銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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扉は開かれている。

問題は、誰が先に踏み込むかだ。


交渉という名の拘束具

「……よし、とりあえず返信だ」

 

紙の擦れる音とともに、アルブレヒトは書き上げたばかりの返書をひらひらと振せ、向かいに座る男へと差し出した。

 軍務尚書オスカー・フォン・ロイエンタールは、秀麗な片眉をわずかに跳ね上げてそれを受け取る。

 

「この内容なら、戦意旺盛なアナの溜飲も少しは下がるだろ」

 

「あいつ、放っておくと要塞ごと回廊に突っ込みかねないからな。外交文書の体裁を取った、妻向け鎮静剤だと思ってくれ」

 

ロイエンタールは流麗な筆致に目を通し、皮肉げに口角を吊り上げる。

 

「はっ。恫喝には毅然と立ち向かい、かつ和平の窓口は閉ざさない。……さすがは閣下、魔術師の鼻柱を折りつつ、見事な逃げ道まで用意される」

 

「逃げ道って言うな。外交の梯子だ」

 

「踏み外せば致命傷になるあたり、やはり逃げ道でしょうな」

 

「お前、ほんとこういう時だけ詩人みたいな言い回しをするよな」

 

「ランズベルク伯に対抗してみました」

 

「やめろ。あの文豪、次に何を書いて売り出すか分からん」

 

アルブレヒトは頭痛を散らすように軽く手を振った。

 返書の内容は明快だ。丁寧な挨拶には礼を返す。

 

『自由惑星同盟総統ヤン・ウェンリー元帥へ

丁寧な挨拶、痛み入る。しかし我々帝国軍は未だ意気軒昂。数多の精鋭、不屈の闘志は健在である。

貴国の艦隊が押し寄せようとも、我々は回廊出口にて鉄壁の縦深陣を敷き、万全の準備をもって待ち受ける用意がある。

よって、和平を望むのであれば、恫喝ではなく「握手」をもってすべきだろう。

外交の窓口は常に空けておくので、いつでも来るといい。

では、次は戦場で。

帝国宰相:アルブレヒト・フォン・ファルケンハイン』

 

 字面だけを追えば、ひどく強硬だ。だが強いだけではない。相手の鼻先をぴしゃりと叩きつつも、扉の鍵は開け放ってある。アルブレヒトなりの「怒ってはいるが全面戦争はまだしたくない」という、たいへん面倒くさい本音が滲み出た文面だった。

 

「ふぅ……」

 

彼は背もたれへ頭を預け、天井の豪奢な装飾をぼんやりと見上げた。

 

「さて、重苦しい仕事はここまでだ。どうだ、ロイエンタール。今夜は……景気づけに一杯」

 

「お付き合いいたします」

 

ロイエンタールの返事は妙に早く、そして妙に艶を帯びていた。

 

「いい店を知っておりましてな。オーディンの喧騒を忘れるような、極上の夜が過ごせる場所です」

 

「その言い方、九割方ろくでもない店だな」

 

「残り一割は期待してよろしいかと」

 

「お前の一割は信用ならん」

 

「閣下の『窓口は空けておく』よりは信用できます」

 

「腹立つな」

 

だが、腹は立っても抗いがたい魅力がある。

 

 少しくらい羽を伸ばして何が悪い。アナスタシアが最前線にいる今こそ、絶好の好機だ。鬼の居ぬ間の洗濯、というやつである。いや、毒蛇の居ぬ間の換気と言ったほうが正確かもしれない。とにかく今日は、少しだけまともな男の夜を過ごしたい。そういう切実な渇きが彼にはあった。

 

「よし、行くか」

 

立ち上がりかけた、まさにその時だった。

 執務室の重厚な扉の影から、小さな足音がぱたぱたと近づいてくる。

 

「……私も、行っていいですか?」

 

ひょっこりと顔を出したのは、エリザベートだった。

 

 共同皇帝の片割れであり、可憐さと気高さと、時折よく分からない方向へ突き抜ける好奇心を併せ持つ少女である。アルブレヒトは一瞬だけ、毒気を抜かれたように素直な微笑みを浮かべた。

 

「ん? エリザベートちゃんか。もちろんいい……」

 

「…………ぞうううううう!!!!!」

 

宰相府の静寂を引き裂くように、およそ宰相らしからぬ絶叫が響き渡る。

 

 ロイエンタールは片手で口元を隠し、肩を震わせていた。笑っている。大いに笑っている。性格が悪いので隠す気すら毛頭ないらしい。

 

『待て俺。この子を連れていくのは、いろんな意味で危険じゃないか!?』

 

 普通の少女ならまだいい。いや、良くはないがまだ理解の範疇だ。だがエリザベートは普通ではない。可愛い。賢い。育ちがいい。だが、アナへの愛が強すぎるせいで、本質的に女の子がかなり好きだ。だいぶ好きだ。相当好きだ。

 

たぶん普通の男が歓楽街で味わうとされる楽しみの八割くらいを、彼女はまったく別の方向で回収しにいく。

 

潤みを帯びた瞳が、上目遣いで彼を射抜く。たいへん破壊力が高く、見た目だけなら天使の嘆願だ。だが、天使が何をお願いしているかが最大の問題だった。

 

「アル様、どうされました?」

 

「……わかっております。殿方たちが通う、可愛い女の子のたくさんいる店……。私も、一度行ってみたいのです!!」

 

ロイエンタールが、とうとう堪えきれずに吹き出した。

 

「ククッ……共同皇帝陛下とご一緒とは。これは面白い夜になりそうですな」

 

「お前は黙れ」

 

「嫌です」

 

「即答か」

 

「こんな愉快な展開を前にして、どうして黙れましょう」

 

『夫婦でキャバクラ……。新しすぎるぞ帝国』

 

内戦も改革も乗り越えてきた新生帝国だが、さすがにこのジャンルの前例は歴史のどこを漁っても出てこないだろう。後世の歴史書に載るとしても相当いやだ。

 

「だめ、ですか?」

 

「いや……だめとは言わんが……」

 

「行きたいです」

 

「勉強になりますし」

 

「何の勉強だ」

 

「男性社会の社交文化についての理解です」

 

「言い方が賢すぎて止めにくいな」

 

「あと、可愛い女の子とお話ししたいです」

 

「そっちが本音だろ」

 

「はい」

 

清々しいほどに正直だった。

 

「むしろ好感が持てますな」

 

「お前は黙ってろって言ってるだろ」

 

「本日は何度でも無視いたします」

 

結局、三人は夜の街へと繰り出すことになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同盟軍旗艦《ヒューベリオン》

 

 

 青白い照明が落ちる艦橋のスクリーンに、帝国からの返書が投影されていた。

 

文面は強気だ。だが強気なだけではない。

 

 我々帝国軍は未だ意気軒昂、精鋭も闘志も健在。回廊出口で鉄壁の縦深陣を敷き、万全の準備で待ち受ける。和平を望むなら恫喝ではなく握手で来い。窓口は常に空けておく。では次は戦場で――。

 

ヤンは読み終えると、帽子のつばを指先で軽く弾いた。

 

「……『窓口は空けておく』か」

 

「どうです?」

 

フレデリカが探るように尋ねる。

 

「ファルケンハインらしいよ」

 

ヤンはふっと肩の力を抜いた。

 

「強気な言葉の裏で、ちゃんと握手の準備をしている」

 

「総統閣下の脅迫文に対する返答としては、だいぶ大人ですねえ」

 

アッテンボローが感心したように息を漏らす。

 

「誰の脅迫文だって?」

 

「ご自覚がないのが怖いところです」

 

「なるほど。つまりあちらさん、喧嘩は売り返すが、本気で殴り合う気はまだない」

 

「そういうことだろうね」

 

ヤンはスクリーンに並ぶ文字の羅列をもう一度眺めた。

 

「となると、こちらから窓口を使ってみる価値はある」

 

「本当に行くんですか?」

 

フレデリカの声には、隠しきれない懸念が滲んでいた。

 

「使節として?」

 

「うん」

 

ヤンは日常の買い物にでも行くような軽さで答えた。

 

「だって、あちらが窓口を開けるって書いちゃったから」

 

「その言質を取る気満々ですな」

 

「ヤン提督、いや総統閣下は、本当にああいう細かい隙を見逃しませんな」

 

「隙というか、向こうがちゃんと作ってくれた階段だよ。せっかくあるなら踏ませてもらう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロイエンタールが手引きした高級クラブは、いかにもこの豪奢な男が好みそうな空間だった。

 

ベルベットの柔らかな照明が落ち、グラスの中で揺れる琥珀色の酒は喉を焼くほどに上等。それでいて内装は決して下品にならず、請求書だけが静かに冷酷な数字を刻むであろう場所。

 

働く娘たちの香水は甘く、客の自尊心をくすぐる所作は芸術の域に達している。なるほど、軍務尚書が「極上の夜」と豪語するだけのことはある。

 

そしてロイエンタールは、入店後ものの数分でその本領を遺憾なく発揮していた。

 すでに両脇に艶やかな美女を侍らせ、流麗な動作でシャンパンを傾け、場の空気を完全に掌握しきっている。彼の周囲だけ、もはや完成された社交界の絵画のようだ。どこへ行っても様になる男というのは存在するが、ここまで呼吸するように水商売の空気に馴染まれると、流石に腹が立つ。

 

 一方で、アルブレヒトは独り、無言で酒を煽っていた。

 誰も寄ってこないのである。

 そしてその隣では、エリザベートが予想を遥かに超える、しかし予想通りの暴れ方を展開していた。

 

「ねえ……? 良いでしょう?」

 

熱を帯びた甘い声。エリザベートは、隣に座るうら若きホステスの胸に手を這わせていた。

 

 潤んだ瞳は危険なほど真剣だ。あまりの熱量に、手練れであるはずの娘のほうが先に視線を彷徨わせ、頬を染めている。

 

「こんなに固くなって……貴女の、ここ……」

 

「へ、陛下……! お許しを……!」

 

娘の顔は耳の先まで真っ赤に染まっていた。胸元の鼓動が早鐘を打っているのが、傍目にも分かる。

 エリザベートは、どう考えても酒の回り方が危ない方向へと振り切れていた。声がやわらかく、吐息が近く、見つめる視線がひどく熱っぽい。

 

何というか、男が女にやると即座に社会的問題に発展する距離感を、女の子に向けて全力で実践しているのだ。

 

「……うーん。目の毒としか言いようがない」

 

誰に向けての感想かは、自分でもよく分からなかった。

 

「というか、この子、俺の横で何やってんの?」

 

ロイエンタールは美女の腰に腕を回したまま、どこか楽しげにその光景を眺めている。

 

「そうですか? 見ている分には、どの芸術品よりも面白いですが」

 

「お前は楽しいだろうな。俺は立場的に全然楽しくない」

 

「宰相閣下もお混ざりになりますか?」

 

「何にだ!?」

 

「後宮の選定会議に」

 

「始まってねえよ!!」

 

エリザベートはホステスのうなじに顔を寄せながら、アルブレヒトに向けて妙に冷めた声を落とした。

 

「当然でしょう……」

 

「何がだ」

 

「ここにいる娘たちは皆、知っているのです。貴方の正妻であるアナお姉様が……どれほど恐ろしく、どれほど執念深い『毒蛇』であるかを」

 

「え?」

 

アルブレヒトの思考が停止する。

 

「俺、遊ぶことすらできないの!?」

 

「当然です」

 

エリザベートは娘の肩を抱いたまま、ちらりともこちらを見ない。

 

「結婚して女遊びはいけませんよ」

 

「いやそれは一般論としては正しいけど、俺いま接待も受けられてないんだが!?」

 

「当然でしょう」

 

「二回言うな!」

 

「毒蛇に睨まれたい娘がどこにいるんですか」

 

「そんなにか!?」

 

「そんなにです」

 

アルブレヒトは恨みがましくロイエンタールの方を睨みつけた。

 

「お前、知ってたな?」

 

「もちろん」

 

「言えよ!」

 

「その絶望する顔が見たかったので」

 

「最低だなお前!」

 

「今さらです」

 

エリザベートは、上気したホステスの娘の下に、そっと指先を這わせた。

 

「ああ、貴女……濡れてきちゃって……なんていけない子なの……」

 

「陛下ぁ~!!」

 

娘の瞳は完全に潤み、とろんと溶けている。もうだいぶ危ない。店としても多分、建国以来の前例がない事態だろう。

 

何しろ皇帝陛下が、自ら店の娘を本気で口説き落としているのだ。法的にも慣習的にも対応マニュアルが存在しない。

 

 そしてエリザベートは、至極当然のことのように、さらっととんでもない爆弾を投下した。

 

「よし、決めたわ。この子は、明日から私の『後宮』に連れて行きます!!」

 

「ダメだ!!」

 

頭の中で警鐘が鳴り響く中、アルブレヒトはたまらず腰を浮かせた。

 

「エリザベートちゃんも酔いすぎだ! その子はあくまで店の子だろ!」

 

「でも可愛いです」

 

「そうだろうけどそういう問題じゃない!」

 

「私が責任を持って可愛がります」

 

「責任の方向性が全然安心できない!」

 

ホステスの娘は、陛下に抱き寄せられながら半分夢心地で呟く。

 

「わ、私……後宮に……?」

 

「行かせるか!!」

 

「……夜は俺がたっぷり相手をしてやるから、その娘を離せ!! 国家問題になるわ!!」

 

叫んだ瞬間、豪奢な店内の空気が、ふっと凍りついたように止まった。

 

 直後、ロイエンタールが腹を抱えて大爆笑した。普段の彼からは想像もつかないほど、盛大に笑い転げている。

 

「ハッハッハ! 宰相閣下の嫉妬と女帝陛下のナンパ……今夜の『戦記』は、ランズベルク先生の新作よりもはるかに面白くなりそうですな!」

 

「笑ってる場合か!」

 

「笑うしかありますまい!」

 

「お前ほんと他人事だな!」

 

「実際、完全に他人事です」

 

そしてその狂乱の夜の最中に、過酷な現実は、空気を読むことなく唐突にやってくる。

 クラブの奥に設けられた貴賓用通信室から、店の支配人が血の気を失った顔で転がり込んできたのだ。

 

「た、大変失礼いたします……宰相閣下に、イゼルローン方面より最優先の超光速通信が……!」

 

アルブレヒトはこめかみを押さえた。

 

「今か」

 

「今ですな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひんやりとした通信室へ移ったアルブレヒトの前に、モニタ越しにミュラーの硬い表情が浮かび上がった。

 

「何だ。前線で何があった」

 

「報告します」

 

ミュラーの声はいつも通り落ち着き払っている。

 

「マルガレータ元帥の方へ使節団が来ました。しかも……ヤン・ウェンリー総統自ら、会談を望んでおります」

 

「何!?」

 

「じゃあ、あの過激な通信文は何だったんだ!? 意味が分からない! あんな『ガイエスブルクを破壊する』みたいな脅迫状を送りつけておいて、自分からノコノコ使節としてやってくる!? 無意味に緊張状態を作り上げて、帝国のトップたちをパニックにさせただけだろうが!」

 

「それは……私にも計りかねます」

 

ミュラーは心底困惑しているようだった。

 

「ともかく現在、ヘルクスハイマー閣下が旗艦に招き入れて対応されておりますゆえ、至急ご指示を頂きたく」

 

「マルガレータが?」

 

 よりによって、あの勢いと恋愛感情と直感だけで宇宙を駆けている少女元帥のところへ、銀河最高峰の詐欺師が自ら飛び込んできたのである。嫌な予感しかしない。というか、もう半分くらい手遅れになっている予感すらする。

 

「……わかった。俺が直接行く」

 

「はっ」

 

「通常なら一か月はかかる距離だが、最速で三週間で行く。それまで絶対に何もするなよ。挑発に乗るな。ヤンがどれだけ飄々としていようが、トリューニヒトがどれだけ上品に喋ろうが、絶対だ」

 

「承知しました」

 

「こちらでも最大限、慎重に対応いたします」

 

通信が切れる。

 

「……で?」

 

「どうなされます」

 

「どうもこうもない。行くしかない」

 

「酔っ払った陛下を連れていくわけにもいくまい」

 

エリザベートはまだホステスの娘を大事そうに抱き寄せている。

 

 ただし今度は、その横でなぜか別の娘までが熱い吐息を漏らし、頬を染めていた。増えている。たいへんまずい事態だ。

 

「ロイエンタール」

 

「はい」

 

「お前、後始末を手伝え」

 

「店のですか、皇帝陛下のですか」

 

「両方だ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その頃、帝国軍旗艦《クリームヒルト》

 

 

 

「……お久しぶりですね、ヤン総統」

 

「先の捕虜交換の時以来ですか。大軍を出撃させながら、護衛の艦隊もつけずにたった一隻で来るとは……命がいらないのですか?」

 

「いえ、命は惜しいですよ」

 

ヤンは相変わらず、どこ吹く風といった風情だ。

 

「でも、この状況で私を拘束したり殺したりするのは、帝国にとって大義名分がないでしょう。それに、ファルケンハイン宰相から『窓口は開けておく、交渉に応じる』と明言されましたしね」

 

『……言質を取らされたか?』

 

 アルブレヒトの返書を、こうもあっさりと盾に取ってくる。なるほど、これが魔術師のやり方か。力で強引に押し通るのではない。相手が礼儀と合理性から紡いだ一文を、そのまま目に見えない拘束具へと変えてしまうのだ。

 

 それでも、彼女は帝国の軍人としてすぐには引かない。

 

「しかし、敵国の首魁がのこのこやって来ているのに、捕らえないなどという軍隊がありえますかね?」

 

「妾がここで『殺せ』と命じれば、貴方は終わりじゃぞ?」

 

ヤンは少しも動じなかった。

 

「そう思われるなら、実行されればよろしい」

 

「……しかし、そうした場合、貴女は少なくともここで私と一緒に死ぬことになります」

 

背筋を冷たいものが駆け上がった。

 

『何か仕掛けたか……?』

 

この男ならやりかねない、と彼女は本能で悟った。自身の心臓が止まればこの空域の反物質爆弾が起爆する、くらいの無茶は平然と用意していそうだ。

 

『ここでファルケンハインのためにヤンと心中するなど、ごめんじゃ! 妾は生きてジークに抱かれるのじゃ!』

 

思考のプロセスはだいぶ素直だが、本人は至極真剣である。

 

「……冗談ですよ。客人をもてなすのは帝国貴族の嗜みです」

 

「それは重畳」

 

ヤンもまた、あっさりと矛を収める。

 

「とりあえず、ファルケンハイン宰相が到着するまで待たせていただきます。……紅茶は良いものをお願いしますよ」

 

「注文が多い男じゃな」

 

「年を取ると、命の次くらいにはお茶が大事になりますから」

 

「まだその年でもあるまい」

 

「気分の問題です」

 

空気がわずかに弛緩したその瞬間を見計らったかのように、トリューニヒトが一歩前へ進み出た。

 

 芝居がかった一礼は相変わらず滑らかで、寸分の隙もない。言葉の切り口も、身のこなしも、すべてが「私は穏やかです、上品です、信用してもよさそうです」という完璧な演出に裏打ちされている。これを信用してはいけないと頭では分かっていても、うっかりその声に耳を傾けてしまいそうになるのが、この男の持つ最も厄介な毒だった。

 

「ヤン総統、そのように女性を恫喝するような口を利くものではありますまい」

 

「恫喝って言うのやめてくれませんか」

 

「事実関係の確認ですよ」

 

「確認が物騒なんですよ、あなたは」

 

トリューニヒトは、顔面に貼り付けた微笑みを微塵も崩さない。

 

「……ヘルクスハイマー閣下。我々はあくまで平和のための外交使節です。総統自らお越しになったのは、それほど『本気』であるとの気持ちの表れ……そう汲んでいただけると幸いです」

 

「卿は?」

 

「申し遅れました。私、ヨブ・トリューニヒトと申します。現在は高等参事官を拝命しており、今回の交渉の『全権代理』を任されております」

 

「うん、そういうことです。細かい話は彼がやります」

 

「総統自ら来ておいて、そこは人任せなんですね」

 

「だって、細かい話が得意な人が隣にいるんですよ」

 

「使わないともったいないでしょう」

 

「そこまで堂々と外注されると、逆に清々しいですな」

 

 だが、その流麗な顔立ちには見覚えがあった。

 

「……そういえば見覚えがある。先の同盟最高評議会議長ですか。食えない男ですね」

 

「お褒めにあずかり光栄です」

 

トリューニヒトは水が流れるように滑らかに返す。

 

「褒めてはおらん」

 

「褒め言葉として受け取る度量も、政治家には必要なのです」

 

 この男は、ひどく嫌なタイプだ。ヤン・ウェンリーのように、意表を突く露骨な策士ではない。もっとぬめぬめと、掴みどころがない。

 

「ファルケンハイン宰相がお越しになるまでは、ただ待つというのも時間の浪費」

 

トリューニヒトは、とろけるように柔らかい声で囁いた。

 

「……ヘルクスハイマー閣下、小生とひとまず『事前協議』を詰めましょう」

 

「いや……妾、いや、私はそのような国家間の外交権限は持っておらん。アルブレヒト閣下を待て」

 

マルガレータの返答は、軍人として極めてまっとうなものだった。

 

 実際、帝国の外交全権は宰相にある。前線司令官が勝手に国家間交渉の枠組みを取りまとめるなど、危険極まりない越権行為だ。後で確実に軍法会議ものの叱責を受ける。

 

 だがトリューニヒトは、その正論に正面からぶつかるような愚は犯さない。

 まったく別の、無防備な角度から刃を滑り込ませた。

 

「何をおっしゃいます」

 

「ヘルクスハイマー閣下は、弱冠17歳にして帝国元帥、そして『宇宙艦隊司令長官』を拝命するお方。こと軍事面の取り決めについては、最前線のトップである貴女が先に話を詰めておくことで、愛しのキルヒアイス国務尚書の負担を減らすことに繋がりましょう」

 

「え?」

 

声の調子が、明らかな動揺を含んで一段裏返る。

 

「……ジーク……いえ、キルヒアイス国務尚書の?」

 

「その通り」

 

彼女の心の奥底を見透かしたように深く頷いた。

 

「政務に追われる彼のために、貴女が平和への地均しをしておくのです。前線のトップ同士が合意した軍事的な枠組みを、ファルケンハイン宰相も現場における交渉の成果として、無碍に却下することもありますまい」

 

「……………」

 

『ジークフリード・キルヒアイスの助けになる』

 

 それは、彼女の純粋な心に対して極めて効率よく作用する劇毒だった。普通の野心や栄達への欲求では、この誇り高い少女を動かすことは難しい。だが、恋と献身、そして「愛する人の役に立ちたい」という痛切な感情に対しては、彼女はガラス細工のように脆いのだ。

 

ヤンは黙って、冷めかけた紅茶を啜っている。

 

 彼はこの場では、もはや一切の余計な口を挟まない。後半の心理誘導は、完全にトリューニヒトの独壇場だからだ。適材適所というやつである。たいへん邪悪な意味で。

 

「……軍事面の、枠組みだけなら話は聞きましょう」

 

「ええ、それで十分です」

 

トリューニヒトの返事は、獲物を逃がさない蜘蛛のように素早かった。

 

「まずは敵対行為の偶発的拡大を防ぐための、前線における行動規範。たとえば通商路監視の範囲、接触時の通告手順、使節往来の安全保証、観測艦への不干渉、そういった辺りから」

 

「それなら……」

 

マルガレータは思考を巡らせる。

 

「いや、しかし」

 

「もちろん最終決裁は宰相閣下ですとも」

 

トリューニヒトは、彼女が僅かな罪悪感すら抱かないよう、きっちりと美しい逃げ道を用意して退路を塞ぐ。

 

「ですが、現場で骨格を作っておけば、国務尚書も宰相もずいぶんと楽になる」

 

「ジークが……楽に……」

 

「その通りです」

 

実に良くない会話だった。

 

 だが、会話の糸口としてはあまりにも自然で、滑らかすぎた。

 

「……では、少しだけです」

 

ついに、マルガレータが決壊した。

 

「くれぐれも、仮決めの整理だけです」

 

「もちろん」

 

「それで結構です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数時間後。

 

 同盟側の巡航艦の内部では、初期の交渉を終えたヤンとトリューニヒトが、自室のテーブルを挟んで向かい合っていた。

 

「このような形でよろしいですかな? 総統」

 

「ああ」

 

「今の銀河帝国は、極めて歪だ。旧態依然とした門閥貴族も、強大な皇帝権力も残しつつ、平民の権利や台頭も許容している。それを、アルブレヒトとラインハルトという首脳陣個人の超人的な力量とカリスマだけで、無理矢理に捌いて回している状態だ」

 

「恐ろしい綱渡りですな」

 

「だからこそ、つけ入る余地がある」

 

「一気に軍事面でアプローチして警戒されるより、こうして少しずつ『対立の種』を仕込んでいけばいい。越権行為、手柄の奪い合い、現場判断の不協和音の積み重ね。巨大な組織の崩壊は、常に内部の小さな軋みから始まる」

 

トリューニヒトは感嘆したように、わざとらしく息を漏らす。

 

「恐ろしいお方だ。用兵の神髄だけでなく、謀略の才能もお有りになる」

 

「後半の心理誘導は、完全に貴方の策だろうに」

 

「他人に責任を押し付けないでいただきたい」

 

「これは失礼」

 

トリューニヒトは悪びれる様子もなく、すました顔で微笑んだ。

 

「全ては同盟市民の、ひいては『私の安全な生活』のためです」

 

「正直なことですね」

 

ヤンは鼻で笑う。

 

「そこだけは信用できる」

 

「理想のために嘘をつく人間より、己の保身のために本音を語る人間のほうが、時にましです」

 

「それもまた嫌な真理だ」

 

「政治とはそういうものです」

 

「年金生活も似たようなものだけどね」

 

「総統閣下は、国家運営を年金生活の延長として語る癖をおやめになっては?」

 

「やめたら私らしくなくなる」

 

「それは困りますな」

 

「困るのか」

 

「ええ。今さらもっと大物ぶられても気色が悪い」

 

ヤンは少しだけ苦笑を漏らした。

 

「ともかく、マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマーは若い。そして情熱的だ。なら、つけ入る隙もあるかもと思う。しかも、これは思った以上にうまくいくかもしれない」

 

「ヘルクスハイマーの義父は、ファルケンハイン宰相の腹心中の腹心、オスカー・フォン・ロイエンタール元帥」

 

「彼女を独断専行させれば、帝国軍内部に少なからぬ混乱を生み出せますな」

 

「それに」

 

「婚約者であるキルヒアイス国務尚書は、ローエングラム侯の半身であり、かけがえのない親友だ。……つまり、あの純真な娘は、帝国軍における『両陣営の架け橋』であり、同時に最大の弱点でもある」

 

「急所、ですな」

 

「そう」

 

ヤンは目を閉じた。

 

「純粋な人間は、良くも悪くも揺らしやすい。悪意がないぶん、自分が何を崩しているかに気づくのが遅れるから」




この一手、どう見えましたか。

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