銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
旗艦《クリームヒルト》 私室
この部屋は主が主である。厳格なる帝国軍艦の基準からすれば、いささか軌道を外れていると言わざるを得ない。視界の隅には愛らしい小物が鎮座し、照明の色温度も妙にやわらかい。軍人の私室というよりは、さながら『令嬢の秘密基地』といった風情であった。
もっとも、無造作に置かれているのは広域戦略図と暗号通信端末、そして決裁済みの血生臭い軍令書なのだから、本質が軍事施設であることに変わりはない。見た目だけが、ひどく甘やかなのだ。
柔らかな絨毯が敷かれた部屋の中央で、マルガレータは超光速通信の高度暗号回線を開いていた。
モニターの向こうに座すのは、帝都オーディンの深い闇を纏う男――人事局長、オーベルシュタインである。
酷薄な彫像のようなその顔立ちに、しかしマルガレータはすっかり慣れきっていた。慣れているどころか、胸の奥で甘い疼きを覚えるほどに好ましく思っている。無論、前線司令官たる矜持にかけて、そのような感情は努めて隠蔽しているつもりであった。あくまで、つもり、である。完全に隠し通せているかは、また別の問題だった。
「……というわけなんじゃが。どう思う、オーベルシュタイン」
「……さて。閣下ご自身は、どう思われますか」
「簡単に言えば『離間』の意図が透けて見えるわ。ジークの話を出せば、この妾がすぐ尻尾を振って転ぶとでも思ったのか……愚かの極みじゃな。妾の愛を、舐めるな」
ふんと鼻を鳴らすと、氷のように冷たいオーベルシュタインの口元が、ごくわずかに弧を描いた。
笑みを浮かべたのかどうか、常人には決して知覚できない程度の微細な筋肉の動き。だが、マルガレータには分かる。少なくともこの男は、現状を『面白い』と評価している。
「ご賢察。まさにその通りでしょう」
「……ここで貴女が彼らと事前合意を結べばどうなるか。ファルケンハイン宰相がそれを却下すれば、マルガレータ閣下の面目は丸潰れになる。逆に認めれば、最前線の司令官の『独断専行』を容認し、ひいては軍人に政治関与を許した悪例となる。――どちらに転んでも、閣下のためにはなりますまい」
「ふむ」
彼の言い分は痒いところに手が届くように、最も嫌な部分まできっちりと的確な言語化をしてくれるため、軍事・政治の相談相手としてはこの上なく優秀である。だが、恋人にしたいかと言われると致命的に人を選ぶタイプだ。もっとも彼は、そのような情を求められても平然と「非効率です」と切り捨てそうだが。
「では、事前合意はしない方向で、のらりくらりとはぐらかすか?」
「いえ。それでは相手に『通じない』と悟られ、すぐさま次の対策を取られます」
「閣下にはしばらくの間、『恋に生きる愚かな乙女』を演じていただきましょう」
「おい」
マルガレータは片眉を吊り上げた。
「適任かと」
「おい」
抗議の声を上げたものの、本気の怒りは湧いてこなかった。半分は事実だからだ。
彼女は若い。そして情熱的だ。キルヒアイスの話になれば、血の巡りが良くなるのを自分でも止められない。ヤンもトリューニヒトも、その若さと情念に賭けてきている。ならば、その愚かな期待を逆用するのが最も効率が良い。
「逆に、相手が絶対に飲めないような法外な条件を提示したり、後から追加したりして、宰相閣下が到着されるまでの時間を稼いではいかがでしょう」
「うむ……」
「それなら、相手に何か別の手を打たせる隙も与えぬ……か。悪くない」
「ええ。相手は貴女を『分かりやすくて扱いやすい娘』と見下している。ならば、その期待どおりに踊るふりをしつつ、実際には交渉を一ミリたりとも進めない。それが最善の盤外戦です」
「なるほどなあ」
「お前、相変わらず人の心の汚い使い方にかけては天才じゃな」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めておらん」
ここまではよかった。気心の知れた、いつものやり取りだ。
問題は、その次だった。
「……しかし閣下。閣下にそのお気持ちさえおありなら、これは得難い好機にもなりますぞ」
「ほう?」
「彼らをうまく操り、ある程度『裏の密約』を取っておけば、来たるべき日に彼らを脅し、政治の駒として利用することも――」
「オーベルシュタイン」
普段の彼女は華やかで、明るく、炎のような勢いがある。だが、ひとたび軍人としての顔を覗かせた瞬間、その熱量は絶対零度へと反転するのだ。
「お主が妾を焚き付けたいのは分かるが、それは悪手だ」
「同時に、妾の弱みを相手に握らせることになる。時が経ち、状況が悪転すれば、あ奴らは保身のために真っ先に妾を売り飛ばすであろうよ」
オーベルシュタインはわずかに沈黙した。
長い時間ではない。だが、計算機のような彼にしては、明確な『間』があった。やがて、画面の中で深く頭が下げられる。
「……出過ぎた真似を。申し訳ございません」
「よい」
ここで延々と説教を垂れないあたり、彼女の精神構造は意外なほどあっさりしている。というより、相手がどういう人間か骨の髄まで理解した上で付き合っているので、毒蛇に噛まれそうになったからといって毎回騒ぎ立てたりはしない。猛毒を持っているからこそ、上手に飼い慣らす価値がある。
その程度の冷徹な判断ができるほどには、彼女もまた前線指揮官であり、帝国上層部の一角を担う人間なのだ。
「心配せずとも、お前の子供は産んでやるから安心せよ。順番待ちの列から外したりはせん」
「……ふふ」
「恐悦至極に存じます」
「うむ」
「ではな、愛人。……うまく騙してやるわ」
「ご武運を」
通信が切れ、真っ暗になったモニターの表面に、己の顔が亡霊のようにぼんやりと映り込む。
マルガレータはしばらくの間、己の輪郭が沈む黒い画面を見つめていた。
部屋は静かだ。足の裏から伝わる艦内の微かな駆動音だけが、ここが命を乗せた巨大な軍艦の中であることを思い出させる。
こんな状況下で、自分は一体何をしているのか。
(妾は、ジークの妻になれれば、それでいい)
(軍人としても元帥まで登り詰めた。いずれはもっと上にも行けよう。ならば、無用なリスクを背負ってまで無理をすることはない)
そこまでは、紛れもない本音だった。
心からそう思っている。思っているのだが――最後にほんの少しだけ、胸の奥がざらりとした感触を訴えかけてくる。
(……そう……それでよい……はずだ)
マルガレータは、無意識のうちに己の唇を強く噛み締めていた。血の味が滲みそうなほどの圧力で。
(……オーベルシュタイン。お前は本当に、猛毒じゃな)
一度芽吹いてしまえば考えてしまう。今より上、もっと上。できるかもしれない。届くかもしれない、と。
だからこそ、猛毒なのだ。即死しないぶん、じわじわと臓腑を犯される。
◆
翌日。再び狐と狸の化かし合いが幕を開けた。
トリューニヒトは相変わらず優雅であった。非の打ち所のない背筋の伸び方も、一礼の完璧な角度も、滑らかな声の調子も、その所作のすべてが「私は貴女を心から尊重しております」と語りかけてくる。
もちろん実際には、彼が尊重しているのは相手の『隙』と『弱点』だけだろうが、それが透けて見えるほど雑な三流でもない。本当に、反吐が出るほど優秀な男である。
「では、まずは軍事的な衝突を避けるための『相互不可侵』の合意からでいかがでしょう?」
「境界線付近の不測の事態を避ける意味でも、非常に建設的な――」
――ダァンッ!
マルガレータの掌が、分厚いテーブルを力任せに叩きつけたのだ。ヤンが少しだけ眉を上げ、トリューニヒトも目元を一瞬だけ強張らせる。だが、百戦錬磨の政治家と魔術師は、すぐさま何事もなかったかのように表情を繕った。
「何を寝言を!」
世間知らずでヒステリックな小娘そのものといった甲高い声を張り上げた。
「まずはイゼルローン、フェザーン両回廊の『完全返還』が必須です! 元は神聖なる帝国領ですぞ!」
ヤンは内心でひっそりと感嘆の息を漏らした。
昨日よりだいぶ元気だ。しかも要求が極端すぎる。なるほど、これは確かに若い。国家間の交渉というものを「欲しいものを大きな声で主張する場」だと本気で信じて疑わないような勢いである。
「なるほど……それは道理です。しかし、いきなり両回廊の譲渡となれば、同盟市民の反発を招き、せっかくの平和を脅かすかもしれません。……まずは、イゼルローンを返還するというのは?」
「もし、それをするなら」
「フェザーンの資本を、こちらの権利に戻してください。フェザーンの金は元々帝国のものですからな!」
「それは……」
実際には、この条件自体を議会が飲めるはずがない。だが、ここで真正面から拒絶して対話を切るのは愚策だ。どうせなら、さらに甘い別の餌へと結びつけたい。
「……では」
トリューニヒトは、まるで慈悲深き助言者のような仮面を被り、絶妙なタイミングで身を乗り出した。
「帝国という国家にではなく、ヘルクスハイマー閣下個人に譲渡する形をとればいかがでしょう」
「ほう?」
マルガレータの双眸が、欲望に当てられたようにぱっと輝いた。演技としては満点に近い。
「先の捕虜交換以来、閣下は我が同盟市民の間でも大変な人気でしてな。その閣下への『平和の贈り物』として、航路データと一部の資本をお渡しする。そうすれば、帝国の面子も立ち、貴女個人の偉大な功績にもなります」
「本当か!?」
本来、ここで立ち上がる必要など一切ない。だが、感情の高ぶりで立ち上がってしまうところが良いのだ。理屈よりも情熱と勢いで生きている『お嬢様』らしさが、見事なまでに表現されている。
「それなら、ジークに褒められるかの!? なら、資本ももっとつけてくれ! 頼む!」
なるほど、やはりここだ。キルヒアイス。個人の功績。承認欲求。そして盲目的な恋情。それらの単語を並べ立てるだけで、国家を背負った交渉の重みが、羽毛のように一気に軽くなる。これなら、いくらでも操りようがある。
「いや、しかしそれは流石に……同盟の議会が首を縦には……」
「えー!」
マルガレータは、心底不満そうな、だらしない声を張り上げる。
「じゃあ合意しない! ジークへの手土産がないなら意味がないのじゃ!」
「そこを何とか、現実的な線で――」
「嫌じゃ!」
「閣下」
「嫌ったら嫌じゃ!」
「少し落ち着いて」
「そもそも、フェザーンの金も航路も妾のほうが似合うであろう! 美しく綺麗に管理してやるぞ!」
「……財産管理の提案としては、なかなか刺激的ですな」
ヤンが、冷めた紅茶を啜りながらぼそりと呟く。
「褒めておるのか?」
「いいえ、全く」
「なら黙れ!」
本当に子供っぽい。しかも、本人の頭の中では「これでも同盟に対してかなり譲歩し、妥協してやっている」らしい雰囲気が漂っているのがまた始末に負えない。
だが、こういう直情的な相手は思考が読みやすい。読みやすい相手は、扱いやすい。
◆
さらに翌々日。
《クリームヒルト》の応接室に響くマルガレータの癇癪は、もはや一つの完成された演劇の域に達しつつあった。
「では、航路データの一部共有を段階的に――」
トリューニヒトが慎重に探りを入れると、
「段階的では遅い! 一気に全部よこせ!」
「いや、それでは同盟としても手続きが――」
「なら金塊を積め!」
「金塊」
「そうじゃ。キラキラしておるし、見栄えが良い。ジークへの贈り物にもなる」
「キルヒアイス国務尚書は、多分そこまで金塊で喜ぶような方ではないと思いますが」
「なら宝石でもよい!」
「発想が完全に婚約者への土産選びなんですよ」
「何が悪い!」
「悪くはないですが、国家交渉としてはだいぶ独特な切り口です」
「では、相互不可侵と通商回復、それに名目的な贈答を組み合わせて――」
「名目的では駄目じゃ! 実利が要る! あと褒め言葉も文書にして寄越せ!」
「……褒め言葉」
「うむ。この妾がいかに美しく、強く、銀河の平和に資する存在かをきっちり公的な書面にせよ」
「自己推薦状を他国に書かせる交渉相手は初めて見ましたよ」
「魔術師殿も、随分と物見遊山で来ておるのう」
「物見遊山なら、もう少し精神的に楽な場所へ行きますよ」
「では、妾の美貌を見に来たのか?」
「……それは否定しません」
「む」
一瞬だけ、マルガレータの言葉が詰まる。
だがすぐに、わざとらしく大きな咳払いをして体勢を立て直した。
「……ともかく! 妾は己を安売りなどせぬ!」
かくして、その日の協議もまた、見事なくらい何一つとして前進しなかった。
◆
同盟軍 巡航艦
一室に戻ったヤンとトリューニヒトは、微弱なエンジンの振動を感じながら、今日の『成果』をすり合わせていた。
「……ヘルクスハイマーは、やる気に満ちているようだね」
「ええ」
「しかし、政治的なセンスは絶望的に欠如しているようだ。ただのワガママな子供じゃないか」
「そうですな」
トリューニヒトも即座に同意する。
「こちらがどの程度なら飲める条件なのか、という相手の限界をまったく考慮していない。本人的には『これでもかなり妥協してやっている』ように見えているのが、さらに彼女の政治的センスのなさを物語っている。扱いやすい娘です」
「それならそれで、先が読みやすくなる」
「戦場では厄介で果敢な相手だけど……盤外の政治戦で潰すほうがずっと楽そうだね。帝国軍の軍事的な脅威は、これで一つ消えたも同然だ」
「帝国軍の若き猛将。だが、政治的には極めて幼い。それならば、こちらの撒いた甘い餌にいくらでも食いつきましょう」
「そう簡単だといいけどね」
ヤンは一応の釘を刺すようにそう言った。だが、その声の調子に強い警戒の色は滲んでいない。
「少なくとも、いまのところ彼女は『自分が利用されている』とまでは微塵も思っていないだろう」
「思っていれば、もっとうまく本性を隠します」
「彼女は、己の欲望を隠せるほど器用な人間ではありません」
たいへん失礼な評価だが、今のところ二人の中では揺るぎない確信へと近づきつつある。
そして――相手を侮る確信ほど、戦いにおいて危険なものはない。
◆
一方、その頃。
帝都オーディンを出立した帝国宰相アルブレヒトの旗艦は、漆黒の宇宙空間を最速の航路で駆け抜けていた。
超光速通信の回線が繋がり、モニターにマルガレータの顔が浮かび上がる。
画面越しの彼女は、同盟の使節団の前でヒステリックに喚き散らしていた少女と同一人物とは到底思えなかった。凛と伸びた背筋、凪いだ水面のような瞳、低く安定した声音。
それらは紛れもなく、数十万の将兵を率いる帝国元帥の姿である。恋に浮かれ、欲深き小娘の仮面は、すでに本性の裏側へと格納されていた。
「……ファルケンハイン閣下は、いつ頃ご到着なさいますか?」
「あと一週間といったところだな」
「……おい、念のため聞くが、まだ何も合意してないだろうな? ヤツらは何を言ってきた?」
「何も合意などしていませんよ」
「本当だろうな」
「本当ですとも。……相手は、私に政治関与をさせて、帝国上層部との離間を図っているようです。個人的な利益や約束を引き出そうと、盛んに揺さぶってきております。現在、絶対に飲めない法外な条件を突きつけて、のらりくらりと煙に巻いておりますが」
アルブレヒトは、わずかに目を見張った。
「……ほう」
彼は、本気で感嘆の息を漏らした。決してマルガレータを愚かだと思っていたわけではない。
だが、彼女は思考よりも先に情熱と勢いが表に出る気性だ。その彼女が、百戦錬磨のトリューニヒトとヤンを相手に、ここまで冷徹に政治的構図を俯瞰し、手玉に取っているとは。
「見抜いていたか」
「当たり前です」
「妾を誰だと思っているのですか」
「ロイエンタールの娘だな」
アルブレヒトは、口元を綻ばせてふっと笑う。
「よし。それでいい。そのまま俺が到着するまで、バカのフリをして時間を稼げよ」
「はい!」
アルブレヒトは、心からの称賛を込めて言葉を紡いだ。
「………敵の意図を完璧に見抜けるとは、流石はロイエンタールの娘だ」
「えへへ」
マルガレータは、気を良くしてつい年相応の無邪気な顔になる。
そこへ追撃するように、アルブレヒトは何気なく、本当に何気なく言ってしまった。
「お前には、いずれもっと上の地位を任せられると思う。……励んでくれよ?」
「ハッハッハ! この妾に不可能はないわ!!」
「ふふ……頼んだぞ」
通信が切れる。
一人きりになった私室で、マルガレータは静かにまぶたを閉じた。
艦内の空気は、先ほどと何一つ変わっていない。だが、自分の中の奥深く、見えない場所の形だけが、少し変質した気がした。
(そうだ………労せずとも、果実は自然と落ちる)
(オーベルシュタインが唆すような危ない橋を渡らずとも、妾は正当な評価で上に行ける)
そこまでは、健全な自尊心の発露だ。
実際、彼女は若くして帝国元帥の杖を賜り、宇宙艦隊司令長官の座にあり、戦場での確たる実績も積んできた。現宰相アルブレヒトの信頼も得ている。愛するキルヒアイスとの未来も、はっきりと見えている。わざわざ同盟の詐欺師どもと危険な密約を結ばずとも、順当に時を重ねれば、軍人として相当な高みまで行ける。それは揺るぎない事実だ。
(帝国宰相も……夢ではない)
その発想が脳裏を掠めた瞬間、彼女は自身の内から湧き上がった感情に微かな戦慄を覚えた。
宰相。
銀河帝国の頭脳にして、実質的な国家運営の頂点。いま、その玉座の傍らに立っているのはアルブレヒトだ。
あの男は、内心ではだいぶ俗っぽく人間臭いくせに、やるべきことはきっちりやる。敵の挑発を軽やかに受け流し、味方の暴走を抑え込み、風邪で倒れたもう一人の柱の代わりまで完璧に務めている。気に食わないくらい有能な男だ。だからこそ、自分がいつかあの位置に立つ未来を、これまではあまり真面目に想像してこなかった。
だが、想像してしまった。
想像できるということは、決して手が届かない夢ではないのかもしれない。
そして――そのさらに『先』を思った瞬間、心の奥底で、軋むような音がした。
マルガレータは、ゆっくりと目を開く。
開かれた瞳の奥底に、先ほどまで存在しなかった、ひどく昏く、しかし熱を帯びた光が宿る。
(……皇帝には、なれぬ……か)
ローエングラム侯が控え、エリザベートとサビーネがいて、強固な血統があり、歴史という制度があり、複雑な政治のしがらみがある。軍功を重ねれば、帝国宰相にはなれるかもしれない。
だが、皇帝は違う。あの玉座は、どれだけ類まれな才能があろうとも、どれだけ功績を積もうとも、まったく別の理屈によって守られている。
そこへは至れないのだと明確に意識した途端、逆に、その玉座の輝きがくっきりと網膜に焼き付いた。
手が届かないと知った場所ほど、人間の目には痛いほど鮮やかに映るものだ。
最初から玉座を狙って爪を研いでいた野心家は、己の身を焦がす欲の扱いに慣れている。
だが、あと一歩で届かない場所を『見てしまった』人間は、その理不尽な不満と底知れぬ欲望を、まだうまく飼い慣らすことができない。
だからこそ、危ういのだ。
(……オーベルシュタイン。お前がそばにいてくれれば……)
それは弱音ではない。冷徹な事実の確認に近い。
あの男は猛毒だ。だが、毒というのは時に劇薬として機能する。隠れた野心を煽り立てる。冷たく現実を突きつける。常人なら足がすくむような危険な橋も、平然と指差してみせる。だから腹が立つし、だからこそ、無性に欲しくもなる。
キルヒアイスが燦然と輝く太陽だとするならば、オーベルシュタインはすべてを呑み込む底無しの夜だ。決して並び立つべきものではない。だが、人は永遠に続く昼の光だけでは生きていけない――。
アルブレヒトの称賛は、純度百パーセントの善意だった。善意でしかない。だが善意というものは、時として一番思わぬ方向へ人の背中を強く押し出してしまう。
少女元帥は、まだ自分が何者になるのか知らない。
恋に浮かれたただの娘なのか、有能な軍人なのか、未来の宰相候補なのか、それとも――それ以上の高みを見てしまう、恐ろしい野心家なのか。
たぶん、本人にもまだ分かっていない。
ただ一つ確かなのは、彼女がもう、昨日までと同じ娘ではないということだ。
驕れる詐欺師たちは、乙女の完璧な演技に気づかない。
有能なる宰相は、何気ない称賛で取り返しのつかない火をつけてしまったことにまだ気づかない。
そして――毒を知る男だけが、そのくすぶる火の色を遠くから観察している。
少女はどこへ向かうと思われますか。
よろしければご意見をお聞かせください。