銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
一つは、すべてが一瞬で終わる時間。
もう一つは、何も起こらないまま人を狂わせる時間だ。
イゼルローン回廊の帝国側出口は、今日も今日とて宇宙の深淵を体現するような、荘厳たる静寂に包まれていた。
ただし、その「神秘的で宇宙らしい静けさ」を真正面から物理的にぶん殴り、粉々にぶち壊している暴力的な存在が一つだけある。
色だ。
回廊出口を完全封鎖すべく展開された帝国軍の陣形は、遠目に見れば実にお手本のような美しさである。
布陣そのものは極めて手堅い。前衛、中衛、後衛、補給線、警戒線、どれを取っても教範を額縁に入れて飾りたくなるほどの完璧さだ。
だが、総司令官直属艦隊の色彩が、その真面目な努力を端から台無しにしていた。
ショッキングピンクである。
あろうことか、旗艦までが目に痛いほどの桃色だ。
艦首に輝く紋章も、無駄に金ピカでやたらと華美である。
荘厳なる帝国軍の戦略図面上に、うっかり三歳児が魔法少女モノのステッキを落っことしたのかと錯覚するほどの浮きっぷりだった。
桃色竜騎兵。
宇宙艦隊司令長官マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマー元帥直属艦隊の、本人の美的感覚以外には到底理解しがたい公式愛称である。
だが、その目に余る派手さに反して、中身は筋金入りの狂犬揃いだった。
悪趣味極まりない旗艦《クリームヒルト》を中心に、黒色槍騎兵艦隊、ファーレンハイト艦隊、ミュラー艦隊という、帝国軍のなかでも「取り扱い注意」の赤い札が貼られそうな面倒くさい連中が三つも詰め込まれているのだ。
火力、機動力、突破力、持久力、そして何より我の強さは銀河最大級である。
こんな極彩色の暴力集団に回廊出口を塞がれて、正面からにこやかに挨拶しようと考える命知らずは、広い宇宙を見渡してもそうそういない。
もっとも、現在の最大の問題は、その命知らずが誰一人としてやって来ないことなのだが。
旗艦《クリームヒルト》の艦橋では、当の宇宙艦隊司令長官マルガレータが、特注の豪奢な指揮席でアンニュイに頬杖をついていた。
美貌、威厳、華やかさ、そのすべてを彼女は持っている。
そして悲しいかな、今は「有り余る暇」まで持て余していた。
「……動きがないのう」
第一声が、ただの田舎の隠居のぼやきである。
元帥閣下としてその気の抜け方はどうなのか、という正論は、この空間では誰も口にしない。
誰よりも本人が一番、心の底からそう思っているからだ。
「魔術師ヤンめ、大軍を動かしたと豪語した割には随分と引きこもっておるではないか。もっとこう、回廊の向こうから『待たせたな!』とスポットライトを浴びて派手に出てこんものか」
「まったくですな!到着後、三秒で血湧き肉躍る激戦になると期待……いや!軍人として厳粛に覚悟していたというのに!肩透かしにも程がありますぞ!」
「お前、今、素直に『期待』と言いかけたな?」
「言いかけただけです!私は誇り高き武人として、あくまで悲壮なる覚悟を固めていただけです!」
「どっちでも脳の作りは同じじゃろ」
そこへ、こういう時だけ無駄に良い声でファーレンハイトが割り込んできた。
「ビッテンフェルト提督。見栄を張って無理に言い換えなくても良い」
「何だと」
「俺も、そしてここにいる血の気の多い全員が、内心では『期待』で胸を膨らませていたはずだ。敵を目の前にして戦わず、時間だけが無情に過ぎていくのは、我々のような人間にとって地味に一番胃にクる」
痛いところを突かれたビッテンフェルトが、ぐっと言葉を詰まらせる。
大声で言い返したいが、ファーレンハイトの言っていることが一から十まで正論すぎるため、勢いが不完全燃焼を起こしている。
そこが彼の、猛将らしからぬちょっと可愛いところである。
「……否定はせん」
「よろしい、素直なのは美徳だ」
「お前ごときに褒められても一ミリも嬉しくないわ!」
決して緊張感がゼロというわけではない。全員がプロフェッショナルとして完璧な臨戦態勢を敷いており、警戒の糸は一瞬たりとも切れていない。
ただ、肝心の殴る相手が出てこない以上、張り詰めた戦場の空気にも「暇」という名のカビが生え始めるのだ。
そのカビが、こうしたどうでもいい会話を培養している。
「ふふ、妾もじゃな。お前たちのような単純な馬鹿とは、本当に気が合うのう!」
その無邪気な暴言を聞きながら、鉄壁ことナイトハルト・ミュラーは、内心でたいへん真面目かつ深刻な頭痛を覚えていた。
(……だろうな)
(そもそも、この脳筋一歩手前のメンツを指名したのは、他ならぬ元帥閣下ご自身だ。血の気が多い、勝負事が三度の飯より好き、敵の影を見ただけでヨダレを垂らして前に出たがる……そういう『知性より反射神経』で選別したとしか思えん)
ミュラーは、無意識のうちに自分の姿勢をほんの少しだけ正した。
彼は本来、ここまで露骨な「考える前に殴れ人材コレクション」のど真ん中に放り込まれるようなタイプではないはずなのだ。
冷静、堅実、几帳面。自分でも常識人だと思っているし、周囲からの評価もだいたい「帝国軍最後の良心」で一致している。
では、なぜこのバーサーカー集団の中に、自分が組み込まれているのか。
(……待てよ)
(もしかして、私はこの動物園の『猛獣使い』……いや、ブレーキ役という名の生贄か?)
彼は恐る恐る、前方のモニターに映るマルガレータを見た。
続いて、鼻息荒いビッテンフェルトを見た。
ついでに、クールな顔をして一番好戦的なファーレンハイトも見た。
誰も彼もが、暇すぎて「早く敵が来ないかな」と幻覚でも見始めそうな、爛々と輝くヤバい目で暗黒の宇宙をにらみつけている。
(……かなり、いや、百パーセントあり得るな)
「それにしても」
「こうも何もしないでいるのは寿命の無駄遣いじゃ。なあ、オーベルシュタイン?お前のその頭脳で、何か面白い確率計算でも……」
そこで、彼女の言葉がピタリと止まる。
勢いよく振り返った彼女の背後にいるのは、冷徹な義眼の参謀でなく、ただのツルツルした無機質な壁だった。
「…………そういえば、すっかり忘れておったわ。アイツは今、人事局長として帝都オーディンで、書類の山という名の敵と血みどろの格闘をしておるんじゃったな」
「本気で忘れていたんですか」
「うむ、綺麗さっぱり忘れておった」
「清々しいほど正直ですね」
「正直は女の美徳じゃ」
「おやおや、元帥閣下。愛しの番犬がいなくて、さぞ淋しいですかな?」
「阿呆、寂しくなんぞないわ」
「おお、違うのですか。では何と?」
「妾を狂おしいほど愛しておる、ただの男じゃ」
「言い換えても、ヤバさの度合いがあまり変わらんような気がしますが」
「バカモノ、主導権という細部が決定的に違う!」
「オーベルシュタインは一緒にいて全く退屈しないし、何より妾を愛しておるからの。ヤツは無口で陰気じゃが、わざわざ言葉を交わさずとも、お互いの考えていることが手に取るように分かるのじゃ。これぞまさに魂の共鳴、究極のテレパシーというやつじゃな!」
(……あの歩くドライアイスと一緒にいて『退屈しない』などと笑顔で言えるのは、全宇宙を探しても貴女だけですよ、閣下!)
(普通の神経を持った人間なら、あの男が放つ沈黙と緊張感だけで胃に三つは穴が開くところです!というか、ただ書類を持って立っているだけで、あの男には殺気にも似た圧力がある。あの冷徹な義眼の局長殿と密室で二時間も同室させられたら、たぶん私は存在しない罪を告白して始末書を三枚くらい書きたくなる自信がある!)
だが、ミュラーは決して口には出さない。
猛獣使いには、自分の身を守るために「絶対に余計なことを言わない」という高度な生存戦略が必要だからだ。
「とはいえ、あのオーベルシュタインがいないと、物理的に静かではあるな」
ファーレンハイトが淡々と事実を述べる。
「静かすぎて、逆に罠ではないかと不安になるわ!」
ビッテンフェルトが吠える。
「お前は普段から無駄にうるさいのがデフォルトじゃから、そう錯覚するだけじゃ」
「敵のど真ん中にいるのに、静かすぎるのが不健全なのです!」
それは、この男にしてはわりと的を射た本音だった。
この場にいる三人は、性格の方向性こそバラバラだが、根本的な部分で「戦場は硝煙と怒号で多少騒がしいくらいが健康に良い」と本気で思っている節がある。
帝国軍としては大変困った病気だが、最前線の戦闘職としてはこれ以上ないほど適性が高かった。
ファーレンハイトが、虚無の星図を見つめながら冷徹に切り出す。
「ともかく、敵が回廊から一歩も出てこないのでは、こちらから仕掛ける口実すら作れん。……いっそ、痺れを切らしたふりをして、こちらから回廊に全軍突入しますか?元帥閣下」
その危険極まりない一言で、艦橋の空気がほんの少しだけ、ギラリと前のめりになった。
ビッテンフェルトは明らかに「待ってました、それだ!」という顔で身を乗り出している。
ミュラーだけが、胃の腑に冷たい鉛を落とされたような、静かで強烈な嫌な予感を覚えた。
「いや」
「ファルケンハイン閣下の厳命は、あくまで『迎撃』じゃ。勝手にこちらから侵攻の火蓋を切れば、せっかくの大義名分もクソもなくなる」
「名分、ですか。閣下の口から出ると新鮮な響きですな」
「うむ。妾はド派手な色が大好きじゃが、論理と理屈まで派手にすっ飛ばすような野蛮人ではない。銀河統一という大義を掲げて堂々と進むなら話は別じゃが、物事には踏むべき順序というものがあろう。今はひたすら『待機』じゃ」
ミュラーが、心底ホッとしたように小さく、しかし力強く頷く。
「極めて賢明なご判断です」
「じゃろう?妾をただの戦闘狂だと思ったら大間違いじゃぞ」
「ええ、重々承知しております。……それにしても元帥閣下、今回、旗艦を変更されなかったのですね」
ミュラーは意図的に話題を少しずらした。
彼の視線は、《クリームヒルト》の艦内構造図を映し出している補助画面へと向けられている。
「先の内戦での特攻で、装甲は焼け焦げ、半ばスクラップ同然の惨状だったと聞き及んでおりましたが……」
「うむ!よくぞ聞いてくれた!《クリームヒルト》とは死線を共に潜り抜けた、長い付き合いじゃからな。まさに妾の半身、かけがえのない戦友よ!」
「随分と情が移っておられる」
「当然じゃ。宇宙を駆ける艦というものは、ただの冷たい鉄の塊ではない。乗り手の意地と誇り、そして何より『ド派手な浪漫』を詰め込むための神聖な箱じゃ!」
ビッテンフェルトが、これ以上ないほど深く「うんうん」と大きく頷いている。
どうやらこの手の精神論は、彼のストライクゾーンのど真ん中らしい。
「もちろん、ただ修理工場で直しただけではないぞ」
「予算を分捕り、妾のパーフェクトな好みに合わせて魔改造を施し、さらに凶悪に強くなったぞ!とっておきのロマン溢れる新兵器も積んでおる!」
『新兵器』
その魅惑の三文字に、ビッテンフェルトの猛禽のような目がカッと輝いた。
「新兵器ですと!?まさか、『疾風ウォルフ』以上の狂った速さが出るエンジンですか!?」
「なぜそこで比較対象がミッターマイヤーの足回りになるんだ、お前は」
「戦場では速さこそが命でしょうが!」
「命だが、世の中には速さ以外にも尊い価値があるだろう」
「例えば何だと言うのだ!」
「圧倒的な火力だ」
「おお、それは素晴らしい!」
どこまでも単純な会話である。
だが、この三人の脳筋トークが妙に聞いていて楽しいのは、彼ら全員が本気でその物騒な価値観を信奉しているからだ。
「そう!妾がこの愛艦に取り付けた究極の新兵器は、艦首超重力衝撃砲《バルムンク》じゃ!」
「……何です、その物騒な名前は」
「あの忌々しい《ロンゴミニアド》に対抗して、技術部に徹夜させて取り付けた、妾専用の最高にご機嫌な主砲よ!一撃の威力はあちらに一歩譲るが、チャージ時間は劇的に短く、なんと連射が可能じゃ!これぞ新時代を切り開く、美しい大艦巨砲主義よ!」
ビッテンフェルトが、完全にクリスマスプレゼントをもらった少年の顔になった。
「いいな!!実に素晴らしい!!その破壊的な名前も最高に良い!!」
「分かるか!この浪漫が!」
「分かりますとも!わが黒色槍騎兵の血塗られた心が、歓喜でブルブルと震えておりますぞ!」
「お前の心は、毎日何かしらの破壊衝動で震えておるじゃろうが」
「常に戦場に感動しているだけです!」
ファーレンハイトすらも、少しだけ楽しそうに冷たい口元を緩めている。
「《バルムンク》か。俺の愛艦《アースグリム》の砲も強化されたが、閣下のその頭の悪い大艦巨砲主義、俺は嫌いではないな」
「そうじゃろう、そうじゃろう!」
「現代の戦闘において、機動戦が物を言うのは揺るぎない事実だ。だが、最後の最後にすべての理屈を吹き飛ばす一撃必殺の暴力的な火力には、戦術とは別の次元の浪漫がある」
「分かっておるではないか、ファーレンハイト!」
魔改造された艦の話、物騒な新兵器の話、そして破壊の浪漫の話。
彼女の好む要素が、フルコースで揃っている。
「基本は華麗なる機動戦じゃ」
彼女は、銀河を抱き寄せるように大げさに手を広げて言った。
「それが妾の美しい持論じゃし、今後も変わることはない。じゃが、いざという時、すべてを灰塵に帰す一撃必殺の圧倒的な暴力もまた必要なのじゃ。敵の小賢しい心をへし折るのは、小手先の速さだけでは足りん時もあるからの」
「だからこその、必殺砲《バルムンク》」
「そういうことじゃ!」
ビッテンフェルトが、感動のあまり涙ぐみそうな勢いで何度も頷いている。
ミュラーは、その狂気の同窓会のような様子を少し離れたところから見守りながら、密かに胸をなで下ろしていた。
暇すぎて変な方向へ突っ走り、勝手に回廊へ突撃されるくらいなら、こうして子供のように主砲談義でキャッキャと盛り上がっていてくれる方が、よほど平和で安全だ。
「……ところで、ミュラー」
「はっ」
「お前は、妾がなぜこの麗しい愛艦を《クリームヒルト》と名付けたか、その真の理由が分かるか?」
答えは、たぶん一つしかない。
しかも、頭を抱えたくなるほど、あまりにも分かりやすい。
分かりやすすぎて、優秀な帝国軍人として逆に口に出すのがためらわれるレベルだ。
「……古き地球の神話伝説によれば、クリームヒルトは、悲劇の英雄ジークフリートの妻の名です」
「うむ、続けてみよ」
「……つまり、キルヒアイス国務尚書への想いを、旗艦に込められた……ということでしょうか」
その瞬間、マルガレータの顔が、満開のヒマワリのようにぱあっと明るくなった。
本当に、信じられないほど分かりやすい女だ。
「大正解じゃ!なぜ分かった!?エスパーか!?やはりお前は気が利くのう、ミュラー!最高じゃ!」
「いえ、その、あまりにも直球すぎて、逆に他の解釈が成り立たず……」
「うむ!愛の表現は直球こそ至高じゃ!」
「ガハハハハ!流石は元帥閣下、やることがど真ん中のストレートだ!清々しい!」
「恋愛に姑息な変化球など好かん!」
「そこまで堂々と、しかも艦隊の通信網に乗せて宣言されると、逆に清々しくて応援したくなりますな!」
ファーレンハイトも、もはや隠す気もなく感心したように笑っている。
そして三人の猛将たちが、何とも言えない、あたたかくも生温かい目でマルガレータを見つめた。
それは、初恋にはしゃぐ女子中学生を見る目だ。
(……この艦隊、カタログスペックの戦力だけ見れば間違いなく銀河最凶の殺戮部隊だが、今のこの頭の悪い空気だけ切り取ると、驚くほど平和だな)
◆
「それにしても……本当に暇じゃ」
「全くだ!敵が来ない!ひょっこり出てこない!思う存分叫べない!」
「最後のお前の個人的な欲求不満は知らん」
ファーレンハイトが冷たいナイフのように切り捨てる。
「……魔術師ヤンめ、早く出てこぬか」
「お前をサクッと物理的に蹴散らして、妾は一日も早く、愛しのジークのところに帰りたいのじゃがな……」
戦争も、血湧き肉躍る勝利も、輝かしい武勲も、彼女は大好きだ。
だが、そのすべての暴力的な欲望の先に、ただ一人、帰りたいと願う相手がいる。
それが今の彼女の世界の中心であり、すべてだった。
「元帥閣下」
「何じゃ、改まって」
「ヤンをボコボコにして勝って帰り、さっさと会いに行けばいい。それだけのことです」
「当たり前じゃ。言われるまでもない」
「なら、それで十分ではありませんかな。我々は、閣下のその単純な目的に付き合うだけです」
「……お前、猪のくせに、たまに良いことを言うな」
「たまにとは何ですか、たまにとは!私は常に真理を突いておりますぞ!」
マルガレータには、粗暴な兵たちを惹きつけてやまない圧倒的な人望がある。
それは今、この艦橋の空気を見ていれば痛いほど分かる。
派手で、無類に強くて、思考が分かりやすくて、妙なところで任侠のような筋が通っていて、しかも恋に一直線の乙女だ。
血の気の多い部下たちからすれば、こんなに神輿として担ぎやすく、付き従う理由に満ちた上官はいない。
彼女は単なる脳筋ではなく、鋭い政治センスも持ち合わせている。
複雑怪奇な帝国の権力闘争を読み解き、勝手な侵攻と正当な迎撃のギリギリの線引きも、本能的に理解している。
そして何より、誰よりも高く、暴力的な武力を備えている。
正面からの泥臭い殴り合いなら、この場の誰もが彼女の頼もしい背中にすべてを預けるだろう。
だが、彼女にはまだ、自分自身を満たすための「黒い野心」がない。
少なくとも今のところは、ない。
ただ純粋に勝ちたい。
そして、帰りたい。
キルヒアイスに会いたい。
その三つの単純な欲求が、一本の直線で綺麗に繋がっているだけだ。
ビッテンフェルトは、変化のない前方モニターを睨みつけながら、首をゴキゴキと鳴らした。
「しかし、本当に出てこないな、あの魔術師は」
「ヤン・ウェンリーが異常に慎重なのか、それとも向こうの同盟政府が相変わらずアホみたいに混乱しているのか」
ファーレンハイトが毒舌気味に呟く。
「あるいは、最悪のケースとして、その両方かもしれんな」
ミュラーが冷静に分析する。
「ふむ」
マルガレータが、艶やかな顎に指を当てて思考を巡らせる。
「ヤン本人が艦隊を率いて出てこないなら、何か別のいやらしい理由があるのやもしれん。同盟特有の病気、補給線の崩壊、しょうもない内輪揉め、あるいは……」
「あるいは?」
「最も面倒な、交渉の準備でもしておるのかもしれぬな」
その『交渉』という一言に、三人の猛将たちが同時に、虫の居所が悪そうな顔でわずかに眉をひそめた。
「交渉、ですか。この状況で」
ミュラーが探るように問う。
「大いにあり得る。あの不良軍人、無駄に血を流して戦うより、のらりくらりと口先で話す方を好む気配がプンプンするからの」
「だが、こっちは四個艦隊で、回廊出口を物理的にガッチリ塞いでおるのですぞ?相手も馬鹿ではあるまい」
「だからこそじゃ、ビッテンフェルト」
「真正面から馬鹿正直に殴り合えば、双方に甚大な血の雨が降る。ヤンがそれを極端に嫌うタイプの男なら、大砲より先にまず口を使ってくる。そこにあのタヌキ親父のトリューニヒトあたりが悪乗りしてきたら、政治的にやたらと面倒で泥沼なことになる」
「それは確かに、戦場で一番遭遇したくないパターンの嫌な展開ですね」
「砲弾より、言葉と書類の方が厄介な時もありますからな」
ミュラーが、オーディンにいる人事局長の顔を思い浮かべて苦笑する。
「まことにその通りじゃ」
「じゃが、来るなら来るで受けて立つまでよ。戦うにせよ話すにせよ、ヤン・ウェンリーという男は、最後には必ず正面に出てくる腹の据わった男じゃ。そこは敵ながら好ましい」
ビッテンフェルトが、好戦的にニヤリと笑った。
「では、もし本当にふざけた交渉船なんぞがひょっこり出てきたら、我々はどうお出迎えしますかな?」
「決まっておろう。帝国の威信にかけて、礼儀正しく優雅に迎えるのじゃ」
「ほう、礼儀正しく」
「うむ。すべての主砲の照準を、一ミリの狂いもなく相手の眉間に合わせた上でな」
「閣下の『礼儀』の辞書はどうなっているのですか」
「最大の火力こそが、最大の誠意じゃ!」
「誠意の概念が世紀末すぎて怖いんですが!」
その物騒な軽口に、また艦橋の空気がドッと和む。
この美しい上官は、自分の欲望がすべてにおいて単純で純粋すぎる。
狂おしいほど会いたい相手がいる。
絶対に勝ちたい戦がある。
意地でも守るべき命令がある。
その動機があまりにもピュアだからこそ、部下も疑いなくついていきやすい。
「銀河の歴史をどうする」だの「人類の未来をどう変える」だのという巨大で手垢のついた言葉は、今の彼女にはまったく似合わない。
――だが。
もし何かの拍子に、その純粋すぎる愛情の矛先が歪んでしまったら?
もし、彼女の愛の終着点である赤毛の青年が、その手から永遠に失われるような悲劇が起きたら?
その「単純さ」の先に、「覇権」という名の底なしの狂気が乗っかってしまったら?
その時は、この怪物のような艦隊は、全宇宙の誰にも止められなくなる。
(……今はまだ、そこまでではない。……たぶん、な)
ミュラーは、冷たい幻覚を振り払い、そう無理やりに結論づける。
今の元帥閣下は、ただ強くて、賢くて、そして一直線に恋をしているだけの、少し過激な乙女だ。
その方が、銀河にとっても、周囲にとっても、間違いなく幸せなのだから。
「ミュラー」
「はっ」
「お前、今、妾のことを『恋する乙女だが一歩間違えるとヤバい』みたいな、少し不穏な感じで分析しておったじゃろ」
「な、なぜ分かるのですか!?」
「お前のその生真面目な顔に、デカデカと書いてあるわ」
「絶対に出ていないはずです!私はポーカーフェイスには自信が!」
「出ておる。隠しきれておらんぞ」
「……じゃあ、もう観念します」
「うむ。素直な観念は長生きの秘訣じゃ」
雰囲気は、やはりどこまでも平和だった。
あまりに平和すぎて、ここが全銀河の運命を決める回廊封鎖の最前線であることを、時々本当に忘れそうになる。
「報告!前方回廊内、長距離センサーに微弱な反応をキャッチ!」
「敵か!ついに来たか!」
「まだ断定できません!規模は極めて小規模。大艦隊の進軍ではなく、旗艦クラスの集団移動……あるいは、特使船団の可能性もあります!」
「……ほう」
「待ちくたびれたぞ。ようやく来たかもしれぬな」
「即座に戦闘態勢に移りますか」
「当然じゃ。だが、妾の合図があるまで、一発たりとも主砲を撃つなよ?」
「はっ」
「ビッテンフェルト、お前は特にじゃ。指を縛っておけ」
「分かっておりますとも!私を誰だとお思いか!常に冷静沈着、理性的な大人の男ですからな!」
「お前のその的外れな自己評価が、今この瞬間、一番不安なんじゃ!」
「念のため、一応、礼装用の優雅な通信文も準備しますか。もし相手が交渉船なら必要になる」
「うむ。『ようこそ地獄の底へ』では、さすがに帝国の品格を疑われるからの」
「閣下、その第一案の時点ですでに外交問題に発展しかねないほどマズいんですが」
オペレーターが、上ずった声で続報を上げる。
「反応、徐々に明瞭化!やはり大規模艦隊ではありません。護衛艦を数隻伴うだけの、旗艦級の集団です!」
「魔術師ヤン本人が、わざわざ出張してきたのやもしれぬな」
マルガレータの声に、隠しきれない好戦的な熱が乗る。
「あるいは、ただの使者の可能性も」
「どちらにせよ、これ以上退屈で胃を痛めずに済みそうですな!」
ビッテンフェルトが、獰猛な笑みを浮かべて嬉しそうだ。
「お前は、お願いだからもう少し外交と戦争の区別を学習せよ」
「外交がこじれた結果、盛大な戦争になることもあるでしょうが!」
「それはそうだが、お前が言うとただの野蛮な脅迫だ」
「だからこそ、私は常に主砲の準備万端なのです!」
「理屈が間違っておらぬのが一番困るわ!」
戦場には二種類の時間がある。
一つは、すべてが一瞬で終わる時間。
もう一つは、何も起こらないまま人を狂わせる時間だ。
長期化して初期との表記揺れも目立ってきたので最初から書き直すべきでしょうか?
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最初から書き直すべき
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加筆修正で保つべき
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そもそもいらない