銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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英雄とは、多くの場合、自分の意志とは無関係に作られるものです。
本章で描かれるのは、その典型と言える一日──
「たったひとりの退役希望者」が、国家規模の誤解の渦に呑み込まれ、
歴史そのものを動かす歯車にされてしまう過程です。

政治とは時に喜劇であり、悲劇であり、そして群衆の夢見がちな幻想でもあります。
どうか、ヤン・ウェンリーという不本意な英雄の苦労を、
笑いながら、そして少しだけ切なさを感じながらお読みください。


熱狂の港──英雄が作られる瞬間

ハイネセン 宇宙港

 

 

 

 

首都星ハイネセン。この惑星が人類の歴史に登場して以来、これほどまでに狂気と熱狂、そして大量の紙吹雪に埋め尽くされた日はかつてない。

 

時は、ヤン・ウェンリーがイゼルローン要塞を出発してから4週間後。季節は心地よい春のはずだが、ハイネセンの気温は人々の体温によって真夏のように上昇している。

 

空は晴れ渡っているが、地上は視界不良だ。なぜなら、ビルというビル、窓という窓から、色とりどりの紙吹雪、テープ、そして「ヤン総統万歳」「トリューニヒトありがとう」と書かれた横断幕が降り注いでいるからである。

 

中央を、一台のオープンカーがゆっくりとパレードしている。

 

そのオープンカーの後部座席。そこに、このパレードの主役である二人の男が並んで座っている。

 

一人は、仕立ての良いスーツに身を包み、銀河系で最も輝かしい笑顔を振りまいているヨブ・トリューニヒト最高評議会議長。そしてもう一人は、元帥の軍服を着ているものの、その表情は「出荷直前のドナドナ」のように虚ろで、魂がすでに別の次元へ旅立ってしまっているヤン・ウェンリー元帥(新・総統)である。

 

「ヤン総統万歳ー!!トリューニヒト万歳ー!!給料上げてくれてありがとうー!!民主主義の守護神!最強のタッグだ!」

 

市民たちは、涙を流し、手を振り、中には失神して運ばれていく者もいる。

 

彼らの目には、この奇妙な二人の組み合わせが、政治的妥協の産物ではなく、「国を救うために手を取り合った英雄たち」として映っているのだ。

 

トリューニヒトがヤンを支持し、ヤンがそれを受けて立った。このストーリーは、大衆にとってドラマチックで、そして分かりやすすぎる「正義」の構図であった。

 

「……どうしてこうなった。……私は、辞表を出しに来ただけなんだが」

 

彼はイゼルローンを出る時、「ハイネセンに着いたら誤解を解いて、退役届を叩きつけてやる」と決意していたはずだ。それがどうだ。宇宙港に降り立った瞬間、トリューニヒト自らが出迎え、抱擁し、そのままこのオープンカーに押し込まれてしまった。

 

「諦めたまえ、ヤン総統。……もう手遅れだ。君は賽を投げたのだよ」

 

「投げてない。あなたが勝手に私の手を持って振ったんだろう」

 

「結果は同じことだ。……見ろ、この熱狂を。最新の世論調査では、私の支持率は90%を超えたが……君の支持率は95%に達している」

 

「きゅ、95%……?」

 

95%。それはもはや、民主主義国家の数字ではない。独裁国家の選挙結果でも、もう少し遠慮して99%とかにするものだが、これはガチの数字だ。国民のほぼ全員が、ヤンを支持している。反対しているのは、へそ曲がりな評論家くらいのものだ。

 

「今さら『辞める』と言えばどうなると思う?……暴動が起きるよ?『俺たちの希望を奪うな』とね。……君は、彼らの夢を壊す勇気があるかね?」

 

彼は知っているのだ。ヤン・ウェンリーという男が、何よりも「流血」と「市民の悲しみ」を嫌うことを。ここでヤンが逃げ出せば、期待を裏切られた市民が暴徒化し、ハイネセンは火の海になるかもしれない。それを防ぐためには、ヤンは「英雄」の仮面を被り続けるしかないのだ。

 

「……独裁国家でも、もう少し手加減する数字だぞ。……あなたは、私をどうしたいんだ」

 

「なに、楽にしてやりたいだけさ。……さあ、手を振りたまえ。君の『信者』たちに」

 

トリューニヒトは、ヤンの手を取って高く掲げる。

 

「おおおーっ!!」

 

パレードの列の少し後ろ。護衛車両に乗っている「ヤン一党」の面々もまた、それぞれの想いでこの光景を見つめている。

 

「やれやれ。……とんでもないことになったな」

 

キャゼルヌ中将の手には、すでに「新政府組織図(案)」と「ヤン総統就任記念予算案」が握られている。仕事が早い。彼は、状況に適応する天才だ。

 

「いいじゃないですか。……閣下には、これくらいの華やかな舞台がお似合いですよ」

 

シェーンコップ中将は、この状況を心底楽しんでいる。ヤンが困れば困るほど、面白いと思っている節がある。不敬罪で逮捕されるべきだが、今のヤン政権において、彼は警察長官も兼任することになっているので、誰も逮捕できない。

 

「提督……。素敵です……!」

 

ユリアンは、目をキラキラさせている。彼は、ビデオカメラを回し続けている。「ヤン提督の栄光の記録」として、後世に残すつもりだ。

 

ヤンが見たら「燃やしてくれ」と言うだろうが、ユリアンにとっては宝物だ。

 

そして、フレデリカは、感極まってハンカチで目頭を押さえている。

 

「あの方こそ……あの方こそ、この腐敗した同盟を導く光……。お父様(グリーンヒル大将)の目に狂いはなかったわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

最高評議会ビル 執務室

 

 

 

ここもまた、マスコミとカメラの砲列によって埋め尽くされている。政権移譲の調印式だ。トリューニヒトからヤンへ、全権を委譲する儀式である。机の上には、分厚い革表紙の書類が置かれている。

 

「国家全権委任法案」および「ヤン・ウェンリー元帥への特別措置法案」

 

 

 

バシャバシャバシャバシャ!

 

「総統!こっち向いてください!」

 

「笑顔でお願いします!」

 

「歴史的瞬間です!」

 

『Yang Wen-li』。その文字が、彼の自由への死亡診断書に見える。

 

書き終えた瞬間、トリューニヒトが力強く握手を求めてくる。

 

「新旧リーダーの美しい交代劇」として、翌日の新聞の一面を飾る写真だ。

 

実際には、トリューニヒトが「これで全部君の責任だ」と押し付け、ヤンが「離してくれ」と念じている図なのだが。

 

式典が終わり、マスコミが退出する。人払いがされ、広い執務室には、ヤンとトリューニヒト、そして「ヤン一党」のメンバーだけが残される。急に静けさが戻る。

 

「さて、閣下。……仕事に入りましょうか。これが、君がここに来るまでの間に、議会が全会一致で制定した……『総統の義務』に関する条文だ」

 

キャゼルヌが、分厚いファイルをデスクに叩きつける。彼は、眼鏡を光らせて、ヤンの前に立つ。

 

「……義務?権利じゃなくて?」

 

独裁者になったのなら、「昼寝をする権利」とか「飲み放題の権利」とかがあるのではないか。

 

「ああ。……権利などという甘いものはない。あるのは義務と責任だけだ。心して聞け」

 

 

 

①刑事罰及び民事の裁判の被告にならない(不逮捕特権)

 

②軍事権の最高決定者(全軍の指揮権)

 

③国家予算の最高決定者(財布の紐)

 

④人事権の最高決定者(誰をどこに飛ばしても良い)

 

「……なんですかこれは。①はいいとして……②、③、④は、独裁者の権限そのものじゃないですか。やりたい放題ですよ。私が『気に入らないからお前を辺境の灯台守にする』と言ったら、それが通るということですか?」

 

「そうだ。……誰も文句は言えん。議会も承認済みだ。だが、問題は最後だ。……これを心して見ろ」

 

⑤自由惑星同盟をより繁栄させる義務

 

「………………」

 

「……なんですかこれは。……これだけ、やけに抽象的かつ、責任重大じゃないですか?」

 

「ああ。……つまり、こういうことだ。景気が悪くなったり、戦争に負けたり、あるいは『なんとなく生活が苦しい』と市民が感じたりしたら……その全責任は、総統である君にあるということだ」

 

「なっ……!?」

 

「権限を全て集中させたんだ。……当然、責任も全て集中する。『議会が反対したから』とか『予算が足りないから』という言い訳は一切通用しない。だって、君が全部決められるんだからな」

 

「その通りだよ、ヤン総統。……私が君にプレゼントしたのは、『言い訳のできない権力』だ。君が成功すれば君の手柄。失敗すれば……まあ、ギロチンかな?」

 

トリューニヒトが、横で優雅に紅茶を飲みながら補足する。

 

「ギロチン!?……5番目のものは、もし失敗すれば私は全市民の怨嗟の的だ!今の支持率95%が、一夜にしてマイナス100%になるぞ!」

 

「独裁者というものはそういうものだ。……ハイリスク・ハイリターン。いや、君の場合はハイリスク・ノーリターン(年金のみ)だがな」

 

逃げ道はない。ヤンは、同盟という巨大な船の舵を、一人で握らされたのだ。

 

「……安心しろ。俺たちが支えてやるから」

 

キャゼルヌは、ヤンの肩に手を置く。優しい言葉だ。

 

「……『逃がしてやる』とは言わないんですね、先輩」

 

「当たり前だ。……これだけ美味しい状況、逃がすわけがないだろう。俺は財務と人事を掌握できる。シェーンコップは軍を好きに動かせる。フレデリカ君は君の側にいられる。……全員にとってハッピーエンドだ。君以外はな」

 

「鬼だ……!ここにいるのは全員、鬼と悪魔だ!」

 

トリューニヒトが悪魔なら、部下たちは獄卒だ。ヤン・ウェンリー地獄巡りの始まりである。

 

「さあ、そろそろ時間だ。……就任演説の時間だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

ヤンが姿を現した瞬間、地鳴りのような歓声が上がった。「ヤン!」「ヤン!」「総統万歳!」その熱気は、大気圏を突破して宇宙まで届きそうだ。ヤンは、マイクの前に立つ。手には、何も持っていない。原稿はあったが、緊張のあまり執務室に忘れてきた。まあいい。適当に挨拶して、すぐに引っ込めばいい。

 

「ええと……。ヤン・ウェンリーです。……よろしく」

 

ヤンの第一声が、スピーカーを通して響く。数十万人が静まり返る。

 

一言。それだけ言って、ヤンは踵を返そうとした。

 

「どこへ行こうというのだね?総統閣下。……国民が待っているよ。もっと気の利いたことを言いたまえ。歴史に残る名演説をね」

 

「あなたが喋ればいいじゃないか。演説はあなたの専門分野だろう」

 

「今は君が主役だ。……さあ、言え。彼らを熱狂させろ」

 

逃げられない。彼は、観念してマイクに向き直る。眼下には、期待に満ちた無数の瞳。彼らは、ヤンに「奇跡」を求めている。「楽な生活」を求めている。「何も考えなくてもいい平和」を求めている。それが、ヤンにはたまらなく怖かった。そして、腹立たしかった。

 

「ええ……と。自由惑星同盟の市民のみなさん。……この度、不本意ながら……総統に就任したヤン・ウェンリーです。本来、民主主義国家にとって『総統』など存在しないはずです。……それは、選挙で選ばれた代表者が、法に基づいて政治を行うシステムとは対極にあるものですから。私は常々、考えていました。……かのルドルフ・フォン・ゴールデンバウムは、暴力によって皇帝になったのではありません。……民衆に望まれて、選挙によって、合法的に皇帝になったのです」

 

会場がざわめく。ルドルフ。銀河帝国の始祖であり、民主主義の敵。その名前を、就任演説で出すのか。

 

「民衆の大多数が……自分たちで考え、議論し、責任を負う民主制の面倒くささに耐えられず……『強い指導者』による専制を望んだ時。……そのパラドックスは、どう整合されるのか?民主主義が『独裁者』を選んだ時、それは民主主義の自殺なのか、それとも究極の形なのか」

 

「市民の皆さん。……私は総統に就任します。これは民意だからです。君たちが望んだからです。……しかし!私に、すべてを投げないでください」

 

「『ヤンに任せておけば安心だ』『俺たちは寝ていてもいい』……そう思わないでください。政治に関心を払い続けてください。私を監視してください。私が間違ったことをしたら、批判してください。石を投げてください。それがなくなったとき……。批判精神が死に、盲目的な服従だけが残ったとき……自由惑星同盟は死にます。第二の銀河帝国として、その名前を歴史の汚点として刻むでしょう」

 

会場は静まり返っている。誰もが、ヤンの言葉を噛み締めている……。

 

「それを、皆さんが約束してくれる限り……。自分たちが『支配される羊』ではなく、『主権者である市民』であり続けると約束してくれる限り……。私は、この国を豊かにすることを約束します。……経済を立て直しましょう。戦争には、私の人事を尽くして勝ちましょう。……無駄な血は流させません。ですから、皆さんも人事を尽くしていただきたい。……私に賭ける期待の分、皆さんもこの国と、個人と、自由と、そしてこの頼りない私に、力を貸していただきたい」

 

そして、覚悟を決める。やるしかない。ここまで来たら、この巨大な勘違いに乗っかって、彼らを正しい方向へ導くしかない。

 

「これだけを私は総統として望み、就任の宣言とするものである!!……以上!」

 

 

「うおおおおおおおおおおおお!!!」

 

市民たちは、感動の渦に包まれていた。

 

「なんて謙虚なんだ!俺たちを信頼してくれている!共に歩もうと言ってくれた!俺たちが彼を支えるんだ!一生ついていきます、総統!」

 

彼らは、ヤンの警告を「信頼」と受け取り、ヤンの弱音を「親しみやすさ」と受け取った。

 

結果として、ヤンのカリスマ性はさらに強化され、独裁体制の基盤は盤石なものとなってしまった。トリューニヒトは、満足げに拍手をしている。

 

「完璧だ。……やはり君は天才だよ、ヤン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「閣下!聞いてくださいよ閣下!俺は……『秘密警察』のトップとかどうですか?長官ですよ、長官!」

 

最初に口火を切ったのは、アッテンボロー中将だ。彼は、ヤンのデスクに身を乗り出し、目を少年のように輝かせている。その輝きは、純粋だが、方向性が決定的に間違っている。

 

「……は?秘密警察?……お前、民主主義を標榜する革命家じゃなかったのか?なんで一番民主主義と遠い組織を作りたがるんだ」

 

「いやいや、そこが良いんですよ!黒幕っぽくてカッコいいでしょう!『革命の天敵』を演じる革命家!このパラドックス!シビれますねえ!制服は黒で、こう、襟を立てて……路地裏で『フッ、ネズミが紛れ込んだようだな』とか言いたいんですよ!市民を監視するんじゃなくて、市民を監視しているフリをして、実は権力者の不正を暴く『正義の秘密警察』!どうです?新しいジャンルですよ!」

 

身振り手振りが大きい。彼は完全に自分の世界に入っている。ジャーナリスト志望だったはずだが、いつの間にか「悪の組織の幹部」に憧れる中二病をこじらせてしまったようだ。

 

「お前……30歳近いのにその感性はどうなんだ」

 

秘密警察ごっこをしたいがために、国家機関を私物化しようとしている。こいつに権力を渡したら、同盟の治安維持組織が「劇団アッテンボロー」になってしまう。

 

「では、小官は『親衛隊』の隊長が良いですな」

 

次に割り込んできたのは、シェーンコップだ。彼は、ヤンのデスクの端に腰掛け、優雅に脚を組んでいる。その態度は不敬極まりないが、今のヤン政権では「総統の盟友」として許されているらしい。

 

「親衛隊……。名前が変わっただけじゃないか。今も連隊長だろう」

 

「響きが違いますよ、響きが。……それに。『総統直属の親衛隊長』という肩書きがあれば……権力をバックにすれば、女にもこれまで以上に不自由しなさそうですからな。……ハイネセン中の美女が、私の黒い制服(特注)を見るだけで色めき立つでしょう」

 

「これ以上不自由しないつもりか。いい加減にしろ。権力の私物化も甚だしいぞ。……私が独裁者になったのは、お前のナンパを支援するためじゃない」

 

この男、ただでさえ女性関係が派手なのに、これ以上モテてどうするつもりだ。同盟の出生率を一人で上げる気か。

 

「固いことを言わずに。……閣下もどうです?『ハーレムを作る権利』を行使しますか?私が選りすぐりの美女をリストアップしておきますが」

 

「いらん!絶対にリストを作るな!……また変な噂が流れる!」

 

ただでさえ「ヤン総統は好色家だ」という根も葉もない噂(トリューニヒトが流した?)があるのに、これ以上燃料を投下されたら社会的に死ぬ。

 

「じゃあ俺はどうです?もっと建設的な提案がありますよ。俺は……『博愛主義』を世に説くための役職が欲しいですね。……そうだな、『少子化対策担当大臣』とかどうです?」

 

ポプランが、手を挙げる。空戦隊のエースであり、撃墜王であり、そして歩くセクハラ製造機である男だ。

 

「……嫌な予感しかしないが、具体的には何をするんだ」

 

「決まっているでしょう。……俺の遺伝子を、国費でばら撒きます」

 

「却下だ!!ろくな国にならん!お前の遺伝子がばら撒かれたら、次の世代の同盟男子が全員チャラ男になってしまう!国家の品格に関わる!」

 

「ひどいなあ。……優秀なパイロットが増えるんですよ?国防のためですって」

 

「国防の前に風紀が乱れる!却下だ、却下!」

 

どいつもこいつもロクなことを考えていない。「総統の威光」を「自分の欲望」のブースターに使おうとしている。

 

「やれやれ。……相変わらず低俗な連中だ。俺だが……。後方作戦本部長はそのままか?……アップルトン大将には悪いが、俺が『統合作戦本部・後方総司令官』になりたいな」

 

「……先輩?」

 

「いやなに、権限を統一したいんだよ。……国家予算を直接いじりたい。いちいち財務委員会の承認を得るのが面倒でな。……俺のハンコ一つで、国家予算の3割を動かせるようにしてくれ」

 

「……先輩まで」

 

キャゼルヌは「事務処理の効率化」という大義名分の下、同盟の財布を完全に私物化しようとしている。彼にそんな権限を与えたら、間違いなく「ヤン一党」の給料が3倍になり、反対派の議員の経費がゼロになるだろう。恐ろしい独裁体制の完成だ。

 

「僕は……僕は何も望みません!」

 

「ユリアン……。やはり君だけだ、まともなのは……」

 

「僕は、総統の側付きでお助けします!!……紅茶の淹れ方は誰にも負けません!それに……。総統閣下のスケジュール管理、食事管理、睡眠管理、そして『悪い虫(主に女性)』がつかないようにガードします!……提督の私生活は、僕が完全にコントロールします!」

 

「……え?ユリアン、君だけが癒しだ……と思っていたが、君も大概だな……」

 

あれ?なんか違う。それって、結局「僕が一番近くで提督を独占する」という宣言ではないか?しかも「管理」という言葉の響きが、妙に重い。ヤンは、ガックリと項垂れる。四面楚歌。いや、四面「身内」だが、全員がヤンの首を絞めに来ている。

 

「閣下。……皆様のご意見ももっともですが、まずはこの書類の決済をお願いします」

 

彼女は、事務的に言う。ああ、やはり彼女だけが頼りだ。仕事を優先するプロフェッショナルだ。

 

「はい、わかりました。……サインすればいいんだね」

 

「第13艦隊の補給申請」「イゼルローン要塞の改修計画」「トリューニヒト議長の引退慰労金(高額)」……。ヤンは、機械的にサインをしていく。

 

そして、フレデリカは、何食わぬ顔で、書類の束の中に「ある一枚」を紛れ込ませながら、さらっと言った。

 

「では、私はぜひ……『総統夫人』に!」

 

「ん?ああ、総統夫人ね……。はいはい、承認、と……。……うん?……え?……今、なんて言った?」

 

サインをする。『Yang Wen-li』。流れるような筆記体で。

 

「『総統夫人』です、閣下」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そ、総統夫人って……」

 

これは、人事の話ではない。人生の話だ。だが、周りのハイエナたちは待ってくれない。

 

彼らは、ヤンが動揺している隙を突いて、次々と要求を畳み掛けてくる。この機を逃せば、自分の欲望(ポスト)が確保できないかもしれないからだ。

 

「閣下!秘密警察の件、決裁を!制服は黒で、マント付きでお願いします!」

 

「専用の装甲車も欲しいですな。……内装は豹柄で、シャンパンタワーが置けるやつを」

 

「俺の大臣ポストはどうなってるんですか!『愛の伝道師』としての予算を!」

 

「予算コードの書き換え権限をよこせ。……俺の端末から直接国庫にアクセスできるようにしろ。パスワードは『YAN_LOVE』にしておくから」

 

「提督!僕の親衛隊長就任式はいつですか!制服のデザイン画、もう描いてあります!」

 

「総統!式場はどこにしますか?ドレスは白ですか?それとも軍服ですか?」

 

 

わあわあ。がやがや。

 

全員が自分の要求を叫び、ヤンの言葉を聞こうとしない。

 

「で、どうなんですか閣下!」

 

「許可を!」

 

「ハンコを!」

 

「ええい!お前たち、好きなこと言ってくれるな!!私は聖徳太子じゃないんだぞ!!一度に喋るな!わかったよ!わかった!もう好きにしろ!やればいいんだろう!全部許可する!アッテンボローは秘密警察でも何でもやれ!シェーンコップは女と遊べ!ポプランは……まあ、法に触れない範囲でやれ!キャゼルヌ先輩は好きに数字をいじれ!ユリアンは……紅茶を淹れてくれ!これが総統命令だ!!文句あるか!!」

 

シーン……。

 

「うむ……。聞いたぞ、ヤン総統。……『全部許可する』と。……『好きにしろ』と」

 

「え?」

 

「君は……これから、私の息子になるわけだな。……娘を頼む」

 

「……え?」

 

グリーンヒルは、深く頷く。何か、致命的な失言をした気がする。ヤンの思考がフリーズする。息子?娘?

 

「閣下!イエスと言った以上、私はもう貴方の妻ですわ。……総統命令(オーダー)は絶対ですから!撤回は許されません!」

 

「ええ???いや、今のはそういう意味じゃ……!アッテンボローたちへの許可であって、君との結婚を許可したわけじゃ……!」

 

総統命令。独裁者が発した言葉は、法律よりも重い。それを、ヤン自らが発動してしまったのだ。「全部許可する」という広範囲魔法を。ヤンは、必死に弁解を試みる。冷や汗が滝のように流れる。

 

「……いや……ですか?私と一緒になるのは……そんなに、嫌ですか?……私は、ご迷惑でしたか?」

 

「うっ……」

 

彼は、一万の艦隊を相手にしても動じないが、女性の涙(特にフレデリカの)には、核ミサイルよりも脆弱な装甲しか持っていない。

 

ここで「嫌だ」と言えば、彼女は泣く。グリーンヒル大将は激怒する。そして何より、ヤン自身の良心が、彼を八つ裂きにするだろう。

 

助けを求めてユリアンを見る。ユリアンは、サムズアップしている。

「提督、男になりましょう」という顔だ。裏切り者め。

 

キャゼルヌを見る。「諦めろ。年貢の納め時だ」という顔でニヤニヤしている。

 

シェーンコップを見る。「初夜の準備は任せておけ」という下品なウインクを送ってくる。逃げ場はない。外堀も内堀も、そして本丸も埋められた。

 

「……嫌な理由が……ないです。ああ。……君のような才色兼備な女性が、私のようなごくつぶしの妻になってくれるというなら……感謝こそすれ、拒否する理由なんてないよ。……私で良ければ、もらってくれ」

 

「……本当ですか?はいっ!あなた!」

 

「ヒューッ!お熱いねえ!ご馳走様!我らが総統に栄光あれ!そして、ファーストレディに祝福あれ!総統万歳!!!」

 

「ハイル・フューラー!!!おめでとうございます!!末長く爆発しろ!!」

 

アッテンボローが、帽子を天井に投げ上げる。

 

グリーンヒル大将は、目頭を押さえて男泣きしている。「うむ、うむ。……これで私も安心して引退できる」とか言っている。ヤンは、フレデリカに抱きつかれたまま、頭を抱える。顔は真っ赤だ。

 

「……誰か、私の人権を守ってくれ……」

 

こうして。自由惑星同盟は、独裁者ヤン・ウェンリーの下、最強の布陣(と最強の身内)で固められた「ヤン王朝」として、新たな、そして奇妙な一歩を踏み出したのである。同盟の民主主義は死んだが、ヤンの独身生活もまた、同時に死んだのであった。

 

ヤン・ウェンリー総統。その治世は、秘密警察(アッテンボロー)による自作自演の陰謀摘発と、親衛隊(シェーンコップ)によるハニートラップ外交、そして総統夫人(フレデリカ)による完璧な尻に敷かれ体制によって、かつてないほどの繁栄と安定(と混沌)を迎えることになる。

 

歴史家たちは後にこう記すだろう。「ヤン・ウェンリーは、銀河の覇権よりも、妻の機嫌を取ることに腐心した名君であった」と。




ヤン・ウェンリーが望んだ権力を手に入れたことは、原作では一度もありません。
しかし望まれた権力を押し付けられる場面は、存在します。
本章は、そのヤン的宿命を極限まで誇張したものです。

群衆の熱狂は、英雄を祝福すると同時に、逃げ道を奪います。
そしてその熱狂を、もっともよく理解しているのは、
ヤン本人ではなく、トリューニヒトやキャゼルヌ、
あるいは無邪気な部下たちなのかもしれません。

感想をお待ちしています。

宇宙を統一するのは誰だと思いますか?

  • アルブレヒト
  • ラインハルト
  • ヤン・ウェンリー
  • マルガレータ
  • ロイエンタール
  • ルビンスキー
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