待ちしております。

宇宙を統一するのは誰だと思いますか?

  • アルブレヒト
  • ラインハルト
  • ヤン・ウェンリー
  • マルガレータ
  • ロイエンタール
  • ルビンスキー
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