銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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帝都オーディンは静かだった。
——あまりにも静かすぎた。

冷戦という名の綱引きが続くなか、
ファルケンハイン陣営とローエングラム陣営は、
互いに一歩も譲らない均衡を保っていた。

銀河史に残された、あの運命の夜。
静寂を破ったのはフェルナーの暴発か、
あるいは元帥の悲鳴だったのか。

どうか、ごゆるりと見届けていただきたい。


暴発する毒蛇と、裸の緊急配備

帝都オーディン ファルケンハイン元帥府

 

帝国歴488年、6月

 

最近なんだかジメジメとした空気に包まれている気がする。これは気象の問題じゃない。政治的な湿度の問題だ。

 

俺、アルブレヒト・フォン・ファルケンハイン元帥が率いる「保守勢力」と、愛すべきブラザー、ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥が率いる「革新勢力」

 

この二つが、帝都を二分して睨み合っているのだから、空気が重くなるのも当然だ。いわゆる「冷戦」状態ってやつだ。お互いに銃口は向けているけれど、引き金は引かない。

 

経済交流はあるし、物流も止まっていない。なんなら、アナなんかは、向こうのビッテンフェルトと「用兵談義」とか称してカフェでお茶してたりするらしい。浮気かよ。

 

でも、水面下では確実にマグマが溜まっている。

 

そんな、嵐の前の静けさが漂うある日の夜。俺の執務室に、一匹の毒蛇が入り込んできた。

 

アントン・フェルナー大佐。ブラウンシュヴァイク公の部下で、今は俺の陣営の情報参謀だ。

 

こいつは優秀だ。めちゃくちゃ優秀なんだけど、目が笑っていない。常に「プランB」どころか「プランZ」まで隠し持っていそうな、油断ならない男だ。

 

そして、俺の隣には、左右の瞳の色が違う「歩く彫刻」こと、オスカー・フォン・ロイエンタール上級大将が控えている。彼は俺の側近兼、ツッコミ役兼、この部屋の「顔面偏差値向上委員長」だ。

 

「……何?」

 

「ラインハルトを……暗殺する??」

 

フェルナーは、その爬虫類を思わせる冷ややかな瞳を細め、唇の端を吊り上げた。毒蛇のような笑みだ。もしこれがファンタジーRPGなら、こいつは間違いなく裏切るタイプの大臣か、ラスボスの側近だろう。

 

「はい、そのとおりです、元帥閣下。何も、正面切っての艦隊戦や、まどろっこしい政戦ばかりが能ではございますまい。……歴史を動かすのは、いつだって一滴の毒薬か、一振りの短剣です」

 

ロイエンタールがピクリと眉を動かし、無言の圧力を放つが、フェルナーは動じない。肝が据わっている。

 

「私に300の兵を貸していただければ……今夜にでも成功させてご覧に入れます。ローエングラム元帥の私邸の警備システム、および抜け道……すべて把握しておりますゆえ」

 

300人。たったそれだけで、銀河の覇権争いにピリオドを打つと言うのだ。コストパフォーマンスで言えば最強だろう。数万の艦艇と、数百万の将兵を動員して、血で血を洗う内戦をするよりは、はるかに「安い」。論理的には正しい。功利主義的には満点だ。

 

だが。

 

「………その提案を、俺が受け入れると思うか?」

 

「はい。ぜひ」

 

「根拠は?」

 

「閣下は無駄を嫌うお方です。……合理主義の塊であらせられる。内戦という、国家のリソースを浪費する最大の無駄を省くには……元凶を断つのが最良の手段かと」

 

なるほど。こいつの中での俺の評価は、「冷徹な合理主義者」ってわけだ。まあ、普段から「面倒くさい」「働きたくない」「効率的にサボりたい」と言い続けているから、一周回って合理主義者に見えているのかもしれない。

 

誤解だ。俺はただの「有能な怠け者」であって、「非情なマキャベリスト」ではない。

 

「元凶、か。ラインハルトが元凶ねえ。……彼がいなくなれば、全て丸く収まると?」

 

「左様です。……彼というカリスマを失えば、ローエングラム陣営は烏合の衆。……残りの部下たちも、頭を失えば瓦解しましょう」

 

「……あまり余計なことをするなよ?」

 

「はっ……はっ!!」

 

フェルナーは恭しく頭を下げるが、その目は「まだ説得できる」と語っている。

 

こいつは自分の才覚に絶対の自信を持っている。そこが、こいつの長所であり、致命的な短所でもある。

 

「フェルナー。俺がなぜ、圧倒的有利な状況で……この気まずい冷戦に甘んじていると思う?さっさと数で押し潰すこともできたはずだぞ?」

 

現状、我がファルケンハイン軍と、ローエングラム軍の戦力比は、6対4くらいだ。しかも、こちらは「リップシュタット連合」という巨大な財布と、貴族たちの私兵を吸収している。物量では圧倒しているのだ。やろうと思えば、力押しですり潰すことも不可能ではない。

 

「ローエングラム侯への……情ゆえ、ですか?……弟君への甘さかと」

 

俺がラインハルトを可愛がっているのは事実だが、それだけで国家の存亡を賭けた戦争を先延ばしにするほど、俺はロマンチストじゃない。

 

「言いたいことを言うやつだ。……そういう、空気を読まずに本音を言うやつは嫌いじゃないぞ。だがな。ロイエンタール。……この、頭の回転は速いが視界の狭い情報参謀殿に、説明してやれ。俺の真意を」

 

「はっ。閣下は……勝ったあとのことを考えておられるのだ」

 

「勝ったあと?」

 

「そうだ。単にラインハルトを除けばいいのなら……アムリッツァから帰ってきたその日にケリをつけている。あの日、俺は彼を逮捕する権限も、処刑する力も持っていた。もしくは暗殺するのでも……リューネブルクやアナに襲撃させれば、俺たちがこうして茶を飲んでいる間に片がつく」

 

あの時、ラインハルトは半分は敗軍の将だった。俺がその気になれば、「敗戦の責任」を問うて、軍法会議にかけることもできたのだ。それをしなかった。なぜか。フェルナーが息を呑む。確かにそうだ。フェルナーごときが300人でコソコソやるよりも、正面からアナスタシア・フォン・ファルケンハインを突撃させた方が、確実性は高い。彼女なら、単騎でラインハルトの旗艦に乗り込んで、ブリッジを制圧するくらい朝飯前だ。

 

「では……なぜそうなさらなかったのですか?リスクを冒してまで、彼を生かしておく理由は?」

 

彼は、合理性の外にある「何か」を理解できない。

 

「理由は3つある。……よく聞けよ、フェルナー。第一に……帝国の人材を損なわないためだ」

 

「ラインハルトやその部下は優秀だ。……キルヒアイス、ヘルクスハイマ―、ビッテンフェルト、メックリンガー……。彼らは帝国の宝だ。ヤン・ウェンリー率いる同盟軍や、あくどいフェザーンと渡り合うには、彼らの力が必要不可欠だ。もしラインハルトを暗殺すれば……彼らはどうすると思う?『はいそうですか』と俺に従うか?……違うな。彼らは復讐の鬼となって、俺に牙を剥くだろう。特にマルガレータやキルヒアイスは、死ぬまで戦うはずだ」

 

俺は、彼らを殺したくない。もしそうなれば、内戦は泥沼化する。優秀な人材同士が殺し合い、残るのは焼け野原と、無能な貴族たちだけ。そんな帝国、誰が欲しいんだ。俺はいらない。

 

「第二に……同盟やフェザーンの介入を防ぐ時間が欲しかったこと。内戦が泥沼化すれば、ハイエナどもが寄ってくる。……特に、最近イゼルローン方面軍の司令官になったとかいうヤン・ウェンリー。あいつは見た目に似合わずえげつない手を使うからな。……我々が内部で殺し合っている隙に、イゼルローンから雪崩れ込んでくる可能性がある」

 

今、帝国が分裂して消耗するのは、自殺行為だ。

 

「そして最後に……これが一番重要だが。弱った敵を倒して……誰が納得する?」

 

「……は?」

 

意味がわからないという顔だ。敵は弱っている時に叩くのが兵法の常識だろう、と言いたげだ。

 

「分かっていないな、フェルナー。これは所詮は……俺とラインハルトの、どちらが帝国を統べるのか?という『王位決定戦』だ。……ただの権力闘争じゃない。新しい時代の覇者を決める、神聖な決闘なんだよ」

 

こいつは、「戦術」は分かっているが、「戦略」というか「物語」が分かっていない。

周りの貴族たちや、民衆、そして歴史に対して、どのような「勝ち方」を見せるか。それが重要なのだ。

 

「だから……俺たちもそうだが、帝国の全員が納得する勝ち方をしなければならん。『もしあの時、暗殺されていなければ……』とか、『卑怯な手を使いやがって』とか、『艦隊戦ならラインハルト様が勝っていたのに』とか……そういう言い訳や未練を、一切残してはならないんだ」

 

もし俺が暗殺でラインハルトを消せば、俺は一生「ラインハルトを恐れて殺した卑怯者」として記憶される。民衆の心は離れ、部下たちの忠誠心も揺らぐだろう。そんな不安定な基盤の上に立つ政権など、砂上の楼閣だ。

 

「完全決着をつけ、誰もが……敵も味方も、民衆も歴史家も、全員が『ファルケンハインこそが主だ』と認める形にしたいのさ。正々堂々と、正面から、圧倒的な力と知略でねじ伏せる。……ラインハルト自身に『完敗だ』と言わせる。……そうでなければ、真の統一は成し遂げられない」

 

これが、俺の(というか、ロイエンタールに入れ知恵された)大戦略だ。まあ、本音を言えば「暗殺とか後味が悪いし、寝覚めが悪くなるから嫌だ」というのもあるけど。

 

「……ですが。それでは……犠牲が出ますぞ。正面衝突となれば、数百万の将兵が死にます。……暗殺なら、犠牲は数人で済むのに」

 

フェルナーは、まだ納得していないようだ。

 

「もちろん、犠牲を最低限にする努力はしているさ。色々と、な。……例えば、情報戦で孤立させるとか。……あるいは、姉上を使って骨抜きにするとかな」

 

最後のは冗談だが、まあ、絡め手はいくらでもある。

 

「フェルナー。貴官の忠誠心は評価する。……俺のために手を汚そうという覚悟も、嫌いじゃない。だが。スタンドプレーは許さん。……俺の許可なく動けば、それは『利敵行為』とみなす。……分かるな?」

 

俺の描いたシナリオを勝手に書き換える役者は、舞台から降りてもらう。そういう意味だ。

 

「……はっ!」

 

「……戻れ。そして、二度とこんなつまらん提案を持ってくるな。次は、もっと面白い情報を持ってこい」

 

「……失礼いたしました!」

 

フェルナーは、踵を返し、逃げるように部屋を出て行った。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 

「ふぅ……。疲れるな、悪役の演技は。しかし……あいつ、分かってくれたかなあ」

 

「……いいえ。あの男……口では従いましたが、目は納得していませんでした。……『閣下は甘い』『理想論だ』と思っていたでしょうな」

 

「やっぱり?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ファルケンハイン元帥府 寝室

 

 

フェルナーという名の毒蛇が、俺の部屋から出て行って数時間後。俺は、別の戦場で死闘を繰り広げていた。

 

場所は、俺の私室の奥にある寝室。天蓋付きのキングサイズベッドの上だ。ここは俺にとって、政治的陰謀や艦隊戦のストレスから解放される唯一の聖域……のはずだった。だが、今夜に限っては、ここは宇宙で最も激しい「肉弾戦」の最前線と化していた。

 

「……はぁ、はぁ、はぁ……!アナ……。今日は、激しいじゃないか……」

 

全身の筋肉が悲鳴を上げている。指一本動かすのも億劫だ。汗がシーツに染み込み、甘い香油の匂いと混じり合って、むせ返るような熱気を生み出している。

 

俺は、上に乗っている人物に哀願する。それは、俺の最愛の妻であり、最強の騎士であり、そして今は俺を物理的に支配している美しき捕食者。アナスタシア・フォン・ファルケンハイン元帥だ。

 

彼女の肌は、汗で濡れて月光を反射し、最高級の大理石にオイルを塗ったかのように輝いている。黒髪が、俺の顔にかかり、くすぐったい。

 

だが、その美しい顔には、慈悲の色など微塵もなかった。あるのは、獲物を食らい尽くそうとする獣の情熱と、軍事作戦を遂行するかのような冷徹な使命感だけだ。

 

「いけません、アル様……。内戦が始まれば……こうして肌を合わせる時間も減ります。補給線が途絶えるのですよ?今のうちに、愛のエネルギーを最大容量までチャージしておかねばなりません」

 

アナは、俺の胸に手を置き、逃げようとする俺を押し留める。その力は、装甲擲弾兵並みだ。びくともしない。彼女の理屈は「愛の備蓄」とか言っているが、俺のタンクはもう空っぽだ。エンプティだ。警告灯が点滅しているどころか、エンジンが焼き切れる寸前なのだ。

 

「いや、チャージって……。過充電でバッテリーが爆発するぞ……」

 

「大丈夫です。アル様の耐久力は計算済みです。……さあ、早く腰を動かしてください!敵前逃亡は銃殺刑ですよ?」

 

「ひいぃ……!俺の精気が……俺のライフポイントが吸い尽くされる……!」

 

ラインハルトと戦う前に、妻に搾り取られて干からびる。なんという情けない最期だ。歴史書には「ファルケンハイン元帥、腹上死により戦わずして敗北」と書かれるのだろうか。そんなのは嫌だ。

 

アナが、再び激しく動き出そうとした、その瞬間だった。

 

ドガァァァァン!!!!

 

「報告!!緊急事態です!!」

 

兵士は、瓦礫の山となった入り口で直立不動の姿勢をとり、鼓膜が破れそうな大声で叫んだ。その目は一点を見つめている。プロだ。いや、極限状態すぎて視界が狭まっているだけかもしれない。

 

「いやーーーーーーーー!!!」

 

「ノック!ノックをしろと言ってるだろうが!!なんで毎回毎回、ドアを破壊して入ってくるんだ!うちは解体業者か!!」

 

俺は、慌ててシルクのシーツを引っ張り、自分の尊厳を隠す。心臓がバクバクしている。通算何回目だ?俺の部屋のドアは、消耗品なのか?ティッシュペーパー感覚で使い捨てられるものなのか?

 

兵士は、俺の裸体を見ても眉一つ動かさない。訓練された兵士だ。あるいは、恐怖で感情が死んでいるのかもしれない。

 

「フェルナー大佐が!制止を振り切り、私兵300名を連れてローエングラム侯の私邸を強襲しました!」

 

「なっ……!?」

 

俺の手から、シーツが滑り落ちそうになる。フェルナー。あの毒蛇め。あれほど「スタンドプレーは許さん」と言ったのに。俺の忠告を「フリ」だと勘違いしやがったな。

 

「……結果は!?」

 

「……失敗した模様です!ローエングラム侯は無事!逆に、待ち構えていたオーベルシュタイン少将らが、こちらへ向かって兵を動かしております!その数、約2000!完全に臨戦態勢です!」

 

「な、なんだと……!?」

 

俺は、膝から崩れ落ちそうになる。最悪だ。最悪のシナリオだ。フェルナーが失敗したことで、ラインハルト側には「先に手を出された」という完璧な大義名分ができてしまった。しかも、オーベルシュタインが動いているということは、この機に乗じて俺たちを一網打尽にするつもりだ。冷戦終了。熱戦開始だ。しかも、こちらの準備が整っていない、深夜の寝起きという最悪のタイミングで。

 

「あの馬鹿……!やりやがったな!!功名心に目が眩みおって!!」

 

全裸で頭を抱える元帥。シュールだ。

 

ふと、隣を見る。アナだ。彼女はどうしている?恥ずかしがって布団に潜り込んでいるか?

 

違った。アナは、全裸のまま仁王立ちしていた。隠そうともしていない。むしろ、その完璧な肢体を誇示するかのように、堂々と胸を張っている。汗ばんだ肌が、間接照明を受けて神々しく輝いている。涼しい顔で兵士を見下ろしている。

 

「……そうですか。フェルナーごときでは、やはり無理でしたか」

 

「おいアナ!お前は何で平気なんだ!情事を見られたんだぞ!部下に裸を見られてるんだぞ!隠せ!少しは恥じらえ!」

 

俺はツッコミを入れる。シーツで自分の体を守りながら。

 

「アル様。……私の身体には、見られて恥ずかしい部分など一欠片もありませんので。完璧に鍛え上げてあります。無駄な脂肪はゼロ。筋肉の付き方も理想的。……むしろ、兵士たちに見せることで、人体の美しさと機能性を教育する良い機会かと」

 

「男前すぎる……。いや、そういう問題じゃなくて!」

 

羞恥心のベクトルが違いすぎる。俺は一般人レベルの恥じらいを持っているが、彼女は「強さこそ正義」というスパルタ教育の賜物だ。

 

「アル様。……恥ずかしがっている時間はありません」

 

「はっ!そ、そうだった!とにかくまずいぞ!ラインハルト側に大義名分を与えてしまった!オーベルシュタインが来る!あいつは容赦しないぞ!この屋敷ごと焼き払う気だ!」

 

パンツを探す。どこだ。俺のパンツはどこに行った。さっきアナが放り投げた時、シャンデリアに引っかかったような気がする。

 

「伝令!」

 

アナの声が響く。全裸のままだ。何も身につけていないのに、フル装備の将軍以上の威圧感がある。

 

「は、はっ!」

 

兵士は、直立不動で答える。彼の視線は、必死に天井の染みに固定されている。もし視線を下げれば、石になるか、あるいは物理的に消されるか、どちらかだと本能が告げているのだ。可哀想に。

 

「義父上たちに緊急連絡!および、貴族連合の主要メンバー全員に叩き電報を!かねてより想定していた『プランB』を発動する!……『帝都脱出』よ!」

 

「脱出……ですか?」

 

「ええ。ここで市街戦になれば、民衆を巻き込むわ。……それに、準備不足のままオーベルシュタインと戦うのは愚策よ。全軍、および貴族たちは、オーディンを脱出し、ガイエスブルク要塞に集結する!……貴族の取りまとめは義父上たちに任せるよう伝えて!『財産を持って逃げろ』と言えば、彼らは必死に動くはずよ」

 

貴族たちは、自分の金と命が惜しい。「ラインハルトが資産を没収しに来るぞ」と脅せば、蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、ガイエスブルクへ集まるだろう。

 

「直ちに!」

 

兵士は、逃げるように部屋を出て行った。彼にとって、戦場よりもこの部屋の方が危険だったに違いない。俺は、ようやくパンツを見つけた。ベッドの下に落ちていた。急いで履く。片足が引っかかって転びそうになる。

 

「ミュラー!!ミュラーはいるか!!」

 

ズガァァン!

 

すでに破壊されたドアの残骸を踏み越えて、一人の男が入ってきた。ナイトハルト・ミュラー少将だ。彼は、完璧な軍装に身を包んでいる。だが、一つだけ奇妙な点があった。彼は、目を固く閉じていた。ギュッと。親の仇のように固く。

 

「はい!ここに!」

 

ミュラーは、目を閉じたまま敬礼する。心眼で見ているのか。いや、違う。彼は「見ない」ことを選んだのだ。上官の、特にアナのあられもない姿を直視すれば、命も危ないと判断したのだ。さすがは鉄壁のミュラー。防御力が極まっている。

 

「貴族たちの誘導はアナ達がやる。……お前は、直轄軍への連絡をしろ!『賽は投げられた』というやつだ。……不本意だが、戦争だ。手はずは分かってるな!全艦隊、緊急発進!港へ急げ!民間船を巻き込むなよ!」

 

俺は、ズボンのチャックを上げながら命じる。

 

「はっ!……鉄壁の布陣で、閣下の撤退を援護します!」

 

ミュラーは、目を閉じたまま、完璧な回れ右をする。そして、障害物を見事に避けながら、廊下へと走っていく。ニュータイプか何かか。

 

「よし、俺たちも行くぞ!アナ!服を着ろ!……いや、着なくていいからマントだけでも羽織れ!行くぞ!俺の旗艦《ロンゴミニアド》まで!」

 

軍服の上着を羽織る。ボタンを留める暇はない。俺は、アナの手を引こうとする。脱出だ。かっこ悪いが、生きてこそだ。ガイエスブルク要塞まで逃げれば、あとは長期戦に持ち込める。俺の「サボりライフ」は終わったが、死ぬよりはマシだ。

 

「急げ!オーベルシュタインが到着するまで、あと15分もないぞ!」

 

出口に向かって走ろうとした。

 

ガシッ。

 

強い力で、腕を掴まれた。動けない。万力のような握力だ。

 

「……え?」

 

そこには、全裸のアナが、仁王立ちしていた。その瞳は、脱出の焦りなど微塵もない。むしろ、獲物を前にした肉食獣のように、ギラギラと輝いている。

 

「いいえ、違います」

 

静かに、しかし断固として言った。

 

「え?何が?」

 

「逃げるのは、まだ早いです」

 

「はあ!?オーベルシュタインが来るんだぞ!?目からビーム撃ってくるかもしれないんだぞ!?」

 

「5分あれば十分です」

 

再びベッドの方へと引き戻される。

 

「ちょ、ちょっと待てアナ!何をする気だ!」

 

この期に及んで、何を?忘れ物か?アナは、俺をベッドに押し倒す。そして、その上に馬乗りになる。

 

「まだ……3回戦が残っています」

 

「はあああああああああ!?」

 

耳を疑う。こいつ、正気か?外ではサイレンが鳴り響き、ビームの音が聞こえ始めているのに?

 

「今から内戦だぞ!?歴史の転換点だぞ!?そんなことしてる場合か!!」

 

「だからこそ、です。戦場に出れば、アル様は総司令官として指揮を執らねばなりません。……私の相手をする時間はなくなります。……だから。終わってから逃げましょう。……私が本気を出せば、5分で終わらせます。……濃密な5分を」

 

「俺が死ぬわ!!」

 

だが、アナの筋力の前には、俺の抵抗など無意味だ。彼女の瞳孔が開いている。バーサーカーモードだ。戦いの興奮と、性的な興奮がリンクしてしまっているのだ。

 

「いけません、アル様。……中途半端はいけません。……最後まで出し切ってこそ、戦場での集中力が高まるのです」

 

「それはお前の理論だろうが!!俺は違う!俺は賢者タイムで指揮を執りたくない!!」

 

「問答無用!!」

 

アナの顔が迫る。唇が塞がれる。視界が暗転する。外では爆発音が聞こえる。それは、帝都の防衛システムが破壊された音か、それとも俺の理性が崩壊した音か。

 

 

 

 

 

後世の歴史家は、こう記している。「銀河帝国を二分したリップシュタット戦役の幕開けは、フェルナー大佐の暴発と、ファルケンハイン元帥の悲痛な悲鳴によって告げられた」と。しかし、その悲鳴が、迫り来る敵軍への恐怖によるものだったのか、それとも寝室での「過酷な強制労働」によるものだったのかは、公式記録には残されていない。

 

確かなことは一つだけ。アルブレヒト・フォン・ファルケンハイン元帥は、この夜、一つの戦場で敗北し、憔悴しきった顔で旗艦に乗り込むことになったということである。彼の顔色は、死人よりも青白かったという。




本章では、帝国を二分する緊張と、
その裏側にあった個人的な激情、誤解、暴走を描きました。

暗殺という冷徹な提案から始まり、
やがて帝都脱出という大事件へ至る。
その合間に生まれた悲鳴が
戦争の号砲だったのか
夫婦の死闘だったのか——
読者の皆さまのご判断に委ねます。

作品を読んで、「ここが良かった」「このキャラの描写をもっと見たい」など、
どんな感想でもいただけると、次の章を書く大きな力になります。

宇宙を統一するのは誰だと思いますか?

  • アルブレヒト
  • ラインハルト
  • ヤン・ウェンリー
  • マルガレータ
  • ロイエンタール
  • ルビンスキー
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