銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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勝てる戦いほど、慎重になる。

それが、彼らの戦争だった。


魔術師に挑む資格

「何だこれは!!」

 

「『戦術的に挽回不可能』だの、『要塞を破壊する』だの……俺に降伏しろってか!?いや待て、主権を渡せとは書いてないな……じゃあフェザーン強盗の事後承諾をしろってことか?どっちにしろふざけんなよオラァ!!あの年金泥棒がぁぁ!!」

 

 ぐしゃり、と無惨に丸められた紙屑が、放物線を描いてゴミ箱の底へ全力で叩きつけられる。

 寸分の狂いもない見事な直撃。普段であれば万雷の拍手が起きてもおかしくない精度だが、今は誰も称賛しない。ここで彼を褒めれば、さらに厄介な雷が落ちることを知っているからだ。

 その少し背後、ロイエンタールは、ただ呆れと冷徹な観察眼を交えて主君の背中を見つめていた。

 

「……閣下」

 

「何だ」

 

「いくら腸が煮えくり返っているからといって、そのような部屋の隅っこで激昂されても誰の目にも留まりません。より堂々と、怒りを露わにされてはいかがです?」

 

 アルブレヒトは短く咳払いし、乱れたネクタイの結び目を直す。首元に触れる指先の動きは、先ほどまで植物の陰で地団駄を踏んでいた男とは別人のように冷ややかで、計算され尽くしていた。

 

「いやあ……俺が表立って激怒してみろ。貴族どもが勝手に忖度して『全軍出撃!』と血走った目で叫び出し、正真正銘の全面戦争に発展しかねない」

 

 言いながら、彼は執務室の死角を油断なく見回した。誰の目にも触れず、己の感情を爆発させるための「安全地帯」を的確に確保するその嗅覚は、長年の政治闘争で培われた悲しい習性だ。

 

「平和の維持には、トップの徹底したアンガーマネジメントが不可欠なんだよ。壁への八つ当たりは、立派な国家への貢献だ」

 

「その論理は斬新ですな」

 

「斬新というより、酷く情けない部類に属するかと」

 

「うるさい。俺だって、好き好んで観葉植物の横でキレているわけじゃない」

 

「しかし、だいぶ空間に馴染んでおられますよ」

 

「この位置が、ちょうどいいんだ。植物が物理的に視界を遮ってくれるし、机から遠い分、『宰相閣下がお怒りだ』という不穏な空気が部屋全体に伝播しにくい」

 

「怒りの遮蔽物として観葉植物を活用する宰相……帝国の新たな指導者像ですな」

 

「未来ってのはな、だいたいこういう地味で細やかな配慮の上に成り立ってるんだよ」

 

 ロイエンタールの端正な口元が、ほんのわずかに緩む。笑っているというより、呆れ果てた表情の筋肉が偶然そのように歪んだだけだが、それでも彼なりの柔らかい反応だった。

 

「で、その通信文ですが」

 

「閣下は、ヤン・ウェンリーとの直接的な軍事衝突は避けようとお考えで?数の上では、我々が圧倒的に有利なはずですが」

 

 観葉植物の作り出す仄暗い日陰から身を引き剥がし、アルブレヒトは重厚な革張りのソファへその身を投げ出した。

 

「数だけならな」

 

「数だけ、と仰いますか」

 

「ああ」

 

 彼は先ほどまでの怒りを一時的に肺の奥へ押し込めるように、深く、重い息を吐き出す。

 

「内戦の蓄積ダメージはこちらが上だ。言うなれば、こっちは一軍の筋肉疲労がまだ抜けきっていない状態。対する向こうの同盟軍は、フェザーンの資本でぬくぬくと再編されてピンピンしている」

 

「ぬくぬく、ですか」

 

「ぬくぬくだよ。財布の中身が急に潤った奴らの、あの余裕ぶった顔を見たことがあるだろ。あれだ」

 

「国家規模の地政学を語る表現としては、いささか雑かと」

 

「だが、直感的に伝わるだろ?」

 

「ええ、極めて腹立たしい形で」

 

「この疲弊した状態で総力戦に足を踏み入れれば、最終的な天秤がどちらに傾くか読めない。少なくとも、今最前線で血の気を多くしているマルガレータやアナの艦隊は、あの魔術師に絡め取られ、致命傷を負いかねない」

 

「ほう……。お二人の実力を、ご信任なさらないと?」

 

「そういう言い方をするな」

 

「信任はしている。絶対にな。だが、相手の性質が最悪だ」

 

「ヤン・ウェンリーが直接前線に出てきた場合、ですね」

 

「そう」

 

「ヤン・ウェンリーが出てきたほうが、負けるかもしれない……という現実的な話だ。ティアマトやイゼルローンで、俺が奴と直接刃を交えた肌感覚からの、偽らざる感想だがな」

 

 ロイエンタールは沈黙で応じる。こういう時、彼は決して軽薄な相槌を打たない。相手が己の能力の限界をどう切り取るか、そこにこそ為政者の真の器が露呈すると知っているからだ。

 

「ヤン・ウェンリーと無作為な条件で十回戦えば、俺は半分――五回も勝てない自信があるね」

 

「なんと」

 

「閣下がご自身をそこまで低く見積もられるとは。意外な……」

 

「おいおい、早とちりするな」

 

 アルブレヒトは即座に言葉を遮る。

 

「前言を撤回する気は毛頭ないぞ。用兵において、俺に勝てる人間などこの宇宙に存在しない。俺がナンバーワンだ」

 

 ロイエンタールは、数秒の間、思考を停止させた。

 

「……今のその流れから、その結論にどう着地するのですか」

 

「するんだよ」

 

「図太い」

 

「自己評価に一貫性がある、と肯定的に受け取ってくれ」

 

「極めて特殊な一貫性ですがな」

 

「いいか。俺が言っているのは、机上の単純な勝負論じゃない。ヤツの首を獲るなら『入念な事前準備』が絶対に必要なんだ。幾重にも罠を張り巡らせ、補給線を断ち、情報の目を潰し、退路を物理的に塞ぎ、奇策の芽を一つ残らず摘み取る。あいつが『あーもう面倒くさいな』と匙を投げるような息苦しい盤面を構築して、そこで初めて勝利が確定する」

 

「つまり」

 

「準備なしの平押しでぶつかるのが、最も愚策だということだ」

 

「仮の話だが、俺がマルガレータやアナと本気で艦隊戦をやれば、十回中七回から八回は勝てる」

 

「なかなか率直な自己評価です」

 

「率直じゃない。これでもかなり謙遜して、控えめに見積もった数字だ」

 

「そこは絶対に譲られませんか」

 

「譲らん」

 

 この男の精神構造は、謙遜と傲慢の配合比率が常軌を逸している。己は最強であると一片の疑いもなく言い切る一方で、ヤン・ウェンリーという特異点に対しては、凡人のようにひたすら「面倒くさがる」通常の精神回路では到底両立し得ない矛盾した感情が、アルブレヒトの中では緻密な論理として美しく整合しているらしい。

 

「そういうことだ。あいつらの能力が劣っているわけじゃない。戦術の相性が、決定的に分が悪い」

 

「……何となく、情景が目に浮かびます」

 

 ロイエンタールは窓外の帝都の空へ、ちらりと視線を流す。

 

「お二人とも、圧倒的な勢いと才気で戦線を食い破る戦法は天下一品でしょうが、あの魔術師のように『盤面の外側で見えない仕込みを終えている相手』とは、水と油のごとく相性が悪い」

 

「その通りなんだよ」

 

「アナは血が昇ると突っ込もうとする悪癖があるし、マルガレータは面白そうだと思えばブレーキを壊してアクセルを踏み抜く」

 

「前線指揮官としては、兵の士気を最高潮に高める大変魅力的な資質です」

 

「だが、全軍の命運を預かる政策責任者からすれば、胃壁がボロボロになる」

 

「でしょうな」

 

「しかも今はその二人が、ヤンからの通信文一枚で、だいぶいい感じに温まってしまっている」

 

「『温まっている』という温和な表現で済ませてよろしい事態なのですか」

 

「本当は『沸点に達して煮え滾っている』と正確に表現したい」

 

「戦争というものはな、こっちがやりたいタイミングで始めるのが絶対のセオリーなんだよ。腹が立ったから報復する、面子を潰されたから意地を張る、相手が煽ってきたから乗る……そういう感情的な引き金は、全部三流のやることだ」

 

「まさに今、観葉植物の陰で激怒しておられた閣下が仰ると、謎の説得力がありますな」

 

「今の俺は、ちゃんと隅っこで感情の処理を終えた後の、理知的な状態だからな」

 

「処理の仕方が物理的かつ雑すぎますが」

 

「雑だろうが何だろうが、表の盤面に怒りを持ち込まないことが為政者の義務なんだ」

 

「では、本格的に和平への道を模索されると」

 

「模索、というほど清廉潔白なもんでもない」

 

 アルブレヒトは肩をすくめる。

 

「向こうが『対等な貿易』などと寝言を言い出した時点で、フェザーンを丸ごと奪い取った事実を既成事実化しようとする意図は透けて見える。だから、要求を唯々諾々と受け入れるわけにはいかない」

 

「当然の判断でしょう」

 

「だが、ここで感情に任せて殴り合いの泥沼に飛び込むのも、向こうが仕掛けた罠のど真ん中へ突っ込むことになるかもしれん」

 

「ヤン・ウェンリー個人の罠、ですか。それとも同盟全体の思惑の」

 

「そこが一番厄介な問題なんだよ」

 

 アルブレヒトは、デスク上の通信文のコピーを指先で叩く。

 

「この文章の構成、たぶん八割はヤン本人が書かせたものだ。だが残りの二割は……多分、周囲を取り囲む政治屋どもの小賢しい入れ知恵が混ざっている」

 

「八割が理性で、二割が性格の悪さですか」

 

「むしろ、その性格の悪さが文章全体の不快な完成度を高めている節すらある」

 

 ロイエンタールの喉の奥で、低い笑い声が鳴った。

 

「それは、否定しにくい見解ですな」

 

「だろ?」

 

「……でだ」

 

「ラインハルトがいれば、こういう抽象的で面倒な盤面の対応も、あいつに丸投げできるんだがな。……あいつ、まだ熱は引かないのか?」

 

 ロイエンタールは、微かに肩をすくめてみせる。

 

「そのようです。軍医の見立てでは二、三日で引くだろうとのことでしたが……よほど質の悪いウイルスを拾い上げたようですな」

 

「全く……」

 

「よりにもよって、肝心な時に寝込みおって。これだから子供の免疫力は信用ならん」

 

「肉体年齢的には、もう立派な大人ですが」

 

「精神年齢の話をしているんだ」

 

「相変わらず辛辣ですな」

 

「俺がここでヤンの文章に頭の血管を切れさせている間、あっちは多分、薄暗い部屋で『キルヒアイス……手を握ってくれ……』とか弱々しく泣き言を言っているぞ」

 

「妙な具体性と解像度がありますな」

 

「伊達に長い付き合いじゃない。熱を出して寝込んだ金髪の孺子がどういう生態の生き物に成り下がるか、手に取るように分かる」

 

 ロイエンタールは、それについては一切否定しなかった。沈黙による肯定は、彼自身もその情景をかなり正確に想像できているという証左だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その頃、ノイエ・サンスーシの豪奢な寝室では、アルブレヒトの予言が恐ろしいほどの精度で現実のものとなっていた。

 

 分厚い羽毛布団の海に深く沈み込み、額に重たい氷嚢を乗せたラインハルト・フォン・ローエングラム。宇宙を手中に収めんとする絶対的な覇者も、今はただの熱に浮かされた青年にすぎない。吐き出す息は炎のように熱く、常に星々の彼方を見据える蒼氷色の瞳は潤んで焦点が定まらない。三十九度二分という残酷な体温は、英雄の肉体から容赦なく覇気を奪い去っていた。

 

「あつい……だるい……」

 

 その傍らには、国務尚書の軍服を隙なく着込んだジークフリード・キルヒアイスが控えている。彼は冷水を張った水盆でタオルを硬く絞り、ラインハルトの熱い額に滲む汗をそっと拭った。その一切の無駄を省いた所作は、親友であり、半身であり、そして何より長年この我儘な患者を扱い慣れたベテラン看病人のそれである。

 

「ラインハルト様、ご気分は」

 

「全然、大丈夫じゃない……」

 

「それは顔色を見れば分かります」

 

「冷たいな、お前……」

 

「体温計の数値が温かすぎるだけです」

 

 キルヒアイスの声音は、どこまでも平坦で揺るぎない。

 

「お薬は、きちんと飲みましたか?」

 

 滲む視界の先に、炎のように赤い親友の髪が映り込む。その色彩を脳が認識した瞬間、張り詰めていた彼の神経が安堵に溶け、弱り切った幼子特有の、妙に情感の籠もった表情へと崩れ落ちた。

 

「キルヒアイス……お前か……」

 

「はい」

 

「俺は……もうダメかもしれない……」

 

「ただの風邪です」

 

「頼む、手を……俺の手を握っていてくれないか?お前が側にいないと、このまま宇宙の深い闇に飲み込まれてしまいそうだ……」

 

 キルヒアイスは一切の表情を崩さず、手元のタオルを再び水盆へ沈めた。

 

「……ラインハルト様」

 

「何だ」

 

「ただの風邪で、悲劇の英雄のような気分に浸らないでください。明後日には平熱に戻りますよ」

 

「冷たい!」

 

 ラインハルトは布団の中で抗議の意を示してじたばた暴れたい衝動に駆られたが、筋肉の奥深くまで浸透した気だるさのせいで、実際には毛布がわずかにもぞもぞと動く程度にとどまった。宇宙制覇を目指す覇者の抵抗としては、あまりにもスケールが小さい。

 

「唯一無二の半身である俺が、こんなに苦しんでいるというのに!」

 

「肉体的には苦しんいらっしゃるでしょうが、精神的な深刻度を盛りすぎです」

 

「お前はマルガレータと姉上に挟まれて幸せの絶頂にいるから、俺のことなど……ゲホッ、ゲホッ!」

 

「はいはい、無駄に喋らない」

 

 風邪を引き体力が落ちたラインハルトは、それに比例して精神年齢まで急降下する。その厄介な法則を、彼は少年時代から骨の髄まで知っていた。高熱で参っている時のラインハルトは、普段の傲慢なカリスマと自尊心を満額維持したまま、幼児的な甘えだけが際限なく増幅する。端的に言って、極めて面倒くさい状態なのだ。

 

「今、心底面倒だと思ったな」

 

「思っていません」

 

「嘘だ」

 

「そうやって口答えできるほどには弱っていないようで、安心しました」

 

「安心するな。もっと俺の身を心配しろ」

 

「十二分にしております」

 

「言葉に魂が乗っていない」

 

「熱で聴覚の処理能力がおかしくなっているのでは」

 

「おかしくなっているのは、お前の優しさの絶対量だ!」

 

 その時、扉が突如として空気を切り裂く音を立てた。

 バーン!という擬音語がこれほど似合う開き方はない。

 

 そこに仁王立ちしているのは、フリルのついたエプロンを身に纏ったヒルデガルド・フォン・ローエングラム。

 

エプロン姿でありながら、最前線の装甲擲弾兵すら凌駕しそうな圧倒的な戦闘的オーラを放っている。

 

「ラインハルト!!」

 

吊り上がった彼女の鋭い視線が、寝室の空気を一刀両断する。

 

「またしてもキルヒアイス国務尚書と不倫ですか!!」

 

 ビクッ!とラインハルトの肩が跳ね、反射的に布団を鼻の頭まで引き上げる。

 

「ち、違う!ヒルダ!これは純然たる看病だ!ただ少し手を握ってほしかっただけで……!」

 

「その言い訳が既に充分に怪しいです!」

 

「怪しくない!熱で心が弱っていただけだ!」

 

「弱るとすぐキルヒアイスに甘えて依存するその悪癖、そろそろ根本から改めてください!」

 

「ヒルデガルド様、完全なる誤解です。私は軍医の指示通りに――」

 

「状況は分かっています!」

 

 ヒルダは、鋼のような意志を込めてきっぱりと言い放つ。

 

「論理的には分かっていますが、分かった上で感情として気に入りません!」

 

 恐るべき正直さである。

 高度な理屈と剥き出しの感情を衝突させた結果、彼女の口から飛び出したのは純度百パーセントの独占欲だった。ラインハルトは熱に浮かされた霞む頭で「やはりヒルダの精神構造は強いな」と妙な感心を抱きかけたが、今それを口にすれば間違いなく新たな爆薬に火をつけることになると悟り、固く口を閉ざした。

 

 ヒルダは床を力強く踏み鳴らし、一直線に寝台へと肉薄する。彼女は流れるような動作で、看病中のキルヒアイスの肩を物理的に排除した。そこに躊躇いや遠慮という概念は一切存在しない。キルヒアイスもまた、この理不尽な暴風雨にすっかり慣れきっているのか、抵抗する素振りも見せずにスッと一歩後退する。

 

「妻である私が看病します!キルヒアイス国務尚書、貴方はただちに政務へお戻りなさい!我が夫の心をたぶらかすのは許しません!」

 

「たぶらかしてなどおりませんが……」

 

「状況証拠は真っ黒です!」

 

「ただの高熱の患者です」

 

「それが一番危ない状態なんです!」

 

 布団の奥底から、ラインハルトのくぐもった抗議の声が這い上がる。

 

「ヒルダ、俺はただ手を――」

 

「黙って寝ていてください」

 

「はい……」

 

 あまりにも淀みない即断即決の叱責に、宇宙の覇者は条件反射で素直に引っ込んだ。高熱で脳髄が麻痺している時、人間は強い圧力の言葉に逆らえない生き物だ。

 

「……はいはい。では、お大事になさってください、ラインハルト様」

 

「ああっ……!」

 

 ラインハルトは、遠ざかる親友の背中へすがるように手を伸ばす。

 

「キルヒアイス……行かないでくれ……!」

 

「熱が下がって元気になれば、嫌というほど会えます」

 

「今がつらいんだ!」

 

「存じ上げております」

 

「じゃあここに残れ!」

 

「ヒルダ様に叱られます」

 

「俺が特別に許す!」

 

「ヒルダ様が許しません」

 

「ぐっ……」

 

 キルヒアイスは、ヒルダへ向かって静かに会釈する。

 

「では、後のことはよろしくお願いします」

 

「ええ、お任せください」

 

 ヒルダの返答には、一点の曇りも迷いもなかった。妻としての神聖な使命感と、燃え上がる独占欲が完璧な比率で一体化している。おそらく今の彼女の脳内において、夫の風邪の看病は「家庭内安全保障条約」の最重要任務として位置づけられているに違いない。

 

「……ヒルダ」

 

「何です?」

 

「その……右手に持っている物体は何だ」

 

「長ネギです」

 

「見れば分かる」

 

「では、今の質問には何の意味もありませんね」

 

「どうしてネギを、聖剣でも抜いたかのように誇らしげに掲げているんだと聞いているんだ」

 

 ヒルダは、宇宙の真理を語るような当然の顔で答える。

 

「民間療法です。表面を黒く焼いたネギを首に巻くと、ひどい風邪も一晩で治ると聞きました」

 

「やめろ」

 

「駄目です」

 

「ヒルダ、頼む、頼むから理性を持ってくれ」

 

「理性はあります。そして、愛情もあります」

 

「今はその愛情の目盛りを少し下げてくれ」

 

「絶対に下げません」

 

 ヒルダの表情からは一切の笑みが消え失せている。真顔で言い切るからこそ、底知れぬ凄みがあった。

 

「さあ、ラインハルト様。じっとしていてください」

 

「いやだ」

 

「子供ですか」

 

「三十九度の熱がある人間に向かって、その容赦のない言い回しは卑怯だぞ」

 

「平熱の時から子供みたいなところがあります」

 

「それは今、この場で言うべきことか!?」

 

 ヒルダは慈悲という言葉を辞書から消し去った動作で寝台の縁へ腰を下ろし、ラインハルトのパジャマの胸倉を軽く、しかし逃げられない力で掴む。

 

「首を、少し上へ向けてください」

 

「待て待て待て、近い、ネギが近い!」

 

「抜群に効くそうです」

 

「匂いが暴力的に強そうだ!」

 

「少しの我慢です」

 

「物理的に嫌だ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヒ、ヒルダ……頼むから勘弁してくれ……」

 

「駄目です。これも治療です」

 

「息が……ネギ臭い……!」

 

「人間の嗅覚はすぐに慣れます」

 

「こんな匂いに慣れたくない!」

 

「ラインハルト様、時には諦めも肝心です」

 

「こんな惨めな局地戦で、その格言を聞きたくなかった!」

 

 ヒルダは手際よくネギを首の周りに配置し布で固定しながら、少しだけ非難めいた眉を寄せる。

 

「大体、どうして熱を出したというだけで、キルヒアイス提督に手を握ってもらおうとするのですか」

 

「……心が弱っていたからだ」

 

「弱るたびにそのパターンです」

 

「お前だって、辛い時は姉上に弱音を吐くだろうが」

 

「それとこれとは話が別です」

 

「何がどう違う」

 

「私には、妻としての正当性があります」

 

「横暴すぎる理屈だ」

 

「夫婦とはそういう生き物です」

 

 ラインハルトは心底納得のいかない顔で睨みつけるが、熱で顔全体が熟れた果実のように赤く染まっているため、抗議の迫力は悲しいほどに皆無だった。

 

「兄上……助けて……」

 

 ぽつりと虚空に落ちたその一言は、理性からの助け舟なのか、それとも熱に浮かされた完全な泣き言なのか、発した本人にすらよく分かっていなかった。

 ヒルダは、ネギを固定する手を一瞬だけピタリと止める。

 

「……アルブレヒト閣下にまで助けを求めるおつもりですか」

 

「今なら多分、理不尽に虐げられている俺の味方をしてくれるはずだ……」

 

「どうでしょう」

 

 ヒルダの分析は、どこまでも冷徹だった。

 

「むしろ『その程度のネギくらい我慢しろ、この風邪引きの金髪の孺子が』と、冷たく吐き捨てられる気がします」

 

 ラインハルトの脳内で、兄のような存在である宰相の顔と声がリアルに再生される。

 

「……いかにも言いそうだな」

 

「絶対に言います」

 

「確実だな」

 

「百パーセント確実です」

 

 その一点においてのみ、夫婦の認識は寸分の狂いもなく完全に一致した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやほんと、何でこういう最悪のタイミングに限って寝込むかな、あいつは」

 

「風邪ですからな。戦略的な意図を持って狙って寝込むわけではないでしょう」

 

「そんな理屈は分かっている。だがな、こういう『今だけは絶対に寝込むな』という絶望的な瞬間に限って、人間の免疫細胞は裏切るんだ」

 

「マーフィーの法則、というやつですな」

 

「俺だってな、昔は三十八度や三十九度の熱くらい、気合と根性でどうにでもなると思っていた時期があった」

 

「今は違うと」

 

「違う。高熱で脳味噌が茹で上がっている時の判断力など、絶対に信用してはならない」

 

「人間は体温が三十八度を超えると、だいたいろくでもない方針を口走る生き物だ」

 

「……生々しい経験談の響きですが」

 

「紛れもない経験談だ」

 

「ちなみに、過去に何を仰ったので?」

 

「覚えてない。幸いなことにきれいさっぱり記憶から飛んでいるが、周囲の反応から察するに、おそらく国家が傾くレベルでろくでもない命令だったはずだ」

 

 ロイエンタールの瞳の奥にわずかな興味の光が点るが、あえて深追いはしない。本人の記憶から抹消されているなら、パンドラの箱は閉じたままにしておくのが賢明な類の過去だろう。

 

「ともかく、ラインハルトが使い物にならない以上、今は俺が動くしかない。ヤンとの交渉の形を整える。同時に、前線のマルガレータたちが変なノリで暴発しないよう、首輪の手綱を限界まで引く。地味で、死ぬほど面倒で、歴史書にも残らず、誰からも褒められない泥水啜りの仕事だ」

 

「閣下の御気性に最も合致した、天職のようにお見受けしますが」

 

「……本気で褒めているのか、それは」

 

「ええ、極めて高く評価しております」

 

「なら、もう少しこちらの胃が休まるような、労いのこもった言い回しをしてくれ」

 

「では、誰の目にも触れない暗闇の底から、この巨大な帝国を屋台骨で支え続ける崇高なお仕事、と」

 

「急にブラック企業の求人ポスターみたいな胡散臭さが出るな」

 

「実態に近い表現かと」

 

 銀河の命運を掌握し続けるには、どうやら天賦の才だけでは到底足りないらしい。




勝てる戦いほど、慎重になる。

それが、彼らの戦争だった。
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