銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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帝国は「戦争が始まる」と思った。
同盟は「戦争を止めなければならない」と思った。

だが、どちらも同じ出来事を見ていた。


平和のための遊撃戦

ハイネセン 総統執務室

 

自由惑星同盟の現総統にして元・魔術師、そして現在進行形で重度の胃痛を抱えるヤン・ウェンリーは、執務机に深く身を沈め、ようやく訪れた静寂を全身で味わい尽くしていた。

 

穏やかに揺らめく湯気の向こう側で、果てしない戦争も、泥沼の政治も、絡み合う人間関係の軋轢も、すべてが幻のように空へ溶けて消えてしまえばいいのにと、彼は切実に願っていた。

 

ユリアンの初陣を巡る大騒動は、保護者の精神衛生を著しく削り取るものだった。

 

教育的観点や軍事的な妥当性を論じる以前に、ただただ寿命を縮める。そこへさらにカリンとの甘酸っぱい騒動までがのしかかってくるのだ。

 

若者たちが眩しい青春を謳歌する背後で、保護者の中年が胃袋をきりきりと痙攣させるこの構造は、人類の文明として根本的に間違っているのではないかと、ヤンは遠い目をして思考を巡らせる。

 

「やれやれ……」

 

「とりあえず、戻ってきた。平和な日常に戻ってきた。うん、そういうことにしておこう」

 

温かい紅茶を喉の奥へ流し込む。

 

五臓六腑に染み渡る、優しくて柔らかな味わい。少なくとも、焦げ臭い砲撃の味はしない。今の彼にとって、それこそが何よりも尊い事実だった。

 

「娘さんの件は……見なかったことにしよう。私は知らない。知らないったら絶対に知らない」

 

だが、人生には論理的説得力よりも、圧倒的な現実逃避を優先すべき瞬間が確実に存在する。そして今が、まさにその時なのだ。

 

しかし、そのささやかで平和な逃避行は、次の瞬間に無残にも粉砕されることになる。

 

「おい!ヤン総統!大変だ!!」

 

ヤンは危うく、喉を通る途中の紅茶を霧状にしてぶちまけるところだった。

 

「ゲホッ!……ホーランド閣下、ドアの物理的な破壊こそ免れましたが、突入の勢いとしては十分に帝国風の野蛮さですよ」

 

「そんな呑気なことを言っている場合か!」

 

「イゼルローン方面より急報だ!帝国の『桃色竜騎兵』……ヘルクスハイマー元帥の率いる四個艦隊が、常軌を逸したスピードでこちらへ襲来しつつある!」

 

「……はい?」

 

「だから!ヘルクスハイマー元帥だ!あのやたらとテンションの高い女元帥が、ビッテンフェルトやファーレンハイト、おまけにミュラーまで引き連れて、猛然とこっちへ向かってきているんだよ!」

 

「待ってください、処理すべき情報量が多すぎます」

 

「イゼルローンに四個艦隊?一体どういう風の吹き回しで?」

 

「そんなこと知るか!だが、現に奴らは来ているんだ!あいつら、本気でイゼルローンを陥落させる気だぞ!」

 

ホーランドの双眸は、すでに血走った戦闘モードへと切り替わっていた。元々沸点の低い男だが、今は完全に導火線に火がついている。

 

「俺に行かせろ!あの生意気な小娘の鼻っ柱を、へし折ってやる!」

 

「その小娘、一応は元帥なんですがね」

 

「そんなことは知っている!俺だって元帥だ!だが小娘は小娘だ!」

 

「年齢や性別で勝敗の行方を決めたがる戦争は、できれば御免被りたいですね……」

 

「とにかく、まずは関係者を集めましょう。こういう非常時に私一人で独断専行すると、大抵あとになって『どうして一言の相談もなかったんだ』と身内から袋叩きに遭いますから」

 

「今さらそれを気にするのか?」

 

「今さらですよ。総統という貧乏くじを引いてからというもの、その手の文句が飛躍的に増えましたので」

 

ホーランドは「ふん」と荒々しく鼻を鳴らしたものの、それ以上の反論は口にしなかった。ここで一人で出撃許可を喚き散らすよりも、公式な会議の場で堂々と主張した方が、結果的に筋が通るという程度の政治的勘は持ち合わせているからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数分後。

 

 

キャゼルヌ、フレデリカ、そしてトリューニヒトが顔を揃え、それぞれが全く異なる温度感で席についている。

 

キャゼルヌは着席した瞬間からひどく頭痛がしそうな顔で眉間を揉みほぐし、フレデリカは手元のデータパッドと真剣な眼差しでにらめっこを続けている。

 

その中で唯一、トリューニヒトだけが場違いなほど優雅な微笑を浮かべていた。平時であろうと有事であろうと、この男の余裕だけは、決して崩れることがない。

 

「やれやれ、またお前のジンクスか」

 

「ヤン、お前が『休めそうだ』などと気を抜いた瞬間ほど、だいたいロクでもない大事件が起きるな」

 

「それに関しては、私自身も痛いほど実感しているところです」

 

「一応弁明しておきますが、私も好き好んでそういう不吉なフラグを乱立させているわけではないのですよ」

 

「自分にフラグ建築の自覚はあるのか」

 

「ええ、痛いほど。ただ、そのへし折り方が一向に分からないだけでして」

 

そこへ、データパッドから顔を上げたフレデリカが、凛とした声で割って入った。

 

「こちらにも急報です。フェザーン駐留軍から緊急の通信が入りました」

 

「『鉄槌』の異名を持つアナスタシア・フォン・ファルケンハイン元帥率いる帝国艦隊が、ガイエスブルク要塞に大規模な集結を見せているとのことです。その数、およそ三個艦隊規模と推測されます」

 

「はあ?」

 

今度ばかりはホーランドだけでなく、冷静なキャゼルヌまでもが素っ頓狂な声を上げた。

 

「イゼルローンだけにとどまらず、フェザーン方面まで同時展開だと?」

 

「そのようです」

 

「両方面における大規模な軍事行動。時期も完全に一致しています。これを単なる偶発的な事象と片付けるのは、極めて困難でしょう」

 

「困難どころの話ではない。帝国側が我々に対して『さあ、存分に頭を抱えろ』と高らかに宣言しているようなものだ」

 

「一体全体、なぜこんな中途半端な時期に、両回廊で派手に動き出すんだ」

 

「まさにそこが、最大の謎なんですよね」

 

ヤンもまた、心の底から困惑しきった表情を浮かべていた。

 

「イゼルローンとフェザーンの両面に、これだけの大兵力を同時に展開させる戦略的理由が、我々の視点からは全く見えてこない」

 

「ふむ。実に簡単な理屈ではないかね?」

 

その芝居がかった一言で、部屋にいる全員の顔に「嫌な予感」という文字が浮かび上がった。

 

「ヤン総統が先日、愛するユリアン君を過保護にも主力艦隊三万五千隻を引き連れて救出に向かわれた行動が、帝国側にとっては『同盟軍による大規模侵攻の予備段階』と、盛大に勘違いされたのではないかね?」

 

ホーランドが、信じられないものを見るような目でヤンを睨みつける。

キャゼルヌも、非難の色を隠さずにヤンを凝視する。

フレデリカでさえ、わずかに困惑を滲ませた瞳で夫を見つめている。

 

トリューニヒトだけが、己の推理の完璧さに酔いしれるように満足げな笑みを浮かべていた。

 

「……いや、いくらなんでも、まさか」

 

「政治というものは、疑心暗鬼の果てしない連鎖の上に成り立っているのですよ、総統閣下。貴方の微笑ましい親心が、結果として全銀河を未曾有の戦火に巻き込もうとしているのですな」

 

「言い方に悪意がありすぎる!」

 

かろうじて理性を総動員して自制した。ここで声を荒らげれば、後日提出される議事録に「総統、親バカを指摘され激昂」と永遠に残ってしまう。トップに立つとは、そういう理不尽な忍耐の連続なのだ。

 

「いくらなんでも、帝国軍がそこまでの早とちりを……」

 

「するだろうな」

 

ヤンの微かな希望を、キャゼルヌがあっさりと叩き割った。

 

「相手はあのファルケンハインだぞ?十分にあり得る話だ」

 

「そこに関しては、俺も否定できん」

 

「『あのヤン・ウェンリーがわざわざ主力艦隊を動かした?これは背後に何か巨大な陰謀があるに違いない!』くらいは、奴の脳内ではごく普通の論理展開だろうさ」

 

「その『普通』の定義、少しばかり広すぎやしませんかね……」

 

「しかし、仮にそうだとしても過剰反応にも程があります。軍事的な意味を全く感じません」

 

「意味などなくとも、彼らの内側には拭い去れない『恐怖』があったのでしょう」

 

トリューニヒトは、他人の不幸を蜜の味とでも言わんばかりに微笑を深めた。

 

「帝国の貴族社会にとって、フェザーン回廊の安全保障は文字通りの死活問題。あなたの愛に溢れた親バカ機動が、彼らの目には『銀河規模の破滅的な侵攻準備』として映り、パニックを引き起こしたのでしょうな」

 

「親バカ機動という単語、軍事用語としては最低の響きですね……」

 

全員から「総統としての自覚はあるのか」と冷たい視線を浴びせられるのは火を見るより明らかだった。

 

「……不毛な推測は一旦横へ置き、話を現実に戻しましょう」

 

「両回廊における現在の我々の戦力配置は?何か致命的なトラブルは起きていますか?」

 

「そこに関しては、むしろ万全と言っていい」

 

ホーランドが手元のコンソールを操作し、空間に巨大な星図を投影した。

 

軍人としての彼の能力は、確かに折り紙付きだ。血の気が多すぎて時折暴走するきらいはあるが、実務そのものは極めて正確にこなしている。

 

「イゼルローン方面には第2、第11、第13の三個艦隊を配置。フェザーン方面にも第5、第10、第12の三個艦隊が駐留している。防御システムを加味すれば、どちらの正面も当面の猛攻には耐え切れる算段だ」

 

見た目の陣容だけならば、確かに十分な安心感を抱かせる配置だった。

 

「あえて嫌な見方をさせてもらえば、だな」

 

ホーランドが、意地悪く口角を吊り上げた。

 

「ヤン総統が慌てて艦隊を動かしてくれたおかげで、第11と第13艦隊にとっては、実戦さながらの極めて有意義な緊急出動訓練ができた……とでも評価しておくべきか?」

 

「これ以上、私の傷口に粗塩をすり込むような真似はおやめいただきたい」

 

「塩などではない。先輩軍人としての、愛ある教育的指導だ」

 

「余計にタチが悪い」

 

だが、ホーランドの言う通り、配置そのものに致命的な穴は見当たらない。

 

今すぐに追加の大軍を投入しなければ防衛線が崩壊する、というほどの切迫した状況ではないのだ。

 

「であるならば、今すぐこちら側から大規模な軍事行動を起こす必要性は薄い……かな」

 

「その『かな』という語尾が、ひどく不安を煽るんだがな」

 

「お前がそうやって曖昧に言葉を濁す時は、大抵ろくでもない奇策を腹の中で練り上げている証拠だ」

 

「ろくでもないという評価は、甘んじて受け入れます」

 

「ハイネセンの周辺宙域で、今すぐ動かせる予備戦力はどの程度残っていますか?」

 

「俺の直属艦隊二万隻と、ナンバーフリートのうち第1、第7、第9艦隊が即応可能だ」

 

「分かりました」

 

ヤンの決断は早かった。

 

「では、閣下の直属艦隊以外のナンバーフリートは、両回廊のどちらへも即座に救援に向かえる中間地点の補給基地へ急行し、不測の事態に備えて待機命令を出してください」

 

「はあ!?」

 

「ちょっと待て!俺の艦隊はどうなる!?俺以外ってのはどういう理屈だ!!俺を真っ先に最前線へ行かせろ!」

 

「閣下を最前線に放り出せば、我慢できずに勝手に戦端を開くでしょう」

 

「俺がそんな軍規違反をするわけがないだろうが!!」

 

「『絶対に撃つな』と厳命しても、指先が滑ったと言い訳して撃つタイプです」

 

「俺への信用はそこまで地に落ちているのか!?」

 

「いいえ、むしろ絶大な信用がありますよ。隙あらば撃つだろう、という方向での信用ですがね」

 

「全く褒め言葉に聞こえんぞ!」

 

怒りで立ち上がりかけるホーランドを、ヤンは極めて淡々とした態度で制した。

 

「冗談ですよ」

 

「到底冗談には聞こえん響きだったがな」

 

「では、半分だけ冗談です」

 

「割合の問題じゃない!余計に悪化しているぞ」

 

「閣下は、私と共に『遊撃』の任に就いていただきます。同盟の総統たる私には、自由に動かせる直属艦隊が存在しませんからね。貴方の優秀な艦隊を、私の足代わりとして贅沢に使わせてもらいます」

 

「……なるほど」

 

ホーランドの険しかった表情が、みるみるうちに変化していく。

 

「この俺が、英雄の足となるわけか」

 

「私は一度も自称した覚えはありませんよ」

 

「だが、周囲の人間は皆そう呼んでいる」

 

「その周囲の無責任な声のせいで、私の貴重な休暇がことごとく消滅しているのですがね」

 

「まあいい!英雄の足という役回りなら、決して悪くない。その任、確かに引き受けた!!」

 

(実に単純な男だ……)

 

キャゼルヌとフレデリカの思考が、見事なまでにシンクロした。しかし、それを口に出して機嫌を損ねさせるほど、彼らは愚かではない。

 

ややこしい事態は、可能な限り避けるのが大人の知恵だ。

 

「では総統閣下は、安全な後方から離れ、自ら前線へと赴かれると?」

 

「前線と呼べるほど最前列に出るわけではありません。両回廊のどちらに火種が落ちても、すぐに対応できる遊撃位置で待機するだけです」

 

「なるほど、理解しました。つまり『どちらかの戦線が崩れそうになった瞬間、ヤン総統自らが全軍を率いて増援に駆けつける』という、帝国に対する強烈な威圧の絵を描くわけですな」

 

「結果として、そういった副次的な効果は期待できるでしょうね」

 

「副次効果ではなく、それこそが主目的と呼ぶべきかもしれませんがね」

 

トリューニヒトの口元に浮かぶ笑みが、次第に狡猾な政治家のそれへと変貌していく。

 

「双方の陣営で極限まで緊張状態が高まっている、今のこの段階においては……」

 

「小手先の戦術的ごまかしや、相手の意表を突くような奇策は、かえって逆効果になります。相手もこちらも、神経の糸が今にも切れそうなほど張り詰めている。こんな状況下で偶発的な正面決戦に雪崩れ込めば、意味のない無駄な血が溢れ返るだけです」

 

「帝国軍の首脳陣も、そのリスクを正しく理解していると?」

 

フレデリカが、鋭い視線を向けて問う。

 

「理解していると思いたいね」

 

「少なくとも、ファルケンハイン元帥という人物は、そのあたりの計算ができるはずです。あの人は自らを俗物と卑下してはいますが、戦争にかかる人命と物資のコスト計算にかけては、やたらとシビアで正確ですから」

 

「その言い回し、微妙に褒め称えているのか、それとも痛烈にこき下ろしているのか、全く判断がつかんな」

 

キャゼルヌが呆れたように肩をすくめる。

 

「両方の意味を込めていますよ」

 

「人間性としては手放しで褒めたくはありませんが、軍人としての能力は認めざるを得ない。そういう相手です」

 

彼は少しの間沈黙して考えをまとめると、おもむろに視線をトリューニヒトへと向けた。

 

「……であるならば。本格的に砲火を交える前に、和平なり何なり、対話によって解決する道を模索してみるべきかもしれません」

 

「対話だと?」

 

「今さら帝国と悠長に話し合いなどできるものか!」

 

「お互いの些細な誤解から勃発する戦争ほど、歴史上馬鹿らしく、救いのないものはありません」

 

「こちらはただ、窮地のユリアンを助けに行っただけ。しかし向こうは、それを『同盟軍による大規模侵攻の予備動作』と深刻に受け止めた可能性が高い。そこに双方の猜疑心と深読みが雪だるま式に重なり合い、気がつけば両回廊で大艦隊が睨み合う異常事態に発展している。……冷静に客観視すれば、これほど馬鹿馬鹿しい喜劇もありませんよ」

 

「客観視するまでもなく、すでに十分に馬鹿らしい」

 

キャゼルヌが即座に切り捨てる。

 

「だが、馬鹿らしいからといって放置すれば、その代償として山のような死人が出ることになる」

 

「その通りです」

 

「だからこそ、引き金を引く前に言葉を交わす。少なくとも、私はその可能性に懸けたい」

 

「トリューニヒト高等参事官。貴方にも、この遊撃任務に同行していただきます」

 

「この私が、ですか?」

 

トリューニヒトが、面白がるように片方の眉を高く跳ね上げた。

 

その表情の半分は純粋な驚きであり、もう半分は「やはり私の力が必要になったか」という傲慢な確信に満ちていた。

 

「プライドの高い帝国の政治家や貴族連中を言葉で丸め込むには、貴方のその天才的な弁舌がどうしても必要なのです」

 

「丸め込む、とはまた随分と身も蓋もない率直な表現ですな」

 

「オブラートに包んだ外交的な表現を使っていると、無駄に時間がかかってしまいますので」

 

「国家の総統として、その過剰な率直さはどうかと危惧いたしますが、私個人としては決して嫌いな態度ではありませんよ」

 

「この私のささやかな口先が、銀河の平和に寄与するというのであれば。喜んでお引き受けいたしましょう」

 

「助かります」

 

「もう少し感情を込めて感謝してくださってもよろしいのでは?」

 

「無事に帰還できたら、最高級の紅茶くらいは一杯おごりましょう」

 

「私の弁舌の価値としては、いささか安すぎますな」

 

「おい、俺の役割はどうなる?」

 

「閣下も当然、最前線まで同行してください」

 

「なぜだ。交渉が目的なのだろう」

 

「武力という名の、圧倒的な説得力を背景に持たせるためです」

 

「神聖な外交交渉の場に、物騒な武力を持ち込む気か」

 

「実際に使う気はありません。ですが、背後に強力な牙をチラつかせておいた方が、格段に話が早く進む事態があるのも事実ですから」

 

「それはそれで、ひどく嫌な響きのする言い方だな」

 

「ですが、紛れもない現実です」

 

「まあ、軍隊の存在意義とはそういうものだがな」

 

ホーランドは少しの間ぶつぶつと文句を言っていたが、やがてふんと力強く鼻を鳴らした。

 

「よし、分かった。外交使節団の仰々しい護衛任務なら引き受けてやる。だがな、向こうが少しでも舐めた態度を取りやがったら、俺はいつでも主砲をぶっ放せるように全砲門を開いておくからな」

 

「お願いですから、それを今ここで高らかに宣言するのはやめてください」

 

「相手への強力な抑止力だ」

 

「貴方のその発言自体が、一番抑止力から遠ざかっていることに気づいてください」

 

漫才のようなやり取りに、キャゼルヌが心底呆れた顔で片手を上げた。

 

「で、肝心のハイネセンの留守番はどうするつもりだ?」

 

「そこが最大の要です」

 

「首都の留守は、キャゼルヌ先輩とロボス元帥の布陣にお願いします。後方の盤石な安定があってこそ、前線での綱渡りの交渉が成立するのですから」

 

「ロボス元帥?」

 

いつからそこに存在していたのか、ロボス元帥が深い昼寝から目覚めたような顔つきで、どっしりと座り直している。

 

「……わかった」

 

今まで本当に熟睡していたのか、それとも目を閉じて深い思索に耽っていたのか、判別は極めて困難だったが、その声色には確かな力が宿っていた。

 

「ヤン総統、後顧の憂いなく存分に前線へ行きたまえ。キャゼルヌ元帥、前線への物資補給の差配は君の腕に任せる。私は、本土防衛部隊の再配置と錬成を徹底的に叩き込もう」

 

「……元帥、いつから我々の話を聞いておられたのですか?」

 

「大体の流れはな」

 

「器用に睡眠と情報収集を両立できるのですね……」

 

キャゼルヌは引きつった苦笑を漏らしたが、すぐに実務家の鋭い顔つきへと戻った。

 

「了解しました。後方の兵站線は、俺が死守して見せる。……ただし、ヤン」

 

「何でしょう」

 

「交渉の場で変に弱気になって妥協し、フェザーンを敵に売り飛ばすような馬鹿な真似だけは絶対にすんなよ?」

 

「善処するよう努めます」

 

「お前の『善処』ほど信用ならない言葉はない」

 

「では、過去最高に真面目に善処すると誓いましょう」

 

「それでようやく、ミリ単位で信用が上がった」

 

フレデリカは、黙ってヤンの横顔をじっと見つめていた。

 

妻としての深い愛情、秘書としての冷静な懸念、そして副官としての組織的な危惧。いくつもの異なる感情が複雑に混ざり合った、静かな瞳だった。

 

「本当に、総統ご自身で赴かれるのですね」

 

「うん」

 

「極めて危険な賭けです」

 

「そうだね、危険極まりない」

 

「相変わらず、受け答えが軽すぎます」

 

「私がここで重々しい声を出したところで、実際の危険度が下がるわけじゃないからね」

 

「でもね、ここで私が安全な場所から『誰か適当な人物に行ってきてくれ』と指示を出せば、相手の帝国側も間違いなく適当な人間をよこして適当にやり過ごそうとする。トップ同士の真剣な会談の場を無理やりにでも作り上げるためには、こちらも一番上の人間がちゃんと顔を晒す必要があるんだ」

 

「向こうのファルケンハイン元帥も、直接出てくるでしょうか」

 

「たぶんね」

 

「敵将に対して、随分と妙な信頼を寄せているのですね」

 

「相手が妙な人物だから、こちらも妙な信頼のしかたになるのさ」

 

トリューニヒトが、この上なく楽しそうに両手を合わせた。

 

「つまり総統閣下は、帝国の誇る俗物元帥殿と、お互いに不本意極まりない平和交渉のテーブルにつかれるわけですな」

 

「不本意で胃が痛いのは、きっと向こうも同じ条件でしょう」

 

「では、まるで合わせ鏡を見ているようですな。滑稽なほどに」

 

「貴方にそれを指摘されると、どうにも腹の底から苛立ちが湧いてきますね」

 

ヤンはゆっくりと立ち上がった。

 

それに呼応するように、会議室の空気の質がはっきりと変わる。

次なる指示を待つ受動的な空気から、下された命令を即座に実行に移すための、研ぎ澄まされた能動的な空気へ。

 

「では、これにて解散」

 

その短く静かな一言で、室内の全員が弾かれたように背筋を伸ばした。

 

「ナンバーフリートは当初の予定通り、中間補給基地へ向けて抜錨。ホーランド閣下の直属艦隊は、私の遊撃本隊として即時発進の待機を。キャゼルヌ元帥、ロボス元帥、ハイネセンの後方支援をどうかお願いします」

 

「了解した」

 

「任せたまえ」

 

「フレデリカ」

 

「はい」

 

「帝国への外交用書類一式を大至急用意してくれ。それから、帝国側に先んじて送る第一報の文面は、可能な限り柔らかめの表現で」

 

「どの程度の柔らかさがよろしいでしょうか?」

 

「『こちらの事情で誤解を招いたならごめんなさい、でもそっちの過剰反応も大概にしてくださいよ』という本音を、国家元首の威厳を保った美しい外交辞令に変換したくらいで」

 

「……非常に高度な難題ですね」

 

「君の能力なら必ずできる」

 

「やり遂げてみせます」

 

「トリューニヒト高等参事官」

 

「何なりと」

 

「プライドばかり高い帝国貴族が、聞いていて気持ちよくなるような、慇懃無礼な言い回しをいくつか考えておいてください」

 

「お任せを。『閣下の苦しいお立場もよく理解できますよ』という皮肉を、相手が感涙するほど嬉しい形に包み込んだものを、十通りほどご用意いたしましょう」

 

「頼もしい反面、人間としてちょっと怖いですね」

 

「ホーランド閣下」

 

「何だ、言ってみろ」

 

「道中、どれほど挑発されても、絶対に勝手に撃たないでください」

 

「分かっている!……たぶん、な」

 

「その『たぶん』という保険が、私には何よりも一番恐ろしいんですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これより同盟軍は、平和をもぎ取るための遊撃戦を開始する」

 

ホーランドが、怪訝そうに片眉を吊り上げた。

 

「遊撃戦という言葉は、普通はもっと血生臭くて物理的な破壊を伴うものじゃないのか?」

 

「今回は、火器の代わりにひたすら会話で相手を殴りつけます」

 

「相手はあの鼻持ちならない帝国貴族だぞ?」

 

「だからこそ、最強の弾薬庫としてトリューニヒト高等参事官が同行するんです」

 

「なるほど。つまり、性格の悪い方の言語による無差別艦砲射撃、というわけですな」

 

トリューニヒトが、至極満足そうに言い放った。

その場にいる誰一人として、彼のその言葉を否定しようとはしなかった。

 

かくして緊急会議は幕を閉じ、各々が与えられた任務を果たすべく、慌ただしく執務室を後にしていく。




ここまでお読みいただきありがとうございます。

帝国側と同盟側、それぞれの判断はどちらがより合理的だったか、ぜひご意見をいただければ嬉しいです。

長期化して初期との表記揺れも目立ってきたので最初から書き直すべきでしょうか?

  • 最初から書き直すべき
  • 加筆修正で保つべき
  • そもそもいらない
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